青海の節、某日。
夜も更けた時刻、ジークハルトは一人での訓練も終えて寮の自室で休息の時間を取っていた頃だった。消極的なノックの音がコツコツ、と数回繰り返される。特別仲の良い級友等もいないジークハルトの部屋を訪ねてくる者はそういない。珍しい来客の気配にジークハルトは少し首を傾げつつ、ゆっくりと入口の方へ向かい、少しだけ扉を開けた。
「あ、あの……えっと……ジークハルトさん……そ、その……ちょっとお願いがありまして……」
扉の向こうにいたのは
「んだよ、ベルナデッタか。俺に用があるのは…………いや、そもそも外に出てるのが珍しいな。何の用だよ」
「そそそ、その……あたし、今日の授業の時に教室に忘れ物をしたみたいなんですけど……一人で教室まで行くのが怖いから、ついてきてほしいんですぅ……」
消え入りそうなベルナデッタの声。ジークハルトは想像よりも遥かにしょうもない理由で訪ねられたことに思わず溜め息を吐いた。
「アンタなぁ……ガキじゃねぇんだし、それくらい一人で行け。というかなんで俺なんだ? もっとついてきてくれそうな奴くらいいるだろ」
「で、でででででもぉ……! し、死神騎士が出た時に対抗出来そうなのなんて、エーデルガルトさんかジークハルトさんくらいだし……」
「死神騎士だぁ?」
ベルナデッタの口から漏れ出た言葉は、少なくともジークハルトにとってはあまり聞き馴染みが無いものだった。死神騎士。恐らくはあまり気分の良い騎士では無いのだろうということだけは語感から伝わってくる。ジークハルトが怪訝そうな顔をすると、ベルナデッタは凄まじい勢いで捲し立てた。
「知らないんですかっ!? 最近噂になってる、死神騎士ですよ!? 骸骨の面を被った騎士で、夜な夜な街に現れては人を攫っていくという……ひぃぃぃぃぃっ!?」
「なんでアンタは自分の言葉に自分でビビってんだよ……」
恐怖のせいか、必要以上に震えて叫ぶベルナデッタを見て呆れるジークハルト。そもそも彼女は普段寮の自室に引き篭っているというのに、何故そのような噂を知っているのか、それすらもジークハルトからすれば疑問ではある。
「その死神騎士とやらが本当にいるのかどうかは知らねえが、レア様が暗殺されるかもなんて騒がれて、警備も厳しくなってる今の大修道院の中にはそう入ってこれねえだろ。つまりアンタが教室に行くまでの道で死神騎士に出会うことはねえよ、安心して一人で行ってこいや」
「そんなご無体なぁ!?」
心底どうでもいい、と言わんばかりあしらうジークハルトの態度に、この世の終わりのような表情と涙目で追いすがるベルナデッタ。
「びえええええ、お願いですジークハルトさぁぁぁん、ジークハルトさんしか頼れる人がいないんですぅぅぅぅ!!」
その泣き叫ぶ声は凄まじく──近くの部屋を割り当てられている生徒達の耳にも届き始めていたらしい。次々の近くの扉が開き、事情も知らない生徒達が顔を覗かせる。
「おいジークハルト、女泣かせて何してるんだ?」
「うわっ……ジークハルト君、サイテー……」
「なんだなんだ、ジークハルトとベルナデッタが修羅場か!?」
「はぁ!? チッ……おいバカ、誤解だ! 誰が修羅場だ、クソ!」
「びえええええ! ジークハルトさぁぁぁん!!」
「あークソうるせえな!! わかった! ついていってやるから静かにしろ!」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございますぅぅ!!」
ジークハルトがついていくことを了承した途端、嘘のように泣き止み、相も変わらずの声量でぺこりとお辞儀してみせたベルナデッタ。もし、万が一あの泣き落としが演技だった場合、級友であることを抜きにして首を刎ね飛ばそうと強く誓ったジークハルトであった。
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「んだよ、クソが……絶対俺じゃなくてもカスパルだかフェルディナントだかペトラだかがついてきてくれてただろ」
なんならドロテアだって……と言葉を続けようとして、口を噤んだ。あの歌姫は男女関係なく夜に逢い引きを行っていることが多い為、場合によってはそのままベルナデッタが持ち帰られる可能性がある。
