転生大賢者の冒険   作:怪盗218

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206話 閑話⑦ 氷の大賢者の足跡を追って その4 疑念

「行ってらっしゃい、カナタ君。忘れ物は無い? 照明呪文(レミーラ)の呪文はちゃんと覚えた? 旅をするにはあの呪文は必須よ?」

 

「覚えたから大丈夫だよ、ミラ姉。荷物も、もともとそんなに俺は持ってないし……」

 

そう応えながら、俺は肩に背負ったリュックを軽くミラ姉に見せながら笑みを浮かべる。ここはデルフィン島にある唯一の桟橋の上だった。3か月前と同様に俺をカールの町まで送ってくれる事になっているサンディの姿はもう船上にあるが、別れの挨拶を交わす俺達の邪魔をしてはいけないと考えているのか、急かす事もなくただ静かに沖の方に目をやっていた。

 

「カナタ……。ベンガーナ医療大学は誰もが入学できる場所ではありません。その機会を与えてくれた女王陛下の期待を裏切らないよう、頑張ってくるのですよ」

 

孤児院で最も俺の面倒を見てくれていたフランという名の女性が、俺にそう言葉を投げかけてくれる。同時に、同じ孤児院で過ごした俺より年少の子供達が俺の周囲に群がってくる。

 

「カナタァ。げんきでね。だいがく、ってところが終わったらかえってくるんだよね?」

 

「馬鹿だなぁ。カナタはこの島の人なんだから、戻ってくるに決まっているだろう。……そうだよね、カナタ?」

 

次々にそう俺に声をかけてくる10年以上を共に過ごした同じ施設の孤児達。そんな彼らに俺は「もちろんだよ」と心にもない言葉で返事をしていく。

 

……ごめんな、皆。俺は大学を卒業したらここに持ってくるどころか、大学に入学する前にこの世界から去る事を決めているんだ。ごめん、本当にごめん。

 

旅の間に食べて欲しいと、島の皆から手渡された乾燥させたドムを薄くスライスしたおやつを内ポケットに入れて、俺はようやく船に乗った。船の隅に荷物を固定していると、桟橋の上からミラ姉が俺を見下ろして声を張り上げた。その瞳は、どうしてだか潤んでいるように見えた。

 

「カナタ君! 君はまだ何者にもなっていないのよ! 全部の事から逃げる前に、自分が何者になりたいのかを、よく考えてみて!」

 

ミラ姉……。もしかして、ミラ姉は俺がしようとしている事に気づいているのだろうか? そんな素振りを取った覚えはないのに……。

 

「……うん、分かった。ミラ姉も変な置物ばかり集める癖は控えるようにした方がいいよ。そんなんだから、美人なのに嫁の貰い手がいないんだよ」

 

俺は心の奥底を見抜かれまいと、意識して軽口を叩く。ミラ姉は俺のその軽口にあえて乗る事にしたのか、腰に手を当てて俺のその言葉に憤慨したような返事を返す。

 

「ちょっ!? 大きなお世話よ! 今度カナタ君が帰ってきたら、びっくりするような物を見せてあげるんだから! だから戻ってくるのよ、カナタ君! 分かった!?」

 

船が桟橋から離岸し、そう怒鳴るミラ姉の姿がどんどん小さくなる。俺は戻ってくるのよ、というミラ姉に直接に言葉を返さず、ただ手を振る事で応えた。施設で共に育った皆も、「頑張ってねぇー」という声と共に大きく手を振ってくれている。そんな彼ら彼女達に、俺は詫びるように最後まで手を振り続けた。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

side ミランシャ

 

 

「カナタ君……」

 

カナタの姿が波の狭間に飲み込まれて見えなくなった。上げていた手をそろそろと降ろした私は、どうしてだかもう、彼のあの笑顔を見る事はないのだろう、と感じていた。

 

カナタ・グラングリード。グラングリード地区にあるグラングリード孤児院で育った子供達のうち、姓名の分からない子供は皆等しくグラングリードという姓を与えられる。

 

デルフィン島は、かつて死の大地だった海域を探索する事によって一獲千金を得ようとする者が多く集まる島である。戦役時の貴重な遺品は深い海底に沈んでおり、その探索は長期間に及ぶのが常だった。

