転生大賢者の冒険   作:怪盗218

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108話 閑話③ オーザムの戦い

刻は7の月。昨年降り積もった積雪が未だ色濃く残るマルノーラ大陸奥地の森林地帯。

 

日の光によって溶けたのか、時折針葉樹の枝からドサッと雪の落ちる音が聞こえるその雪深い森の中で、2体のブリザードが雪に覆われた山肌にその顔を近づけて相談していた。

 

「どう思う、ブリザードBYH?」

 

「ああ、怪しいな。実に作り物のように見える扉だ。ここが人間共の逃げ込んだ場所じゃないのか?」

 

ブリザードGJTの言葉に頷きを返したブリザードBYHは、背後の同胞達に声を張り上げた。

 

「よーし、お前達! この奥に人間共がいるはずだ……! 一人残らず凍り付けにしてやるぞぉッ!」

 

「「「おーーーー!」」」

 

同胞達約30体が手を上げて雄叫びを上げた。

 

ヒュンッ!

 

その時、どこから放たれたものなのか、1本の火矢がブリザードの集団の1体に突き刺さった。

 

「ギ、ギエェェェー!! ひ、火だーー! 火は嫌だーー!」

 

「――ああ! しっかりしろ、ブリザードBYZ!」

 

火矢が刺さり、徐々に溶け始めていくブリザードBYZを心配する同胞達だが、時を置かずして自分達にも危機が迫っている事に気がついた。

 

突如、雪の積もった周囲の茂みの中から雪原迷彩を施した人間達が、ブリザードの集団を取り囲むように立ち上がった。それら人間の手には火矢が構えられており、一部の人間は何やら魔道具を握りしめていた。

 

その内の一人の「放てーー!」という言葉と共に、一斉に火矢が取り囲まれた格好のブリザード達に放たれた。さらに、魔道具を手にした者の手からは、火炎呪文(メラ)の炎が発せられていた。

 

「し、しまったー! 罠だ、ここは! ギャアーーー!!」

 

周囲から一斉に放たれた火属性の攻撃により、ブリザードの集団は瞬く間に殲滅されていった。

 

 

 

ガサガサ……。先ほどブリザードの集団を一網打尽とした人間の一人が、警戒するように周囲を見回し、藪の中から姿を現した。

 

その男は、立派な狼の毛皮を羽織っており、迷彩服を着込んだ周囲の人間達とは異なる出で立ちをしていた。その男の前に、一人の人間が現れる。膝はつかない。そのような真似をこの男が好まない事を、その現れた人間はよく知っていたから。

 

「うまくいきましたね、ライオネル様。そろそろ奴らの首魁も痺れを切らす頃では無いでしょうか」

 

「うむ。だが、油断はするなよ。各個撃破が出来ているとはいえ、未だ奴らの数は4,000を下らぬのだ。反面、我らの戦力はかき集めてもせいぜい800といったところ。まだまだ削らねば勝負にすらならぬ……」

 

「はっ。すぐにこの場を片付け、次の獲物を呼び寄せます」

 

その言葉に、ライオネルと呼ばれた男は頷きを返した。

 

そう、身長190cmにも達しようかと思われるこの長軀の男は、現オーザム王国第8代国王ライオネルであった。

 

ライオネルは、かつてオーザムの町のあった方角に目をやった。町は雪の降り積もった樹木に遮られ、この森の奥地からは伺い見る事ができない。しかし、たとえ遮るものが無かったとしても、そこに町を見る事は不可能だっただろう。

 

あの戦いから1ヶ月以上が過ぎたというのに、未だに、町から立ち上る白煙が青い空に一筋の線を描いている。

 

魔王軍が大挙して襲来してきたあの攻防戦の末、オーザムの町は完全に焼き払われた。そして、現在そこには侵略してきた魔王軍が駐留している。オーザムの町の住民であったライオネル達オーザムの民は、今ではその地を追われ、この広大なマルノーラ大陸の各地に息を潜めて潜伏していた。

 

ライオネルが険しい目で青い空に立ち上る白煙を睨みながら、奥歯をガリッと噛みしめた。悔しさからではないだろう。まだ彼らの戦いは終わっていないのだから。今に見ていろ、魔王軍。貴様らをこの地から駆逐し、必ずやまた人の住まう町を構築してくれる、とその目は語っていた。

