side マァム
ドォォォォ……。
水が水面を激しく叩く音が徐々に鮮明に聞こえてきた。どうやら目的地が近いようだ。8の月の終わりにさしかかった今は強い日差しがさんさんと降り注ぐが、幸い今私が歩いている獣道の周囲には木立が繁茂しており、その日差しを適度に遮ってくれていた。
ひと月ほど前にも通った見覚えのある獣道を歩いて行くと、不意に視界が開け、見上げる程の大きな滝が私の前に現れた。この滝の周囲には高木が生えておらず、日の光が滝壺や巻き上げられる水しぶきにキラキラと反射して、私は思わず目を細めた。
「ああ、やっとついたわね。ふふふ。修行の事をいったん忘れて水遊びしたいくらいね」
滝壺に落下した水が純白の水けむりを巻き上げている様を見て、私は思わずそう口を開いていた。もちろんそんな時間がない事は承知しているが、汗ばんだ身体をすっきりさせたいと思うぐらいの事は良いだろう。ほんの少しだけ、ロモスでシナナ王に勧められた『危ない水着』を受け取っておいたら良かったな、と私は思った。
……でも、あれを着てもここにはポップがいないしな……、と思った私は、次の瞬間、その私の一瞬の気の迷いを振り払う様に頭を左右に振った。危ない、危ない、まだ昨日のワインが身体から抜けきっていないみたいだわ。
私が一人滝壺を見つめながらそんな事を考えていると、足下から控えめな「キィ、キィ」というか細い声が聞こえた。その声に気づいた私が足下を見下ろすと、1匹の小猿が愛嬌のある顔で私を見上げていた。
「あら、あなた、また会ったわね。よく私が来たのに気がついたわね。ふふふ。もしかして、ずっと待っていてくれたのかしら?」
私は、その場でかがみ込んでその小猿の頭を撫でながら声をかけた。その小猿は、パプニカ奪還後にこの滝壺に修行に来た際に出会った猿だった。何かに傷つけられたのか、足を怪我していた事に気がついた私はその時、この小猿に回復魔法をかけて怪我を癒やしてあげた。
その時は、怪我が癒えた後すぐにどこかに立ち去って行ったけれど、まさか今日再会出来るとは思っていなかった。
頭をなでられた小猿は気持ちが良いのか、「キッ、キィー」と目を細めながら鳴いた。
「ふふふ。ごめんね。ゆっくり相手をしてあげたいけれど、私、またここに修行に来ているのよ。遊ぶのはまた今度ね」
そう断った私は、背負っていた鞄を地面に下ろし、軽く身体をほぐし始めた。期間は1週間。皆、限られた時間に少しでもレベルアップしようと動き出している。私も負けてはいられない。
そう決意した私は、瀑声を上げている滝に一歩足を踏み出した。
時折木が火に当てられて弾ける「パキ、パキ」という音と、木々の合間から聞こえる「ホー、ホー」という梟の鳴き声が聞こえてくる。すぐそばにある滝が発する瀑声は、昼間からずっと耳にしていたためか、何故か耳に残らなくなっていた。とうに日は落ちていて、空を見上げるとたくさんの星が、まるで宝石を空に散りばめたかのように瞬いていた。
私は今、たき火の前に一人腰を下ろして、夕食の支度をしていた。炎の灯は私を中心にして2m程度までしか届いておらず、その灯の外は暗闇に閉ざされている。
小枝に刺して火で炙っていた『鮭とば』という、魚を燻製した食べ物を1本手に取る。本当は、『鮭とば』というものでは無いそうだけれど、海の魚に詳しくない私は、ポップの言っていた『鮭とばそっくりだ』、という言葉で覚えてしまった。
この『鮭とば』は、昨日ポップとメルルと一緒におしゃべりしていた時に、ポップがベッドの下から引っ張り出してきたものだった。朝起きたらポップはすでにいなかったが、まだたくさん残っていたから、勝手に拝借してきていた。
軽く炙ったからなのか、昨日食べた時より柔らかく感じる『鮭とば』をコリコリと噛みしめると、口の中にほどよい塩気と魚の味が広がった。同時に、鞄の中からメルルが朝握って持たせてくれたおにぎりを手に取って、それも口に含む。
