その両開きの扉は、おおよそ館にあるとは思えない鉄扉だった。無機質な灰色で取っ手も錆びた鉄。個人の家にあるものではなく、工場などにある頑丈なものだ。
少女の後に続き、私たちも扉を開けて中に入った。
両開きの扉の先にあったのは、ホールとは違い、剥き出しの白い床が広がる部屋だった。瓦礫がちらばっており、他の部屋にはなかったガラス片もいくつか落ちている。メイが持つ燭台が向こう側の景色を捉えると、そのガラス片の元がわかった。
壁一面に大きな窓があり、それが割れているのだ。その向こうには医療用ベッドと生命維持装置のような機械がある。管という管は全部外れており、まるで触手のごとくだらんと床に垂れ下がっている。
「病床、ですかね?」
「病床というより研究施設の一部みたいに見えるのだ」
と、メイが左の方に燭台をかざす。横に長いテーブルがあり、その上にキーボード、四台のひびの入ったモニターが壁に備え付けられてある。
「一個人の館に、ロドスを彷彿とさせる装置があるなんておかしいですね」
近づいて中を見てみると、ベッドと人一人が通れそうなスペース程度しかない狭さの部屋だった。
天井にはこちら側に監視カメラのようなものが二つあった。左右から対角線上を見張る形で設置されている。
「中を監視してたのだ?」
「そのようですね。誰を監視していたのか」
装置や部屋の様子は気になるが、まずは少女の方だ。この空間にはおらず、割れたガラスの向こう側にも誰もいない。
そうなると目指す場所は一つしかない。メイが私の気持ちに乗じるように。今度は右側に燭台を照らした。
そこには片開きの扉があった。今まで通った通路の扉と全く一緒の、至って普通の木製の扉である。入口が鉄扉だっただけに、無機質な研究棟のような場所には似つかわしくないと感じてしまう。
他に出口も窓もないなら、ここしかないだろう。
暗がりの中、扉に近づきドアノブに手を掛ける。中を窺うようそっと開けると、隙間から漏れ出た光のまばゆさに、思わず目を閉じた。
奥に天蓋付きのベッドがある、個人の部屋だった。三方の壁には窓があり、白いカーテンを通じて陽光が惜しみなく部屋に降り注いでいる。もはや燭台もいらないほどに光が満ちていた。
光とともに、音の存在にも気づいた。オルゴールが鳴っている。どこかで聞いたようなゆったりとした童謡が、きれいな音で奏でられている。
こんな廃墟でオルゴールなど鳴るものだろうか。辺りを見回してみる。
床には赤い絨毯が広がっていて、中央に何やら散らばっているものがある。それがパズルだと気づいたのはすぐだった。左半分が完成しているが、もう半分のピースが右側に散らばっている。
左手には小さな本棚があり、すぐそばの机には積み木がある。オルゴールはそちらから聞こえてくる。
近づいてみると、机の裏から音がする。そこを覗いてみると、オルゴールが横倒しで倒れていた。簡素なネジ式のもので、それが錆びもせず回っている。それがひどく不気味だった。一応机と本棚の隙間などを探しても、彼女はいなかった。
ふと本棚を見てみると、ラインナップが絵本だけなのがわかる。大きい本から小さく分厚い本まで様々だが、全部が絵本であるとわかる。
……子供部屋なのか?
「予備探偵」
「なんですか?」
「この部屋、おかしいのだ」
疑問に思い振り返ると、メイは向こう側の壁を見ていた。入口から見て右手の、窓がいっぱいある……ん?
