side エルサ
ベンガーナ王国南部のラドルの村にほど近いロックハート砦。南にアルキード王国が存在していた時には、この砦がベンガーナの首都を守る国境の要所という位置づけをされていたが、15年前に同王国が突如として消滅した後は、仮想敵のいない砦と化していた。
しかし、3ヶ月前に突如として始まった魔王軍の侵攻により、この砦はベンガーナの町を守る南の要所として機能する事となる。今、この砦は近隣の村からの避難民も受け入れており、砦の外壁に囲まれた平時は練兵場として使用されている中央の広場には、大小様々なテントが立ち並んでいた。
私は早朝、弟と2人で寝起きしている中庭にある小さなテントを出て、砦の中に入る。砦の中は、私達が立ち入りを許されていない区画も多くあるけれど、中庭に近い場所にある礼拝室は入室を許可されている。
礼拝室に入った私は、まず隅の棚に立てかけられていた箒で軽く部屋の掃除を行う。戦うための砦という性質上、この礼拝室の重要性は兵士の皆さんにとってそれほど高くないのだろう。身を寄せた村の人間はともかく、兵士の方がこの部屋の清掃を行っているのを、私は見た事がなかった。
礼拝室の壁に備え付けられている窓から入る日の光が徐々に強まってくる中、私は黙々と埃の溜まっていそうな隅を中心に清掃を行った。この砦の礼拝室はラドルの村のそれよりもまだ小さいため、全てを掃き清めるのにそれほどの時間は要しなかった。
見苦しくない程度に清め終わった礼拝室の中で、私は正面奥に飾られている十字架の前で膝をつき、祈りを捧げた。それは、この砦に来てから毎朝欠かさず行っている私の習慣だった。
……アバン様、ポップさん。どうかご無事でいてください。
アバン様とポップさんのお噂は、この世界規模の異変が発生する前までは時折耳にしていた。しかし、ある時よりアバン様の名は聞こえなくなり、ポップさんの名は『氷の賢者』の2つ名と共に世界に瞬く間に広まった。
あれほど仲の良かった師弟のうち、師であるアバン様の名が突如消え、直後に弟子であるポップさんの名が世に出始める。その意味が分からないほど、私は世間知らずではないつもりだった。
きっと、アバン様に何かがあったのだろう。アバン様には、私達姉弟は返しきれない恩義がある。あの『嘆きの渓谷』で私は文字通り命を救ってもらったし、弟はアバン様に武技の指導をしてもらっていた。今の私達があるのは、アバン様やポップさんのおかげだ。
私には、アバン様の無事を祈る事しかできない。同時に、ポップさんの無事も祈る。ポップさんが今、世界を席巻している魔王軍に対抗する最前線に立っている事を私は知っている。
ロモス、パプニカ、ベンガーナと立て続けに発生した魔王軍の襲撃に、ポップさんを含む『アバンの使徒』の皆さんが活躍している事は、噂としてこの地まで漏れ聞こえてくる。
その『アバンの使徒』の中でも、ポップさんは『勇者
だけど、……私はその活躍を耳にするたびにポップさんが無理をしているように感じていた。
私は、ポップさん達と共に過ごした2週間余りの生活で、ポップさんの本質を知ったつもりだった。それは、ポップさんは世間で言われているように確かに魔法の才能に溢れた人だけど、……同時に『死』という事に慣れていない人だという事だ。
『死』というのは、この世界ではそれほど珍しいものではない。ちょっとした流行病で人は死ぬし、悪い魔物や猛獣に襲われたりしても死ぬ。あるいは事故や天災でも簡単に死ぬし、最近はあまり聞かないけれど、横暴な貴族の振る舞いで平民が命を落とす事も昔は珍しく無かったと聞く。
実際、私の両親も数年前に突如発生した流行病であっけなく死んでしまった。それは私にだけ降りかかった不幸ではなく、世間一般からして決して珍しいものでは無い。そんな事は世界の何処でも普通に起こりうる事だった。もちろん、悲しいという感情は付随するけれど。
