僕の名前は、アレックス・ビューラー。先月数えで14の歳を迎えたばかりの男子であり、これでも栄えあるベンガーナ王国で父が男爵の爵位を得ている貴族の嫡男だ。と言っても、与えられた領地はベンガーナ王国内でも僻地中の僻地であり、そのような土地では満足な収益などほとんど見込めず、数か月前までの実家での暮らしは、母が生活のために内職をしているような、貴族とは名ばかりの質素極まりないものだった。
そんな僕がこの開校されたばかりのベンガーナ医療大学の一期生として選ばれたのは、ひとえに僕に回復魔法の素養があったからに他ならない。いや、正確に言えば、僕と姉の二人に素養があったのだ。大魔王戦役終結後ほどなく、ベンガーナ国内で一定程度回復魔法の素養があり、その上文字が読め計算できる人間を対象とした選別試験の案内が、国王陛下直々のお触れで国内に流布された。
その時はいったい何を目的とした試験だったのかは分からなかったが、陛下の名前で開催される試験なら悪い事にはならないだろうと、母方の血筋のお陰か、初歩的な回復魔法を使えた僕と姉がその試験に挑戦した。
そして合格発表の日、合格者だけが集められた王城の一角で、試験の目的がこのベンガーナ医療大学の一期生を選別するためのものだったと、僕達は伝えられたわけだ。
そこで初めて試験の目的を知らされ驚く周囲の者も多かったが、僕と姉はその場で医療大学の一期生になる事を即決した。正直、これは僥倖と言って良かった。
一応僕の家は貴族ではあるものの、男爵と言う立場は一代限りで爵位を授けられた貴族だ。与えられた領地も、父が没すれば国に返領する事になる。つまり、僕や姉は成人後は独自に身を立てなければならないのだ。腕っぷしが弱く、その上生来気弱な僕が武術で立身を望むのなんて不可能と言って良く、この大学の一期生に選ばれるまでは将来は神父として生計を立てていくしかないと考えていた。
それは1歳上の姉も同様に考えていたようだが、そんな僕達にあのような機会が巡ってきた。正直、過剰供給気味の僧侶の世界に足を踏み入れるより、こちらの治癒士の世界に飛び込むほうが、先があると思ったのだ。
もちろん、その誕生が古く長い歴史の過程で一定の地位が確立されている僧侶に比べて、治癒士という立場はまだ誕生もしておらず、その地位や給与水準も不明で、正直な所不安が無かったと言えば嘘になる。
だけど、国王陛下肝いりの事業であり、聞けば各国でも医療大学に優秀な人員を送り込むことに躍起になっているという。そして何といっても、ベンガーナ医療大学は、あの大魔王戦役の勝利の立役者の一人であり、
だけど……。夜の帳がとっくに降り濃密な夜気が漂う中、机の上に置いていた蝋燭の炎が、突然ゆらりと揺れた。それは、不意に部屋の中に外気が取り込まれたために生じた微かな揺らぎだった。
「おや、アレックスさん。まだ起きていたのですか? 日記をつけるのも良いですが、夜更かしは感心しませんよ?」
僕は今、大学に通う遠方の生徒を対象としたこのベンガーナ医療大学の男子寮で生活していた(当然姉は女子寮に入っている)。その男子寮の4階に立ち並ぶ2人部屋の扉を僅かに開き、この部屋のもう一人の住人が入って来る。その住人は、僕がとっくに寝床についていると思っていたのか、薄闇の中蝋燭の灯を頼りに机に向かっていた僕を見て、そう苦言を呈した。
「あ……、は、はい。もうすぐ寝ようと思っていた所です。それより、遅いお帰りでしたね。もう今日は自国で床につくつもりなんだろう、と思っていましたよ」
僕の言葉の通り、相部屋のもう一人の住人は、自国で重責を担っているため、この部屋で横になる事は3日のうちに1日、という程度だった。どうやら、今日はその珍しい1日のようだ。
「ええ、妻が私の政務を手伝ってくれて、どうにかこうにか日が変わる前にこちらに戻って来れました。せっかくこうして寮に入って、他国の若者達と交流する機会があるのですから、できる限り寮で生活したいですからね。1年間に及ぶ学生生活ももう折り返し地点を過ぎましたから、なおさらです」