だから時々、長い滞在期間中に望まぬ妊娠をする事になった女性がこの島のどこかしこに赤子を捨てる、というのはさほど珍しい話では無い。そういう意味では、孤児院の玄関に捨てられていたというカナタはまだ母親から生きる事を望まれた赤子と言えた。自らの手で育てる事は望まれていなくとも……。

 

彼が初めてデルフィン島で唯一の診療所に顔を出したのは、私がベンガーナ医療大学を卒業し、この島で正式に治癒士として働き始めた16の歳。つまり彼はその時11の歳だった事になる。4年間……か。

 

孤児院の他の子供達と一緒にふらっと診療所に顔を出した彼。私は彼に対して、最初は医療魔法が珍しいのかなと、思うぐらいの印象しか抱いていなかった。

強いて言えば、黒髪に黒い瞳のその容姿は、この島、というよりカール王国では珍しく、もしかすると彼の両親のどちらかは、かつて存在したテランの国の民の血を引くのかと思った程度だった。だが、彼が他の子供達と異なっていたのはその容姿だけでは無いという事は、ほどなくして分かった。

 

デルフィン島のように教会の存在しない診療所では、病人だけでなく怪我人も多く集まってくる。そこには当然、出血はつきものである。多くの子供達が血に怯えて蜘蛛の子を散らすように診療所を去っていくのに対して、彼は一心不乱に私の診療を見つめていた。

 

それを見て私は、先任のベテラン治癒士に許可を得た上で、彼に診療所を手伝わないか、と誘っていた。

 

彼は私のその言葉に控えめに了承の返事をしてくれ、それ以来孤児院での役割が無い日は診療所に手伝いに来てくれるようになった。もちろんその対価として、決して多いわけでは無いが金銭を渡したし、何より彼にいくつかの魔法を教えた。

 

彼は呑み込みがよく、すぐに回復呪文(ホイミ)を習得し、次いで真空呪文(バギ)も覚えた。ほんのひと月ほど前には、大学入学前に駄目もとで挑戦してみたら、と誘った回復呪文(ベホイミ)を一度で習得すらしてみせた。

 

彼は医療大学を卒業する事で、きっと優れた治療師になるはずだ。それは、彼とこの診療所で過ごした4年間で私が一番よく分かっている。

 

でも、それもこれも全て彼が卒業できればの話だ。

 

私は、彼がこの世界に忌避感を抱いている事に気づいている。そしてその忌避感から彼がこの世界から去ろうとしている事にも。だって、彼は今まで私に成人後の見通しを語った事が一度もないから。何度か彼に水を向けた事があるが、彼はそれに対して陰のある笑みをそっと浮かべるだけだった。

 

「行きましたね……」

 

背後から駆けられた言葉に、私は振り返る。そこには、15年前にカナタを保護した孤児院の職員 フランがいた。

 

「はい……」

 

「大丈夫よ、ミランシャさん。あの子はきっと大学を卒業して立派に独り立ちできるわ」

 

「そう……ですね」

 

フランさんは分からない。私が、彼が大学を卒業できるかどうかを不安に思っている訳では無いと言う事に。

 

カナタ、この世界はあなたが思っているほど悪くないはずよ。デルフィン島に戻って来て欲しいなんて望まないわ。女王陛下から直接入学を勧められる程才能豊かな君なら、きっとベンガーナ医療大学を卒業しても、こんな離島に戻ってくると言う選択は取らないだろう。他にいくらでも条件の良い就職先があるのだから。

 

でも、それでも良いの。この島に戻ってこなくても、君が君らしくこの世界を謳歌していけたなら。

 

私は、もうその姿が見えなくなったカナタ君の乗った船が向かった先を見つめて、ただそれだけを願っていた。

 

 