私が以前握ったおにぎりは、どういうわけかちょっと堅くなってしまったけれど(あくまでちょっとだ。ポップの言う歯が折れるというのは、絶対に大げさだ)、メルルの握ってくれたこれは時間が経っているというのにふんわりとしていて、ほどよい塩気が疲れた体に心地よかった。
このおにぎりを食べていると、メルルは本当にポップの事をよく見ていると気づかされる。彼女が初めておにぎりを食べたのはデルムリン島でBBQをした時だと思うけれど、その時にポップの好みの料理を把握したのだろう。あれから幾日も経っていないというのに、もうポップの胃袋を掴んでいる。『男は胃袋で掴むのよ』、とは母さんがよく言っていた言葉だけど、私には難しそうだ。私にできるのはせいぜい、戦いの時にポップの盾になって彼が考える時間を稼ぐ事ぐらいだ。
ふー……。良いわ、出来ない事を考えていても仕方がないもの。私は、私に出来る事をするだけね。今日は準備運動のようなものだったけれど、明日からが本番だ。私は明日からの修行で習得する技術を頭に思い浮かべた。一つは、閃華裂光拳と対をなす剛の技 『猛虎破砕拳』を完全に使いこなす事。でもこれは今までも旅の合間合間で修練していたから、完成の目処は立っている。
他に何か……。私は、以前ポップに無手の技について相談した時に、彼から貰った助言のいくつかを思い出した。ポップは、自身は賢者のくせに変に無手の技の知識を持っていて、話していてはっとさせられる事も多々ある。
たとえば、ロモスでダイとの武術大会の決勝戦で使った『百裂脚』もその一つだ。ただ、確かに脚技で弾幕を張る様に使用するには良さそうだったけれど、発動中は軸足に隙が出来た。あの試合を見ていた老師からも、「強力だけど、蹴り足の弾幕を突破されて、軸足を狙われると弱いね」と指摘を受けたから、実戦で使うにはまだ改良の余地がありそうだ。
でも、彼から聞いた中で使えそうな技もあった。『キン肉バスター』という技もその一つだ。関節技の一種と思うが、敵の両脚を手で掴み、頭上に逆さに持ち上げたまま飛び上がり、着地と同時にその衝撃で敵に首折り、背骨折り、股裂きのダメージを与える強力な技だった。
ただ、基本的には四肢の存在する人型の敵を想定している技だという事と、人型なら生物の可能性が高いので、それなら閃華裂光拳の方が確実と思われる事から、これも習得の選択肢から除外した。
でも、閃華裂光拳のように命を確実に奪う技じゃないから、いつか落ち着いたら習得してみるのも良いかも。それで、たとえばポップがいつか浮気した時などに、彼に対して使ってみるのも有効かもしれない。ポップも閃華裂光拳を受けるより、首折り、背骨折り、股裂き程度の怪我ですむ方が良いと思うだろう。
うん、色々考えたけれど、やっぱりあの技の習得に挑戦してみよう。カール騎士団正統 初撃『豪破一闘』のその先。闘気とは異なる力を体内で練り上げ、それを具現化させて敵を打ち砕く。母さんからは、父さんが最後に使った技で命の危険と隣り合わせの技だから絶対に使用しないように言われている。当然、どのような技かは教えてもらえず、ただその技の名前だけを教えてくれた。
だけど、豪破一闘を習得した今なら分かる。自然とその先の形が脳裏に思い浮かぶのだ。確かに危険な技だと思う。ポップなどに知られたら、目を剥いて叱られそうだ。自分はいつも無茶ばかりするくせに、周囲の人間に危険が及ぶ事を嫌い、それを回避するためなら、自分の身を危険に晒す事を厭わない彼。
……でもね、ポップ。私だって、好きな人が傷つくのを見るのは嫌なのよ。苦痛を隠して取り繕った笑顔を浮かべているあなたの姿より、いつもの全てを包み込んでくれるような優しい笑顔を浮かべていてくれる方を私は望む。
そのために、この力が必要になる時が来るかもしれない。決して積極的に使おうとは思わない。でも、父さんはアバン先生を魔王の元へたどり着かせるために、使ったと聞いている。父さんが使った技なら、娘の私がそれから目を背ける事は出来ない。だって、私の身体には父ロカの血が流れているんだから……!