でもポップさんは違う。私の身の上話を聞いた時、ポップさんは話をした私以上に辛そうな表情を顔に浮かべた。その態度は、そういう『死』が身近にあるこの世界に忌避感を抱いているように見えた。私はそれを、まるで『死』が身近にない世界で過ごした人のようだと感じた……。
もちろん、だからと言ってポップさんが死を恐れる臆病な人間という訳では決してない。むしろ逆だ。私を助けるために『嘆きの渓谷』に来てくれた時もそう。伝え聞くポップさんの活躍もそうだ。
だから世間の人は、ポップさんの勇気を惜しみなくたたえる。もちろん私もそれに異論はない。だけど、私はそれはポップさんが無理をして、あるいは普通の人以上に努力した結果だという事を知っている。
以前私は、ポップさんに魔法を教えてもらっていた際、自分の無力さを嘆いて、「ポップさんのように魔法の才能に恵まれて生まれたかった」と馬鹿な事を言ってしまった事がある。あの時、ポップさんは何て返してくれただろう。
何故か私は、その言葉を思い出せなかった。
「おかえり、姉ちゃん。さっき配給があったから、姉ちゃんのも貰ってあるよ」
「ありがとう、ルーン」
私が弟と一緒に寝起きしている二人用のテントに戻ると、ルーンが朝食として配給されたらしいパンを手渡してくれた。
「毎日、毎日、パンばかりじゃあ、飽きちゃうよな。堅いしさ……」
そんな風に愚痴を言う弟に私は注意する。
「駄目よ、ルーン。そんな事を言ったら。食事を頂けるだけ感謝しないと。それに、聞いたでしょう、カルデ村の事」
カルデ村……。そこは、私達の暮らしていたラドルの村と同じぐらいの規模の小さな村で、この砦からそれほど遠くない場所に位置している。カルデ村は、ラドルの村よりこの砦に近いという理由からか、私達の村のように砦に避難をしてはいなかった。
しかし、つい先日物見櫓から、カルデ村の方角から黒い煙が立ち上がるのが確認されたらしい。直ぐに砦の兵士さん達が確認に向かったけれど、それからしばらくして戻ってきたのは、暗い顔をした兵士さん達だけだった。カルデ村の住民は、誰も一緒にはいなかった。
私達もこの砦に避難していなければ、同じ運命を辿っていたのだろうとは容易に想像がついた。
「まあ、それはそうだけどさ。でもさ、大きな声じゃ言えないけれど、姉ちゃんも俺もこの砦の防衛に協力しているじゃないか。もう少し色をつけてくれても良いんじゃないかなって……」
「贅沢を言わないの、ルーン。どれほどこの戦いが続くのか分からないでしょう。できるだけ食料が長持ちするよう節約しないと」
私は、そう言ってルーンを窘める。確かに、私達を含めたラドルの村でアバン様やポップさんに教えを受けた人達は、この砦の防衛に率先して協力している。私達がこの砦に避難してから今日まで、魔王軍の襲撃は大小を合わせると5回ほどあった。いずれも大きな怪我人が出る事なく撃退できたけれど、少しずつ攻撃が激しくなってきていると私は感じていた。
そんな事を考えながら、私はルーンから手渡されたパンを口にする。うーん、でも確かに堅いわね。ラドルの村にいた時はパンは自分で焼いており、余ったパンは隣近所にお裾分けしていた。そのパンに添える手作りのジャムも含めて評判が良かったのは、私の密かな自慢だった。
「あーあ、姉ちゃんの作るフレンチトーストが懐かしいよ」
ルーンのその言葉に私はクスッと笑った。確かに懐かしい。でもあの料理は私が考えた料理じゃなくて、ポップさんと私が試行錯誤して作り出した料理だ。ポップさんは何故かフレンチトーストという名前の料理に必要な材料は知っていた様子だったけれど、それから先の細かな分量や手順などは知らなかったようだ。
だから、「多分これぐらいの分量のはずなんだよな……」とか、「あれ、牛乳を先に浸しておくんだっけ?」などと呟くポップさんと一緒になって美味しいフレンチトーストを作り出したのは、私の大切な思い出だ。ポップさんとのそんな共同作業の結果、ようやく完成したフレンチトーストを一緒に味わったあの味は、今でも忘れていない。