 

~~~~カール王城 謁見の間~~~~

 

 

「3カ月ぶりですね、カナタ。健勝でしたか?」

 

「はい、女王陛下もお変わりないようで安心しました」

 

前回同様、玉座に腰を掛けたフレデリカ女王の前で俺は片膝をつきながら、そう挨拶をする。

 

「大学の入学までちょうど後1カ月という事になりましたね。この後の予定は使者から聞いていますか?」

 

「はい。明日の午前にこの町からベンガーナ医療大学行きの定期便が出る予定だと。乗車券もこのとおり届いています。ただ、ここから大学までは陸路で1週間もあれば十分ですが、大学についた後、入学まで私は何をしていれば良いのでしょうか?」

 

カールの町からベンガーナ医療大学まで、というより、途中にあるベンガーナの町を経由し東の端に位置するリンガイアの町までの間は、今より150年前にリンガイアの顧問だったポップ・マーカストンが提案したルートで街道が整備されている。時間にして昔なら2週間以上かかった距離だが、魔獣が開いたと伝わるトンネルを抜ける事で、今では一週間程度まで短縮されている。

 

ベンガーナ医療大学は、ベンガーナの町から更に東に進んだ後街道を北に逸れる必要があるが、それでもかかる日数は一週間程度とさほど変わりは無い。

 

「ああ、それは伝わっていなかったようですね。数十年ほど前よりカール王国からベンガーナ医療大学に入学する生徒は、入学の数週間前には寮に入り、入学式までの間大学の授業を予習する風習になっているのです。バウスンに引っかかる事無く少しでも優秀な成績で大学を卒業していただき、成績優秀者にしか与えられない3級治癒士の資格を習得して欲しいと考えての事です」

 

……そう言えば、ミラ姉も入学前に大学の寮でカールの生徒だけを集めた詰め込み教育があったと言っていたな。なるほど、大学に入学するのに絶対に必要なわけではなく、カール王国独自の教育方針って事か。ま、良く知らないが、カール以外の各国もそれぞれ独自の取り組みを行っているのかもしれない。

 

「承知しました。では、できる限り優れた成績で卒業できるよう、勉学に励ませていただきます」

 

俺の言葉にフレデリカ女王は満足そうに頷いた後、何でもない事のように付け加えた。

 

「ところでカナタ。先日あなたが会ったアイザックですが、何やらあなたに見せたいものがあるそうです。おそらく前回あなたが調べたがっていた大魔王戦役時代に関する事だと思います。時間があるようなら大学に行く前に足を運んでみてはどうでしょうか?」

 

見せたいもの……? 何だろう。もう調べたい事は十分調べたつもりだから、正直もう良いんだが。……だけど、少しだけ気になるな。

 

「承知しました。それでは、これから伺ってみる事にします。本日は、拝謁の時間を取っていただき、ありがとうございました」

 

 

 

そして俺は、女王陛下への挨拶を終え、その足でアイザック邸に向かうのだった。

 

 

 

~~~~アイザック邸~~~~

 

「いやー、すいませんね、カナタさん。大学への出立の準備で忙しいでしょうに、わざわざ足を運んでいただいて。もう準備は出来ているんですか?」

 

「はい、教科書などは向こうで手渡されるようですし、筆記用具は島の先生達が用意してくれましたので、荷物はほとんどありません」

 

「そうですか。着替えなどは大学で購入する方が安い事が多いですから、下手に町で買わない方が良いかもしれませんよ」

 

大学の先輩でもあるアイザックの助言になるほど、と返事をしながら、俺はアイザック邸内をアイザックその人の案内でついて歩く。

 

「こちらです。……どうぞ」

 

 

「お邪魔します。……ここは、書斎……ですか?」

 

アイザックに案内された先は、先日の図書室よりはるかに小さい、前世で言う所の6畳程の小さな部屋だった。ただ、片方の壁際には本棚が埋め込まれており、その棚には溢れるほどの本が無造作に突っ込まれていた。。

 

「イエーース! ここは私の私室兼書斎になります。散らかっていてすいませんね。今片付けますので、ひとまずはこちらに腰かけていただけますか?」

 

アイザックは、部屋の中央に小さな机を挟んで向かい合うように置かれている椅子を俺に勧める。その勧めに素直に従い腰を下ろす俺。アイザックは目の前の机の上に置かれている本を手にし、それを部屋の隅に移動させる。

 

その様子を見つめながら俺はアイザックに尋ねる。

 

「あの、アイザックさん。俺に何か見せたいものがある、ということでしたが、それは……?」

 

「ええ、そうなんです、そうなんです。カナタさんの興味が大魔王戦役の英雄達、とりわけ『氷の大賢者』で知られるポップ・マーカストンに向かっているという事を先日は知らなかったのですが、それを知るとどうしてもこれをカナタさんにお見せしたいと思い、お忙しいとは思いつつお声がけさせていただいたのです」

 