 

不意に、突き抜けるような蒼天の中、飛翔する1羽の鳥がライオネルの目に映った。その鳥はライオネル目指して一直線に向かってくる。徐々に視界に大きくなる1羽の鳥。その鳥は、ここオーザム王国に住まう者で知らぬ者などいない鳥、ハクハヤと言う名の鳥だった。

 

この鳥がオーザム王国で広く知られている理由は、この鳥が情報を運ぶ鳥、つまり伝書鳥として長い間活用されてきたためだった。ギルドメイン大陸との間に広大な海を挟むここオーザム王国では、古来よりこの連絡手段が情報収集の重要な役割を果たしていた。

 

ライオネルが右手を頭上に掲げると、慣れた様子でハクハヤはその腕に止まった。ハクハヤの体表は、白と灰色の斑の毛に覆われており、翼を広げると1mを優に超す大きさとなる。飛び立つと一度も休むことなく、約400kmの距離を飛ぶ事も出来ると言われていた。

 

通常のハクハヤは、巣に戻る帰巣本能を利用して伝書鳥として活用しているが、このハクハヤは王家の連絡用に特別に調教した鳥のため、特定の主の位置を把握し情報を運ぶ事の出来る貴重な個体だった。

 

ライオネルは、右手に感じる確かなハクハヤの重さに僅かに笑みを浮かべ、その足にくくりつけられている手紙をほどいた後、側にいた兵にハクハヤを預けた。

 

静かに手紙に目を落とすライオネル。

 

しばしして、側近の1人が王に内容を尋ねた。

 

「うむ。レイドの方で、新たに50体程度の魔物の討伐に成功したそうだ。場所は……西の狩り場コタンのようだな」

 

「おお! レイド殿が! やりましたな、陛下! こちらの狩り場も負けておられませんな」

 

配下の声にライオネルも静かに頷いた。配下の者達が、先ほどブリザードに放った矢を拾い、狩り場から戦闘のあった形跡を拭い去っている。

 

今、彼らが清めているこの地は、ライオネル達が大魔王戦役勃発前から準備していた魔物を狩るための戦場、いわゆる狩り場だった。このような狩り場をライオネルは、かつて存在したオーザムの町の北の森に10カ所以上用意していた。

 

ライオネルは、焼き尽くされた町に住民の死体が無い事に気づいた魔王軍が、いずれは逃げ込んだ先を捜索するだろうと踏んでいた。

 

そうなった時、ポップの作った避難施設はその表面に見事な偽装工作が施されているが、それでも魔王軍に発見される可能性は捨てきれなかった。そこでライオネルは、魔王軍の探索の目を欺くため、表面上だけ体裁を整えたダミーの避難施設を複数構築していた。

 

またその際、襲撃に最適なポイントにダミーの避難施設を用意し、そこにつり出された魔王軍を各個撃破する事まで考えた戦略を取っていた。

 

それがこの、オーザムの北の森に構築した狩り場だった。

 

人の手の入っていない奥深い森の中。その森の中でオーザム王国は残存兵力を3つに分け、つり出された魔王軍の軍勢を少しずつ少しずつ削っていった。これは言わば、正規軍によるゲリラ戦とも言うべきものだったが、この戦略が功を奏し、オーザムの町が焼き払われた際に数えられた約6,000体を超える数の魔物が、現在は4,000体前後にまで減少していた。

 

「それにしても、これほど上手く事が運ぶとは思っておりませんでした。ゴリョーカクの攻防ではあれほど手強かった奴らが……」

 

配下の1人が、事が上手くいきすぎていることに若干の不安を洩らした。その懸念はライオネルも感じていたものだった。ゴリョーカクでは、オーザムの民が地下通路から脱出する時間を稼ぐために、激しい防衛戦が展開された。アバンの指導によって構築した城壁は有効に機能し、1万にも達しようかと思える魔物の群れに多大な損害を与え、彼我の戦力差を考えれば望外と言って良い約1週間の長きにわたって、魔物の群れを押しとどめる事に成功した。

 

