~~~~カール北西の森 最後の砦内 小部屋~~~~
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、メルル。ほら、マァムもソワソワしてないで、いい加減座りなさい。お茶が入ったわよ」
中庭を挟んだ向かいの部屋の窓から僅かに漏れる灯りを心配そうに見つめるメルルと、先ほどから席にも着かずにテーブルの周りをウロウロしているマァムに、レオナが呆れた顔をしながら言葉を投げかける。
そこは、砦内にいくつかある会議室のうちの一つだった。小さな丸い机とその周囲に椅子がいくつか置いてあるだけの簡素な部屋に、彼女達がいた。
「ほら、飲みなさい。落ち着くわよ」と、先ほどエイミが運んできたお茶をレオナが勧める。それに口をつけたメルルとマァムが、ようやくほうっと息をつく様子を見て、レオナが口を開いた。
「……でも、びっくりしたわ。あのポップ君があれほど取り乱すなんて。『俺がアバン先生を殺しました』……か。一体、どういう意味で言った言葉かしら?」
レオナの知っているポップという成年は、女心に壊滅的に疎いという点を除けば、表面上はいつも飄々として取り繕うのが上手く、その安定した人格と包容力で年齢以上の落ち着きを感じさせる成年だったから、先ほどの突然の取り乱しようは彼女にとって少々意外だった。
「レオナ姫! それは違うんです……!」
レオナの言葉を、身を乗り出すようにしてメルルが否定する。その様子に、レオナはハーと深いため息をつく。
「そんな事は分かっているわよ、メルル。いくら何でも、私もポップ君の言葉を額面通りに受けとったりはしないわ。でも、ポップ君にああまで言わせるって事は、彼にあれほどの罪悪感を抱かせる何かがあったって事でしょう? 私はそれが気になるんだけど、今のメルルの様子だと何か知っていそうね?」
ジィッとレオナに見つめられたメルルは、顎を引いてぐっと押し黙る。
「メルル、何か知っているの? 私は、以前ダイから、アバン先生はポップ達を守るために
「その話は私も聞いた事があるわ。でも、それだけじゃあ、ポップ君のあの様子は説明できないわね」
マァムとレオナの2人に視線を向けられたメルルは、足元に視線を落とした後、その後意を決したように顔を上げ、周囲を気にするそぶりをした。
「大丈夫よ、メルル。扉の向こうにはエイミに立ってもらっているから、誰も入っては来ないわ」
最初からそのつもりでエイミに扉の外で見張りをお願いしておいたレオナがそう言った事で、メルルは「分かりました……。お話しします」と、かつてベンガーナの町でポップ本人から聞かされた内容を2人に語った。
「そんな……。それじゃあポップは、アバン先生がフローラ様から頂いた魔道具を自分の命を助けるために使ったから、アバン先生が
「……なるほど、ね。それでポップ君のあの態度に得心がいったわ。だから彼は、フローラ様に詫びたいのね。勇者アバンの命を助けるために使われるはずだった魔道具を、自分の命を助けるために使わせてしまった事を……」
「でも、レオナ! それはポップのせいじゃないわ! それを望んだのはアバン先生本人なのよ!」
マァムの悲壮な言葉に、レオナは「分かっているわよ。……でもね」と続ける。
「ポップ君だって、それは頭では分かっているわよ。でも、彼がそれで自分のせいじゃないって、開き直れる人間だと思う? あれほど周囲の人間が傷つく事を
そのレオナの言葉に、マァムは悔しげに顔を伏せた。それは、マァムもレオナの言う通りだと思っていたからだった。
そして、メルルがそんな2人に顔を向け、更に口を開いた。
「……はい、レオナ姫のおっしゃるとおりだと思います。それに、それだけじゃないんです。ポップさんは恐れていたんです……」
「「恐れていた?」」
メルルの言葉に、マァムとレオナは同じ疑問の視線をメルルに向ける。メルルは微かに頷き、伏し目がちに言葉を続けた。
「ポップさんは恐れていました。誰もが、自分ではなくアバン先生が生きている方を望むだろうって。そう言うだろうって。だからポップさんは、自分がアバン様の代わりをしなければと必死で……」
そのメルルの言葉にマァムが目を何度か瞬いた後、深く深く嘆息した。
「……もう、本当にポップったら、馬鹿ね……。本当に……馬鹿」
「ええ、優しくて……とても弱い人……ですよね」
マァムとメルルは、それぞれの口から発せられた言葉は違っても想いは同じ感情を抱き、思わず顔を見合わせた。そしてレオナは、もっと直接的に憤慨していた。
「あと、無自覚もね! まったく、無自覚もここまで来ると呆れを通り越して、怒りが沸いてくるわよ。いったい、どこの誰が彼が生きている事を批難するっていうのよ。今、私達がこうして魔王軍との最後の決戦に挑めるのは、彼がこれまでに行った行動の結果じゃない! それを、彼自身がどうして分かってないのよ、まったく……!」
「それが分からないから、ポップなのよね。ねえ、メルル」
「ええ……。そうですね、マァムさん」