そう決意した私の隣に、いつの間にやら昼間見た小猿が再びやってきていた。
「あら? また来たのね。ふふふ、今度はどうしたの? え、それを私にくれるの?」
小猿はまるで、私に「食べて」と言うかのように手の平の上に森で取れたと思われる色とりどりの果実を乗せて、私に差し出した。
小猿はまるで私の言葉を理解したかのように、こくこくと頷く。果物を渡された事と、会話を交わす相手のいないこの場で話し相手ができた事に嬉しくなった私は、「ありがとう。じゃあ、お返しに私からはこれをあげるわね」と、炙っていた『鮭とば』の串を小猿に手渡した。
小猿は、お返しを貰えた事に驚いたのか、少しだけ大きく目を見開いたかと思うとすぐに、その串を口に運び美味しそうに食べ始めた。
「ふふふ。焦ると喉につっかえちゃうわよ。でも、くすくすくす。何だか、そうやっている所を見ていると、あなた、私の知っている誰かさんにちょっと似ているわね」
そう、目を輝かせて『鮭とば』を口に運ぶその小猿は、どこか彼に似ていた。そういう風に考えると、不思議な事にますます似ているように思えてくる。額から頭にかけて生えているムラのある緋色の毛は、まるでそこにバンダナを巻いているかのようだ。愛嬌のあるつぶらな瞳は、私が何よりも好きな彼の深い包容力を感じられる優しい瞳に似ていた。
「……ねえ、いつまでもあなたって言うのも呼びにくいし、君に名前をつけてもいいかしら?」
私からそう尋ねられた小猿は口に『鮭とば』を加えたまま、キョトンとした顔をする。その時には私はもう、口に指をあて、うーんと考えていた。
「うん……決めたわ。ねえ、あなたの名前、ポプラっていうのはどう?」
名前を付けられた事を分かっているのか、分かっていないのか首をただ傾げて私を見つめているその小猿、ポプラを横目に見ながら、私は頂いた果実を一つ手に取って、「これから1週間よろしくね、ポプラ」と笑いかけた。
それからの1週間、私はこの地で修行に明け暮れた。その間、2日目、3日目……と日を重ねる毎に、私の周りには加速度的に猿が増えていった。恐らく皆、森の中では食べた事のない海の魚の味を気に入ったのだろう。ポプラから聞いたのか、猿達は『鮭とば』を果物と交換してくれると考えたらしく、次から次へとまるで私に貢ぐかのように果物を持ってきてくれた。
さすがにそれら全てを頂いていると、以前ポップに仮定された不愉快な体重に達してしまうと考えた私は、3日目から果物の代わりに修行の手伝いをしてくれるように頼んでみた。最初は冗談半分だったが、ポプラが率先して手伝いをしてくれた事もあり、直ぐに皆も要領を得たように手伝い始めてくれた。
そして約束の1週間後の早朝。まだ森の中に満足に日が差さない薄闇の中、私は1週間を過ごした野営場所の後片付けをして森を抜けた。目の前の街道を、パプニカの町まで行商に行く馬車が何台か通っていたので、私はその内の1台と交渉して馬車の荷台に乗せてもらった。
馬車の荷台には、行商のおじさんの娘さんなのか、10歳ほどの女の子がちょこんと座って私を興味深そうに見つめていた。
「こんにちは。少しの間だけど、一緒に乗らせてね。あ、これ、良かったらどうかしら?」
私は、ポプラ達から貰った捥ぎたての新鮮な果物を鞄から取り出す。