しかし敵の攻撃も苛烈を極め、特に半炎・半氷の異形の敵首魁には苦しめられた。烈火のごとき攻撃を仕掛けたかと思うと、冷静にこちらの急所を見抜いてそこに攻撃を集中させる。まるで相反する思考を1体の魔物が同時に抱いているかのような印象を、対峙していたライオネルは感じたものだった。

 

そして、度重なる敵の襲撃を退けたゴリョーカクの城壁も、最終的にはその異形の魔物に5発もの火炎呪文(メラゾーマ)を同時に放たれ突破を許す結果となった。

 

その後の居城までの撤退に次ぐ撤退戦で、オーザム兵には甚大な被害が発生した。開戦当初は千を数えた兵士も防衛戦から続く撤退戦の中で、六百を切るほどの数にまで減らされた。その後義勇兵を新たに募り、現在は兵約八百名でこの地での戦いを継続している。

 

 

「ああ、そうだな。確かに、敵の動きは罠かと勘ぐりたくなるほど鈍い。だが、もしかするとこれは指揮官が変わったからかもしれんぞ?」

 

ライオネルは、魔物が駐留している旧オーザムの町を密かに監視している兵からの連絡を思い出していた。

 

その連絡では、この2週間、敵の首魁であった半炎・半氷の異形の魔物の姿が見えないとの事だった。

 

「あの異形の敵ですね? ですが、もしそうだとしたら我々には朗報ですな」

 

「油断は、……できんがな」

安易に楽観的な予測に飛びつけないと思いながら、ライオネルはぎこちなく頷いた。

 

「……陛下。この辺りに足を踏み入れた新たな敵は、今のところ他に確認されてはおりません。今のうちに一度ユバリ山に戻られてはいかがですか? もう、しばらく戻っておられないでしょう? 奥方も心配されておりましょう。一度無事な姿をお見せになってあげたらよろしいかと……」

 

「しかし……」

 

まだ厳しい戦いは続く。ライオネルは、部下のその気遣いに素直に頷く事にためらいがあった。

 

「避難施設に移動した民の様子を把握する事も、陛下の仕事ではありませぬか。敵を倒す事だけで満足しておってはなりませぬぞ」

 

古参の兵士の言葉に、ライオネルは苦笑いを浮かべ、少し逡巡した後頷きを返した。

 

 

 

 

 

「開け、ゴマ!」

 

ライオネルは、何度見ても岩にしか見えない扉の前で、そう言葉を口にした。すると、途端にその岩が「ゴゴゴゴ……」と音を立てて横に移動していき、地下に続く空洞がぽっかりと姿を現した。

 

その様子をライオネルの背後で見ていた側近が、首を傾げながら言葉を発した。

 

「何度見ても溜息が出るほどの見事な偽装ですが、『開け』は良いとして、その『ゴマ』とは一体何でしょうかね?」

 

その問いかけにライオネルは、「俺に聞くな、ポップに聞け」と苦笑しつつ返答を返した。

 

ライオネル達は、地下に続く階段をゆっくり降りていく。降りる毎に、一定の間隔で壁に設置されている小さな突起物が発光し足下を照らしてくれるため、地下だというのに視界は良好だった。また、以前は岩盤がむき出しだったこの廃坑の壁は、今は粘土で覆われておりまるで最初から避難施設として建設されていたかのように錯覚してしまいそうなほど整っていた。

 

オーザムの町を脱して以来、初めて避難施設に足を踏み入れた配下の一人が、その様子を見て驚きの声を上げている。

 

ライオネルは背後から聞こえてくるその声を耳にし、この程度で驚いていてはこの施設で生活なぞできんぞ、と内心で呟いていた。

 

 

 

 

 

「シャーリー、今戻った」

 

「ああ、よくご無事で……。お帰りなさいませ」

 

ライオネルは、このユバリ山と名付けた避難施設内で割り当てられた自室に戻り、2週間ぶりに会う妻に微笑みかけた。その妻は、2週間前と変わらない気取らない普段着で迎えてくれた。自身は疲労など負っていないつもりであったが、その妻の笑顔を見てどこか癒やされている自分がいるのをライオネルは感じていた。

 

