強かに振るわれた鞭により、未だ赤黒い染みの取れていない床から弾けるような音がオフィスに響いた。
振るわれた人物は音と動作に驚き、肩をいからせブルりと身を震わせる。だが振るった人物は、それをひと欠片も気にも留めない。デスクを挟んだ対面の椅子から、恐る恐る上目遣いで座っている年若い白髪の青年に口を開いた。
「ハハン、全くなっていませんね。さあ背筋を正して、もう一度商談のロールプレイです」
「桔梗ってば、ちょっと厳しくない?」
以前にこの部屋で起こった凄惨な出来事も、時は過ぎて数週間も前のことになる。当初こそ、事件後の会社の引き継ぎやら土台固めに追われる2人だった。だがゆとりが出来始めた現在では、奔走する際に気になった青年の社会人マナーを、桔梗が先達として青年へ一対一で教え込んでいた。
その際に某跳ね馬を連想させる鞭を持参するなど、青年に先日の塩らしさはどこに行ったのかと嘆かれたが。とっくの前に吹っ切っりました――とは、流石に社長からの信頼も厚かった社会人の談。むしろ晴れ晴れとした笑顔すら見せる桔梗に青年は頬を膨らませて不貞腐れる。その様子にまた桔梗が鞭を振ろうとした際、青年がふと思い出したといわんばかりに手元から資料を取り出す。
「そういえば、はいこれ」
「学校のプリントを渡し忘れた気軽さで出さないで欲しいのですがね」
桔梗に手渡された資料に書かれているのは、今後の会社運営の根幹とも言うべきもの。総合商社として元々手広く行っていた桔梗たちの会社だが、青年が時折手渡すそれに商路は一気に拡大して成長し続けている。
最新の技術や政治情勢に基づいた市場形成等はまだ序の口。情報がジャンルや規則性も見境なく手当たり次第書き殴られた紙面には、時に数世代先を行った技術情報までもが載っている。値千金のそれに初めて目の当たりにした際には桔梗も驚きを隠さなかったが、今となっては目を通した後に1人でドン引く程度に収められている。
「ボスが裏の世界出身とは知っていますが、どこからこんな情報を仕入れて来るんですか」
気になってこそいたが、あまり踏み込むべきではないだろうとも考えていた桔梗。その為これも、青年荒野まともな返答は期待していない雑談程度のもの。お互いに奔走したことで関係性も出来て来ただろう――と、打算も数割含んではいたが。
「ああ、言ってなかったけ。僕、パラレルワールドが見れるんだよね」
ある意味では、まともでは到底なかった。
「は?」
青年が詳しく語るには、世界は無数に枝分かれして様々な可能性に広がっている。仮にAの世界ではチワワに追われ続ける人間も、きっかけ次第でマフィアのボスになるBの世界を歩んでいるという。青年は別の世界に生きる自身のパラレルワールドを除くことができ、それによって技術や情報の進んだ世界から先取りをしているとの事だった。
桔梗は俄には信じ難いことだったが、実際にこれまで資料として、その後の取引としても納得せざるを得ないことばかり。何故幽閉された父はこの青年を利用出来ると思ったのだろう――と、桔梗は最早会う事も叶わない父を不憫に想った。
「じゃあ、僕は学校の課題があるから。何かあれば呼んでね♪」
隙を見せたと言わんばかりに、青年は改築したオフィス奥の自室に篭る。桔梗が気づいた時にはもう遅く、勢いよく閉められた扉の音を最後にオフィスに静かな空間が広がった。
桔梗はため息をひとつ吐き、ふざけて用意してきた鞭を仕舞った。部屋まで追いかけ虐めても良かったが、可能な限り入らないようにと伝えられている。周囲へよく言えばフランクな態度で接する青年だが、桔梗はあの幽鬼のような者達を先導した背中を忘れられないでいる。そして忘れられないでいるのは、いつかの仲間達も同様だった。
「……疲れました」
以前よりも増えたため息へさらにため息を溢しながら、桔梗は新たに青年の補佐の為に設置した自身のデスクに座る。デスクに肘をついて眉間を捏ねてみるが、疲労が取れた気はほんの少しもすることはなかった。