そう言ってもう一人の住人は黒縁眼鏡をキラッと光らせながら、僕にピースサインをする。その姿を見て、僕は思わず苦笑いを浮かべていた。本当に、吟遊詩人から歌を聞いてイメージしていた人物像とは、かけ離れた姿だ。
そう、今腰に手を当てて陽気に笑っているその人物とは、魔王戦役から大魔王戦役に続く大戦における英雄の一人、祖国の親愛なる隣国カール王国が世界に誇る大勇者『アバン・デ・ジニュアールⅢ世』その人だった。
大勇者『アバン・デ・ジニュアールⅢ世』。物心ついた者なら、彼の事を知らない者などギルドメイン大陸、いや、世界中見渡しても存在しないだろう。それほど彼の名は、広く世に知れ渡っている。
僕が生まれる前の16年前の魔王戦役では勇者として常に先頭に立って戦い、長い苦闘の末に魔王ハドラーを打倒。そして、まだ記憶に新しい大魔王戦役では、彼が見出し育てた弟子達が地上に生きとし生きる者全ての希望となり、大魔王とその軍勢に敢然と対峙した。そればかりか、彼自身も大戦の終盤では戦列に復帰し、多大な戦果を上げている。
更に言えば、戦後はカールの至宝とまで謳われるフローラ女王と結婚し、王配として妻を支えつつその敏腕ぶりでカール王国の目覚ましい復興の原動力となっている。
……うん、僕が何を言いたいかと言うと、つまり彼はとんでもないVIPだという事だ。(どうしてそんなVIPがしがない男爵の嫡男である僕と同室なんだよっ! 少しは考えて部屋割りしてくれよっ!)と、男子寮と女子寮の寮母兼事務総長代理であるライカさんに悪態をつく。
……と言っても、それは心の中だけだ。決して言葉にする事はしない。実家が宿屋を営んでいて、幼い頃からその手伝いをしていたからだろう。寮の運営に長けているライカさんには常日頃からお世話になっているし、相手が貴族だろうが庶民だろうが分け隔てしないその闊達さには、正直好感しか抱いていない。
それに、更に言えば、僕は彼女に対する畏怖も強く持っている……。……だって、時々ポップ先生やメルル先生と一緒にやってくるあの『地獄の殺し屋』キラーパンサーを、ライカさんは完全に手なずけているんだから。
それは、『こら、パンちゃん! またつまみ食いして! めっ、だよっ!!』、『ねえ、パンちゃん。ちょっと香草が足りないから、あそこの山に行って取って来てくれないかなぁ?』というようなやり取りを目にした寮生の全員が彼女に抱いている思いだろう。僕なんて、一度食堂でそのキラーパンサーに出くわした際に、その大きな舌で顔をペロリと舐められただけで腰が抜けてしまったというのに……。
「……どうしました、アレックスさん?」
と、いけない。余計な事を考えて上の空だった僕に、アバンさんが外套を脱ぎながら振り返る。
「あ、いえ、何でもありません。はい、来週末のテスト勉強をしていたのですが、今日はもう終わりにします、アバン様……じゃなくて、アバンさん」
同室になって半年だというのに、どうしても敬称で呼んでしまう癖が抜けきらない僕は、髪を降ろして眼鏡を外した事で男の僕でも思わず頬を染めてしまいそうになる程の美形を直視できず、明後日の方を見ながら応える。
「そうでした、そうでした。来週末には、ポップ先生の講義のテストがありましたね。今週末は私も寮にいますし、もしよろしければ寮の皆さんと談話室でテスト勉強でもしませんか?」
「本当ですか!? それは願ってもないです。ありがとうございます、アバン様! あ、すいません、アバン……さん」
学年首位を走っているアバン様と一緒にテスト勉強が出来るなんて、願ってもない事だ。姉さんも、今週末はやはり学年次席を狙えそうな勢いのパプニカ王国の官士と一緒に勉強するって言っていたし、これで僕も姉さんに成績で張り合えるかもしれない。
その後互いに就寝の挨拶を交わし、部屋の左右に並んだベッドにそれぞれ横になった僕とアバン様は、床につくのだった。
キーン、コーン、カーン。
