ヘッドライトの光しか頼れないホールには、階段前まで玄関からの明かりがある。その縁に立ち、上を仰ぎ見る。
ホールにあった階段は使い物にならなかった。
二階の壁際には柵がついた通路があり、階段は直にそことつながっているのだが、左右に続く渡り廊下がどちらも途中から崩れてしまっているのだ。そのため別の階段を探すために一階を探索しなければならない。
「どこに行きましょうか?」
残骸が散らばる一階ホールを見回す。
扉は左手に二つ、右手にも二つ、そして階段の両端には奥に続く通路。
「進路が多すぎて困るのだ」
「奥の通路は片方がふさがってますね。無理して行けないことはないですが」
上の通路の崩れもあって、ホールは想像以上に荒れている。瓦礫なども戦地の跡のように散らばっている。
瓦礫だけならただの廃墟だが……なぜか壁には人為的にできた傷が無数にあった。先ほどの肖像画についているものと同じものが四方にある。
「一体何なのでしょうねこの傷」
「獣ではないのだ。傷がぜんぶバラバラの角度なのだ」
メイの言うとおりだ。もし獣の爪ならば、平行した線がいくつかできるはずだ。しかし黄土色の壁には、向きが同じな傷が見当たらない。
具体的に言うなら、ナイフを振り回してできたような傷が無数にある。しかしナイフにしては、自分の背では到底届かない場所にも等しくあった。それに浅い傷もいくつかある。上の通路から床まで、さながら一つの作品のごとく壁一面に切り傷ができている。
「人でも獣でも説明がつかないのだ。進んでもうちょっと調べてみたいのだ」
「人捜しが目的なのをお忘れなく。どこに行きます?」
「まず左に行くのだ。様子見だけしてみるのだ」
左手の方には両開きの扉と普通の扉がある。手前の両開きは大きく、開け放てば団体客がまとめて移動できるくらいだ。その表面には、他と同じく傷がある。
軋む音とともに、その大きな扉を開く。
まず反応したのは嗅覚だった。
思わず鼻を押さえるほどの腐臭が、開け放たれた扉の先に漂っていた。
ヘッドライトのかすかな光が目の前のテーブルを映し出す。奥にまで延びるほどの大きなテーブルで、その上には皿が所狭しと並んでいた。そこには、かつて料理だったものが置かれている。
炭化して黒いオブジェと化したチキン、紙くずのようになったキャベツ、謎の泡が固まっているスープ。それぞれが全て、虫が寄りつかないほどに炭化していて、白い陶器やテーブルクロスにもカビのように広がっている。
「くさいのだ」
「ひどい有様ですね。全部の料理が腐っています」
テーブルの端にはいくつかの空き皿があり、両端にはフォークやナイフが数本並んでいる。よく見るマナーの並び方だ。これらは腐食の影響をほぼ受けておらず、三本ずつきれいに並んでいる。
「見てください。フォークやナイフが使われた形跡がありません。食事前に何かあったのでしょうか」
「こんな大量な料理を用意したにもかかわらず、それに手を付けられないくらいの出来事があったのだ?」
辺りを見てみると、入口側にカーテンがあるのを見つけた。それを開けると、食堂の全貌が見て取れる。
食堂の壁やテーブルなどには傷、血痕は全くない。ただ埃や蜘蛛の巣がある黄土色があるだけだ。床には埃の被った白黒タイルがあり、念のためテーブルの下を覗いてみたが何もない。
……明るくなると、テーブルの惨状がより鮮明に見えてくる。虫の死骸がスープに浮いているのは見ていられず、鼻を押さえて目を背ける。
「あっちにも扉があるのだ」
同じく鼻をつまむメイが言った。
ホールから入って右手中央あたりにまた両開きの扉がある。食堂の入口とは違い、角張った簡素なものだった。
そこを開いてみるとキッチンがお目見えだ。横長に広い場所で、流し台やいくつもある調理台をヘッドライトがギラリと照らし、その上にある炭化した何かを鮮明に映し出す。
「あっちの扉はホールに続くのだ」
右手奥には小さな扉がある。左側は食堂とキッチンのスペースらしい。簡素ではあるが、メモ帳を取り出して地図を作る。
流し台、テーブル、棚などを見てみたが食べ物くらいしかなかった。食べ物は年月が経ちすぎて、虫さえ寄ってこない惨状だ。冷蔵庫は腐臭がすごかったのですぐに閉めた。
銀行にあるような鉄の扉が奥にあったが、鍵が掛かっていた。おそらくは食糧保管庫だと位置づけ、ホールに直接つながる扉からホールに戻った。
「次はどこに行くのだ?」
左手には瓦礫でふさがった通路がある。そして階段を挟んで二つの扉があった。
「向こうに行って見ましょう。とりあえず確認できる部屋は入ってみるべきです」
玄関からの光をまたぎ、まずは入口側の扉を開く。
窓からの光があり、部屋の全景は見やすかった。ホールと同じような絨毯が広がり、その中央に革張りのソファが相対し、間にテーブルがあるのがわかる。上を見上げると蜘蛛の巣の張ったシャンデリア、横を見るとひびの入ったガラス棚がある。調度品や家具からして、応接室だろうか。
結論から言えば、この部屋には何もなかった。外の明かりがあるため探索もしやすかった。人もいないし傷もない。
……傷のない場所とある場所の違いはなんだろう。