そうだ。この部屋は入口を除く三方に窓がある。それはおかしいはずだ。
右手にはホールがあるはずなのに。
メイが窓に近づき、カーテンを開ける。すると曇りガラスなのかというくらい、窓にはもやがかかって向こう側の景色が見えない。
「窓も開かないのだ。どういうことなのだ? この館に入ってから超常現象が起きまくりなのだ」
「おかしいことだらけです。なぜか開かなくなった扉、不自然に壁がある廊下。三階しかないはずの館をひたすらに上り、不釣り合いな両開きの鉄扉にたどり着いた。そしてこの部屋」
「夢の中にいるみたいなのだ……」
まさしく、そう形容するのが一番いい。だが夢や幻にしては実感がありすぎる。だとするなら、この部屋まで逃げた彼女は……。
「ここは私の部屋だよ」
唐突に声が聞こえ、天蓋付きのベッドの方を見る。するとサイドデッキの陰から、彼女がすっと出てくる。どこか悲しげな表情だった。
「どういう意味です?」
ああ、よかった。無事だった。なんて言葉は出なかった。少女の異質さを垣間見て、疑問がまず口に出た。
「そのままの意味だよ。昔住んでた部屋」
「おかしいのだ。君はリターニアからの難民のはずで、ここはずっと前から廃墟になってるはずなのだ。時期が合わないのだ」
「ああ、そうだった。ミネアのふりをしているんだった」
「ふり?」
「今は気にしないでほしいよ。でも、二人ともここまで迷い込むとは思わなかったな。ただ場所を案内するつもりが、こんなところまで迷わせちゃった。私も出口を目指してたけど、階段を下りるとさらに深淵に行ってしまいそうだったから上に上がってしまった。結果的には成功だった」
「何の話です?」
「説明したいのはやまやまだけど、今はそんな悠長な話をしている場合じゃない」
頭を振った後、こちらをまっすぐ見た。
「二人とも、外まで逃げて。私の後についてきて」
「え?」
疑問を呈する暇もなく、彼女は私たちの脇をするりと抜けて入口へと向かった。扉を開けて暗がりへ行く彼女の後を追い、閉じかけた扉を押さえ開いた。
「え?」
思わず目を疑った。先ほどまでぼろぼろだった部屋が、見違えるようにきれいになったのだ。薄い蛍光灯が点けられて、床はワックスでも掛けられたようにその光を反射している。ベッドのある部屋のガラスも割れておらず、まるでこの部屋だけ時が遡ったみたいだ。
そんな場所に薄く黒いもやが動いている。粘度で不格好に作られたような人型で、もぞもぞと動いているのが二つ。ガラスの向こうを見ている形で立っている。
(実験は……)
(アーツ……後天的な……)
ささやく声が聞こえてくる。スピーカーにノイズが入っているようにブツブツに途切れながら聞こえてくる。
「これは一体なんなのだ」
「わかりません。もう何がなんだか」
頭を押さえる。今まさに恐ろしい体験をしているのだが、どうも夢心地にいるような感覚だ。今の不可思議な現象を、遠目からぼうっと見ているような不思議な感覚だ。だからあまり恐怖感を感じなかった。テレビの映像を、寝ぼけ眼で見ているようで……。
「こっちだよ」
声が聞こえた。彼女は両開きの扉を開き、向こう側へと消えていく。その後を追うと、先ほどのホールだ。あのだだっ広い用途のわからないホール。
再度足を踏み入れてはっとした。
ホールにはいくつもの扉があった。壁ではなく、空間に独立した扉がいくつもあるのである。
「な、なんなのだこれは」
こちらに向かい合う扉、斜めになった扉などさまざまなものが部屋中に立てかけられている。燭台が照らすスペースだけでも、両手で数えるには足りないほどにある。
「こっち、こっち」
少女は左斜め前方の扉を開けて中に入った。不思議なことに向こう側にはすり抜けず、どこかへと消えてしまった。
「あぎゃ! 消えてしまったのだ」
もはや声すら出ないくらいに戸惑った。若干のめまいがする中、急いで彼女がくぐった扉を抜ける。
目の前に縦に並んだ本棚が目に入る。資料室だと気づいたのはすぐだった。先ほど通って、なぜかふさがった部屋だ。慌てて後ろを見ると壁はあったが、扉はホールにつながったままだった。
「こっちには壁はあるのにこっちにはないのだ! どういう構造なのだ!」
扉を往復しながら言う。
メイのうるさい声の他に、もう一つ声があるのに気づく。前方の方で、何やらぶつぶつと小声でつぶやくような声だった。
よく見てみると、真ん中の通路の奥に黒いもやがあるのに気づく。さっきガラスを覗いていた人型のようなものが、本棚の前に佇んでいる。
「メイ。あれ」
「わ、わかってるのだ」
二人で連れ立って向かう。
(まさか……こんな副産物が)
近づくごとに声ははっきりと聞こえる。
(福音とも捉えられる……アーツが……)