ポップの、周囲の人間が傷つく事を
でも……、とメルルは再びポップのいるであろう部屋の灯りに目を向けた。マァムもその視線に釣られ同じように目を向ける。マァムもメルルの懸念は理解していた。先ほどレオナは、『どこの誰が彼が生きている事を批難するっていうのよ』と憤った。
それはその通りだとマァムも思っていた。あれほどアバン先生の代わりを果たそうと身を切るような努力をしているポップに対して、『お前でなくアバンが生きていた方が良かった』などと言う輩がいたら、マァムは自分を自制できる自信が無かった。
だけど、この世にたった一人だけポップに対してその言葉を吐ける人間がいる。それがフローラ女王だった。だからポップは、彼女に許しを請いたいとずっと考えていたのだ。フローラ女王がアバン先生の事を愛していたであろう事は、これまでの話で察しはつく。
あの優しげだった女王がポップに対して酷い言葉を投げかけるとは思いたくないけれど、これもやはり理屈ではなく感情の問題だ。彼女が思い余ってそんな言葉を吐かないとは誰も保障できないだろう、とマァムは考えていた。
しかし、2人がそんな心配をしている事を察知していたレオナが2人を「大丈夫よ」と励ます。2人が視線を戻したのを見て、レオナは彼女達を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫って言ったのよ。フローラ様はそんな浅薄な女性じゃないわ。なんと言ったって、私が心から敬愛する大人の女性なんだから。それって言い換えれば、私が大人になったような女性だと思ってもらっても良いわ。どう? 安心したでしょう?」
そう言って、ドンと胸を拳で叩き、その胸を張るレオナ。部屋の中に何とも言えない空気が流れた。
「レオナが大人になった……」
「レオナ姫のような女性……」
レオナの言葉に逆に不安を抱いた2人がお互いに見つめ合う。2人は、視線で明らかに(大丈夫なのかしら)と訴えていた。
その様子を見てレオナが眉間に皺を寄せ、ぷるぷると拳を震わせた。
「あ、あなた達ねー、私を一体なんだと思っているのよーー!!」
2人に対して癇癪を爆発させながら、レオナも窓からポップのいる部屋の灯りを見つめた。この時彼女は、2人とはまた違った心配をしていた。
うーん、ポップ君、美人に弱いし、多分彼って年上属性が強いわよね。フローラ様超美人だし、ポップ君がのぼせ上ったらどうしようかしら……?
(……こんな事、この2人には言えないわね)と、レオナは未だ心配そうな2人を見つめながら、そっと溜息をついた。
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「はい、あーん。ほら、早く口を開けなさい?」
「え? あ、あーん? うぶっ。……ご、ごくっ。え、ちょっ、何を……」
フローラ様に促されるまま口を開けたら、唐突にフォークに刺した一口サイズのロウの実を口に突っ込まれた。それをどうにか咀嚼して飲み込んだ俺は、状況が理解できず目を丸くする。
俺は、さっきまで寝ていたベッドの背もたれに背中を預けた状態で横になっていた。ベッド脇の簡素な椅子にはフローラ様が腰をかけている。隣のベッドにいたマァムやメルル、レオナ姫達は皆部屋から出ていて、今この部屋の中には俺とフローラ様の2人しかいなかった。
「美味しい?」と、フローラ様に尋ねられた俺がこくこくと頷くと、フローラ様はニコッと花が咲くように笑った。
「それなら良かったわ。アバンから君がロウの実が好物だって聞いていたから、ちょうどお見舞いに持ってきていたのよ。待っててね、もう一個剥いちゃうから」
そう言ってフローラ様は、意外にと言ったら失礼だが、慣れた手つきで果物ナイフを使って新しくロウの実の皮を剥く。甘い果実の匂いが強まるのを感じながら俺がまじまじとその手元を見つめていると、それに気づいたフローラ様が目を細めて俺をねめつけた。
「――むっ。失礼ね、ポップ。あなた、私をこれくらいの事もできない女と思っているんでしょう?」
言い当てられた事に驚いた俺は右手を、じゃなかった左手をあげてパタパタと顔の前で振った。
「うぇっ!? ち、違いますよ! そんな事思ってなんかって、……あれ? フローラ様、俺の事を知っているんですか? どうして……?」
「ふふふ。それは知っているわよ。あなたの事は、アバンからの書簡によく書かれていたもの」
あ、ああ、……そうか。確かにアバン先生との旅の間、時折先生はフローラ様と手紙のやり取りをしていた。その手紙に俺の事が書かれていても不思議じゃないか。
「そう……だったんですね。――!? うぶっ! ちょっ、急に口に突っ込むのやめてくれませんか!?」
「えいッ」と、歳にそぐわない仕草で(しかしこれが実にかわいらしい……)再び唐突に俺の口にロウの実の刺さったフォークを突っ込むフローラ様。なんか、イメージしていた女王像と違うんだけどな。もしかして、これが素の姿なんだろうか?