……。どうして俺の興味の矛先が分かったのかな? 読ませてもらった本はきちんと本棚に戻していたと思うけど、どこか形跡でも残していただろうか。俺のそんな疑問に気づいたのか、アイザックが、「ははは」と頭に手をやって照れ笑いをした。

 

「すいません、物書きをしていると、他者がどのような事に興味を持っているのかについては、敏感になってしまうんです。ほんの少しの本の配置の変化で、そうあたりを付けていたのですが、私の推測は正しかったようですね」

 

「まあ、間違ってはいませんよ」

 

別に隠す必要のある事でもないので正直にそうアイザックに返事をすると、そのアイザックは本棚の一番上の棚から一冊の本を取り出してきて机の上にそっと置いた。

それは、もとは濃紺色だったのかもしれないが既に色あせて薄水色に変色した厚さ2㎝から3㎝程度の書物だった。

 

俺はそれに手を付けないまま「アイザックさん、これは……?」と尋ねる。

 

「これは、大魔王戦役が勃発する1年前にポップ・マーカストンが親友であるルッツ・イグラントに託した『最古の医学書』の写本になります」

 

「――!」

 

「アバンと修業の旅に出る直前、ポップ・マーカストンは独自に編纂した医学書を、ランカークスの村に残るルッツ・イグラントに託しています。それを託されたルッツは、自身用と後のベンガーナ医療大学の講師になる人間に渡すために、合わせて11冊の写本を制作してます。これは、そのうちの一冊になります」

 

……驚いた。現在世に出回っている医学書のほとんどは、全てこの『最古の医学書』をベースに細かく編集し分野ごとに綴じ直した書物だ。

 

ミラ姉から一度見せてもらった事のある教科書も同じだったし、俺がベンガーナ医療大学に入学し渡される教科書もそうだろう。だからこうやって、『最古の医学書』自体を目にしたことは初めてだ。

 

「すいませんね。こちらの書物は図書室ではなくこちらの書斎にあったものですから、先日あなたはこれをご覧になっていないでしょう。筆跡からすると、これはおそらく後にルッツ・イグラントの妻となったライカ・セーヌイが書き映したものだと思われますが、内容自体は言い回しから文字一つまで『最古の医学書』と全く同じはずです。

 どうぞ、せっかくですから手に取ってみて下さい」

 

俺はアイザックの言葉に従い、机の上に置かれた写本をぺらぺらと捲る。

 

……? 何だ……? 妙だ……。俺はこの写本を以前見た事がある気がする。いったいどこで……。

 

この世界では無い。この世界で俺が見た医学書はもっと分野ごとに分冊されたものだ。このように医療全体から俯瞰し、体系的にまとめた観点から始まる医学書は、この世界では見た事が無い。

 

前世か……?

 

いや、しかし……。確かに可能性があると言えば前世だが、医学書なんて前世ではこの世界とは逆に、星の数ほど存在する。大学ごとでも教科書に採用している医学書は異なるし、下手をすれば同じ大学でも年代が違えば使用する教科書が変わる。

 

なのに俺はこの医学書に見覚えがある。

 

それが意味するものは……これは俺が通った大学の教科書という事だ。そうだ、覚えているぞ。

 

俺は夢中になってページをめくり続ける。このページも、このページも。『ほら、このページのここがよくテストに出るよ』、と先輩が期末テスト前に教えてくれた箇所も寸分変わらず掲載されている。

 

どういうことだ……? これが、俺が前世で習った教科書である事に疑いの余地がない。つまり、それはどういうことだ?

 

おいおい、鎌田、もう答えは出ているだろう?

 

 

つまりこれを作成したポップ・マーカストンは、俺の通った大学の人間だという事だ。

 

「どうかされましたか、カナタさん?」

 

アイザックが無我夢中にページをめくる俺の様子がおかしい事を心配したのかそう声をかけるが、俺はそれに返事をする時間も惜しいとページをめくる手を止めない。

 

――!

