メルルの目には、景色が矢のように飛び去っていくように見えていた。最初は南の海特有のエメラルド色の海が視界に映っていたが、じきにその光景は寒々しいコバルトブルーの海に変わった。ときおり流氷らしき白い物が海上に浮かぶ光景を目にしたメルルは、パプニカにいるであろう想いを寄せるポップと随分と距離が離れてしまった事を理解し、寂寥感からそっと目を伏せた。
……でも、それでいい。追いかけてきてはいけない。彼は、魔王軍に対抗する人々にとって最後の希望の光だ。それは、時に勇者よりも強い光を発するほどの……。決して、私などのためにその命を危険にさらして良い立場では無い。
……来ないで、ポップさん。もう一度メルルは、そう心の中で祈った。
……どこに連れて行かれようとしているのだろう? もしもう一度皆に会える事があるなら、魔王軍の根城についての情報を皆は必要とするかも知れない。戦う力の無い私に出来る事は少ない。だからせめて少しでも情報を入手しよう。正確な情報を得られれば、きっとポップさんの役に立つはず。数日前にロモスの酒場でとある女性に指摘された事を思い出したメルルは、再び目を開けた。
視界に映る光景に変わりは無かった。ただ、遠方にうっすらと大きな大陸のシルエットが見えた。ギルドメイン……、ううん、あれはもしかしてマルノーラ大陸かしら。北の大陸であるマルノーラ大陸には行った事が無い。でも、お婆さまから、マルノーラ大陸の山々は1年中雪を被っていると聞いた事がある。あれがそうかもしれない……。
メルルが身じろぎした事に気づいたのだろう。メルルを拘束したキルバーンの腕に僅かに力が込められる。自らの腹部に回されたその腕に、メルルは不快そうに眉をひそめた。
その時メルルは、自身が身に付けている服の内ポケットに小さな巾着を忍ばせている事を想いだした。その巾着の中には、ポップから護身用にと渡された迷い草が入っていた。もしかしたら、この魔族にそれが通じるかもしれない。
……そう考えたメルルは、咄嗟に右手を内ポケットに差し入れ、それを掴んだ。そして、それを自身の身体を拘束する魔族の顏目掛けて投げつける。それが魔族の顏に当たった途端、巾着の紐が緩み、薄緑色の粉が魔族の顏の周辺で漂った。
期待を込めて魔族の顔を凝視するメルルだったが、その期待は無残にも打ち砕かれる。メルルの行動を意にも介さなかったように、魔族の仮面の下から覗く目がぎょろっと動きメルルに固定された。
「おや、今何かしたのかな、お嬢さん? ウフフフ。無駄な事はせずに、大人しくしているんだよ。君は大魚を吊り上げるための餌なんだから。殺してしまうのは簡単だけど、活きが良くないと喰いつきが悪いからね。フフフ」
くっと、メルルは唇を噛む。ポップからは効き目は折り紙つきとそれを渡されていたが、どうやらこの魔族には通じなかったようだ。メルルは、自分の事など気にもかけずに飛翔を続ける魔族の横顔をジッと見つめた。
……まるで死人のようだわ。言葉と共に感情を発露し、黒を基調とした燕尾服の下からは体温らしきものまでうっすらと感じるのに、生物なら誰でも纏っているはずの特有の生活臭がまるで感じられない。生きているのに、生きていない。何故だかメルルは、キルバーンにそんな思いを抱いていた。
その時、突然メルルの身体に制動がかかり、矢のように過ぎ去っていた景色が初めてその場に留まった。自身の周囲を覆っていた
それはメルルの前方で、まるで空に壁を作るかのように連鎖的に発生していた。その爆発の連鎖を背にして、メルル達の行く手に立ち塞がるように空に浮かんでいたのは、メルルが来て欲しくないと願った、……しかし、もう一度会いたいとも願っていた想い人だった。
「よく言う……。観客を無理やり舞台に引っ張り上げたのは、お前が先だろうが。お前の血塗られた舞台に、その子は不釣り合いなんだよ。さあ、大賢者の名にかけて、その子はここで返してもらうぞ……!」