「ふふふ。そうね、私も懐かしいわ。早くまた食べられるようになりたいわね」
私とルーン、そしてアバン様とポップさんと食卓を囲んで食べたあの日の味を思い出し、私はそっと微笑んだ。
「……エルサ嬢、いるかな?」
ちょうど私がパンをもそもそと食べ終わった時、テントの外から私に声がかけられる。この声の主は知っている。「はい、少々お待ちください」と返事し、私はそっと立ち上がりテントの外に出た。そこには、私の予想通りの人物がいた。
「ああ、朝の忙しい時にすまない。大隊長から、昨日届いた糧食の整理を指示されてね。数字に明るいエルサ嬢に手伝って貰えないかと思ったんだが、良いだろうか?」
そう言って明るい笑顔を向けるのは、私達がこの砦にたどり着くのと前後してベンガーナ城から援軍でやって来られた、ジャン・リューガリオンという名の小隊長さんだ。
歳は20歳を少し超えたくらいで、短めに切りそろえられた小麦色の髪が特徴的な立派な体格の男性だ。リックさんがこの方の事を知っていて、ベンガーナ王国の騎士団でも指折りの実力者で、バロリアというベンガーナ出身の有名な剣士とも互角の戦いが出来る人物だと言っていた。
私は、バロリアという剣士の方を知らないけれど、リックさんがそれほど言う強い剣士様がこの砦に来てくれた幸運に感謝した。
「ええ、良いですよ。私でお役に立てるのでしたら、喜んで。どこにいけばよろしいですか?」
「助かるよ、エルサ嬢。それじゃあ、後で砦の地下にある保管庫に来てくれるかい? 衛兵に話は通しておくから」
その言葉に、「分かりました」と返事を返し私は再びテントの中に戻った。お手伝いをするのなら、動きやすいように髪を纏めておいた方がいいだろう。私は、背中まで流していた髪をうなじの上で巻き上げて紐で留める。私がそんな事をしていると、外での会話を聞いていたのか、ルーンが声をかけてきた。
「なあ、姉ちゃん。俺、思うんだけどさ、絶対あのジャンって隊長、姉ちゃんに気があると思うんだよね」
その言葉に驚いた私は、髪を纏めていた手を止めて肩越しに振り返った。
「何を言っているのよ、ルーン。ジャン隊長は、ただ私にお仕事を手伝って欲しいって言いに来ただけよ」
「そうかなー……。数字に明るい人の助けが欲しいなら、商人のヘンケンさんでも良いし、他にも何人かいるじゃないか。姉ちゃんにわざわざ頼る必要は無いと思うんだけど……」
「それは、そうかもしれないけれど、ヘンケンさんもお忙しいでしょう? ジャン隊長も遠慮したのよ、きっと」
実際、ヘンケンさんは忙しい。私達の村を拠点に商いをしている方だけど、独自の仕入れルートがあるようでこの砦の備蓄資材はもちろん、他にも貴重なアイテムを次々と仕入れてきて、兵隊さん達からの信頼が厚い。
「まあ、それもあると思うけど、姉ちゃんに気があるのは間違いないって。あの人、ことある毎に姉ちゃんに会いにやってくるじゃないか」
「いい加減にしなさい、ルーン。ジャン隊長は私以外の方にもお仕事を頼んでいるわよ。それに、ジャン隊長って女性にとっても人気なのよ。私なんて、相手にしないわよ」
そう、ジャン隊長は私達のように村から避難してきた人達、とりわけ女性にとても好かれている。この広場に来てはいつも女性に囲まれていて、先ほども帰り際にジャン隊長を囲むようにたくさんの女性が集まって来て、困り顔で持ち場に戻って行った。
ルーンはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、私が軽く睨むと、わざとらしく肩を竦めてテントを出て行った。ルーンはルーンで、兵士の皆さんの武器の手入れの手伝いをしているから、その仕事に出て行ったのだろう。