「特に変わりはなかったか? エリックの姿が見えないな? どこへ行っているのだ?」

 

たとえ王と言えど、この避難施設で家族向けに割り当てられた部屋の広さに違いはない。さほど広くもない部屋に、今年で7歳となる息子の姿が見えない事に不審を抱き、ライオネルは妻に問いかけた。

 

「あの子は、キッズルームで近所の子達と遊んでいますわ。オーザムの町ではあのような施設が無かったので、遅くまで帰ってこないのです。あなたからも、少し注意をしておいてくださいます?」

 

「……ああ、分かった。後で様子を見に行くから、注意をしておこう」

 

そう妻に返事を返しながらも、さもありなんとライオネルは考えていた。キッズルームについては、ポップからこの避難施設が完成した際に説明を受けていた。その時は、数十人規模の子供が一同に集って走り回れるほどの広さの只のだだっ広い空間だった。子供のためにこんな空間が必要だったのかとポップに訪ねたが、子供の情操教育のためには絶対に必要です、と力説され、まあ、いざとなれば兵士の練兵所にすれば良いかとその時は納得していた。

 

しかし……、だ。

 

ライオネルは、妻との会話もそこそこに、息子を迎えにキッズルームに向かった。すでにライオネルは薄着の格好をしている。狼の毛皮で作ったコートは、自室に置いてきていた。それは、この施設に入った途端、暑くてたまらなくなったからだった。極寒の地の地下に設けた避難施設だ。通常寒いと感じる事はあっても、暑いと感じる事は無いはずだった。

 

しかし現実としてこの避難施設は、マルノーラ大陸では1年を通じて感じる事が無いほどの暖かい空気で満たされていた。

 

その理由は、ポップが名付けた『魔道温水式床暖房』という装置のためのようだった。どうやったのかさっぱり分からないが、この施設の周囲を流れている地下水脈の水を岩盤と粘土の間に引き込み、それを暖める事で施設内の温度を快適に保っているらしい。もちろん、その装置はここ以外の全ての避難施設に備え付けられている。

 

加えて『魔道温風式空調設備』という装置も設置されており、それは、壁や天井を覆っている粘土に一定間隔で開けられている小さな穴から、暖かな温風が通路や各部屋に24時間流れると言った代物だった。

 

しかし、この2つの装置を併用すると施設内が暑くなりすぎるという陳情があったため、現在は『魔道温水式床暖房』しか稼働させていない。

 

 

 

 

子供達の笑い声がかすかに聞こえてきた。その笑い声が聞こえる部屋の隣には、『トレーニングルーム』と書かれた部屋があった。

 

先ほど自分に付き従って初めてこの施設に来た兵士が上げた声だろうか。「うわっ、これ勝手に床が動き出したぞ! 一体、どうなってんだ!?」という賑やかな声がその部屋から漏れていた。その部屋の事を考えるとまた頭が痛くなると考えたライオネルは、その声を意識的に頭から排除する。

 

ライオネルは、キッズルームと書かれた看板が掛けられている部屋に足を踏み入れた。途端に、けたたましいドタバタとした子供達の駆け回る音とその笑い声が、ライオネルの耳朶を打った。

 

かつて見た何も無かっただだっ広い空間は、今ではその光景が一変していた。

 

地下だというのに、まるでさんさんとした日差しが照りつけているかのように錯覚するほどの照明が、高い天井に備え付けられている。床や壁面は子供達がぶつかっても怪我をしないよう、角は丸く削られ、黄色や緑といった色粉の含まれたカラフルな粘土が壁や床に貼り付けられている。部屋の中には、『ブランコ』や『すべり台』、『ターザンロープ』、『ふわふわドーム』等と書かれた、中央大陸でも見た事もない子供のための遊具が一定間隔で設置されていた。

 

それらの遊具で子供達が、喜色満面の笑みで遊んでいる。エリックは……いた。ライオネルはクスッと笑みを浮かべた。ライオネルの息子エリックは、『シーソー』という反対側に座る子供と交互に上下降する遊具で遊んでいた。

 

そのキッズルームの壁際にはベンチが設置されており、子供達の遊んでいる様を見つめている親らしき姿が見受けられる。

 