1限目の授業の予鈴が鳴るのを耳にした僕は、教室の自分の机の上に広げていた教科書を閉じて、この日最初の授業の教科書を鞄から取り出す。僕の周囲の学生達も皆がそれぞれ授業の準備を始めて、ある者はノートを広げ、ある者は友人とのおしゃべりをやめて姿勢を正す。
ガラッ。予鈴が鳴り終えていくらもしないうちに、1限目の教師が教室の扉を開いて入ってくる。1組の独り身の男子の何人かの顔がだらしなくにやけているのが分かるが、傍から見れば、おそらく僕もそのうちの一人に数えられるのだろう。
数冊の教材を手にし入ってきたのは、藍色の占い師の恰好をした年若い少女だった。ともすれば、この1組のほとんどの生徒より若いかもしれないほど年若い少女だが、彼女がベンガーナ医療大学が誇る優秀な教師陣の内の一人である事を、当然僕達は知っていた。
今更語るまでも無いだろう。彼女こそ大魔王戦役における英雄の一人『神託の巫女』メルル・フォーサイス。戦役中にパプニカの女王より贈られたという、パプニカ王国の蒼い海を想起させる色に染められた占い師の装束は、この大学で教鞭を取る彼女のいつもの様相だった。
私語を発する事無く席に着く僕達に視線を投げかけながら、うっすらと口元に笑みを浮かべて教壇に向かう彼女。大学での授業が始まっていくらもしない頃は、おずおずとした照れた様子が見受けられたが、今の彼女からは、ベンガーナ医療大学で教鞭を取る教師である事への誇りのようなものが感じられる。
彼女は大学の教師陣の中では特に真面目な性格で知られており、たとえばポップ先生などは時折授業の内容が横道に逸れる事があるし(それはそれでまた楽しいのだが)、ホイミン先生は長い時を生きて来た魔物だけあって古い昔話を時折語ってくれたりするが、彼女はまずそのような事はしない。
「皆さん、こんにちは。今日は昨日の続きになりますが、魔力量に強弱をつけた
……良かった。メルル先生の第一声からは今日の彼女の機嫌はいつもより上機嫌だという事が分かる。彼女が真面目であり、かつとても生徒思いの優しい先生である事は皆が把握しているのだが、僕が何を気にしているのかと言うと、以前一度だけとんでもなく機嫌の悪い彼女に出会った事があるためだ。
それは、僕達1組の授業の直前に授業をした2組のとある女子生徒の発言が原因だった。僕も後から人づてに聞いただけだが、それはメルル先生とポップ先生が合同で講義をしていた授業中(教師が一人でなく複数人になる事は、講義の内容によっては時折あるのだ)に起こったらしい。
2組のとある女子生徒(恥ずかしながら我が祖国ベンガーナから派遣された、とある大商人の娘らしい……)が、事もあろうにメルル先生の前でポップ先生に対して、『ポップ先生は4人目の彼女を作る気は無いのでしょうか?』、『私、メルル先生より胸が大きいと思うから、きっと気に入ってくれると思うんです』などと発言したらしいのだ。
もう本当にどうかしているとしか、思えない発言だった。メルル先生とポップ先生の関係性を知っていたらそれが引き起こす騒動を普通なら想像できそうなものなのに、その女子生徒は胸を強調するように医療魔法の実習中にポップ先生の腕を取って、その豊満な胸に抱えてそう訴えたらしい。
そのような騒動があってもポップ先生もメルル先生も表面上は取り繕ってその合同授業を終えたらしいが、メルル先生はやはり心に思う所があったのだろう。だって、宿題をめったに出さない事で知られるメルル先生が、その授業の日に限ってとんでもない量の宿題を出したと、やはり2組に所属している姉から涙ながらに訴えられたからだ。
ちなみにその後、2組の生徒達は
「……と言うわけで、魔法力は無限ではありませんので、
かっ、かっと白いチョークを握ったメルル先生の手が淀みなく動き、横長の黒板に描かれた人体の絵の上にその臓器の名称が記されていく。ほとんどの生徒の視線が黒板と机の上のノートの間を往復し、その臓器の名をノートに書き映していくが、一部のメルル先生の熱烈なファンはポーっと浮ついた表情でメルル先生の顔を見つめるだけだった。