その後、私は正午まで砦の地下にある保管庫でジャン隊長と一緒に仕事をした。特に仕事に関係の無い余計な事を話す事もなく、私もジャン隊長も黙々と集まった糧食を種類毎に、鮮度毎に分類していった。その作業は午前中だけで終わらず、お昼ご飯をいただいた後、午後もその作業に取り組んでいた。
だけど、午後の作業を始めて少し経った頃、ジャン隊長が私に声をかけてきた。
「すまない、エルサ嬢。言いたくないなら、無理に答えなくていいんだけど、質問しても構わないかな?」
何を聞かれるのか分からなかったけれど、私は首を傾げた後、頷いた。それを見て、ジャン隊長はほっと安心したように息を吐いた後、言葉を続けた。
「ありがとう。その、エルサ嬢は以前命を助けてもらった男性に、ミサンガを渡したと聞いているけど、本当だろうか?」
「はい、本当です。……それが、何か?」
「いや、一応確認したかったんだ。その、ミサンガの意味はもちろん私も知っているから。それで、そのエルサ嬢はどの程度の想いでそれを彼、えっと、ポップだったよね? 彼に渡したのだろうか?」
「どの程度、ですか……」
私は、ジャン隊長の言葉に困惑する。問いかけの意味は理解できる。ミサンガを渡すというのは、『その糸が切れるまでに私を迎えに来てほしい』という意味が通説だけど、高価な指輪の交換や直接言葉を交わしたわけではないから、どこまでその行為に重きを置いているかは、当事者同士で決まってしまう部分がある。
では、私はどこまでそれに重きを置いているのか、という事になるけれど、本音を言うと私も自分でよく分かっていない。
もともとあのミサンガは、この世界にどこか忌避感を抱いているように感じたポップさんに、帰る場所がある事を知ってもらいたくて渡した物だった。だから、もし今のポップさんに他に帰る場所が出来ているのなら、私の所には戻ってこなくても構わない。
……ズキッ。
そう考えた時、私の胸を目に見えない刃に薄く切られたような痛みが走った。
「……エルサ嬢? どうかしたかい?」
いけない、ジャン隊長が不思議な表情で私を伺う。私からの答えが無かった事をどう解釈したのか、遠慮がちに言葉を続ける。
「その、君がミサンガにかけた想いがどれほどか分からないけれど、正直に言うよ。私は、エルサ嬢、いや、エルサ。この戦いが終わったら、私は君を妻に迎えたいと思っている」
その言葉に私は驚いた。今まで何人かから遠回しに声をかけられた事はあったけれど、これほど堂々と求愛の言葉を投げかけられたのは初めてだった。
「あ、あの……、私はご覧の通り平民の村娘です。ジャン隊長のお言葉は大変嬉しいのですが、とても将来を嘱望されているジャン隊長にふさわしい女ではありません」
「いや、君が平民だろうが何だろうが、私はそんな事は気にしない。君と出会ってからいくらも時は経っていないけれど、君の事はよく知っているつもりだ。人が嫌がる仕事に率先して取り組む所、配給を受け取りに行けない弱った人のために尽くす所、襲い来る魔物を相手に一歩もひるまない所など、しっかりと見させてもらったつもりだ。そのどれもを、私は好ましく思っていた」
ジャン隊長は、私の目を見つめてそう言ってくれた。そのように言っていただける事は、とても光栄に思う。でも、どうしてだろう……。何故か私の心は……。
「ありがとうございます、ジャン隊長。私などにそのように言っていただける事、とても嬉しく思います。でも、――」
「いや、エルサ。返事はもう少し考えてからにしてくれないかな。今返事をされると断られそうだ」
そう言って、私の言葉を遮る形でジャン隊長は苦笑いを浮かべた。
「一応伝えておくよ。もしエルサが私の妻になってくれるのなら、もちろん君の弟のルーン君も我がリューガリオン家の一員として迎えさせてもらう。そして必要な教育を施し、いずれはふさわしい家格の家との婚姻ができるよう取り計らう事を約束する」