だがブツブツと途切れるのは先ほどと同じだ。野太い男の声が、小さいながらも重圧さを感じる響きで空間に反響している。
(ああ……娘よ)
意を決して黒いもやに触れようとすると、崩れるように霧散した。
「消えたのだ」
「娘……?」
娘と今の黒いもやは言った。一体誰で、何の話をしているのか。
「こっちだよ」
呆然としていたところ、少女が本棚の陰から顔を覗かせて向こうの扉へと走って行く。私たちもすぐに追いかけた。
扉を開けると、次の景色は廊下だった。横に広がっていて、そこにはいくつもの扉があり、両端は向こう側に曲がる構造だった。奥までまっすぐ見える。なぜなら、照明が薄く点いているからだ。
少女は右手側に走っていた。すかさず追おうとしたが、廊下にはいくつもの黒いもやがあった。今までは一人か二人だったが、今回は廊下を移動したり固まったりしてる人型が何体もいる。
一瞬気圧されたが、その中を走って行く。
(地下の研究所で……)
今度は若い女性の声だった。
(かわいそうに……鉱石病なんて)
(病気ですら……旦那様が無理をして……)
使用人ではないか、と直感した。
(アーツ……実験……)
なぜ使用人が黒いもやになっているのかわからない。だが今は現実的な言葉を並び立てるよりも、目の前にある不可思議な現象をそのまま捉えるしかない。黒いもやがあって、それが話をしている。
それに加え、今走っている廊下は明かりが点いており、一切の傷も埃もなくきれいであった。まるで昔に戻ったように……。
いくつもの黒いもやを通り過ぎ、曲がり角を曲がる。角を曲がって一つ目の扉を、少女は今まさに開けて中に入った。
照明のあった廊下とは違い、中は真っ暗だった。燭台の明かりは、鉄製の壁と床を映し出した。
靴の音が軽く反響する。錆びた金属は靴底でざらつきを感じるほどであり、ずいぶんと廃れている印象だった。ここは一体どんな部屋だろう。普通の部屋のようには見えないが……。
そう思い歩を進めると、片開きの鉄扉にたどり着いた。ぼんやりと照らしていた時は、錆びたものだと思っていた。
しかし近づき、火の明かりが全体を照らすと全身の血の気が凍った。
おびただしい傷があり、黒ずんだ血痕が意匠のようにあちこちに飛び散っている。今まで見た傷とは違う。大きくはなく、小さな平行する線がいくつもある。それが獣でもなく、アーツの傷でもなく、人がひっかいた傷だと気づいたのはすぐだった。
「ここにあるの。私の記録が」
はっとして右を見ると、そこには少女がいた。
「悪いことをした時、止めようのない暴走の時、ここに閉じ込められた」
「記録とは?」
「アーツを抑える、あるいはコントロールする術をまとめたノートがここにあるの」
アーツ……ではこの子は。
「今は記憶の中だけど、本当の場所はホールの奥にある」
「本当の場所?」
「ここは記憶の世界。私の記憶の中」
「君は一体誰なのだ?」
彼女はふるふると首を振る。
「私の正体は気にしなくていい。それより現実のここにあるノートを見つけて欲しい」
「なぜそうしてほしいんです?」
「あなたたちがロドスにいるから」
ロドスの名前を知っている?
「だから見つけて。あの子……ミネアのために」
彼女の真摯な顔を見ると、どこからかふっと、風が吹いた。それに乗じて燭台の火が消え、辺りは闇と化した。
「わわ! 真っ暗なのだ!」
突然感覚がシャットダウンされて戸惑ったが、向こうに光が見えた。それはちょうど隙間から漏れ出る光で、枠としてはちょうど扉のような形になっている。そこに一歩一歩近づき、手探りでドアノブを探す。
あった。それを勢いよく回して扉を開けた。
見覚えのある場所だった。大きな部屋の中央に大きなテーブル。照明が点けられ、テーブルには色とりどりの食事が並んでいる。壁や天井は一切のほころびもなく、床は真っ赤な絨毯が敷かれている。そんな空間を、数体の黒いもやたちが移動している。
間違いない。最初に探索した食堂だ。黒ずんでいない食事といい似ても似つかないが、まさしくあの場所だと確信できた。
「もうわけがわからないのだ……」
もはや疑問を挟む余地なく、次から次へと不可思議な現象が起こる。だからなのか、冷静に周りの状況を観察できるようになった。
(主人が戻ってこない……)
(何か物音が……二階で一体何が)
人型をした黒いもやたちが何やら慌てている。頭を抱えたり、あちこちに歩き回る様はシルエットのようでもあった。もう料理は用意されているのに、着席しているのが誰もいない。
(きゃあ!)
叫び声が聞こえた。今までと違って明瞭に聞こえたそれは、両開きの扉の向こう、つまりは一階ホール側から聞こえてきた。
(なんだなんだ!)
