勢いよくベッドから身体を起こした青年は、額から大量の脂汗を流しながら大きく目を見開いた。
「――――ッ」
これでもかと歯を食いしばりながら、痛みを抑えるように両手で白髪の頭を掻き抱く。その有様は、酷く悪い夢でも見ていたかのように真に迫るものだった。
暫くして青年は、両腕を頭からダラりと下ろした。身体を大きくふらつかせながら、けれど倒れ込みだけはせずにベッドから降りる。身に着けていた簡素なシャツやズボンからは、汗が身体を伝う事もなく服から床に滴る。青年は、水溜りでもできそうだ――なんて意味もなく想像し、薄っすら口角を上げていた。
「ベッド、高かったんだけどな」
肩越しにふと振り返れば、つい先ほどまで青年が寝ていたベッド。ネットで評判だったシーツは、一晩中暴れたのかと2度見するほどに滅茶苦茶だ。むしろ所々に引き裂かれた箇所。青年は一目で使い物にならない事を理解した。
「お金は今、いくら残ってたっけ」
ベッドから直ぐに目を離し、台本を朗読するように一言。青年が滅茶苦茶になったベッドを、所持金を欠片も心配していないのは明白だった。
青年が改めて1歩踏み出す。鎖か鉄球か。身体中が途轍もなく重い何かで縛られているかのように、その1歩は非常に重く遅いものだった。それでも軋む関節に鞭打ちながらもう1歩進もうとし――青年の世界がひっくり返る。
「いったあッ」
背中への鈍く強かな痛みと、壁から天井へと切り替わった視界に、青年は少しの遅れで事態に気づく。と同時に、視界の隅で軽快な音と共に空のペットボトルが転がった。碌に床を見ないまま、寝起きの人間よろしく歩こうとしていた。気づかずにペットボトルを踏んで転んだのだと、青年は羞恥で僅かに顔の表面へ熱を集めながら察する。
青年が改めて上半身を起こして辺りを見渡す。十何畳もの白い洋風な造りの部屋には、段ボールで積まれた山ほどの飲料と缶詰に、その残骸達が転がっていた。中でも缶詰に至っては、中身が溢れひっくり返った物もある。暫く置いたままにしていたのか、腐臭にようやく気づいた青年が眉を顰めて不快感を露わにした。
だが青年はそれ以上は何もせず、ただ疲れたように再び座り込んでしまった。微動だにすることなく、ただその場で暫くの時間を過ごす。やがて時間も経ち、締め切られたカーテンの隙間から光が漏れ始めた。そして光が漏れ出た頃、外から青年の耳へと音が届き始める。道の補強を行う重機による、非常に大きな工事音。店の売り子が過ぎ去ろうとする人々へ向けた、快活な呼び声。それらに驚いた赤ん坊の、愛おしくも辺りに響き渡る泣き声。
「防音ってなんだっけ」
ふと口にした言葉は、けれど本人が内心で驚く程に穏やかだった。青年の預かり知らぬ所で、青年の思惑の外で、勝手気ままに進んでいくごくありふれた日常。男は当たり前のそんな事実に対し、とても眩しい物をみたかのように眼を細めた。
「そろそろ、準備しなきゃ」
青年はまたゆっくりと身体を動かし始めた。向かう先は部屋の一角――そこに立て付けられた姿見に向かって。
「あー、イー」
青年は俳優が調子を合わせるように、鏡を観ながら一音ずつしっかりと喉を震わせた。それが終われば表情を変えながら、最後にはちょっとした仕草も増やしながら。失敗は許されないのだと言わんばかりに、何度も何度でも繰り返す。
「うん、まあこれで大丈夫かな♪」
気迫の割には、妥協はできるかといった様子。何時間も繰り返したが、終ぞ青年の表情が納得することは無かった。
それでも初めと比べ、張り付けたような笑みは様になった。人懐っこい笑みをきちんと表情に浮かべ、語尾を高く軽薄な声音で鏡を通して見る自分を納得させる。多少の理想とは異なったとして、此れが正しく今の自分なのだと言い聞かせた。
青年はシャワーを浴びに部屋を後にし、捨て置かれていた外出用の服に着替える。また緩々とした動きではあったが、寝起きの際よりも見れるものがあった。青年自身も自覚する点があるものの、自身の身体に対する性能の良さに、苦笑すら浮かべることもできなかったが。
青年は再び部屋を後にした。今度は別の部屋にという訳ではなく、飾りっ気のないこれまた白塗りの玄関を超えた先へ。玄関先でまた足を止めてうだうだとしていたからか、青年が部屋を出る頃にはとっくに日が暮れていた。
「うーん、流石に遅くなっちゃたな」
頭上に浮かぶ月を眺めながら、整列したように街灯が並ぶ表通りを青年が歩く。昼間は賑わっていた市場も、暗くなって途端に静けさを見せていた。けれど青年が歩き夜も更けていくにつれ、酒場やバーではむしろ人が集まり始める。遠くから聞こえる気持ちの良さそうな笑い声に、懐かしさを感じさせる落ち着いたクラシックの音楽。
「よお兄ちゃん! こんないい夜だ、俺らと一緒に飲まねえか?」
「ごめんね、今日はちょっと用事があるんだー」
青年は酔った人々から時折誘われ、絡まれながらもにこやかに躱してまた先を往く。目立つ髪色の青年だが、酔いも覚めやらぬ街ではそう関係なかった。この街の一部として、ごく当たり前のように過ごせている事実に、青年は本心から口角を知らず上げる。
「お待ちしておりました」
「貴方がマーレリングの適合者ですね」
表通りから少し逸れた路地裏に踏み入って直ぐ、青年へと路地の奥から声がかけられた。青年は気分が急降下していく感覚を悟られぬよう、人知れず気を取り直して暗がりへと目を凝らす。
裏路地の奥には、奇抜な同じ格好の女性が2人立っていた。肩程で揃えられた桃色の髪に、目の部分だけ白く塗られた黒のアイマスクと全身黒ずくめのローブ。見るからに怪しげなその風貌で、女性らは気にせず青年へとまた口を開く。
「「どうぞ、こちらへ」」
青年は用意していたように、薄く微笑んで返事をした。
「うん、お待たせ♪」
先導して薄暗い路地裏の奥へ進む2人を、青年は後ろから追いかける形で歩く。その際にふと立ち止まって表通りを振り向いたが、また何事もなかったかのように歩き出し裏路地へと消えていった。