「わー、美味しそう! お父さん、とっても美味しそうな果物を貰ったよ! 食べて良い?」
「おー、良かったな、アンナ。ああ、ちゃんとお礼を言ってから頂くんだぞ。お嬢ちゃん、ありがとうよ」
アンナと呼ばれた女の子は、「お姉ちゃん、ありがとう!」と、私が渡した薄黄色をした拳大の果物を胸に大事そうに抱えて輝くような笑みを浮かべた。
「ふふふ、どういたしまして」と、応える私の言葉を待つ時間も惜しむかのように、さっそくアンナは果物の皮を器用に捲り、その白く瑞々しい果肉にかぶりつく。
「美味しい! この果物、とっても美味しいよ、お姉ちゃん!」
「そう、良かったわ。あ、私の名前はマァムって言うのよ。よろしくね。おじさんも良かったら一つどう――」
「――うわ、何だ、あれ!?」
御者台で馬の手綱を握っているアンナのお父さんの背中に私が声をかけるが、その言葉が終わる前に、彼は視線を私が1週間を過ごした森に固定して驚きの声を上げた。
私がその視線を追って森の方を振り返ると、森の端にある木の上に大勢の猿が登ってこちらを見つめている様子が、ちょうど差し込んだ朝日の光でよく見えた。
「わー、すごい……。あんなにたくさんのお猿さんが集まっているの、初めて見た……」
アンナもその様子を見て、感嘆の声を上げる。
もしかして、あの猿達は……。
私も彼らと同じように目を細めてその様子を見ていると、不意にそのうちの1匹がこちらに向かって手を振った。それは、ポプラだった。
ああ、あの子達は戦いに行く私を見送りに来てくれたんだ。そう考えた私は、大声で叫んだ。
「みんな、ありがとう! 絶対に勝ってみせるわね!」
そして私もポプラ達に応えるかのように、大きく手を振って彼らに別れを告げた。
「すごーい。マァムお姉ちゃん、お猿さんとお友達だったのね。あっ、それじゃあ、この果物もあのお猿さんに貰ったの?」
「……え、ええ。まあ、貰ったというか、勝手に持ってきたって言うか……」
眩しいほどキラキラした目で私を見つめるアンナに、私はしどろもどろになりながら返事をする。もう森は背後に小さくなっていて、ポプラ達の姿は見えなくなっていた。私の言葉に、手綱を握っていたアンナの父親が肩越しに背後を振り返る。
「持ってきた! そりゃあすげえな、お嬢ちゃん! まるで猿達のボスみたいじゃねえかっ!」
「ち、違います! ポプラ達は私の修業を手伝ってくれただけで……!」
「手伝う? すごい、マァムお姉ちゃん。お猿さん達にいう事を聞かせられるんだね!」
「だ、だから違うのよ、アンナちゃん! そうじゃなくって……!」
私は2人の誤解を解こうと必死になって訴える。しかし……。
「こいつはパプニカの卸先に良い土産話が出来たぜ!」
「うん! 私も家に帰ったらお母さんに教えてあげなきゃ!」
私がどれだけ否定しても、行商の父娘は私のその言葉を聞こうともしなかった。
「ああ、もう! どうして、こうなるのよ!」
私のそんな諦めに近い叫び声が、のどかなパプニカ郊外の街道に木霊するかのように響き渡っていった。
……マァムは知らない。この出来事と後のポップの不用意な発言がきっかけとなり、今後少なくとも150年の長きに渡って、『霊長類最強の女武闘家マァムは、ホルキア大陸の霊長類を遠吠え一つで呼び寄せる』という逸話がまことしやかに残っていく事を……。