僕としてもずっとメルル先生の顔を見つめていたいくらいなのだが、大学を優秀な成績で卒業する事が至上命題な立場の自分としてはそんな甘えは許されず、大多数の生徒と同様に、僕もノートに黒板の内容を映していく。
「……ここまでで、何か質問のある方はいませんか?」
授業がある程度進んだところで、メルル先生がそう僕達に問いかける。その質問を待っていたように、「はいっ!」と真っ先に手を上げるのは、いつも最前列の真ん中で授業を受けている寮での僕の同室のあのVIPだ。
「メルル先生のお話では、膵臓の働きは多岐に渡っているとの事ですが……、
「え、あ、そ、そうですね。アバン様の……、あ、いえ、アバン……君の認識で間違っていません」
教鞭を振うのに慣れ始めているメルル先生だが、相変わらずアバンさんに対してはしどろもどろとなる。それはもちろんメルル先生だけでなく、ポップ先生も同じなわけだが、それも無理はない。ポップ先生は正しくアバンさんの弟子だし、メルル先生も魔王軍との最終決戦場となったあのロロイの谷でアバン先生と一緒に戦っているんだ。
同室の僕ですら対等に接する事に躊躇しているというのに、魔王戦役から大魔王戦役へと続く大戦の英雄に先生と呼ばれる事など、アバンさんとの関係性が深ければ深い人間である程、慣れる事はないのだろう。
そういう、いつもの事と言えばいつもの事であるやり取りをしつつ、授業終了の鐘の音が鳴った事で、今日最初の授業は終わった。
「それでは、皆さん、3限目からは伝えていた通りポップ先生と私の課外授業です。2限目の後、校庭に集まって下さいね。あと、いつものように今日の日直の方はロープの用意をお願いします」
机の上に広げていた教本をトントン、と束ねながらメルル先生が僕達にそう声をかけて、教室から出ていく。メルル先生が教室の扉を閉めた途端、周囲で言葉を交わし始める生徒達。
「ねえ、ねえ。今日のメルル先生、特に機嫌がよさそうだったけど、あれって絶対、今日ポップ先生との課外授業があるからだよね?」
「うん、うん、絶対そうよ。ふふふ、メルル先生ったら可愛いんだから。本人は隠しているつもりでも、幸せオーラがだだ漏れだったわね」
「やめろぉ! 俺のメルル先生はまだ誰のものでもないんだ! ポップ先生なんか、ポップ先生なんかぁ……!」
女子同士の会話に突然割り込んだ男子生徒の一人が、そうむせび泣きながら教室を飛び出していく。
「何、あれ? いい加減現実を見なさいよね」
「そうそう、どう見てもお似合いの二人じゃない。ポップ先生が大学にいる時は、いつも世界樹の下で仲良くお弁当を食べているのを知らないのかしら?」
世界樹というのは、そう言う名前の付けられた校庭の隅に根を張った大木の事だ。確かに彼女達の言う通り、あの木の下で二人が仲睦まじく食事を取っている姿を僕も何度も見かけた事がある。そんな辛辣な言葉を交わす女子生徒の会話に耳を澄ませていた僕だが、不意に仲の良い学友が僕の肩を叩いた事で意識を引き戻す。
「よう、アレックス。聞いたか、あの噂! またリンガイア王国内の孤児院に、ナオト・ダテなる謎の人物からの寄付金が届けられたらしいぜ!」
そう興奮した様子で僕に語り掛けるのは、そのリンガイア王国出身の僕より1歳年上なだけの男子学生 エリック・マクフライ。歳が近い事と、僕と同じく姉が入学している共通点もあり、彼はこの大学での僕の一番の親友と言って良かった。
「本当かい、エリック? それは凄いな。いったい誰なんだろうね、そのナオト・ダテという人は? エリックはリンガイア出身なんだから、何か心当たりがないのかい? 大商人や大貴族という線は?」
ナオト・ダテという名は、2か月ほど前から突如僕達学生の間で話題に上り出した名だった。リンガイア王国内の孤児院に顔も見せないまま、いつのまにか『ナオト・ダテ』という名と共に大金だけが置かれていくのだから、皆がその正体を噂するのは当然と言って良かった。僕のその質問にエリックは、うーんと難しい顔で首をひねる。