私は、僅かに首を傾げた。弟を迎え入れてくれるのはありがたい話だ。だけど、ルーンは自分の結婚相手は自分で選ぶ事を望みそうだ。
「あの、ジャン隊長。弟は、――」
「隊長、ここにおられましたか。大隊長が至急相談したい事があるとの事です」
突然、保管庫の扉が開いて若い兵隊さんが顔を出してそう言った。ジャン隊長は、その兵隊さんに「分かった」と答えた後、私を振り返った。
「それじゃあ、今日の作業はここまでにしよう。エルサ。返事はまた今度聞かせて欲しい」
私の言葉を最後まで聞く事なく、ジャン隊長は保管室から出て行った。ほぅ、と小さくため息をついた私はジャン隊長に続いて保管庫を出て、広場に戻っていった。
「おっ、エルサ。ちょうど良いところに。ちょっと話があるんだ。寄っていってくれないか?」
私が広場に立ち並ぶテントの間を縫うように歩いていると、1つのテントの前でラドルの村の村長であるリックさんが声をかけてきた。村長であるリックさんのテントは、来客者と打ち合わせなどが出来るように大きめのテントになっている。テントの真ん中には長い支柱が立っていて、上から見たら八角形に見える仕様だ。
私がリックさんにお返事を返し、その大きなテントの天幕をめくって中に入ると、既に先客としてラドルの村の御用商人であるヘンケンさんもいた。
「ヘンケンさん、まだ砦にいらしたんですね。買い付けのために、また砦の外へ出て行かれたのかとばかり思っていました」
「いや、いや。買い付けで外に出るのは昨日までだよ。これ以上は無理だ。命あっての物種だからね」
日に焼けた赤い顔で汗を拭いながら座っているヘンケンさんの隣に、私は腰を下ろした。そっと氷結魔法を唱えて手の平サイズの氷の塊を作った私は、それをハンカチに包んでヘンケンさんに手渡す。それなりに魔力を注いで作ったから、すぐには溶けないはずだ。ヘンケンさんは破顔して受け取り、すぐにそれを赤らんだ額に押し当てる。
「いやー、ありがたい。生き返ったよ、エルサ。しかし、ロックハート砦のアイドル、エルサ嬢お手製の氷を頂いては、嫉妬の余り城の兵士達から背中を刺されそうだよ。はっはっは」
ふふふ。またそんな冗談ばかり言って。ロックハート砦でアイドルと言える女性は、私の友人で回復魔法の使えるタバサとリッカの2人だ。2人ともとても綺麗な女性で、彼女達と触れあえる事を期待して訓練などで怪我をした兵士さん達が頻繁に広場にやってきている。反対に私は、悪魔神官キラーなんて名前で兵士さん達からも恐れられているくらいだから、思わずため息をつきたくなる。
「エルサ。あまりこいつを甘やかすなよ。こいつは、脂肪で厚着をしているから汗をかいているだけなんだからな」
ヘンケンさんにそう軽口を叩きながら、リックさんもどさっと私の斜め前に腰を下ろした。
2人の「失礼な!」、「事実だろう?」といったラドルの村でもよく見られたやりとりを聞いて、私は思わず口を押さえてクスクスと笑みをこぼした。それを見てリックさんが「おっ。ようやくいつもの顔に戻ったな」と、私を見て口を開いた。
「……私、いつもの顔をしていませんでしたか?」
「していなかったな。……何かあったのか? ラドルの村の住民の悩みは、村長である俺が何でも聞くぜ?」
そう笑顔を向けるリックさんに私は先ほどジャン隊長に求愛された事を相談してよいものか悩んだ。そっと、リックさんの顔を伺い、次いでヘンケンさんの顔を見る。2人は、両親が流行病で亡くなってからというもの、困った事があったらいつも私達姉弟の相談に乗ってくれていた。この2人なら大丈夫だろうと思った私は、先ほどの件を相談する事にした。
「……なるほどな。ジャンからね」
「私は、あのお若い隊長さんの事をあまり存じませんが、リックさんは知っているのですか?」
ジャン隊長の事を余り存じ上げない様子のヘンケンさんが、リックさんにそう問いかける。