「あら、せっかく剥いたんですもの。嫌だと言っても食べてもらうわよ。……それに、どうかしら? 甘い物を食べて少しは落ちついた?」
あ、確かに。さっきまで見境なく泣きじゃくっていたというのに、なぜか今は落ち着いている。……ていうか、いい歳してギャン泣きしたなんて、ちょっと恥ずかしくてフローラ様もだけど皆に顔を合わせられないな。うわ、俺の黒歴史に新たな1ページが……。ああ、穴があったら入りたいとはこの事だ。
そんな俺をどこか遠くを見る目で見つめていたフローラ様に気づき、俺はあらためてフローラ様と目を合わせた。
「……聞いていただけますか? どうしてアバン先生が亡くなって、俺が生き残ったのかを。俺はずっと、フローラ様にお会いして謝罪したかったんです」
「……嬉しいわ。アバンが最も信頼した愛弟子から、彼の最後の様子を聞けるなんて。是非聞かせてちょうだい、ポップ」
フローラ様に真剣な眼差しを向けられた俺は頷きを返し、静かにあの日デルムリン島で起こった事についてフローラ様に語り始めた。
「……そう。『カールの守り』にそんな効果があったのね。それで、アバンは知ってか知らずかそれをあなたの首にかけて
「はい……。『身代わりの石』の魔道具でもあったそのペンダントは、
そう言って下を向く俺。しかし、すぐに長くしなやかな指が俺の顎に添えられ、俺は顔を上げさせられた。俺の顔のすぐ先には、フローラ様の顔が。そのフローラ様の瞳の中では、怒りのような色彩と悲しみのような色彩が、まるで火花を散らす様に瞬いていた。
「それは違うわ、ポップ。アバンがあなたにそのペンダントを預けたのは、アバンの意思よ。あなたじゃないわ」
フローラ様の瞳に引き込まれるように呆然としていた俺は、ハッとして言葉を返す。
「で、でも、俺がへまをしなかったら、アバン先生はそんな行動をとる必要がなかったんです。フローラ様が託したペンダントで命を救われるのは、アバン先生のはずだったんです……。お願いです……。どうか、怒って下さい。どうか、俺を許さないでください。フローラ様に俺は――」
フローラ様は俺の口に手をそっとあて、それ以上の俺の懇願を許さなかった。そして静かに首を振って、俺に労わるような目を向けた。
「ポップ、あなた呪縛に囚われているわね」
「呪縛……? そんな事は……」
「いえ、囚われているわ。それは、『アバンの呪縛』よ」
――!? アバン、の呪縛……?
「ど、どういう意味ですか? アバン先生の呪縛だなんて。アバン先生は、呪縛なんてかけたりは……」
呪縛なんてアバン先生に最も似つかわしくない言葉だ。俺はフローラ様の言葉に完全に困惑していた。
「そうね、あなたの言う通り、アバンは呪縛をかけたりなんかしないわ。かけているのは、ポップ。あなたよ。あなたがアバンの行為を呪いにしているのよ」
「俺がアバン先生の行為を呪いに……」
「そう、あなたが今そうして苦しんでいる事がその証拠よ。ポップ、アバンは呪縛なんて物から最も縁遠い人よ。アバンの行為を『呪い』にしないで。アバンが、あなたがそんな風に苦しむ事を望んでいると思う?」
「……の、望んではいないと思います。で、でも、フローラ様は? フローラ様は俺にお怒りじゃないんですか?」
「私……? ふふふ。ポップ、あなた、私がアバンを好きだったという事を知らないのかしら?」
「そ、それはもちろん知っていますよ。だからこそフローラ様は俺に怒りを――」
「ねえ、ポップ。あなた、女性から鈍感だとか、鈍いとか言われた事はない?」
フローラ様からの突っ込みに俺はウッと詰まってしまった。言われた事がないどころか、ほとんど毎日言われているようなものだ。
俺のその様子を見て、フローラ様は呆れたように笑った。
「くすくすくす。そんな所まで師匠に似なくても良かったのにね。あのね、ポップ。異性を愛すると言う事は、その異性の行動を愛すると言う事よ?」
「異性を愛すると言う事は、その異性の行動を愛すると言う事……」
「……そうよ。アバンはね、あなたと同じ歳だった頃から無茶ばかりする人だったわ。だから私は、そんな彼にハラハラして、いつも小言ばかり言っていたわ。だけどね、それでも私は彼のする事がたまらなく好きだった。他人から見たら馬鹿にしか思えない行為も、私はそれをとても愛おしいものと感じていたのよ」
フローラ様は、俺の目をひたと見つめて言葉を続けた。
「だから、自分の命を捨ててまであなたを助けたアバンの行為も、私はとても愛おしいと思っているわ。そんな彼の行為を、他ならないあなたが呪縛と捉えないで欲しいの」
呪縛……。俺がアバン先生の行為を呪縛にしている……のか?
「じゃ、じゃあ、俺はどうしたらいいんですか? どうしたら俺はアバン先生に報いる事が出来るんですか?」
俺のその問いにフローラ様はほうっと息を吐いて、「好きにしたらいいのよ」と軽く口にした。
「す、好きにって、そんな無責任な……」
「無責任なんかじゃないわ。そういう風にアバンのために何をしたらいいだろうって考えている時点で、アバンの呪縛に囚われているのよ。良い、ポップ? アバンのためにと言う考えをまず改めなさい。アバンはあなたの命をただ救っただけ。そこに打算は無いの。ううん、あるとしたらそれは、『あなたはあなたの人生を生きるように』、というメッセージだけよ」
「あなたは、あなたの人生を生きるように……」
「そうよ。もういい加減、アバンの行為に呪縛をかけるのをやめなさい、ポップ。アバンは、あなたがこの世界をあなたの思うままに生きる事を望んでいるはずよ。アバンの事を一番分かっている私が保障するわ」