背後で連鎖的に発生した爆発によって巻き起こされた爆風に、俺の纏ったドラゴンローブの裾がばたばたとたなびいている。同時に、眼下の海原が白波を立てて荒れる。ふー、どうにか先回り出来たぜ。右手にかつてアバン先生と共に訪れたマルノーラ大陸の輪郭が微かに見える。ここはもう、北の海だった。
途中までは、後方からダイが
「どうやら、氷の賢者君は僕の舞台がお気に召さないようだ。実に残念だよ。しかし、まさか追いつかれるとはね。さすがに速い。人間にしておくには、もったいないほどの魔力だよ」
「んっ、んんーーーー!!」
突如発生した
ごめんな、メルル。いくらメルルの望みでも、そればかりは聞けないんだよ……。
俺は、メルルを抱えたままのキルバーンとその使い魔、そしてミストバーンを油断なく見据える。
「だけどキルバーン。いくら魔法力があったって、こいつ馬鹿だよ。ボク達を追ってこんな所まで来るなんて。キャハハハ」
俺を指さして小馬鹿にするようにあざ笑う使い魔を、キルバーンが「そんな風に言うものじゃないよ。彼は、全てを承知の上で追いかけてきているんだから」と、たしなめる。
「……そうだろう、氷の賢者君?」
「まあ、そうだな……。その子を攫った事をことさら俺に見せつけたのは、最初から俺をつり出すため。そんなの、子供でも分かるさ」
その程度の事、分からないはずが無い。こいつの狙いは最初から一貫して俺だ。あえて
「フフフ。だろうね。そして君は、物語の主人公の如く囚われの姫を救出して意気揚々と凱旋する訳だ。実に大衆受けするヒロイックな物語だね。しかし、氷の賢者君。僕は感動の大団円より、悲嘆の涙にくれる悲劇の方が好みでね」
「おあいにく様。俺はビターエンドすら許さないハッピーエンド至上主義だよ。さあ、囚われの姫を返して貰おう」
俺は、右手に大気が揺らめくほどの魔法力を圧縮し戦闘態勢を取る。
「ミスト。この娘を……」と、キルバーンはミストバーンにメルルを預ける。こくりと頷いたミストバーンは、右手の爪を伸ばしたかと思うと、それを器用にメルルの身体に巻き付けて拘束する。
ちっ。今度はメルルはミストバーンの手の中か。
「クスクスクス。君とこうして正面からやり合うのは初めてだね。ああ、安心したまえ。僕はどこかの妖魔師団長とは違うんだ。人質を盾に君を無力化させようとは考えていない。さあ、氷の賢者君、その力を僕に示してみたまえ!!」
そう言って、漆黒の鎌を振りかぶったキルバーンが俺に突進してくる。
「――よく言うぜ! 人質を取って選択肢を奪った時点で、同じ穴のムジナなんだよ!」
俺は右手に圧縮した魔法力を爆球に変換し、それを迎撃のためにばらまいた。
空に
「どうしたんだい、氷の賢者君。もっと距離を取った方が良いんじゃ無いのかい? ここは君の距離では無いだろう?」
「うるせえっ! 俺がどの距離で戦おうがお前の知ったことか!」
俺は左手をキルバーンに突き出し、その手から創出された13本の氷の槍を突っ込ませる。キルバーンはそれを鎌を一閃する事で打ち砕く。
今、俺はキルバーンとつかず離れずの中距離の間合いで戦っていた。この間合いは、キルバーンに言われるまでも無く俺の間合いでは無かった。しかし、距離を取り過ぎれば再びこいつらは
――!
「痛っ!」
俺の視界に細く鋭い何かがきらめいたのを感じた瞬間、俺は宙に身を翻した。頬が熱い。距離を取った俺が、ぬるっとぬれた頬に手を当てると、俺の手の平は真っ赤に染まっていた。
「くっ、投擲か……」
俺が苦い顔でキルバーンに目をやると、キルバーンは鎌を背中に引っかけ、複数のナイフをジャグリングするかのようにお手玉していた。
「そうだよ、何も酔狂でこんな格好をしているわけじゃないのさ。――さあ、まだ余興は終わっていないよ!」
キルバーンの両手が消えたかと錯覚するほどの速さで振るわれた。――まずいっ!
「――
僅かに俺の防御壁の展開が早かったようだ。俺が眼前に構築した氷の壁に、何本ものナイフが深々と付き立っていた。
――! キルバーンはどこだ!?
俺がナイフに気を取られた瞬間に、キルバーンの姿が忽然と消えていた。が、直後俺の背中に強烈な寒気が走る。
「くっ!