そんなジークハルトの声が一切届いていないのか、ベルナデッタは震えながら両手でジークハルトの服の裾を掴み、うわ言のように何かを呟いていた。怯えているのだろうが、ここまで会話が聞こえていないとなれば重症だろう。半ば無理矢理ついてくることになってしまったジークハルトだったが、今のベルナデッタの状況を見ると、確かに一人で向かわせていたら何か事故が起きていたかもしれない。
「ハァ……というか、アンタは教室に何を忘れたんだよ。明日回収するんじゃダメなのか?」
「だだだだ、ダメです! そんな、誰かに見られるかもしれないじゃないですかぁ!」
「そんな見られたくも無えものを教室まで持ってくるんじゃねえよ……」
そもそも今の声は聞こえるのかよ、という言葉は一旦飲み込んだ。またこのタイミングで泣き叫ばれた暁には、今度は何かの事件が起きてもおかしくない。わざわざ夜に呼び出してまで取りに行く忘れ物の正体を教えてくれないことには多少の不満こそあったが、そもそもベルナデッタの忘れ物自体には興味が無かったことを思い出し、なんとかイラつきを納める。
「ほら、教室着いたぞ。見られたくねえなら俺はここで待っててやるから、さっさと回収してこい」
「ありがとうございますぅ……取ってきます!」
小走りで教室の中へ消えていくベルナデッタ。その姿を見送り、ふぅ、と一つ息を吐いた途端にどっと疲れと眠気が襲ってきた。彼女に悪気がないことは重々承知ではあるのだが、あの泣き叫ぶような声に振り回されているのは、思った以上に体力を奪われるらしい。
しばらくすると教室の中から慌ただしい足音が近付いてきた。どうやらベルナデッタが戻ってきたらしい。
「よかった……ありました! ジークハルトさん、ついてきてくれてありがとうございます!」
「ああ。さっさと寮に戻るぞ」
やっと面倒事から解放される、と仄かに安堵を感じながら、戻ってきたベルナデッタと共に寮へ戻ろうと歩を進める。その瞬間──
「──君達。こんな夜遅くに何をしている?」
「うわっ……!?」
「あびゃぁぁぁぁぁぁぁっ!?!?」
──その瞬間、暗闇の背後から声を掛けられた。突然の出来事に流石のジークハルトも驚き……ベルナデッタはこの世のものとは思えない程の叫び声をあげた。
振り返ると、そこにいたのはセイロス教の大司教補佐であり、セイロス騎士団を従える男でもあるセテスだった。或いは夜の修道院を警備していたのだろうか、その表情はどこか警戒の色が見える。だが、暗闇から現れた顔が少なくとも知った顔であったことにジークハルトは一旦胸を撫で下ろした。
「んだよ、セテスさんか……教室に忘れ物したってベルナデッタが言うから、それを取りに来てただけだ」
「そうか、なら良いのだが……。君達も知っている通り、今節は女神再誕の儀に乗じて大司教に危害を加えようとする動きがあったり、死神騎士とやらの噂も絶えない。夜間の不用意な外出は控えてくれたまえ」
「ああ、悪かったよ」
「うむ。気をつけて寮に戻りなさい」
セテスもまた、夜の修道院内を歩く者が敵ではなく、生徒であったことに少し安堵を覚えていたのだろうか、背後から声をかけられた時よりは声に優しさが篭っていた。大司教補佐と役回りである以上、彼はレアと繋がりが深い。そんな身近な人物が暗殺の危機に晒されているとなれば、その心労もかなりのものであるのだろう。
「……まあ、俺が考えることでもねえな。ほらベルナデッタ、さっさと帰るぞ」
一先ず、早々に寮に戻って休みたいジークハルトは隣にいるベルナデッタに声をかけ、改めて歩を進めようとする。だが、その時ベルナデッタに起きている異変に、ジークハルトはようやく気付くこととなった。
「…………おい、ベルナデッタ? お前まさか……立ったまま気絶してるのか……!?」
恐らくはセテスに声をかけられたことに驚きすぎてしまったのだろうか。ベルナデッタは立ったまま虚ろな瞳で放心状態となり、ポカンと口を開けたまま動かなくなっていた。ジークハルトの言う通り、立ったまま気絶しているのだ。
「嘘だろ……これ、俺が寮の部屋まで運んでやらねえといけねえのか……!?」