思いの外友好に接してくる青年にこそ話していないが、当然ながら桔梗はあの日の事を引きずっていた。自身の爪の甘さが引き起こした惨状、そして今なお胸の内で残り続ける言いようのない虚無感。気晴らしにと好んでいた紅茶を淹れてみても、喉を潤して悪戯に香りを部屋に漂わせるだけで終わった。
「いけませんね、ここまで自分が切り替えのできない人間だったとは」
思ってもいない事を呟きながら、それでも今は職務中だとデスクの上に置いていた書類を手に取る。内容を軽く確認しながらファイルに整理するに留めていたが、ふと誤って紛れ込んで資料の束に気づく。それは青年と付き合い始めた事によって得た伝手を自身でも広げ、依頼していたとある人物の情報だった。
「『掃除屋』ですか」
他ならない青年のことである。青年と桔梗の数週間に及ぶ尽力により、前社長の時と比べ格段に社内環境は改善しているが、それでも青年が裏の世界出身であることには代わりない。この依頼自体が気づかれている可能性もあるが、短い付き合いながら気にしないだろう範囲でと桔梗が上手く情報屋に念を押している。引き際は反面教師の身をもって学んでいた。そして資料によると『掃除屋』とは殺し屋の別称ではなく、青年本人に付けられた蔑称であることが分かった。
「殺しではなく、その後始末を率先して引き受ける
青年は殺し屋としての開業時期こそ不明だが、いつからか便利な人材としてフリーに多くのファミリーに雇われていた。ただそこそこに優秀であった程度しか今回の条件で得られた情報はない。幾つか条件付きで注文した為桔梗とてそこまで気にしいないが、多いのも呟いたような三下からの妬みや眉唾ものばかり。殆ど分からないのも同然かと、資料をデスク上に置いた刹那――何かが弾け飛ぶような破裂音が何処からか響いた。
「ボス大丈夫です、か……!?」
音の発生源は青年が篭った隣室。桔梗は音を認識するや否や直ぐにデスクから立ち上がり、合鍵を使用する事なく鍵ごと扉を勢いよく蹴破った。そして目の当たりにした光景に、桔梗は大きく目を見開いて驚愕する。
「これは、糸?」
それは床や壁等、辺り一面に散乱する僅かに発光を残した糸。あわや何処からか青年を狙ってきた刺客かと身構えた桔梗にとって、怪しげな人影の方がまだ分ると思考を停止させるには十分過ぎた。
「桔梗、かい?」
聞こえた声に桔梗は視線を動かす。そこには青年が床で這い蹲る形になり、糸を身体中に纏わりつかせながら肩で荒い呼吸を行っていた。
「ボス!?」
桔梗は糸に足を取られないようにしながらも直ぐに駆け寄り、酷く顔色を悪くしている青年の容体を確かめる。その際に青年は既に意識を失ってしまっており、簡易的に部屋に設置されていたベッドへと運んだ。調べたところ熱自体あるものの僅かであり、純粋に疲労から眠りに就いた事にも気づき桔梗は息を吐いて安堵する。
これまでも部屋に篭っては疲労した様子を見せる事はあった。恐らくそれこそが、例のパラレルワールドの知識を得る為のものだったのだろうと桔梗は見当づける。そして以前から行っていたその積み重ねが、結果として今の状況を産んでしまったのであろう――と、そこまで考えてふと桔梗は内心で小首を傾げる。
仮に今回の状況が、パラレルワールドを知る為の副作用のようなものだったとして。リスクとリターンが全くもって釣り合っていない。実際に倒れ込むほどの疲労があるのだろうが、ここ連日行い続けてしまった上でのことだろう。加えて起きてからも暫くは安静だろうが、特に命や今後の生活に別状がある訳でもない。にも関わらず、得られる知識は現代社会を無双するほどのものばかり。その為、桔梗は不思議に思う。一体、何故――。
「何故、もう行って欲しくないと思うのか」
利を考えるのであれば、この力を使わない手はない。桔梗達は少なくともこれまで、現在の状況に見合う以上のリターンを得られているのだから。
だからこそ、桔梗は自身の感情を同情でもしたのだろうか――と、心底首を捻らせて思考していた。歳若い青年の憔悴した痛ましい姿に、会社の為身を顧みないその献身に、触れてベッドへ運んだ際の目を見張ったその軽さに。何故こうも数週間前に会ったばかりの裏社会の人間に、思いを巡らすのかと桔梗は不思議に思う。その困惑は青年の看病を行いながら、眼を覚ます数十分間に渡るまで続けられた。