 

ページをめくり続けた俺の手が途中で止まる。それは、とある消化器官の切除手術を行う際に気を付けておくべき留意事項を細かく記したページ。

 

間違っている……。このページの一部の記述は誤りだ。そうだ、もともと俺が大学で使用していた教科書は、俺達をゼミ室で指導していた教授の著作だ。その教授は本を発刊後、一部に間違いがあったと訂正したものを再び発刊した。だから俺はこの部分が間違いだと知っている。

 

「ここ、間違ってる……」

 

それは目の前にいるアイザックに対して発したものでは無い。ただの俺の独り言。しかしアイザックは、「――ほうっ!」と目を輝かせて、俺が指で押さえている部分に目を落とす。

 

「素晴らしい! 素晴らしいですよ、カナタさん! 確かにその部分の描写は誤っています。それは大学が開設されてしばらくしてから、ポップ・マーカストン自身が誤りを発見し、以降の医学書では修正された部分になります」

 

「誤りを発見した……? では、最初は誤りだとは気づいていなかった?」

 

「ええ、その通りです。医療魔法の創始者と言えど、時には誤りを犯す事もあるという事でしょうね」

 

待て……。どうしてポップ・マーカストンはそもそもこの誤りを犯した? それは彼の記憶にある医学書にそう記されていたからだ。だが、彼の記憶にある医学書が誤っていた期間はほんの1年、いや、せいぜい2年という所だ。

 

それはつまり、その間にこの医学書で講義を受け、そしてこの医学書の一部が正された事を知らない人間が、ポップ・マーカストンその人という事にならないか?

 

誰だ……? 転生したという事は、あの当時俺達の通っていた大学で死去した人間という事か?

 

 

 

俺の脳裏に、いつも俺の相談に乗ってくれていた、女心に疎いながらも優しく気のいい先輩の顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

「カナタさん。良かったら、この書物をあなたの旅のお供に持っていきませんか?」

 

「これは……?」

 

「この書物には、私の祖先のアバンが大魔王戦役後に弟子であるポップから伝授された呪文の一部が記されています」

 

「そんな貴重な物が……!?」と驚く俺に、アイザックはいえいえ、と手を振る。

 

「お渡ししようとしておきながら言う事ではありませんが、さほど秘匿性の高い呪文は記されていません。私も一通りこの書物に記された呪文は習得しておりますが、攻撃呪文の類は元より、世界に多大な影響を与えうる呪文は一切ありません。自身の身を守ったり、旅に役立つのではと思われる生活魔法の類がほとんどです」

 

そう言ってアイザックは、玄関で辞去しようとする俺に色あせた書物を手渡す。

 

「……分かりました。ご厚意、ありがたく受け取らせていただきます」

 

「はい。ふふふ。気が付いていますか、カナタさん? 今のあなた、とてもいい顔をしていますよ?」

 

「え、そうですか……?」と顔に手を当てる俺。

 

「はい、……良い顔をするようになりました。3か月前とは別人のようです」

 

そのまるで教師のような言い方に、俺は思わず赤面する事を自覚する。その様子を見てアイザックはクスクスと笑った後、続けた。

 

猶予期間(モラトリアム)……という言葉をご存じですか?」

 

「え、猶予期間(モラトリアム)……ですか? い、いや存じ上げません」

 

嘘だ。前世でその言葉は聞いた事があるが、この世界では耳にした事がない、ただそれだけ。

 

「でしょうねぇ。この言葉は、かつてアバンが弟子であったポップから逆に教わったらしいですよ。何故かその言葉が歴代ジニュアール家に受け継がれているんですよ。意味は、自分が何者なのかを知るための猶予期間、あるいは子供が大人になるための猶予期間、ともいう事らしいですよ。

ふふふ、どんな人間にもいつかはそう言う季節が訪れる。もしかすると、今のカナタさんにはその季節風が吹いているのかもしれませんねぇ」

 

「季節風……」

 

「はい。いつでも結構です。カナタさんが何者になる事を選択したのかを、教えてください。私の望みはそれだけです」

 

 

 

そして俺はアイザック邸を辞去し、そのままラインリバー大陸 ロモス行きの船に飛び乗っていた。明日にはカール発ベンガーナ医療大学行きの定期便が出るというのに、俺は逡巡しなかった。

 

ポップ・マーカストンの事を知るためには、彼の辿った足跡を丁寧にたどる必要がある。彼はいったい何者なのか。本当にあの人なのか……。

 

この旅で俺は、自分自身が何者になりたいのかを知りたいと思うのと同時に、ポップ・マーカストンという男が何を考え、何になろうとしたのかも知りたいと切実に願っていた。

 

 

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