(何か物音が)
黒いもやは扉の方にすり抜けて消えていく。
私とメイは目を合わせ、すぐに扉の方へと向かった。開け放つと、そこは一階のホールだった。壁と床にあれほどあった傷はなく、シャンデリアも優雅に光った空間。二階通路も崩れておらず、廃墟になる前の館の姿が平然とそこにはあった。
黒いもやは、奥の通路側に集まっている。
唐突に風を頬に感じた。辺りを見ても窓はなく、玄関も開いていない。それなのに平原にいるような風が、この空間に吹いているのだ。
どこからだ? 向きを考えて見てみると、どうやら奥の通路からのようだった。そこを見ると、近くにある絵画はがたがたと揺れ、床にある絨毯はたるんだ状態でなびいている。
(ぎゃあ!)
(うわああ!)
またもや明瞭な悲鳴が響き渡る。黒いもやは散り散りになり、辺りを逃げ惑った。
音がする。奥の通路からごうごうと、濁流のような激しい音が聞こえてくる。そして何かを引き裂くような金切り音も聞こえてくる。それに乗じて風も強くなる。頬をなでるものから、髪をなびかせるほどに強くなる。
来る。何かが来る。
奥の通路から木片が飛んできた。ホールの花瓶に当たり、床に砕け散った。がたがたと揺れていた絵画の表面にナイフで切ったような傷ができ、がこんと壁から外れた。
風は立っているのがきつくなるほどに強くなる。逃げたくても逃げられない。なぜか足が動かず、ただ腕で顔を隠す防御態勢しか取れない。
目を凝らしよく見ると、奥の通路から何かがやってきた。
髪がボサボサで、布のボロ服を着ている少女がやってきた。裾や髪が風で揺れており、物言わぬ様は全ての元凶のようにも見えた。彼女の周りの風が一段と強く、絨毯すら舞いあげ切り刻んでいく。
少女が歩くごとに、辺りに傷ができる。壁を裂き、床を裂き、轟音とともに辺りを破壊していく。
そうして彼女と目が合った。その瞳は吸い込まれそうな緑色をしていた。ごうごうとうなる風を前に、なぜか気持ちはぼんやりとしていく。
目に魅入られ誘われるように、意識はふっと閉じていった。
……
……
……おい。
「おい!」
はっと目が覚める。
目の前には青空があり、手や背中に草の感触を感じた。そしてこちらを覗き込むのは、同じ班にいたズィマーだった。
「大丈夫か。どうしてここに寝っ転がっているんだ」
「え?」
はっと腰を上げる。
辺りを見てみると、小川が流れる草原にいた。辺りには木もなく、青空からの陽光がきらきらと水面を光らせている。遠目には、最初に探した洞窟があった。
「ここは? どうして外に」
「ううん……」
傍らにいたメイも目を開けた。
「な! どうして外に出ているのだ!」
彼女も当然の反応をする。おかしい。私たちは今まで館にいたのに。
「二人とも何をしてたんだよ。こっちが必死こいて子供を探していたのに」
「いえ、私たちも子供を追いかけていました」
「え? どこに?」
「あっちです」
洞窟方面を指さし、そのまま左にずらしていく。
「あの奥に館があって、そこに子供が逃げ込んだんで追いかけていました」
「おいおいどういうことだよ。子供ならもう見つけたぞ」
「は?」
メイとそろって声が出てしまった。
「あたしらが探してた方面の山小屋にいたんだ。そっちになんか行ってないぞ」
どういうことだ? やはり、あの少女はミネアではなかったのか。だとしたら……。
「いやいやおかしいのだ。確かに子供を見たのだ」
「また別の子供でもいるのか? はぐれたのはミネアだけのはずだが」
「そのミネアを追いかけていたのだ。だから館にまで行って、建物の部屋という部屋を探していたのだ――」
「さっきから聞いてりゃおかしなことを」
ズィマーが頭を掻く。
「お前らが言ってる館って森の奥のやつか?」
「はい。そうですね」
「近くに館があるのは、同じ班のやつから聞いている。しかし十数年前に廃墟になって誰も近寄らなくなったそうだ」
「それはわかってるのだ。だから隠れられそうな部屋を探し回ったのだ」
「部屋?」
ズィマーが片眉を上げた。
「あの館は一階ホールを除いて岩盤に沈んでいると聞いた。それ以外の部屋はもうないはずだぞ」
「……へ?」