「いや、俺も国内の大商人や貴族ならある程度知ってはいるけど、ダテ家なんていう貴族はいなかったはずだし、そんな名前の商人も聞いた事がないな。やっぱり『ナオト・ダテ』というのは偽名で間違いないだろう。いずれにしても、寄付の対象がリンガイアに偏っている事から、リンガイアに住んでいる人物だろうとは思うが――」
「……リンガイアだけではありませんよ?」
『ナオト・ダテ』なる人物の正体について交わしていた僕達の背後から、そんな言葉が投げかけられる。驚いた僕達が振り返ると、そこにはトレードマークの黒縁眼鏡をキランッと光らせたアバンさんの姿が。
「えっ、リンガイアだけじゃないって、どういう事ですか、アバンさん?」と、日頃から僕よりアバンさんに気安く接しているエリックがそう尋ねる。
「言葉通りの意味ですよ、エリックさん。これはまだカール国内でもあまり広まっていない情報ですが、先日カールの北部に位置するデルフィン島という島の孤児院に『ナオト・ダテ』なる人物からの多額の寄付金が届いたと報告がありました」
デルフィン島……。ああ、確かにそんな名前の島がカールの北部にあったと習った覚えがある。そして、ことカール王国内の情報に関してこの人以上の情報通はいない。アバンさんがそう言うのなら、それは間違いない事なのだろう。
「恥ずかしながらカール王国はまだ復興半ばで、正直遠方まで手が回っているとは言い難い状況です。デルフィン島には、私の古くからの友人であるディードックという方が大戦後に移り住んでいるのですが……」
アバンさんの話では、そのディードックという旧友が、かつて魔王軍の本拠地に近かったデルフィン島の惨状を目にし、親を失った子供達の面倒を見ていたらしい。それは本当に徒手空拳に近い試みだったらしいが、つい先日多額の寄付金が突如届けられた事で、ようやく孤児院の運営が軌道に乗り始めたという事だった。
「そっかぁ。リンガイアだけじゃなかったのか。そうなると、『ナオト・ダテ』という人物の正体がより分からなくなってきたな……」
頭をぽりぽりと掻いてそう嘆息するエリック。そんな彼に、アバンさんは「ふむ……」と少し考える素振りをした後、口を開いた。
「……確かに私も、『ナオト・ダテ』なる謎の人物について心当たりがあるわけではありません。ですが、あの大戦を経て私には、いえ……、あの大戦を戦い抜いた私達には、一つの確信に近い共通認識があるのです。それは、『何か意味不明な珍妙な事象が発生した際には、まず真っ先にある人物の関与を疑え』、というものです」
「ある人物の関与を疑え……? え、アバンさん、それは一体誰の事を差しているんですか?」
僕のその問いに、アバンさんが何故か教室の扉の方を見つめて応えようとしたが、その時僕達の会話に更に割り込んでくる声が。
「ねえ、ねえ、アバン様。昨日の授業で分からなかった所があるんですけど、良かったら教えてくれませんか?」
「あ、ずるいわよ、あなた。アバン様、私も実技でうまくできない所があって。もし良ければ教えていただけませんか?」
突然数名の女子生徒に囲まれるアバンさん。大戦の英雄でありながらも気安い態度を崩さないアバンさんは、正直クラスで、いや学年で最も人気のある生徒と言っても良かった。それは、先月教師を対象とした人気投票があったが、学生を対象とした人気投票があれば、ぶっちぎりで優勝する事間違いなしと言うほどだ。
「ええ、良いですよ。どこが分からないのですか、マリアンヌさん? ジュディアッカさんは少し待ってくださいね。私で分かる事なら後で教えて差し上げますので」
自身を取り囲む女子生徒達に笑顔を振りまきつつ、優雅な所作で相対するアバンさん。その様子を見ていた僕とエリックは互いに顔を見合わせ、苦笑いをする。どうやら先ほどの問いかけへの答えを頂く機会は、逸したようだった。
短い10分間の小休憩が終わり、再び2限目の授業開始の鐘が鳴る。ガヤガヤと雑多な会話が続いていた教室だが、その鐘が鳴り始めると同時に教室内は静かになり、鐘が鳴り終わる頃には皆が自席に戻って背筋を伸ばしていた。