その目が、憂いをおびていない落ち着いた目をしている事にライオネルは安堵した。

 

ライオネルは、この施設に来たばかりの頃の妻シャーリーの言葉を思い出していた。

 

ライオネル自身は、王として最後までオーザムの町に残って魔王軍に抵抗を続けていたため、自身より先にこの避難所に避難していた町の者の様子を知らなかった。だが、シャーリーの言葉によれば、この施設に避難した直後は、皆が町から身一つで命からがら逃げだしていた事もあり、この先の展望に希望を抱く事ができず、子供ばかりか大人まで一様に暗い目をしていたという。

 

しかし、一人の子供がこの部屋を見た瞬間、あふれんばかりの笑みを浮かべたとシャーリーは語った。子供が子供を呼び、直ぐにここは子供達の聖地となったらしい。そして、元気に遊具で遊ぶ子供達を見て、次第に大人も活力を取り戻していったのだという。

 

ライオネルはその話を妻から聞いた時、ようやくポップがこの施設を構築する事を主張した意味が理解できた。

 

しかし、しかしだ……。

 

ライオネルは息子エリックに声をかける。エリックは、2週間ぶりに見る父の姿に歓喜の声を上げて、駆け寄ってきた。だが、その後に発せられた息子の言葉に、ライオネルは最近自身を悩ませている問題を突きつけられ、思わずこめかみを押さえる事となった。

 

 

「父さん! このお家、最高だね! 僕、魔王軍をやっつけても、このままここに住みたいよ!」

 

 

 

 

 

「それはそうですよ。そんな事、皆言っていますよ。子供だけの話では無いですよ? 大人だってそう言っているんですから……」

 

シャーリーが呆れたように腰に手を当てて、ライオネルに言った。ライオネルはその言葉を聞いて、テーブルに肘をついたまま両手で顔を覆う。そして、深い、深いため息をついた。

 

そうなのだ。ライオネルを最近悩ませていたのは、この一時的なはずの避難施設があまりに快適なため、住民がオーザムの町を取り戻してもそのままここに住んでもいいと、声を発し始めている事にあった。

 

キッズルームだけの話では無かった。その隣に併設されたトレーニングルームは、『狭い空間で運動不足になってはいけませんから』、とポップが設置したものだった。その部屋には、同じ場所でずっと走り続けていられる器具や、ダンベルと名前のついた重りを持ち上げる器具、それにシャワー室まで併設されており、避難した者達が引きも切らさず利用している。

 

更に、『清潔にしていないと、疫病が蔓延してもいけませんから』と、一度に数十人が優に入れる規模の入浴施設まで設置されている。意味が分からない事に、その広さはオーザムの町の館の大浴場より広かった。

 

そしてなぜか、入浴施設の壁には荒々しい波しぶきとその奥には見た事も無い左右対称の山が描かれたタイルがはめ込まれている。隅の方にはその絵の題名なのか、『冨嶽三十六景』と書かれていた。また、入浴施設に併設されている『蒸し風呂』と書かれた施設も人気で、連日大勢の人間が利用している。『狭い空間での生活を耐え抜くためには、“ととのう”という事が重要です』とは、ポップの言葉だったか。

 

もちろんポップは、避難施設のトイレ事情にも抜かりは無かった。地下水脈を引き込み、完全水洗トイレを施設内の複数箇所に構築していたのだ。なお、便座はいつ使用しても何故か暖かくキープされており、初めてそれを使用したオーザムの民は感動のあまり涙を流していた。

 

ポップに補佐として付けていた人間が、これらの施設をポップが嬉々として作っていた際にポップが発した言葉を耳にしていた。

 

『ヤベッ。何か“どらくえびるだー”みたいでめっちゃ楽しくなってきた。これ、もっと大きな空間を作って遊園地とか作れないかな?』

 

『どらくえびるだー』なる物や遊園地が何を指しているのかライオネルは知る由も無かったが、あいつが自重を知らない人間だという事はよく分かった。よっぽど興が乗ったのか、避難施設を作り始めてからは、なんとポップはここで一人寝泊まりして、24時間作業に没頭する事も珍しくなくなった。

 