そう言ってフローラ様は身を乗り出し、その両の腕で俺の頭を優しく包み込んだ。先ほど、手ずからロウの実を剥いてくれていたからだろうか。俺の鼻腔を、甘くてほんの少し酸味の感じられる香りがくすぐった。さらさらとした絹糸のような金髪に埋もれた俺の耳に、フローラ様は吐息を感じる程にその唇を近づけて囁いた。
「あなたはアバンでは無いわ。そしてアバンもまた、あなたでは無い。だからアバンと同じ事をしようと考えては駄目。あなたはあなたらしく、この世界を自由に歩んでいけば良いの。……良いわね?」
……ああ、そうか。アバン先生は俺に自由に生きる事を望んでいるのか。俺は別にアバン先生の代わりをする事を求められている訳じゃないんだ。
フローラ様の言葉に、ずっと喉に引っかかっていた棘が取り除かれたような気が俺はしていた。
「落ち着いたかしら、ポップ?」
フローラ様が俺からそっと身体を離し、穏やかなほほ笑みをその顔に浮かべて俺を見つめる。不意に我に返った俺は、恥ずかしさから左手で頬を伝った涙の跡を拭う。な、なんてこった。さっきに続いてまた泣いてしまうなんて。俺はいったい何歳なんだよ。情けない。
「あ、ありがとうございました、フローラ様。お忙しいでしょうに、こんな……俺に付き合ってくれて。何てお詫びしたらいいか……」
「くすくすくす。良いのよ。アバンの残した弟子なら、私にとっては子供のようなものよ。なんだったら、もっと甘えてくれてもいいのよ、ポップ? また、あーんってしてあげましょうか?」
「い、いや、もう勘弁してください。ちょっと羞恥心で死んでしまいそうです」
「ふふふ。そうね、私もメルル達に恨まれるのは遠慮したいわ。それじゃあ、お大事にね。決して無理はしない事。分かったわね?」
フローラ様は俺の額を軽く指でつつきながら、そう屈託なく笑った。その雰囲気に釣られてか、俺はかねてから考えていた事を口にする。
「……はい、分かりました。あ、あの、フローラ様。この戦いに勝って俺が生きていたら、俺をカール王国で雇ってくれませんか? あ、片腕ですし、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、精いっぱい――」
フローラ様は、不意に俺の口に自身の人差し指を押し付け、俺の口を閉ざした。
「……こーら、ポップ。あなた、またアバンのための生き方をしようとしているわよ。もう、私が嫉妬しちゃうくらいアバンが大好きなんだから。ふふふ、困ったものね」
フローラ様は、そういたずらっぽく笑った。
「……そ、そうなんでしょうか?」
……そうかもしれない。アバン先生が生きていたらきっと戦後はカールの復興に従事するだろうと考えたのが、俺がカールへの仕官を考えた発端だったし。
「ええ。よく考えてみなさい。この戦いが終わってそれがあなた自身のやりたい事だと思うのなら、私は心から歓迎するわ。頑張りましょうね、アバンの愛弟子ポップ」
「はい……!」
俺の言葉にフローラ様は今度こそ満足したように頷き、部屋を出て行った。
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side フローラ
刻は少しさかのぼる。
私は執務室で、片手に持ったサンドイッチを頬ばりながら、遠方より届いた書簡に目を通していた。こんな所作を城で行っていたら、すぐに『やれ行儀が悪い』だの『やれ栄養が偏る』などの諌言を側近から頂いただろうから、うるさ方のいない砦で助かった。
それに、行儀が悪い事は否定しないけれど、栄養は偏っていないはずだ。今私が口にしているサンドイッチは、レタスにハム、それにゆで卵を細かく刻んだ物が柔らかなパンの間に挟まれていて、とても栄養バランスが良い。もちろん味も申し分ない。これは、先日カールの王城で出会ったメルルという少女が、執務中でも食事ができるようにと特別に用意してくれたものだった。
彼女はパプニカから従軍している少女で、レオナ姫が懇意にしていた。占いや予言に長けた少女と聞いているが、それに加えてとても働き者で気が利くかわいらしい娘で、私は彼女の事がすぐに好きになった。いつかカールに戻る時が来たら一緒に来てくれないかしら?
「フローラ様、ローランド大臣はなんと?」
書簡を私に届けた側近のレオンが心配そうな表情で私に問いかける。彼の心配は分かる。レオンの家族は、王都を他の民と共に離脱し、今はカール西部のリーブラという町に身を寄せている。そして、ローランドはそのリーブラの町で避難民の生活を一手に引き受けている責任者だ。
「くすっ。心配いらないわよ、レオン。現地でドリファンが避難民の生活の立て直しの協力を申し出てくれたらしくて、手厚い支援が行き届き始めたと書かれているわ」
「えっ!? ドリファンとは、ジニュアール家で長く家宰を務められていたあのドリファンですか?」
「ええ、そうよ」と私が頷くと、レオンもほっと安堵の息をついた。
「なるほど、あの方が協力してくれるのなら安心できますね」
ドリファンに対する信頼に私も思わず顔をほころばせた。もちろん私もドリファンの事はよく知っている。アバンに会うために彼の邸宅をお忍びで訪問した際に、いつも顔を会わせていた間柄だ。彼はとても気の利く家宰で、側近が私を追ってアバンの邸宅までやってきた際には、知らぬ存ぜぬの対応を取ってくれたものだし、時には邸宅の裏口からこっそりと逃がしてくれた事をまるで昨日のように私は覚えていた。
彼は15年前の魔王軍との戦いの際にも王家に協力を申し出てくれ、後方支援においてその辣腕ぶりを発揮していたので、彼を知っている者は軍務の中に少なくない。
事実、レオンだけでなく同じ執務室で執務をしている者からも安堵の声が漏れ聞こえたが、ある一言が私の胸に重くのしかかった。
