よくよく脂の乗った指先に挟まれた葉巻から、肺を刺激する香りがオフィスを広く包む。香りは葉巻を持って黒革の椅子に座る初老の男自身からも漂い、ひと呼吸する度に口臭と混ざり合って吐き出された。
「実績の伴わない過程は、どれだけ励んでいたとしても意味がねえ」
葉巻を持ちながら、嵌められた指輪を器用に弄りつつ初老の男が語る。オフィスにはいっそ悪趣味と言える程に煌びやかな調度品の数々に、カーテンの開かれた窓へ近寄れば眼下に広がる夜の摩天楼。加えて有名ブランドで仕立てられたスーツを着こなす初老の男は成る程、持論を語るに相応しい成功者であると言えた。
だが聞き手は同様の成功者でも、全国TVのリポーターや週刊誌の記者ですらない。ブランドのスーツ姿ではあるが、至る所に解れや破れ跡に泥汚れすら着いている1人の男。散らされた緑の頭髪や苦悶に歪む表情に血すら滲ませる男へ、初老の男は悪戯した子どもを諭すように続ける。
「だが実績だけを上げたところで意味はねえ。実績と結果は違うんだよ」
初老の男はゆっくりと語りながらも、心底まで億劫そうに机上の灰皿へ押し付けることで葉巻の火を消す。そうした後に引き出しから取り出すのは、A4程の大きさになるたった1枚の用紙。だが倒れ込む男はその用紙を目にした途端、突き刺すような視線を初老の男へと向けた。
「実績とはお前達が営業して得た取引。そして結果とはその取引を俺のパソコンに入力し、打ち出されたこの紙切れのことを言うんだ」
初老の男は倒れ込む男の視界によく映るよう、ひらひらと軽く揺らしながら男の神経を逆撫でた。
初老の男が見せびらかし、倒れ込む男が睨む用紙はある数千万規模の大口取引についてのもの。動く金銭の規模だけでなく政治的な意味合いも多分に含まれたそれは、本来倒れ込む男とその仲間が年単位の時間をかけて結んだものだった。
だが実際の用紙には倒れる男や仲間の名前は何処にも記載されておらず、初老の男の名前が記載されているのみ。手柄を奪われたような形になるが、それだけでなく取引の内容までもが
いち社会人として疑わざるを得ない話しを軽く行っている初老の男だが、血走った眼が心から正しいと考えている事を男には読み取れてしまった。倒れ込む男は痛みに身体を悶えさせながらも、逆に挑発するように鼻で嗤う。
「ハハン、社長も名前の欄を書き間違えたりするのでッ!?」
男が言い切る前に、
「お前、俺より若いだろ? 聞こえなかったのか?」
自身を睨み付ける男を見下ろし、社長は嬉しそうに頬を緩めて目じりを下げる。芝居がかったように口を尖らせ息を噴き出した先には、煙の燻る鈍色の銃口があった。
本来、銃を手に入れる事こそ金と伝手さえあれば大抵の国で可能ではある。だがそれは護身用や狩猟用という体でしかなく、実際に無抵抗の人間へ向けての使用となると当然ながら話は違う。特に日は沈んではいるとはいえ、オフィスでのサイレンサーも無しでの使用。銃声を聞きつけて他の人間が様子を見に来るか通報があってもおかしくはないが、暫く経とうとも男のうめき声以外は不気味な程に静かであった。
「これが、結果なんだよ」
餌を前にした狐のように細められた目に、意図したように酷く釣り上げられた口角。なんの憂いも不安もなく、ただこの状況を愉しんでいる事が倒れ込む男にはよく分かった。
「――ッ!!」
倒れ込んでいる男は痛みに耐えながら、沸騰しそうになる頭を必死に抑える。だが満身創痍の身体では否、五体満足の身体であっても抵抗の手段は残されていなかった。取引の悪質な改竄に、考えなしのような銃の使用。それらを可能にしているのは、ひとえに社長の背後にあるマフィアの影にあった。