思わず頭を抱えてしまいたくなるジークハルト。だが実際問題としてベルナデッタをこのまま放置しておく訳にもいかず、ジークハルト以外に今彼女を運ぶことが出来る者はこの場にいない。
「クソが、有り得ねぇ……ベルナデッタの奴、今度戦闘訓練が同じになったらボコボコにしてやる……」
怒りに震えながらベルナデッタを担ぎ、なるべく何も考えずに彼女を寮へと運んだジークハルト。自室に戻ると凄まじい疲れが全身を襲い、彼もまた気絶するかのように眠りに落ちた。
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「そういや、フェリクスは聞いたか? 死神騎士とやらの噂」
「……珍しいな。お前が噂話を振ってくるとは」
ベルナデッタから死神騎士の話を聞いた明くる日。訓練所にて剣の稽古をしていたジークハルトと、同じように訓練用の剣を振る
「知っているさ。ただの人攫いだというなら興味は無いが……腕が立つというなら、一度手を合わせてみたいものだな」
剣の腕はジークハルトと鎬を削り、士官学校の中でもトップクラスであるフェリクスは、ジークハルトと比べて遥かに好戦的な性格をしている。ジークハルト同様、あまり噂話に興味を持つタイプでは無いが、それでも死神騎士の噂を知っていたというのは、彼が打ち合ってみたいと考えている証拠に他ならない。
「興味があるというなら、お前の学級の先生もだ。ジークハルト、お前は一度手合わせしたんだろう? どうなんだ、あの先生は」
「あ? べレス先生のことか? まあ……強いな。何年も傭兵として生き残ってきた実戦経験は伊達じゃねえってことだと思うぜ」
「ほう……悪くないな」
思い返すのは、大樹の節にて模擬戦の参加者を決める為、黒鷲の学級のメンバー全員がべレスと手合わせをした時のこと。唯一、一対一で戦いを挑んだジークハルトは彼女の身のこなしに翻弄され、いとも簡単に一本奪われてしまうこととなった。それ以降の課題での戦果や授業での知識や実践等を見ても、間違いなくべレスは圧倒的な強者に分類されるだろう。
「というか、戦ってみてえなら直接言ってみればいいんじゃねえか? 多分だけど先生は断らねえと思うぜ」
「チッ、そうしたいのは山々だがな。授業以外の時間は何処にいるのか解らん」
「ああ……そういや神出鬼没であちこち歩き回ってやがるな、あの先生は」
授業の後に補習や追加訓練がある場合を除き、べレスは校内を自由に歩き回っている場合が殆どなのだ。ある日は書庫で歴史書を読み漁っているところを発見され、ある日は食堂で生徒達と食事をする姿を目撃され、またある日は一人静かに釣りを嗜む姿を確認され……とにかく何処にいるのかは解らない。常に自室で紋章の研究を行っているハンネマンや、医務室や温室にいることが多いマヌエラとは違い、いざ捕まえようと思うと非常に困難なのだ。
「いつか手合わせをするつもりではいるがな。猪と打ち合って無傷だったとも聞いている、楽しめそうだ」
「無傷というか、ディミトリ相手の場合は一発もらえばもう敗走だろあれは」
訓練用の槍を振るだけで、大木を次々と薙ぎ倒していた模擬戦でのディミトリを思い出すと、彼との手合わせは一撃でも貰えばその時点で敗走は免れないだろう。改めて模擬戦でべレスが敗走せずに最後まで生き残っていたことは異常なのではないかと、ジークハルトは少し身震いした。
「まあいい、今はお前だジークハルト。構えろ、お前と手合わせするのも悪くない」
「んだよ、やんのか? 言っておくが手加減はしねえからな」
訓練用の剣の鋒を向けられ、それに応えるかのように構えを取るジークハルト。その姿を見てフェリクスは満足そうに口元を吊り上げ、姿勢を落として剣を振る構えを取った。周りで訓練を行っていた生徒達も二人が手合わせをする雰囲気を感じ取ったのか、武器を振る手を止め固唾を飲んで見守り始める。
「おい、フェリクスとジークハルトの打ち合いだってよ!」
「どっちが勝つの!?」
士官学校の中でもトップクラスの剣を持つ二人の打ち合い。特に二人とも、基本的には一人で訓練を行うタイプの生徒である為、その注目度は高いらしい。だがジークハルトもフェリクスも、そんな周りからの視線は意にも介さず、両者同時に踏み込み、剣と剣が打ち合う音が訓練所に鳴り響いた。