「ドリファン殿には、このまま王家に仕えてもらいたいですね。もうジニュアール家も無くなってしまった事ですし――」
「――おい、馬鹿!」
「――! も、申し訳ありませんでした、フローラ様!」
椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった側近の1人が、私に深く頭を下げた。その様子を見て、私はふぅっと息を吐き、うかつな言葉を発した側近に言葉をかける。
「良いのよ。でも、ジニュアール家の名は我が国だけでなく、世界各国で特別な重きを置かれている名よ。安易な発言をすべきではないわね。それだけは気をつけて」
「はっ、失礼しました!」と大きな声を発して、その側近は再び仕事に取りかかる。その様子を視界の端に捉えながら、私に気遣うような視線を向けるレオンに言葉を投げかける。
「レオン、明日の早朝にはリーブラの町を出立した騎士団がここにたどり着くわ。遠距離の移動になるから、道中で負傷を負った者もいるかもしれません。受け入れ準備はできているかしら?」
「はっ。薬草、毒消し草などは一定量を確保しております。それと、広域回復魔法が唱えられる『氷の賢者』殿の協力も打診したのですが、それはレオナ姫から彼自身の体力、魔力の回復を優先させたいとの事で断られました。代わりに、パプニカの魔法兵団の協力をお約束していただいております」
「そう、ありがとう。レオナ姫には私からも後でお礼を言っておくわ」
私は、レオナ姫の『氷の賢者』の体力及び魔力の回復を優先させたいという判断に全面的に賛同していた。まだ私は彼に会っていないが、彼を含む『アバンの使徒』の回復は、他の何よりも優先させるべき事項だ。先ほどお会いしたオーザム王国のライオネル王からも、勇者がまだ眠りから目覚めていない上に、他のメンバーも皆体調はまだ万全でないので決して無理はさせないで欲しいと釘を刺されている。
そんな事を考えていると、執務室の扉が開きそのレオナ姫がひょっこりと顔を出した。
「フローラ様、もし執務が一段落ついているようでしたら、一緒にポップ君達アバンの使徒の休んでいる部屋に行きませんか?」
彼らがこの砦に到着した際多忙で迎えに行けず、今もって彼らと面会できていなかった私は、この誘いに一も二もなく飛びついた。
年甲斐もなく、私は胸が高鳴るのを止められなかった。しかしそれは、英雄としてもてはやされている勇者
それはただ、やっとアバンの残した子供達に会える、という感情からくる胸の高鳴りだった。
「
「はい、さっきも病室を覗いたんですが、寝言と寝返りを取り始めていて、今日明日にも目が覚めそうな様子でした」
私はレオナ姫と並んでアバンの使徒達の休んでいる部屋に向かいながら、彼女との会話を楽しんでいた。勇者がもうすぐ目覚めそうだと聞き、「そう、それなら良かったわね」と微笑みかけるが、彼女はなぜか憮然とした表情で口をとがらせた。
「全然よくないですよ、フローラ様! ダイ君ったら、寝言でポップ君の名前をずっと呼んでいるんですよ? 私の名前を一度も呼ばずに! ――ちょっと許せませんよね!?」
そのレオナ姫の14歳という年齢相応の可愛らしい憤りに、私は思わず「ぷっ」と吹き出してしまった。くすくすくす。まるで私の若い頃を見ているようだわ。私も当時、親友であるロカの事ばかり口にするアバンに、同じような憤りを覚えた事が少なからずあった。
「あぁっ!? フローラ様までひどいですよ! でも本当に、ダイ君はいつもポップ君が一番でずるいんですよ。いくら最初からずっと一緒に冒険しているって言っても、ダイ君と出会ったのは私が先なのに……」
「くすくすくす。ごめんなさい、レオナ姫。あなたの様子を見ていると、私とアバンの関係を思い出すようでつい、ね」
ペロッと舌を出して謝罪する私の言葉に、アバンの訃報の事を思い出したのか、レオナ姫は途端に気遣わしげな表情をその顔に浮かべた。
「すいません、フローラ様。私ったら無神経に……」
「良いのよ、そんな事。むしろとっても楽しいわ。よかったら他にも聞かせて? あなたとダイのなれそめとか……」
「な、なれそめって言うほどじゃないんですが……」と、途端に顔を赤らめて俯くレオナ姫がとても愛らしかった。
狭い砦内だ。レオナ姫とそんな会話をしながら歩いていると、すぐに彼らの休んでいる部屋の前まで私達はたどり着いた。
「フ……、フローラ様。すいません……、すいません……。俺がアバン先生を殺しました。俺が未熟だったから、アバン先生は死んだんです」
私は今、私の足下で両膝をついてまるで罪人のように頭を垂れて泣き叫ぶ少年を、呆然と見つめていた。
この子が、巷で『氷の賢者』とも『勇者
今私の眼前で肩を震わせ小さく縮こまるこの少年は、そういった異名とはほど遠い、ただの心に傷を負った一人の男の子だった。
(ポップの事を頼みますね、フローラ様)
不意に私は、既にこの世の何処にもいない誰かにそう耳元で囁かれたように感じ、キョロキョロと周囲を見回した。もちろん、その誰かは何処にもいなかった。
誰にも分からないほど小さく嘆息する。メルルが彼に歩み寄ろうとするのをそっと手で制した私は、彼の側に膝をつき、(大丈夫、全て私に任せなさい、アバン)と心の中で呟きながら、彼の肩を抱きしめる。
ピクッと肩を震わせて頭を上げた彼の顔には、深い悔恨の念が刻み込まれていた。
ああ、私はもしかすると、この子の心の闇を取り払うためだけに、あの日落城するカールの城を脱したのかもしれないわね……。
何故か私は、そんな風に思わずにはいられなかった。
「美味しい?」と私が聞くと、彼はあっけに取られたのか、ただこくこくと頷きを返した。だいぶ落ち着きを取り戻したみたいだけど、もう少しといった所かしら?