そして鐘が鳴り終わってからさほど待つことなく、教室の扉がガラッと開いた。数冊の教本を手に入ってきたのは、新緑の芽吹きを連想させる緑色の衣服を纏った黒髪黒目の、これまたメルル先生と同年代の青年。
そう、2限目の授業の講師はポップ先生だった。先月ぐらいから頻繁に袖を通すようになった『みかわしの服』を纏ったポップ先生は、何故か自身が開いた扉の上を気にしながら教室内に入ってくる。そして、気安く声をかけてくる前列の生徒に軽口を返しながら、ポップ先生はメルル先生と同様にゆっくりと教壇に向かう。
「ポップ先生、黒板消し落としを警戒するぐらいなら、俺達にあんな事言わなきゃ良かったじゃないですか?」
「分かってるよ。今となっては、いらん事を言ったと後悔しているよ。あの後、エリーゼ先生にも平謝りするはめになったし、皆にも叱られるわ、えらい目にあったんだから……」
僕を含めて、二人の会話を耳にした生徒達がぷっと顔を俯けて含み笑いをする。彼らの会話の意味は良く分かっていた。このクラスではなかったが、先日ポップ先生が講義の間に話を脱線させ、『黒板消し落とし』なる悪戯の事を皆に伝えたのだ。
そして、それをぜひ実践してみようと考えた一人の生徒がいた。その生徒は、実践するのならポップ先生にすればいいものを、よりによって女性教師であるエリーゼ先生に仕掛けたのだ。
エリーゼ先生とは、まだ20歳にもなっていないだろうと思える、まるで深窓の令嬢のような見目麗しい女性教師だ。彼女は、リンガイア王国の旧貴族の出身で、長い間病床に伏せっていた所をポップ先生の医療魔法のお陰で回復し、ベンガーナ医療大学最後の10人目の教師としてポップ先生が推薦し、それもあってこの大学に招かれた異色の経歴の持ち主だ。
僕にとっては年上ではあるものの、思わず守ってあげたくなるほど愛くるしい女性で、先月の教師人気ランキングでは3位以内に入っていなかったが、おそらくだけど、彼女は4位には食い込んでいたのではと、僕は睨んでいる。
そんな、守ってあげたくなる僕的1位の女性教師に対して、『黒板消し落とし』なんてものを仕掛けたものだからその後が大変だった。これも聞いた話だが(そもそも僕がその場にいたらそんな真似は絶対にさせていない)、頭上から落ちて来た黒板消しがエリーゼ先生のモスグリーン色の髪に直撃し、彼女の頭は一転緑から白へと変わったそうだ。
元貴族の立場に加えて長く病床に伏せっていた事から、そのような悪戯を仕掛けられた経験が無かったのだろう。生徒の悪戯を受けた彼女は茫然自失の状態の後、その場でしくしくと泣き出したのだ。当然そうなれば大騒動に発展する。
すぐに手の空いていた教師が駆けつけ、その悪戯を仕掛けた生徒を叱責した。そしてその叱責は当然、生徒に教唆したと受け取られてもおかしくないポップ先生にも及んだ。ポップ先生は、職員室で他の教師や事務総長達に説教された後、1カ月の給与20%カットという処分を受けたらしい。
その飾らない言動と風貌からは何とも想像しづらいが、ポップ先生は医療魔法の創始者であり、この医療大学の開校に最も尽力したVIP中のVIPだ。そんなポップ先生が、医療大学で一番最初に処分された職員だというのが実に笑えない冗談で、皆は口を押えて含み笑いをしているのである。
「それじゃあ、今日は3限目の課外授業に向けた準備の時間に当てます。皆には出先で、それぞれ
これはもう僕達にとっては当然の教えだった。
その常識の枠外にいるのがポップ先生なわけで、ポップ先生は同時に二つの呪文を操る事が出来る偉人なのでペアを作る必要は無いのだが、大学が開設される前に起きたとある事件を機に、彼をしても、できるだけペアを組んで医療行為を行っていると聞いている。
ポップ先生の言葉で、ガヤガヤと相談を始めた生徒の声が周囲で上がり始める。僕はとっくに親友であるエリックと相談していたから、少し離れた席の彼と目を合わせて頷き合うだけで事足りた。
アバンさんの方は大変みたいで、彼の周りに集まった複数の女子生徒がじゃんけんを始めた所を見ると、どうやらそのじゃんけんの勝者がアバンさんのパートナーになるようだ。真剣な様子でじゃんけんを始めた女子生徒を、頬をぽりぽりと掻きながら苦笑いを浮かべたアバンさんが見つめていた。