さすがにその状況に奴の師であるアバンが憂慮したのか、ある日奴を連れ戻しに来て『毎日定時退庁してオーザムの町に戻る事』、『週に一日は休息日を設ける事』などを奴に懇々と言い聞かせていた。

 

あの時、奴の手綱をアバンが握っていてこれなのだ。ライオネルは、もしかするとあいつは、オーザム国の気風とも言える質素な生き方を好む人間を堕落に引きずり込む悪魔かも知れないと、ほんの少し思い始めていた。

 

あいつは、色々な意味でどこかおかしい。そのライオネルの思いは、遠く離れたランカークス村の自警団長がかつて彼に対して抱いた思いと全く同じだった。

 

ポップの噂は、伝書鳥のハクハヤにより全てで無いにしても、いくらかはこの地まで届いていた。ラインリバー大陸での魔王軍撃退の活躍から、今では彼が『氷の賢者』の二つ名で呼ばれている事も把握している。才ある者が、その者にふさわしい戦場で戦っているのだ。彼ほどの才の持ち主を、後方で遊ばせていられるような余裕が人間側にあるわけもなく、ライオネルも彼と縁を結んだ内の一人として、その事を誇りに思っていた。

 

ライオネルは、伝え聞く噂の中にアバンの名が出てこない事にも気がついていた。このようなご時世だ。何故とは、考えるまでも無い事ぐらいはライオネルも察していた。

 

それでも、ライオネルは思わざるを得なかった。

 

(おい、アバン! いつまで高みの見物をしているんだよ……。早く戻ってきて、あいつの手綱をしっかりと握っておけよ!)……と。

 

その切実なるライオネルの願いは、兵士の一人が蒸し風呂でのぼせて倒れてしまった、という緊急の報告がライオネルの元に届くまで続いた。

 

 

###########################################

 

 

『氷の大賢者』ポップ・マーカストンがオーザムの地に構築した避難施設については、その存在自体は知られていたものの、その内部構造については大魔王戦役終結から80年近くの間、ほとんどと言っていいほど世界には知られていなかった。

 

彼の発案とされているいくつかの遊具は、終戦直後よりオーザム王国から人づてに伝わり、ギルドメイン大陸、ラインリバー大陸、ホルキア大陸にも広まり、大魔王戦役から150年が過ぎた今も大勢の子供達が利用している。

 

しかし、『魔道温水式床暖房』や『魔道温風式空調設備』等と言った住居設備に用いられる高度な魔道具やその建造技術はついぞ発信される事が無かった。

 

その理由としては、当時国主であったライオネル王が何故か積極的に情報発信をしなかった事、発案者であるポップ・マーカストン自身が沈黙していた事(忘れていただけという説もある)、地理的に情報が他大陸まで伝わりにくかった事などが、大きな理由として挙げられる。

 

この避難施設内部の詳細が世界に知られるようになったのは、ポップ・マーカストンの死後数年が経過して始まったマルノーラ大陸に対する大規模な入植計画の折であった。中央大陸から訪れた多くの人間が、この避難施設を仮住まいとして使用した際に、その設備の余りの異常さに気がつき、初めてその存在が大きな話題となった。

 

これを受けて、各国から選抜した特別調査団(正式名称:ポップン調査団)が大挙してこの避難施設の内情調査に乗り出し、ようやくこの避難施設の異常性が世界に認識された。

 

ただ、当時世界最高レベルの頭脳集団であった特別調査団も、設備の建造手法及び魔道具の構造が恐ろしく高度かつ複雑であった事、製作者であるポップ・マーカストン自身が既に故人となっていた事に加えて、複数の施設が雪崩に遭って埋没した不運も重なり、完全に解き明かすまでには至らなかった。

 

そのため、大魔王戦役から150年経った現在においても、これらの魔道具の量産化及び小型化には成功しておらず、今でも解読が進められているロストテクノロジーの一つとなっている。

 

なお、この避難施設の詳細が広く世界に知られた事で、既に数多の異名を獲ていたポップ・マーカストンに新たに『近代住居学の父』という異名が加わる事になる。この名は、ポップ・マーカストンの逝去後に与えられた3つの異名のうちの1つとして、彼の熱烈なファンに知られている。

 

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