「俺もそれほどは知らないさ。前にエルサに話した程度だ。後付け加えるとするなら、リューガリオン家ってのはベンガーナ王国でも有数の名家で、ジャンはその跡継ぎだって事だ」
名家という事は貴族、それも高位の貴族という事だ。首都の貴族の事なんてさっぱり分からない私は、リックさんが言う事の意味が分からず、ピンとこない。私がよく分かっていない事に気がついたのだろう。リックさんは再び私にかみ砕くように説明してくれた。
「つまり、エルサがジャンと結婚すればエルサも貴族の一人になるって事だ。ただの貴族じゃねえぞ。この砦みたいな広さの屋敷がお前の物になって、大勢の召使いがお前に
「でも私は、ご存じの通りただの平民ですよ? そんな事あるわけが……」
「いや、そうとも限らねえぞ。平時なら、確かにエルサの言うとおりあり得ない話だ。だが、今はこの通り未曾有の出来事の真っ最中だ。強い者の発言は通りやすいし、ジャンの腕は確かだ。加えてエルサも十分な実力を有しているから、リューガリオン家が強い血筋を望むなら、エルサが受け入れられる下地は十分にあると言える」
「そう……なんですね。あの、大勢の召使いが私に
その私の問いかけに、リックさんは呆れたような顔をする。
「あのなー、さっきも言ったようにリューガリオン家は名家だ。その家の奥方が前線に出る訳がないだろう? せいぜい怪我して帰ってきたジャンの手当をするくらいだろうさ。それに料理だって、専属の料理人がいるだろうから出番はないさ」
そうなのか……。料理ができないのも残念だけど、それ以上に私は戦いに出る事ができないと言われた事にショックを受けていた。私は、1年前に氷結魔法を教えてくれたポップさんに心から感謝している。ポップさんは、自分の運命を自分で切り開く事ができる力を与えてくれた……。回復魔法の使えない私は、戦う事でしかお役に立てないのに……。
私が心の奥底で不満に感じているのを察したらしいリックさんが、言葉を続けた。
「おいおい、何を不満に感じているのか知らんが、リューガリオン家の一員になれるのは、とんでもない幸運だぞ。それに、ジャン自身もここ数日の言動を見ている限り、文句をつけられねえくらいの一角の人物だ。……ミサンガのやり取りには、別に実効的な制約は無いんだ。そんな抽象的なものより、直接の求愛の言葉の方を優先するべきだろう。よく考えたらどうだ?」
……とんでもない幸運。それはそうかもしれない。ルーンにとっても、そうだろうか。私がジャン隊長と結婚すれば、ルーンも貴族の一員になる。でも、あの子は多分それを……。
「ふふふ。リックさんがどう言っても、答えを決めるのはエルサですよ。リックさんも、高位の貴族につてができるなんて似合わない皮算用を弾くのをやめてはどうですか?」
高位の貴族につてができる? ああ、私がリューガリオン家の次期当主の妻になったら、ラドルの村としては高位の貴族と繋がりが出来ていい話になるという事だろうか。
「馬鹿野郎! 俺は別にそんな事は考えてねえよ。ただ、一般的な価値観で言ったら、この話は受けた方がエルサにも、ルーンにも絶対に良い話だって言ってんだよ。俺はこいつらの両親に、こいつらの将来を頼まれているんだからよ……」
両親が、亡くなる前にリックさんに私達姉弟の事を託したのは知っている。もうずいぶん前になるのに、その事を忘れずに覚えてくれているリックさんに私は感謝した。
「ふふふ。ありがとうございます、リックさん。世間一般的な価値観がどういうものかと言う事を私に伝えて、いえ、思い出させてくれようとしたんですよね? もしかすると、1年前のあの時魔物に攫われていなかったら、私はその一般的な価値観を今でも持っていたかもしれません。でも……」
リックさんは、私の言葉など半ば分かっていたように、苦笑いをしながら言った。
「分かっているよ。あの一件からお前は変わった。自分の人生は自分で切り開くんだという、ただ綺麗なだけの外見に似つかわしくない強い意思をしっかりと持つようになった」