そのアバンさんに、教室内をゆっくりと移動していたポップ先生がそっと近づいて、声をかける。
「おや、アバン先生……、じゃなかった、アバン君。随分と女子生徒に人気ですね。これはフローラ様に伝えておくべき案件かもしれませんね」
「いえ、いえ。それには及びませんよ。ポップ先生こそ、先日3組の女子学生に校舎裏に呼び出されていませんでしたか? メルル先生はその事を御存じなのでしょうかねぇ?」
そのまま「「フフフ……」」と、妙な緊張感を醸し出しながら共に笑い合う二人だった。
そんな風に3限目の課外授業に向けた準備をしていたら、パートナーを決め終えた生徒の内の一人から、ポップ先生に質問の声が飛ぶ。
「ポップ先生、お小遣いを持って行くのは、50Gまでで良かったんでしょうか?」
「ええ、良いですよ。ロモスの町では自由行動する時間も少しですがありますから、羽目を外しすぎない範囲でそれぞれ楽しんでください。あ、後、バナナはおやつに入れても良いですからね」
「先生、バナナって何ですか?」
「おっと、失礼。バナーナの事ですよ、ラーシュ君。ああ、一応助言しておこうかな。皆さんの中には自由時間にロモスの町にある武神流道場を見学する予定の生徒もいるかもしれませんが、バナーナを持っていくと、きっと手厚く迎え入れてくれると思いますよ」
その言葉を聞いた途端、エリックがほら見ろ、とばかりに、僕の方を振り返って親指を立てた。本当だったんだ。僕は昨日エリックから『マァムさんはバナーナが大好物らしいから、バナーナを忘れずにな』と聞いていた事を思い出す。良い笑顔を見せるエリックに僕もこくりと頷き返す。そんなやり取りをしているのは僕達だけでは無い様で、僕達同様に自由時間に武神流道場、つまり、マァム道場を見学する予定の生徒達が、それぞれの鞄の中にある黄色い三日月状をした果実の存在を確かめている様子が目に入る。
マァムさんとは、ポップ先生と大魔王戦役中にパーティーを組んでいた、先生の恋人の一人だ。そのマァムさんが『霊長類最強の女武闘家』とも『勇者
それが、先月大学で開催されたハロウィンパーティーあるいは、学園祭とも呼ばれる催しに彼女がやってきた事で、多くの生徒が初めて彼女の姿を目にした。
そして、薄紅色の武闘着を纏った彼女の姿が、多くの生徒の目をくぎ付けにしたのは必然と言えた。その彼女の隣には、強さではポップ先生をも凌ぐと言われる、あの
エリックなど、学園祭の最後に行われた大きな焚火を囲んで踊るフォークダンス(曲の展開に合わせて次々とダンスの相手が変わるポップ先生発案のダンスだ)で偶然マァムさんと踊れる機会があったらしく、特に彼女に熱を上げている。
僕……? 僕は残念ながら、メルル先生とエリーゼ先生はもちろん、マァムさんとも躍る機会は巡って来なかった。ただ、その代わりというわけでは無いが、なんとダンスの相手の一人にカール王国の女王フローラ様が当たったのだ。
うん、本当に代わりだなんて言ったら失礼というか、罰せられそうなんだけど、とにかく、とんでもなくお綺麗な人で、握った手もびっくりするほど白くて柔らかかったんだけど、いかんせん相手が偉すぎて、もう緊張してまともに踊れたもんじゃ無かった。
かろうじてフローラ様の足を踏むなどと言う粗相は犯さなかったけれど、もうダンスの間に何を話しかけられたかもはっきりと覚えていない。確か、『アバンは若い皆さんと上手く馴染めているかしら?』、『大学を卒業したら、是非カールにいらっしゃって』などだっただろうか。
後、『アバンが特定の女子学生に熱を上げているようなら、直ぐに知らせてね。約束よ?』というような事を耳元で囁かれたのは現実だったのだろうか。ちなみにエリックも、マァムさんと踊った際に、アバンさんの名がポップ先生に変わっただけで内容としては同じような事を言われたと言っていた……。
「……じゃ、皆ロープを絶対に離さないようにしっかり握っておくんだよ」