当初、倒れ込んでいる男は取引の改竄を知って仲間と共に社長を訴える気でいた。だが見越したように話し合いの現場をカタギとは思えない男達に抑えられ、全員が嬲られる中で1人だけ連れて来られ現在に至る。噂でこそ聞き及んでいた社長の後ろ暗い噂が真実であったのだと、ここに来て飛びそうになる意識の中で男は理解した。
「若いお前にはまだ難しいだろうが、これが社会ってやつなんだよ。ったく、こそこそ新人共を束ねようなんざせこい真似しやがって」
お陰で掃除屋に吹っ掛けられたわ――と、愚痴る社長に男の思考が途切れる。
「掃除屋、ですか?」
単語の響きに、男は嫌な予感がちらついた。
「掃除屋つったら
当たり前のように知らされる言葉に、男の嫌な予感が当たってしまったことを知る。取引の改竄自体が執拗に隠されていたが、本職を呼ぶほどに漏れてはいけないものだった。
「彼らをどうしたと言うのですか!?」
「その場にいねえのに俺が知るわけ、お?」
社長は話の途中にも関わらず通知音が鳴った携帯に反応する。暫くもしない内に目を通して弄り終えると、また表情を愉悦に歪めて口を開いた。
「全員、ちゃあんと死んだぞ」
苦楽を共にした仲間の顔が男の脳裏に過ぎり、憤怒の表情で社長を睨み殺さんとした。
「はは、悪かったそう睨むなよ。それに羽目は外しちまったが、お前を殺すつもりはねえ。お前は社内で間違いなく1番の有望株だ。それはお前のと実績が証明してる」
社長は男の感情を軽く躱しながらへらへらと表情を崩して返す。男の激情もその仲間であった者達も、毛ほども気に留めていなかった。
「いいかよく聞け? この先、間違いなくマフィアが台頭してくる時代が来る!! そして俺はこの通り、マフィア共とのツテも手に入れた!! 」
社長の声は徐々に大きくなってヒートアップしていく。椅子を吹き飛ばしながら立ち上がり、部屋に響く程に強く机を両手で叩く。勢いよく動かされ照明に反射してか、叫ぶ社長に嵌められた指輪の石が妖しく煌めいていてた。
「俺はこのまま、どちらの世界をも支配してみせる!! だがその為には、俺以外にも優秀な人材が必要になってくる。従順で忠実で、利口で実績を残せる人間がな。お前はまだ若い。今回の事は、特別に若気の過ちってことで許してやるよ」
あくまで尊大に、何処までも上からの社長の言葉に男の頭はむしろ冷えていた。仲間はいない。この先も生きていけるかは分からない。けれどせめてこの男を盛大に嘲笑ってから仲間達に会いに行こうと、男は口を開こうとした。
「お断りし――」
「お前の仲間には、家族がいたよな?」
再度、男の思考が驚愕に途切れる。
「何度も言わせるんじゃねえ」
悪魔とはこういう者のことを言うのだろうか――と、呆けた表情のままで男は社長を見た。
「
男は心の底から後悔した。幼い頃にその背中へ憧れを抱き、一度でもこの男に付いていこうと考えたことを。
倒れ込みながら打ちひしがれる男と、愉悦の表情を隠そうともしない初老の男。今世の終わりのような空気を打ち破ったのは、扉向こうからの酷く間の抜けた青年の声だった。
「こんにちはー、掃除屋です!」
軽い呼びかけと共に、1人の青年が部屋へ入ってくる。身につけている全身白いツナギと同様の白髪。目に痛いぐらいに全身真っ白の青年は、部屋の内部を見ても声音通りのにこやかな表情を崩さなかった。
社長は突然の訪問者に一瞬だけ驚いたものの、見知った顔だと分かって直ぐに表情を緩める。銃を机に置き、慣れたように青年へと口を開いた。
「おお、支払いか随分早かったな。丁度いい、今度からそこで転がってる奴と組ませるから顔だけでも覚えといてくれ」