『人間、甘いものを食べると気持ちが落ち着くものです』
この言葉をあの人が言ったのは、いつどのタイミングだったかしら? 少し考えて私は思い出した。そうだ、あれは確かアバンにお見合いの話が来ていると人づてに聞いた私が、取る物も取り敢えず彼の邸宅に乗り込んだ日だった。私の気持ちを知ってか知らずか、あっけらかんと「相手が承知するはずありませんから」とのたまう彼にイライラしていた私の口に、彼は甘いお菓子を唐突に放り込んだ。
その時の事を思い出し、私は半ば八つ当たりのつもりで、ポップの口に剥いたばかりのロウの実を放り込む。ふふふ、あの時の私と同じように泡を食ったような顔をしているわ。アバンの弟子であるこの子にやり返した事で、ずいぶんと溜飲が下がった気がするわね。
私は、だいぶ落ち着きを取り戻した様子のポップをあらためて見つめた。そう……、この子がアバンの言っていた子なのね。この1年ほど何度かやりとりをしたアバンとの書簡に、この子の事が書かれていなかった事はなかった。だから私は、不思議とこの子とは初対面の気がしなかった。
初めてこの子を弟子にしたと書き記されていた時の書簡では、アバンはこの子をあの大魔道士マトリフにも匹敵する才能の持ち主と評していた。そして同時に、その才ある少年をどのように育てればよいか苦悩する言葉も記されていた。特にアバンは最初の弟子をあのような形で失った事にずっと苦悩していたから、なおさらだった。
最後に彼から貰った書簡の中でも、ポップの事は触れられていた。そこには、何かの予感が働いたわけでは無いだろうが、自分に何かがあったらポップの事をよろしく頼みますね、と記されていた。
ポップは静かにアバンの最後を語ってくれた。そう、『カールの守り』にそんな効果が……。あのペンダントはカール王家に古来より伝わる宝飾具で、15年前に最後の決戦に赴くアバンに手渡したものだからよく覚えている。逆三角形をした金色のペンダント。その装飾の中央部には緑色の宝石が埋め込まれていたが、おそらくその宝石の内部に魔結晶が巧妙に隠されて封入されていたのだろう。
そんな事、渡した私はもちろん知らなかったし、母上や父上も知らなかったはずだ。ずいぶん前のどこかの段階で、おそらく王家の中で知識の伝承が途絶えたのだろう。魔道具を小さな宝飾具に加工するという発想と技術自体が、既に失われて久しいのだから。
アバンはその事に気がついていたのだろうか? ……気がついていたのだろう。だからこそ、
そんな事を考えていると、目の前のポップが私の前で肩を震わせている事に気がついた。私から『アバンを返して』と罵声を浴びる事を覚悟して。
その姿を目にして、これは私の、いえ、私にしかできない役割だと理解した。何故なら、この世界に私以上にアバンを愛する者はいないのだから。
……だけど、許すのではない。この子は、何も恥じる事はしていない。アバンの意図を、私の口から正しくこの子に伝えてあげるだけ。アバンは決してあなたに呪縛をかけたわけではない、と。それで伝わるはず。
……だってこの子は、アバンが最も信頼を寄せた愛弟子なのだから。
「い、いや、もう勘弁してください。ちょっと羞恥心で死んでしまいそうです」
私の軽口にそう恥ずかしげに顔を背けるポップを見て、私はもう少しで吹き出すところだった。
くすくすくす。何て可愛らしい子なのかしら。この子が魔王軍にとって勇者と並ぶ、いえ、ある意味勇者以上に脅威と認知されている『氷の賢者』だなんて、いったい誰が信じるだろうか。今私の前で顔を真っ赤にしているこの子を見ていると、私はそんな風に思わざるをえなかった。
駄目ね。年若いとは言え成人した彼を、この子だなんて言ってはいけないのだけど、どうしても初対面の時の印象から脱却できないわ。ふふふ。子供を持つ母親の気持ちってこういうものなのかしら? そんな気持ちを持つ事は、とうに諦めていたはずなのにね……。
……これでいいのよね、アバン? 私は部屋の窓から見える月を見上げて、そう心の中で呟いていた。そして私は月を見上げたまま、アバンに語りかける。
ねえ、アバン、1つだけ聞かせてくれない?
……あなたは、私が渡した『カールの守り』にそんな効果が付与されている事に、いったいいつ気付いたの?
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「……思い出したくもないだろう事を聞いてしまってすまなかった、ポップ殿」
「いえ、とんでもないです。明日からよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。お休み」
そう俺に声をかけて階下に続く階段を下りていく男を、俺は片手を上げて見送った。その足音が完全に聞こえなくなったところで、俺は視線を砦に囲まれた眼下の広場に移す。
俺が今いる場所は、砦の屋上だった。胸のポケットから懐中時計を取り出すと、時刻は午後11時を指していた。もうすぐ日が変わろうという時刻だと言うのに、砦の周囲は煌々と篝火が焚かれていて、眼下に見える広場でもせわしなく多くの人間が行きかっていた。