「っ僕は、どうしてベッドに」
青年が身体のダルさに顔を歪ませながら目を覚ます。
「ボス、体調は大丈夫ですか?」
呟きながらも肘をつき起きあがろうとする青年を、安静にするよう制しながら桔梗が声をかけた。
「桔梗か、大丈夫だよ。それよりヘリの用意をお願い、ちょっと向かう先ができた」
だがそれすら青年は振り切ろうとし、上半身を起こしべッドから降りて何処かへと向かおうとする。それには流石の桔梗も慌てて状況を説明し始めた
「見たところ衰弱しています。命に別状はありませんが、一旦は身体を休めるべきですよ」
桔梗は努めて冷静に、青年を客観的に見た容体を伝える。実際、青年は起き上がりこそしたものの大きく身体をふらつかせている。顔色も青を超えて白に迫ろうとしており、桔梗でなくとも止められるのは必至だった。
「駄目だ!!」
だが青年は桔梗の言葉の意味を自身の中で噛み砕いた後、強く叫んで自身の我儘を押し通そうとした。
「ただでさえ、間に合わなかったんだ。せめて……少しでも早く、彼の元へ」
「……貴方の部下として、本日これ以上の行動は看過できません」
桔梗はこれまでに見た事のない青年の様子に瞑目する。だが急に叫びその後もうわ言のようの呟く青年は、正常とはとてもではないが思えなかった。後々で叱りを受けるのは覚悟の上、青年の意思を自身の言葉で無碍にする。
「はあ?」
部屋の温度が、上がった。
「初めての部下だからって、ちょおっと君に甘くし過ぎたかな?」
桔梗は自身の目を強く疑った。何故ならば青年の背に、燃え上がる橙色の巨大な炎を見た為に。
「マフィアの世界で、ボスの命令は絶対なんだけど?」
淡々ながら青年の言葉に力が入り出し、それに合わせて炎の燃え上がり様も勢いを増す。炎は既に桔梗の背丈を超え、天井をすらジリジリと焼け焦がそうとしていた。
知らず知らずのうちに、桔梗は迫り上がってきた唾を押し込んで喉を鳴らす。改めて自身が相対している人物の一端を知った事で。謎こそ多いが好青年の印象を出なかった青年が、正しく自身とは異なった世界で生きる人物なのだと知って。その為、口から飛び出た言葉は文字通りその場凌ぎ以外の何者でも無かった。
「……『ロクチョウカ』と、関係があるのですか?」
「ッ!?」
炎が青年の驚愕の表情と同期するように、その不定形な身を大きく揺らした。
「寝ていた際、うわ言で呟かれていました。それは今すぐに私を焼き殺し、その千鳥足で1人向かわなければいけないモノなのでしょうか」
桔梗は突破点を見つけたと言わんばかりに大きく出る。肌を間近で炙られるような感覚に苛まれながら、驚いた事で冷えたであろう青年の思考を解していく。口を開く度に喉の奥まで熱で渇き、今すぐに看病の際に持ってきたスポーツドリンクをがぶ飲みしたい衝動を抑えながら。桔梗は青年との綱渡を、渡り切った。
「せめて、私も連れて行ってください」
その言葉が止めとなったのか、青年の背にあった炎が鎮火する。謎の炎を生み出した本人は、ベッドで上半身を起こしながらも焦げついたシーツを見て俯いていた。そして桔梗が心配から再び声をかけようとした時、青年がぽつりと呟く。
「早く、2人分のヘリの用意を。それまで寝る」
言い切るや否や、青年は再びベッドに横たわって桔梗に背を向けた。
「ッハ!!」
桔梗は一瞬だけ固まったものの、直ぐに返事をして部屋を出る。そのまま言われた通りにヘリの手配をしながら、青年の体力を考慮して通常より余分に詰め込む物の選定も行う。
桔梗はこの時点で、気付いてはいなかったことがある。看病以前に違和感こそ持ったが、その後の青年とのやりの際に、人ひとり殺して余りある熱量に脅かされながら。客観的に見たその生命の危機時に、青年が自身を殺すとは、露程も考えてはいなかったことを。その上で、青年の為を思って進言した自身の行動を。自身の心情と行動の歪さに、欠片すらも気付いていなかった。だがそれに気づくまであと、もう暫く。
「それにしても『ロクチョウカ』とは、一体なんなのだろうか」
そして、再び失うまであと――――。