身を翻すと同時に、俺は再び背後に氷の壁を構築する。しかし、その氷の壁が完全に構築される前に、黒い凶器がガリガリガリと氷を両断しつつ俺の身に迫る。必至で背後に下がるが、僅かに鋭利な刃物の切っ先が俺の身体を袈裟斬りするかのように左肩から入って右脇腹に抜けた。
「痛っ! ぐっ、――
身体に走った痛みを気合いで堪え、俺は右手を突き出すようにして熱線をキルバーンめがけて放った。だが、キルバーンは俺を斬った大鎌を手元に引き寄せ、そのまま大鎌の柄をクルクルと回転させる事で俺の放った熱線を受け止める。
熱線を直撃させられなかったものの、その威力でキルバーンをいくらか後退させた俺は、その間に自分の身体のダメージを確認する。袈裟切りされたかと思われる程の痛みが走ったが、それはどうやら勘違いだったようだ。俺の纏っているドラゴンローブは、大鎌による一撃をかろうじて防いでくれていた。ありがとうございます、フォルケン王!
戦闘を長引かせては不利だと判断した俺は、勝負に出る。俺は左手を奴に向かって突き出し、魔力を集中させる。
ザバァァァァッッ!!
自身の周囲に突然大量の水がとぐろを巻く様に出現した事で、キルバーンは「これは……」とキョロキョロと首を巡らせた。
よしっ、今だ! 十分な水量に達したと判断した俺は、突き出していた手をぎゅっと握り込んだ。
途端に、キルバーンの周囲に1辺が5mほどにもなるキューブ状の水塊が出現し、その中心にキルバーンを捉える事に成功する。
「クスクスクス。何をするつもりだい、氷の賢者君。まさか、この僕を窒息死させる事を考えているわけじゃあるまい?」
そんな事を考えるわけないよな。閃華裂光拳が効いていない段階で、お前が生物かどうかも怪しい所なんだ。水塊に囚われても余裕の表情を崩さないキルバーンに対して、俺は次なる一手を打つ。
「死神なら死神らしく、棺に入ってろッ! ――
「――!?」
「キル……!」
「ああ、キルバーン!」
キルバーンを取り込んだ水塊が、みるみるうちに白く固まっていく。これは、今即興で考えた水流呪文と氷系呪文を組み合わせた俺の連続技だった。
僅か二呼吸ほどの短い間で、完全に白く凍り付いた氷塊の中にキルバーンを封じ込める事に成功する。俺は間髪を入れずにこの隙に、ミストバーンの背後を頭に思い浮かべ、
よしっ、思惑通り俺はミストバーンの背中を取る事に成功した。ミストバーンが魔法を打ち返す技能を有している事は、バルジの島での戦いで掴んでいる。だが、あれは身体の中心部にまるでブラックホールのように魔法を吸い込んで、打ち返していたはずだ。
狙いは、メルルを拘束している右腕! 俺は、ミストバーンの白い長套に包まれた右腕の付け根に狙いを合わせて全力で魔法を放った。
「――
魔力圧縮を限界まで行った真空呪文をミストバーンに対して放つ。これほど圧縮すると、下手な魔法使いの
瞬時に、ミストバーンの纏った長套の一部が切り裂かれ、その下の黒い霧状の腕に真空の刃が届く。
だが、(やった!)と俺が考えた瞬間、「ガキーーーン」という、突如堅い何かに刃がぶち当たったような硬質な音が周囲に響き、俺の放った真空の刃が霧散した。
「なっ!? いったい、何が―― ――!? がはっ!」
一瞬の隙。ミストバーンが自らの長套を内側から貫く様に放った伸びる爪が眼前に迫り、それが驚きのあまり動きを止めていた俺の胸部を貫いた。いや、貫いてはいなかった。ここでも、ドラゴンローブは俺の命を救ってくれていた。その貫通力故にその場から押し戻されはしたものの、その爪の鋭利な切っ先はローブを貫いてはいなかった。
打突の痛みだけでかろうじて命拾いした俺は、ミストバーンを正面に見据える。
「
ミストバーンの爪の色がその言葉と共に漆黒に変わっていく。いや、違う。爪に何か黒い霧のようなものを纏わせたんだ。
まずいな、はったりじゃ無く、あれならいくらこのドラゴンローブといえど貫かれそうだ。畜生、さっきのは何だったんだ。俺の放った風の刃は確かに奴の黒い霧を切断した。それは間違いない。しかし、切断した黒い霧の下から何か硬質な物が現れたんだ。黒い霧を消し飛ばしたその僅かな瞬間に現れたのは、俺の見間違いじゃ無ければ筋肉の纏われた腕だった。つまり、人、もしくは魔族の腕だ。
……どういう事だ。俺はミストバーンの正体は、魔影軍団長かつ配下の魔物の姿形から、実態を持たないガス状の魔物の可能性が高いと推測していたんだが、まさかあのような頑強な肉体がその中に潜んでいたとは……。
「んー、ん、んっっ!」
メルルが、俺を心配してくぐもった声を上げた。いけない、奴の正体を考察するのはメルルを救出してからだ。しかし……。
「無駄だ、氷の賢者。私の身体にはいかなる呪文も通じぬ。この娘が私の掌中にある限り、貴様がこの娘を助け出すのは不可能だ」
それだ。悔しいが、奴の言葉を俺は否定できなかった。ダイやヒュンケルのようにアバン流の上伝である『空の技』を習得していない俺では、呪文が通じない段階で奴に通じる手段が無いという事になる。いったい、どうすれば……。
俺が焦燥の表情を浮かべていると、シューシューという煙が立ち上がるかのような音を俺の耳朶が拾った。ギョッとして俺がその音の発せられている方に目をやると、先ほど俺がキルバーンを封じ込んだ白い氷塊が、何故か白い煙をその表面より発していた。
何が起こっている……? 氷塊が圧倒的パワーで砕かれるというのならまだ分かる。俺も、あれでキルバーンを倒せたとは思っていなかった。しかし、これはいったい……。
俺が見ている前で、氷塊の表面がまるで沸騰しているかのようにボコボコと泡立ち始め、それに併せて蒸気のような煙が氷塊の至る所から漏れ始めた。
ジュワァァァッ!