「ありがとうございます。でも、ジャン隊長が尊敬に値するお方だという事は私も理解しています。リックさんの言う一般的な価値観はいったん置いておいて、私なりにもう少し考えてみます」
ニコッと笑みを浮かべた私に、リックさんはお手上げだという風に手を上げた。ヘンケンさんはそんな私達を見て、ニコニコと笑顔を浮かべていた。
「さて、エルサの相談事が終わったなら、こっちの話をしていいか?」
「はい、すいません、リックさん、ヘンケンさん。お時間を取らせてしまいました」
「いやいや、構わないよ。時に不条理に思える選択ができるのも、若さというものさ。私も、久しぶりに心が若返ったような気分だ」
そんなヘンケンさんの言葉に、「けっ、気のせいだよ!」とリックさんが茶々を入れるけれど、余計な事を言えばまた本題からずれると思った私は、苦笑しながら沈黙していた。
「……これを見てもらえるかい?」
そう言ってヘンケンさんが鞄の中から取りだしたのは、2つの『キメラの翼』だった。『キメラの翼』とは、
「『キメラの翼』……。よくこんな貴重な品を2つも……」
私は思わず感嘆の言葉を漏らす。何故なら、『キメラの翼』は元々ほとんど市場に出回らない貴重な品で、昨今ではその傾向に特に拍車がかかっているためだった。
「もともと私は、この砦の大隊長からの依頼を受けて『キメラの翼』の買い付けに外に出ていたのですよ。そして、ようやく手に入れて昨日戻ってきたわけです」
「――! それでは、この『キメラの翼』は大隊長様に渡すべき物ではないですか!」
ヘンケンさんの言葉に驚いて私が目をむくと、そのヘンケンさんは何ほどもないという素振りでひらひらと手を振る。
「もちろん、戻ってきて直ぐに渡していますよ。1個だけね。もともと、大隊長からは『キメラの翼』を1つと注文を受けていたのですから、その注文はちゃんと達成しています。その買い付けの過程で、更に2つの『キメラの翼』を手に入れたものですから、そちらは私がこうして保有しているという訳です。ああ、当然この2つの『キメラの翼』を買うために使ったお金は、砦から預かったお金ではありませんよ。リックさんから渡されていたラドルの村のお金から購入してます」
私が驚いてリックさんに目を向けると、そのリックさんはニヤッと笑みを浮かべた。
「こいつが『キメラの翼』の買い付けに行くって聞いたからな。余裕があれば、村のために追加で買い付けてきてくれって頼んでたんだよ。まあ、道中の路銀や袖の下なんかは砦から預かった金を使ってもらったがな」
私は驚いて声も出なかった。大隊長が『キメラの翼』を1つと言ったのは、それ以上手に入れられるとは思ってもいなかったためだろう。ヘンケンさんが更に2つの『キメラの翼』を手に入れたと知ったら、奪うとはいかなくても、強制的に買い上げるくらいの事はするはずだ。
商人らしい、人の顔の裏を読むのが得意なヘンケンさんが、私が考えている事を推察しニコッと笑みを浮かべる。
「注文にはきちんと対応しているよ。追加で2つ手に入れたなんて事を、わざわざ伝える必要があるかい? 私は、嘘はついていないよ。ただ、聞かれなかったから言っていないだけさ」
その答えに、私はただ苦笑いを浮かべる。熟練の商人として海千山千のヘンケンさんに、私なんかが何を言っても無駄だ。それより問題は、この2つの『キメラの翼』をどうするつもりなのか、だ。
「この2つは、村の金で購入した。だから使い道は、ラドルの村の村長である俺が決める。おそらく大隊長が購入した『キメラの翼』は、この砦が持たなくなった時の最後の脱出手段あるいは連絡手段として使用するためだろう」
リックさんのその言葉に、私は静かに頷く。それはそうだろう。この期に及んで、『キメラの翼』の使い道なんてそれぐらいしか思い当たらない。私が静かに頷いたのを見て、さらにリックさんは言葉を続けた。