要件に当たりをつけた社長は、顎で倒れ込む男を指す。その後、また今後について相談をしたところ青年に待ったをかけられた。
「あー、それもなんですけどね社長」
話を遮った事に申し訳なさを表情へ浮かべる青年は、それでもやはり軽い口調で口を開く。
「お迎え、もう来てるよ♪」
軽薄な口調と共に、青年が入った時に閉められた扉が勢いよく音を立てて開く。開いた扉から現れたのは、部屋の気温が幾らか下がったように感じるほど不気味な雰囲気を醸し出す3人。
3人は個性なく同様に、所々が傷んだ黒いシルクハットとローブを身に付けている。ただ1番に目を引く所は、顔を含め本来肌が見える部位全てに、エジプトの死者を連想する程執拗に包帯が施されている事だった。社長は性別すらも判別できない不審者達に、全身の汗腺から冷や汗を垂れ流して目を見開く。その様子は、不審者達が正しく何者か知るが故のことだった。
「まさか
復讐者ーー法で裁くことのできない悪を裁く、マフィア界の法の番人。役割としては裏社会での警察に似たものがあるが、不気味な風体通り組織自体が謎に包まれ嫌悪されている。
表社会の人間が普通に暮らす分には関わる事自体ない。だが、裏社会へ進出するに当たって聞き齧った事のある社長は、唾を吐き散らしながら激昂する。聞いたことも噂程度だが、放たれる圧に自身がどうなるかが容易に想像できた為に。それに青年は、至って涼しげに返した。
「やだなあ、僕はただの掃除屋だよ? 偶々色々とメモした手帳を落として、偶々拾った社長が何かしようとして、気づいた僕が通報しただけさ」
社長は青年の返事を書き終える前に、復讐者へ銃を乱射して逃れようとする。ただその全てが不自然に弾かれ、少しの火花を残すだけに終わった。
やがて弾も尽きたところで、復讐者の1人が何処からか黒い鎖を取り出して投合する。投じられた鎖は目に止まらぬ速さで社長へ迫り、先端の枷が響く金属音と共に首に嵌る。嵌った勢いで車に轢かれた蛙のような声が出たが、復讐者達が容赦を掛ける事はなかった。社長と復讐者達の間にある机も気にせず、頭から引っ張られぶつかりながらも引き摺られる。
「ゆっくり服役しておいで。後始末は、任せてくれるんだもんね♪」
社長が踠きながらも引き摺られる先で、にこにこと表情を緩めたままの青年とすれ違う。その最中にかけられた言葉は、社長に終わりを悟らせるには十分過ぎた。
部屋には引き摺られる痛みからの呻き声だけが鳴る。それも復讐者達が無言で扉の向こうへと消えていくにつれ、徐々に小さくなって遂には何も聞こえなくなった。
掃除屋と呼ばれていた青年は復讐者達を見送り、満足そうに息を吐く。その間もにこやかな表情は絶やさず、此処で初めて部屋にいるもう1人の人物に視線を向けた。倒れ込む男もどうにか視線を合わせると、青年が男を案じる。
「お兄さん、大丈夫?」
「……私は、どうなるのでしょうか」
息も絶え絶えと言った様子の男が返す。
「社長の独断とはいえ、マフィアと関わった上で敵に回しました。会社の信用は潰えますし、見過ごした私にも利用価値があるとは思えません」
男も復讐者については噂程度で知っていた。裏社会について社長程詳しくはなかったが、自衛の為にと調べてある程度は。まさか実在して、それもここまで間近で見る事になるとは露程も思っていなかったが。
「会社はともかく、お兄さんの仲間の後始末をした掃除屋は僕だよ? お兄さんみたいに助けられてると思わないの?」
話を聞いた青年が男へと首を傾げて問いかける。
「
男は青年達の登場で冷やされた頭で、冷静に現状を思案していた。青年が此処に来た目的、人柄、主義。それは奇しくも社長の下で激務に就いていたからこそ身に付いた力であり、青年を満足させるに充分足り得る物だった。