次の瞬間、氷塊は沸騰する熱湯に変貌し、そのまま海に墜ちていった。後に残されたのは、水滴を全身からポタポタと滴らせた死神キルバーンのみだった。キルバーンは氷塊に取り込まれたダメージを全く感じさせない、いつもの不愉快な笑みを深めて笑った。
「クスクスクス。驚いたようだね。種明かしをしてやると、僕の身体の中を流れている血液は他の生物のそれよりほんの少し温度が高いのさ。つまり、その熱量に耐えきれず君の作った氷の棺は溶けてしまったという訳さ。ウフフフ。あれを僕の棺とするには、少々役不足だったね」
「……ほんの少し……だと?」
おいおい、ふざけるなよ。あの
しかも、その嘲笑と共に吐かれる息遣いに全く変化が見られない事から、低温によって身体にダメージを負っていない事も明らかだ。この……化け物め……!!
俺は、キルバーンとミストバーンの想像を超える力に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「キル……。遊びは終わりだ。早くこの男を始末しろ」
「分かっているよ、ミスト。さあ、氷の賢者君、君との遊戯に名残は尽きないがそろそろ終わりにしよう。大丈夫さ、痛みを感じる前にその首を胴から分断してあげるよ」
その死刑宣告に、ミストバーンに拘束されているメルルが「ンーーーーーー!!」と大きな声を上げた。逃げて、か……。確かに絶体絶命のピンチだな、これは。
「キャハハハ。キルバーン、ボクこいつの首でお手玉したいや。早く切っちゃってよ!」
「駄目だよ、ピロロ。優れた戦士にはそれ相応の敬意を示さないと。大丈夫、君の首は大魔王様に確認してもらった後、綺麗に飾り付けて勇者達の元に送り届けてやるさ。安心したまえ」
そう言って、キルバーンは手に持った大鎌を死刑前のパフォーマンスのつもりなのか、ヒュンヒュンと音を立てるようにクルクルと回転させ始めた。
……? 何だ、この違和感は? ――!? ――ちぃっ!
「クックック。どうだい、そろそろ四肢の感覚がなくなってきている頃じゃないかい?」
大鎌の回転を止めたキルバーンは、毒のまわったモルモットを観察するかのような猫なで声を俺に投げかける。
「ぐっ! 目、目が見えない! キルバーン、お前! 鎌の回転による共鳴で俺に術を……!」
「ウフフフ。ビンゴォッッ! 大当たりだ。後数秒早く気付けば良かったのにね……! 」
俺が
「さあ、これでゲームオーバーだ。君とのゲームはなかなか楽しかったよ。――だけど、これでさよならさ!」
キルバーンが大鎌を振りかぶって俺に向かってくるのを感じる。その大鎌は、防御態勢を取っていない俺の首めがけて、横なぎに振われる。
……だが、その振われた漆黒の凶器の軌跡上に、俺の首は存在していなかった。
勝利を確信したのか、完全に油断して大ぶりになったキルバーンの攻撃を俺はギリギリまで引きつけた上で、
「――何!?」
驚愕の声を上げてキルバーンが背後を振り返った時、俺の腕の中にはアワアワと震えているキルバーンの使い魔 ピロロの姿があった。