「しかし、『キメラの翼』1つで運べる人間はせいぜい10人程度だ。この砦にいる兵士全員を運ぶ事なんて出来ないし、ましてや、俺達避難民までお鉢が回るはずもない。つまり、最後の時、俺達は置き去りになるという事だ」
その言葉に、私もヘンケンさんも押し黙る。
「そこで、この2つの『キメラの翼』だ。こいつは、ヘンケンの見立てでは大隊長に渡したやつより良質らしいから、1つでだいたい20人は転移させられる。2つ合わせて40人だな。転移する際の肝は重量だから、子供を含むなら50人ぐらいまではいけると思っている」
私は、リックさんの話の向かう先がおおよそ読めて、思わず唇を震わせた。その私の反応を知ってか知らずか、更にリックさんは続ける。
「ラドルの村で30歳以下の住人は48人だ。爺さん、婆さんばかりの村だと思っていたが、まさかそれに感謝する日が来るとはな」
そう言って、リックさんはニヤッと笑う。でも、私は笑うどころではなかった。顔が蒼白になった事を自覚しながら、私は震える口を開いた。
「そ、そんな……。それでは、30歳を超える方達は見殺しですか。そんな事、とても……」
「……エルサ。村を存続させるためです。未来のある若い者ほど生かさなければならない。私やリックさんは、30歳を超えていますので残ります」
ヘンケンさんの言葉に、私は目をむいた。そうだ、リックさんもヘンケンさんも30歳はゆうに超えている。でも、リックさんは村長で、ヘンケンさんは『キメラの翼』を手に入れてきた功労者なのに……。
「そんな顔をするな、エルサ。俺は30を超えていなくても残るつもりだったよ。船と一緒さ。村長は沈みゆく船に最後まで残らないとな。まあ、ヘンケンの奴は厳密にはラドルの村の住人じゃないし、これを購入してもらった恩義もあるから、エルサ達と一緒に行っても良いんだけどな」
「……やめておきましょう。私は脂肪が服を着て歩いているようなものですから、いざという時に皆が転移できなくなるかもしれません。かつてベンガーナの百貨店にあるエレベーターで重量超過のブザーを鳴らした悪夢は、もうこりごりですよ」
悲壮感を感じさせない声色で肩をすくめながら語るヘンケンさんを見て、私は目に涙を浮かべた。
「ああ、ああ、エルサ。そんな顔をしては綺麗な顔が台無しだよ。さあ、泣き止んで」
そう言ってヘンケンさんは、先ほど私が渡した氷を包んでいたハンカチを取り出し、私の目にそれを押し当てる。その様子を見ながら、リックさんは硬い表情を崩してフッと笑みをこぼした。
「……エルサ。今からそんな顔をするな。最後の時にいきなりこんな話を聞いて混乱しないように、事前に伝えているだけだ。魔物の襲撃を撃退し続けられたら、これは無用の長物になる。その時は、俺は無用の長物を購入した無能の村長という事になるだろう。返品はきかないんだろう、ヘンケン?」
「ききませんよ、リックさん。その時は、諦めて無能扱いされて下さいね。……そういう事です、エルサ。かっこつけた事を言いましたが、私はまだ諦めていませんよ。それこそ、エルサの未来の旦那様になるかもしれない彼が魔王軍の親玉をやっつけてくれる事を、私は200%信じていますからね。そう、あの時と同じように、ね」
そうだ、まだ諦める必要はない。ポップさんも、勇気を振り絞って戦っているんだ。そして、私にも戦う力はあるんだ。絶対に絶望しない。これは使わせない。私は目の前に並べられた2つの『キメラの翼』を睨んだ。
「……はい! ヘンケンさん、リックさんを絶対に無能の村長にしましょう! 私、頑張ります!」
「その意気ですよ、エルサ。『無能のリックを作り隊』の結成ですね」
「おい、それはどういう意味だッ!」と喚くリックさんをよそに、私はヘンケンさんとガッシリと手を握り合った。
長くなりすぎたので前後編に分けています。後編は明日投稿予定です。