ポップ先生の言葉がずっと遠くから聞こえてきて、僕は目の前のロープを再度ギュッと握りしめた。今はもう3時限目が始まっていた。メルル先生の指示通り2時限目を終えた僕達は1組の50人全員で校庭に出て、今はこうしてポップ先生の言葉に従いロープを握っているところだ。
全長50mにも達しようかと言うほどの長さのロープの真ん中当たりを握っているのはポップ先生で、メルル先生はその隣。そして左右に伸びたロープを、25人ずつにやはり左右に分かれた僕達が握っている形だ。
「初めてじゃないとはいえ、いつもこの瞬間は緊張するよな、アレックス」
僕の隣で僕同様にロープを両手でしっかりと握っていたエリックが、少し硬い表情を僕に向ける。
「そうだね。
「……だな。しかし、これもいつも思う事だけど、本当にポップ先生の魔法力ってどうなってんだろうな? 50人以上の人間を一度に
「この間アバンさんから聞いたけど、ポップ先生の魔法力は、一般的な魔法使い10人分の魔力を楽に超えているだろうって事だったよ」
「本当かよ!? やっぱり、ポップ先生はああ見えても大戦の英雄なんだなぁ。ま、リンガイアの国民としてはそんな人が宰相、いや、顧問をしているのは頼もしい限りでありがたいけどね。バウスン宰相、さまさまだ」
エリックの言葉には、呆れ半分、誇らしさ半分の成分が含まれていた。そうだよな、普段大学で教鞭を取っている姿からは想像もできないが、彼は紛れもなく大魔王戦役の勝利の立役者の一人であり、その上、リンガイア王国での実質的な宰相の地位についている身だ。
エリックも含めて誰もポップ先生に対して、教師に抱く敬意以上の物を抱いていないように見えるが、本当はリンガイア王国にとっての重鎮中の重鎮なんだよな。いや、リンガイアだけの話しでは無かった。まだ大学が開校される前の話だけど、ポップ先生は大魔王戦役終結から数か月後に暗殺未遂事件に巻き込まれている。
あの時は本当に大変だった。ベンガーナの辺境の一領地を治めているに過ぎない僕の家の邸宅にまで早馬が走り、至急王都ベンガーナへの招集命令が下ったのだ。そしてクルテマッカ国王以下国の重鎮が城の大広間に集い、まんじりもせず第二報を待っていたあの時間の緊張感と言ったら無かった。僕も父に付き添ってその場に参集していたからよく覚えている。
クルテマッカ王は苦悶する時の彼の癖である手の爪を噛む癖をやめられず爪がぼろぼろになっていたし、国の高級文官は幽鬼のように周囲をうろうろとさ迷い、国内での医療大学開校に向けて準備を進めていた担当者は膝をつき、一心にポップ先生の生存を神に祈っていた。
そして夜がとっぷりと更けた頃に届いた第二報。それはポップ先生の生存を確約する吉報だった。その瞬間皆の安堵の深いため息が重なり、比喩でなく大広間の窓際に引かれたカーテンがその息で捲れたのだった。その一報を受けて僕は父と共に領土に戻ったのだが、後日顛末を報告に来たリンガイアの官仕にクルテマッカ王が苦言を呈したと聞いたが、あの悲痛な時間を共有した自分からすれば、それも無理からぬ事だと思えた。
「それでは、
あの時の記憶を脳裏に思い起こしていた僕の耳に、メルル先生が上げたそんな声が聞こえてくる。隣に立つエリックの身体が強張るのを感じた僕は、右手をロープから外しさっと手の中の汗をズボンで拭い、再び握り直した。
よし、これで良い。ロモスはずっと昔、それこそ5歳になるかならないかの頃に両親に連れられて行ったきりだから、ほとんど覚えていない。授業の一環とはいえ楽しみだな、と逸る胸の動悸を鎮めるかのように息を吐いたのと、メルル先生が0の言葉をカウントするのはほとんど同時だった。
不意にぐんっと手を引っ張られるような感覚が走ったかと思うと、足元の地面が急に消失したかのように感じた。
そして僕は、人生で何度目かの
いかにも後半に続く、という終わり方ですが、そちらはまたいつかという事で……。すいません、後半の構想は頭の中にあるだけで、現時点で全く文書化できていないんです。