実際、社長はあれで用心深い男である。男に取引の改竄を悟られた事に素早く気づき、集会所を的確に特定する等々。保身という点において非常に優秀でもあった。悟られた際の焦りと完全に潰すことの出来た全能感を突いてといった前提もなければ、その牙城を完全に崩すため青年はより時期を見る選択をしていた。
「そうだよ、お兄さんは偶々助かっただけ。というかそこまで理解できるのなら、何でこんな事になっちゃったのさ」
問いかけに満足した青年は、さらにもう一つ問いを重ねる。この状況この短時間でそこまで把握できるのであれば、もっと早くに事態の収拾に努められたのでは――と。
男は青年の一挙手一足頭に注視し、試されていると未だ痛む足を抑えながら理解する。目的こそ不明だが、青年は男へと何かを求めている。それを理解したからこそ、最早どうでも良いと唇を噛み締めて表情を歪ませる。程なくして開いた口からは、投げやりに遅過ぎた後悔が飛び出た。
「私も、人の子だったのですよ。幼い頃憧れた社長を――父を疑い詰める事ができなかった」
たらればを考え始めた自身を、男は視線を床へ落としながら自嘲した。
何もかもがもう遅い。幼い内に両親は別れて母親に引き取られ、憧れていた父の会社に入ったが不正と悪事の温床。何日も泊まり込みで改善と実績を熟す内に母の病が末期の状態で見つかり、そのまま碌に会えずに死別。父は訃報に変わらるどころか、裏社会と手を組んだ上に何処かで一線を超えたのか幽閉。仲間の家族は助かったが、生きる気力すら失いつつある男に青年は声をかける。
「僕は、さっきの男と同じような事をするつもりだよ」
青年は、再び視線を上げた男の眼を真正面で見据える。
「今回の件が外部へ醜態として漏れる前に、僕のツテと知識を使って表と裏の両方で、この会社を誰もが無視できない迄に押し上げる。その後、新しくファミリーを設立して世界を牛耳りに行く」
連れて行かれた男の父とほぼ同じ事を青年は語る。だが父とはその語りようが大きく異なっていた。勢いに任せたような叫びではなく、あくまで淡々と根拠に基づいたように予定調和として語る。男はその様子に、言語化できない説得力を感じた。
「君にはその時、僕の隣に居れる権利をあげるよ♪」
結びの言葉はやはり軽薄に、声音だけはどこまでも男を煽るように語った。そんな青年に、男は身体の痛みを堪えて1つだけ問いをかけ返す。
「仲間は、何か最後に言っていましたか」
青年は、一呼吸だけ間を置いて返した。
「いいや。僕が着いた時には全員亡くなっていたよ」
遊びのない淡々とした青年の言葉から、男は寝起きで漸く自覚した夢のような感覚に襲われた。自身の手元にあった筈の物は、少なくとも自身が価値あるものと考えていた物は、全て失ってしまったということを。気づき、遅すぎる程に後悔し、自嘲して頷いた。
「そうですか、ありがとうございます」
男は自身の優れた能力を客観的に自覚していただけに、お粗末にも程がある結果が受け入れ難かった。だが、産まれ持った冴えわたる頭脳は現実逃避をよしとしない。ただ己の結果だけを、自分自身で冷静に見せつけられた。
ただ何もかを失ったと失意に暮れる男は、再び青年を視界に収めると激痛を堪えながら跪き、投げやりに今後の行く末を決める。正史において誰よりも厚い忠誠心を持った男は、ある意味では盲目に青年の軍門に下ったのだった。
「フロント企業の小間使いでも、マフィアの鉄砲玉でも幾らでもお命じ下さい。そして今後は――――」
「今後は、桔梗とお呼び下さい」
今宵の全てが手の内にあった青年は、不気味な程静かに受け入れた。
長くなるとダラダラするし何か書きたいか分からなくなるやつ。