疑問だけが残り、収穫はないため早々に暗いホールに戻る。
次に行くのは奥の扉だ。開いてみると、そこは食堂ほどの大きさの場所だった。テーブルに置かれた壷や、壁に掛けられた絵画が、美術館のように整然と並べられている。ここにも一切傷はなく、絵画の日焼けを考慮してか窓がなかった。
「隠れられる場所はなさそうなのだ…あ!」
と、メイがとことこと近くのサイドテーブルに向かう。
「ろうそくとマッチがあるのだ」
「点きますかね」
「試してみるのだ」
燭台に手を近づけ、マッチ箱を擦る。存外簡単に火が付き、暗かった部屋に柔らかなオレンジ色の光が広がる。
改めて全貌を見ると、正方形の部屋で、食堂よりも若干小さい程度だった。やはりここにも傷や血の跡はない。争われた形跡はおろか、美術品が散らかった様子はまるでない。多少のほこりっぽさはあるものの、蜘蛛の巣が張られているところもない。ろうそくに照らされる淑女の微笑みも相まって、時が止まったような静謐さがかえって不気味だった。
「何もなさそうなのだ?」
「隠れられる場所もありませんね。次に行きましょう」
視界の中には他の扉もなさそうだったため、すぐさまホールに戻る。
燭台の明かりに照らされたホールはまた別の姿をしていた。ヘッドライトより照らす範囲が違うため、傷がある壁が一気に露出する。ぼんやりとした赤い光に照らされたそれは、まさしく惨劇を連想させるような跡と化している。
……やはり傷が天井まであるのはおかしい。まるでここだけ嵐でも起こったみたいじゃないか。
「次は通路に向かうのだ」
玄関から見て右側奥の通路に向かう。こちらは上の渡り廊下の残骸がある程度で入るのはたやすかった。瓦礫を乗り越え、通路にろうそくをかざすと同時に、足が止まった。
通路にはおびただしい傷があった。扉にも、途中にある絵画にも、絨毯にも等しく細かい傷がある。小動物が引っ掻いたような浅い傷、ナイフでえぐったような傷と様々な模様が、通路の奥まで広がっている。
「な、なんなのだこれは。一体何があったのだ」
違っているのは、血痕がないことのみだ。ここまでやたらと傷がついているのはよくわからない。どうすればこうなるのか見当もつかない。
「奥に進んでみましょうか」
つばを飲み込み言った。メイも黙ってついていく。
途中にある扉を開けていくと、まず左手前が娯楽室だとわかる。ビリヤード台やダーツがあり、向こうの通路までつながる横長の部屋である。ここに傷などはなく、不審な点もないため早々に戻る。
傷だらけの廊下を歩き、続く扉はトイレだった。白い陶器は埃が被ったくらいで傷などはない。ここから奥の突き当たりまでは扉がなく進んでいく。
突き当たりに行くと、ここで傷のない廊下とある廊下にきれいに分かれた。左手は向こう側に続く道で、扉がいくつかあり、こちらには傷がない。
対して右手、ようやく見つけた階段の方には傷があった。手すりにも、階段にも生々しい傷がついている。
「傷のある場所とない場所の違いはなんなのだ……」
先ほど浮かんだ疑問を元に、メモを開く。ここまでの通路と左側に見える通路を書き、傷のある場所に斜め線を付け加えてみる。
するとどうだろう。右上の階段からこの通路を通じて、ホールまでが地続きで染まっていくのだ。
「見てください。傷のある場所に一定の法則があります」
さっそくメイに見せると、彼女はくいっとメガネをあげた。
「まるで何かが通った跡みたいなのだ」
何かが通った……改めて傷を見てみる。
体の表面に突起物がある化け物が、狭い通路をギリギリに通っていく様を想像した。いや……仮にそんな化け物がいたとしても、ホールの傷は説明がつかない。
一体何があった。何をどうしたらこれほど建物内が傷だらけになるのだ。それに、
子供はどこにいった。
ヘッドライトも、燭台の明かりもなくここを通ったのか。恐怖心もそうだが、単純に足場が悪すぎて物理的に厳しいものがある。しかも子供だ。
「とりあえず二階に行って見るしかないのだ。音が聞こえたのは玄関側の……」
と、メイがそう言ってふるふると首を振る。
「いや、今は行ってみるのだ。何も考えずただ手がかりを探すのだ」
そう言って階段を上がったため、私も後を追いかける。
しかし途中で足を止め、メモを眺めつつ通路を確認する。そうすることで、おかしい点に気づいてしまう。
ホールから音がした場所に最短で行くのなら、絶対にここを通るしかないのだ。渡り廊下は絶対に飛べる距離ではなかったし、他に二階に行ける場所はなかった。だからここを通って二階に行き、音がした玄関側まで戻っていく……。
だとするなら、先ほどの音はおかしくないか。
子供を見失い、館に入ってからはそこまで時間をかけていないはずだ。そんな時間内で、この真っ暗な廊下を行き、二階に行き、さらに玄関側まで戻って扉を開けるなどできるのか。どう考えても不可能だ。
だとするなら、先ほど見た子供とは別の何かがいる? 音を発したのはまた別の存在?
メイも勘づいているのだろう。うるさい彼女もじっと黙ってしまっている。
闇の先にある謎に恐怖しつつ、一歩ずつ階段を上っていった。