聞いた話では、明日新たにカール騎士団の残存兵力が合流する予定らしく、その受け入れ準備で大忙しらしい。
ふと喉の渇きを覚えた俺は、その場に座り込みポットに入っている珈琲をカップに注いだ。そして背後の壁に背中を預け、香り豊かな湯気を発しているカップをそっと口に運ぶ。
……温かい。もう8の月の終わりが近いここカール北西部は、ロモスやパプニカより北方に位置するためか、この時刻になるとどこか肌寒く、それゆえに温かな珈琲が胃に心地よかった。
しかし、チウも存外面倒見がいいよな。色々恥ずかしい思いをしたためか、なかなか寝付けなかった俺は、何か飲み物を貰おうと厨房に足を運んだ。
すると、ちょうどそこに現れたチウが「何か欲しいものがあるのか?」っていうから、怒鳴りつけられるのを覚悟の上で「屋上で珈琲が飲みたい」と言ったら、すんなりと屋上まで珈琲を持ってきてくれた。こんな時刻に不要不急の嗜好品をお願いしたと言うのに文句一つ言わないなんて、明日は雨が降るんじゃなかろうか。
もう一口珈琲を口に含み、広場に目をやった。砦内部だけでは皆が寝起きするスペースが足りないからだろう。広場には無数のテントが立ち並んでいる。
大勢の兵士や冒険者が焚き火を囲んでいて、時折笑い声が聞こえる。ひと際喧しいのは、でろりん達だ。でろりんがまどろみの剣を高く掲げて、嘘か真か『オリハルコンも一刀両断したぜっ!』と、くだを巻いていた。何故かまぞっほがパプニカの僧侶を捕まえて、『
そんな広場の様子を見つめていると、ふと違和感を覚えたが、すぐにその正体に気がついた。兵士と冒険者の距離が近くなっているのだ。サババの町では兵士は兵士、冒険者は冒険者で煮炊きする区画が自然と分かれていたようだが、今目の前では兵士と冒険者の区分けが判別しづらい程一緒くたになっていた。
もしかすると共に『死の大地』で死線を潜った事で、兵士と冒険者間の垣根が薄れたんだろうか。それなら良い事だけどな。
(そうだ、この事も書き残しておこう)と思い、俺はドラゴンローブの内ポケットから手帳を取り出した。この手帳はロモスからパプニカに向かう直前に購入した手帳の3冊目になる。今日の出来事を綴ったページを開き、続きを書き込もうとする。しかし、俺はそのページを見て思わずため息をついた。
それは、まだ左手で書く事に慣れていないため、まるでミミズがのたくったような筆跡になってしまっていたからだった。両利きのつもりだったけど、さすがにこれはひどい……。
左手での筆記も練習しなきゃな、と苦笑交じりにペンの先で頭を掻いていると、軽いパタパタと言う足音を俺の耳朶が拾った。その足音の主は徐々に屋上に続く階段に近づいているようだった。
あー、まいったな。これ、絶対に叱られる案件だ。既にその足音の主に予想がついていた俺は、
俺が視線を階段に向けるのと、予想した彼女が現れるのはほとんど同時だった。そして彼女は俺と視線を合わせたと思うと、これも予想した通りむむっと眉間に皺を寄せて俺を叱ってくる。
「もう、ポップさん、こんな所で何をしているんですか? まだ安静にしていないといけないじゃないですか!」
座ったままの体勢で、俺は俺を見下ろすメルルをなだめるように苦笑を返した。
「あー、ちょっと眠れなくて……。ここ見晴らしが良いから、珈琲を一杯飲んでから寝ようって思ってさ。メルルはこんな時間にどうしたんだい?」
俺が左手でポンポンと隣の石畳を叩くと、メルルはほんの少し逡巡した後、そこにそっと腰を下ろした。
「私はさっきお仕事が終わったので、ポップさんの様子を伺いに行ったんです。そうしたら、ベッドが空だったからびっくりして……」
「こんな時間まで働いていたの? ちょっと姫さん、メルルをこき使い過ぎじゃない? 明日、姫さんに文句を言ってやろうかな……」
「いえ、そんな事はありません。それに、レオナ姫は今もお仕事をされていますし、私はこれくらいしかお手伝いできる事がありませんから……。だからむしろ、仕事がある方が嬉しいんです。……そんな事より」
メルルが不意に額に眉を寄せて、ジトッとした目を俺に向けた。
「……ポップさん、フローラ様とのお話で何かありました?」
ドキッと俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「な、何かって……何?」
俺は何でもない様子を装って、飲みかけの珈琲を口に含んだ。
「ポップさんから、フローラ様の匂いがします」
「ブフゥッ! グッ、ゴ、ゴホッ! ちょっ、待っ、き、気管に……入った……!」
突然の発言に激しく咳き込む俺。そんな俺の様子を、メルルはやっぱり、と言いたげな表情で見つめていた。
「……ああ、びっくりした。いきなり何を言い出すのさ、メルル。フローラ様は大人の女性だよ。何もあるわけないだろう?」
ようやく息を整えた俺は、くんくんと自分の寝間着の匂いを嗅いだ。匂いなんてもう残ってないよな……?