初撃をフェリクスに受け止められたジークハルトはすぐさま後ろに飛び退き、フェリクスの出方を伺う。体格にあまり差がない以上、鍔迫り合いに持ち込んだところで力押しでどちらかに軍配が上がることは無いだろう。その為、フェリクスのニ撃目を受け流し、返しの一撃で決めることを狙いにいく──が、フェリクスの剣速はジークハルトの想像を超えていた。ニ撃目を受け止めることしか出来ず、反撃を撃ち込むことが出来なかった。
そのまま一気にフェリクスの猛攻が始まる。そのどの攻撃も受け止め切れない、或いは躱すことが出来ない程ではないのだが、フェリクスの持つフラルダリウスの紋章がその一撃一撃を強化する為、時折受け止めようとすると姿勢を崩される程のパワーに押されてしまいそうになってしまう。
「クソが、やるじゃねえか……!」
「そんなものではないだろう、ジークハルト!」
下から迫り来る斬り上げをバックステップで躱し、もう一歩踏み込んできたフェリクスに合わせて姿勢を低く保って一気に踏み込む。そしてフェリクスの剣を握っている腕を掴み、勢いよく引っ張り──姿勢を崩したフェリクスと位置を入れ替え、回転蹴りを脇腹に叩き込もうとした。
「なっ!? チッ……!」
かつてべレスがジークハルトとの戦いで披露した、近接戦に於ける踏み込んできた敵の崩し方。ジークハルトはそれと同じことをフェリクスに仕掛けた──が、フェリクスも咄嗟に対応すべく身体を捻り、蹴りは脇腹を掠めるに留まる。しかしジークハルトは追い討ちをかける為に背中を向けたフェリクスに更に踏み込み、剣を振り抜こうと右腕を引く。フェリクスは振り返ると同時にその勢いのまま右腕を振り抜き──キィン、という甲高い音と共に、お互いの剣はお互いの手から離れ、大きく回転しながら宙を舞った。
「……仕切り直しか。やはりお前との手合わせは面白い」
「そりゃどうも。クソ、初めて見せた技にも対応されちゃたまったもんじゃねえよ」
お互いに武器を拾い、再度構えを取る。観客と化した周りの生徒達は、そのレベルの高い打ち合いに興奮や畏怖を感じ、訓練所内のボルテージはどんどん上がっていた──そんな所に突然水を落とすような声が介入する。
「ジークハルト。私の技を使うならもっとちゃんと有効に使わなきゃダメだよ。真似したにしては良い出来だったと思うけど」
「──あ? 先生?」
観客と化した生徒達に紛れて二人の手合わせを観ていたらしいのはべレスだった。相も変わらず掴みどころのない表情で、先程のジークハルトの立ち回りについて冷静にダメ出しをする姿は、まるで競技事のコーチのようである。
「べレス先生。丁度いい、お前の話をしていたんだ。俺と手合わせをしろ」
べレスを見つけたフェリクスは剣先を向け、挑発するかのように手合わせを申し込む。ジークハルトとの決着はついていなかったが──ジークハルトはそもそも好き好んで戦いたい訳でもない為、その結果はどうだって良かった。
「ん、別にいいんだけど……ちょっとカスパルに用があって、彼を探していてね。その用が終わってからでいいなら、手合わせしようか」
どうやらべレスが訓練所に足を運んだのはカスパルを探していたかららしい。ジークハルト程では無いが、カスパルも訓練所にいることが多いため、まずはここを探しに来たのだろう。
「あ、そうだ。ジークハルト、もしカスパルを見掛けたら私が探していたって伝えておいてくれる? 私は騎士の間を見てくるから」
「別に構わねえが……アンタ、色んな所をほっつき歩いてるから、俺が声を掛けたところでカスパルがアンタを捕まえられるとは思えねえぞ」
「じゃ、よろしくね。フェリクスはまた後でね」
「おい、聞いてんのか先生! ……クソが。行きやがった」
言いたいことだけ言い切って、そのまま風のようにカスパルを探しに行ったべレス。ジークハルトもフェリクスも、或いは周りで見ていた観客達もその自由奔放さに呆気に取られ、とてもではないが二人の手合わせを仕切り直すような空気にはならなかった。
「……チッ、なんなんだ……」
「なんか……悪ぃな、うちの先生が……」