俺がメルルに視線を戻すと、彼女は眼下の広場を見つめていた。そしてそのまま、ぼそっと呟く。
「いいんです、それは。別に怒っている訳じゃないんです。私は、あの日ポップさんの悩みを聞いていながら、その悩みを取り除いてあげられませんでした。フローラ様にはできた事なのに……。それが悔しいんです……」
メルル……。今にも泣きそうな顔でそんな言葉を口にするメルルを見て、俺は自分でも驚くほど大胆な行動に出ていた。無言で自由な左手をメルルの肩に回した俺は、メルルの身体を抱き寄せた。
「――! ポ、ポップさん!?」
突然の行動に、メルルが驚きの声を上げるが、俺はメルルの肩に回した手に力を込めてその動きを抑える。最初こそメルルから抵抗する力を感じたが、それは一瞬だった。メルルは動きを止め、そっと俺の左肩にその頭を預けてくれた。
俺の左肩から伝わるメルルの体温が、俺の心の奥底に重しの様に居座っている不安という名の強張った氷塊を溶かしていってくれるように感じた。ああ、隣にいてくれるというのは、それだけで力になるな。そう感じた俺は、それを言葉にしてメルルに伝える。
「そんな事を言わないでくれ、メルル。俺はあの時メルルの言葉に確かに救われたんだ。他の誰が否定しても、私だけは否定しないっていうあの言葉に俺は確かに救われたんだ。これは俺の本心だ。フローラ様との件は、俺の……そう、けじめのようなものだよ」
メルルは、俺のその言葉に俺を上目遣いで見つめた。
「はい……。ポップさんがそう言ってくれて嬉しいです……。私、マァムさんみたいにポップさんの隣でポップさんを直接守って戦えないから、心だけは守らせてほしい、ってずっと思っていて。……その役目もフローラ様に取られたように思えて、不安だったんです」
「……嬉しいよ。俺、自分が弱い事を知っているから、メルルがそこを守ってくれると思うと、本当に嬉しい。……だけど、本音を言えば、俺は男だから弱いところは隠しておきたい……かな」
「ふふふ。駄目ですよ。ポップさんの弱い所が私のいる場所ですから。隠したら……駄目です。……あの、ポップさん」
「ん……? 何だい、メルル? ――! 何で……泣いているの、メルル?」
俺はメルルの問いかけに視線を投げて驚いた。
一筋の涙がメルルの頬を伝っていた。
「……私、本当はもう……ポップさんに戦って貰いたくありません。あの大きな鳥のようなお城が空に浮かんだ時……、ポップさんの大切にしていた指輪が敵の手にあるのを見た時……、私はポップさんがもうこの世界のどこにもいないんだと思い、絶望しました……。だから今日、ポップさんの姿を見て私は、言葉に言い表せないくらい嬉しかったんです」
「うん……」
「ポップさん達が戻ってきたのを知って、この砦に集まった皆さんがもう一度戦う意思を強く持ち始めました。昨日までと砦の雰囲気が全く違うんです。今あそこで笑顔を見せているでろりんさんも、昨日まではただ無言でお酒を煽っていたんですよ」
そうなのか……。でろりんとは見舞いに来てくれた時に一度顔を合わせていた。危険な役割をお願いしておきながら、肝心の俺達が役割を果たせなかった事を罵倒されるかと身構えていたが、あいつは俺の右腕を一瞥した後ただ一言、「……まだやる気なのか?」と尋ねて来た。
その問いかけに俺が「……もちろん。やられたら、やり返すのが俺の流儀なんで」と応えると、あいつは「くくっ。奇遇だな。俺もだよ」の言葉だけを残して部屋を出ていった。
直後、「ポップ君、片手じゃ不便でしょうからお姉さんが――」、「どうぞお気になさらず。ポップさんのお世話は私一人で間に合っていますから」という、ずるぼんとメルルによる冷戦が至近で展開されて記憶が薄れていたが、あいつも何か思う所があったのだろうか。
昼間のでろりんとのやり取りを俺が思い返していると、俺に身体を預けたままのメルルが「……でも」と言葉を続けた。
「……でも、私は、本当はそれが嫌で……嫌でたまりません。こ、こんな身体になってもまだポップさんが戦わないといけないなんて、戦う事を期待されているなんて……。う、うう……。ごめんなさい、私、駄目ですね」
メルルはもう両手を俺の身体に回して抱きつくようにして俺の胸に顔を埋めている。嗚咽しているのだろう。その肩が震えている。
俺は胸の中で震えるメルルのその肩を抱いてやりたいと思ったが、片腕しかない今の俺ではメルルの震える肩を十分に暖めてやる事が出来ない事に気づく。その事に自己嫌悪に陥った俺は、それでもメルルに言葉を投げかけた。
「メルル、見てごらん」
俺の言葉に、メルルが顔を上げる。俺は視線で、メルルに眼下の広場を見るように促す。そこでは、兵士や冒険者達が焚き火を囲んでおしゃべりをしたり、薬草の調合をしたり、武器の手入れをしたりと、めいめいがそれぞれの時間を過ごしていた。
「皆、俺達に戦ってもらおうと思っているんじゃないんだよ。皆はただ、俺達と
「……一緒に……」
「そう。今ここにいる皆は、守りたい物があって、譲れない物があって、そのためなら自らが血を流す事を厭わない覚悟をした人達だ。集まっているのはただ、一人一人の力が小さい事を自覚しているからだよ。小さな力でも、結集すると大きな力になり、強大な魔王軍に対抗できる事を知っているから……。
この砦に集っている人達は皆そうだ。もちろん俺も、誰かの背に隠れるためにこの地に来たわけじゃない。俺にだって守りたい物がある。譲れない物がある。最初から、俺が戦う理由にアバン先生は関係なかったんだ。メルルもそうだよね? 5年前に俺と出会った時から、メルルも戦っていたよね?」
あの時のメルルは、ナバラさんの持病の薬の原材料を採取するために危険な森に足を踏み入れた。それは命の危険を伴う行為ではあったけれど、10歳のメルルにとって守りたい物があったから行った戦いだった。
「ポップさん……」
「俺はもう、誰かの代わりにという理由では戦わない。そんな理由じゃあ、もう一度あのバーンの前には立てない。俺が戦うのは、俺自身のためだ。俺は、俺が好きな人達が笑って生きていられる世界が好きだ。その世界を作るために俺は戦う。誰かの代わりに戦うんじゃない。誰かに代わって戦ってもらうわけでもない。皆と一緒に戦うために俺はここに来たんだ……!」
「はい……、私もポップさんと一緒に戦いたいです……!」
もうメルルの頬に涙は伝っていなかった。
「一緒に戦おう、メルル。隣にいなくても、メルルが戦ってくれているなら、俺はいつだってメルルを感じられる」
俺の言葉にこくりと頷くメルル。
濃密な夜気が揺蕩う中、側で灯されていた松明に照らされ伸びた俺とメルルの影の端が、束の間重なった。
長くなりすぎましたが、個人的に大事なエピソードなのでしっかり書かせてもらいました。