シャッター街に出てから、丁度一区画過ぎかけたところで、私はふっと足を止めた。懐かしい音楽が聞こえる。聞き慣れた、落ち着き払った甘い声だ。
"コクーンについた傷なんてさ 誰も見やしないだろ、コクーンに付いた傷なんて――"
あれは、確かにビードルズの曲だった。微かな雑音は混じっていたが、曲の魅力を大きく損なうものではないと思えた。
少し引き返していって、狭い路地に入る。スパイクタウンでは、哀愁のネズ以外のナンバーを聞いたことがなかった。ネズには、才能も、人気もある。確かに彼はいい歌手だった。それこそ、今の私では到底太刀打ちできないほどに。
老いたりとはいえ、若いころに培った聴覚は健在なようだった。微かなフレーズを手繰るように進む方法は全身に染みついている。とはいえ、少し酔っていて、足元が覚束ないのは仕方のないことだ。ちょっと落ち着こうと体を左右に揺らし、結局ごみ箱にもたれて狭い屋根の隙間から空を仰ぐのが一番良いと分かった。空はどっぷりと暗く、星が瞬いていて、その数はタチワキで見るよりも多い。薄暗い街全体を包む、ワッとした熱気が心地よかった。しばらくしてから、腰を上げて、ゆっくりとバランスを取り戻すと、私は再び歩き出した。
ビードルズの存在感はどんどん大きくなっていく。声の発生源をちょっと見て、私は一目で気に入った。小さく目立たない看板ではあるが、気の利いた電飾の店だ。イッシュ風の書体で、パープルのネオン管がくるんと回り〈Four Obstructer〉という文字を作る。そういえば、ガラルの外でも聞いたことがある名前だ。随分と、いい雰囲気のバーだった。
あのネズが時々来る、という話を聞いたことがある。通から称賛を浴びる手練れのバーテンダーとのツーショットは、なるほどよく似合いそうだ。しかし私はカクテルに格別興味がない。注目するのはビードルズとそれを頼む客、準備していた店主の人柄だ。
二度目になるが、哀愁のネズ以外のナンバーをここで聞くのは、砂漠のダイヤモンドを発見するようなものだ。スパイクタウンは、天から、ダイマックスを禁じられている。派手なリーグ戦への適応に躓き、かといって突然別の妙味を出せるわけもない。かくしてこの街は沈黙した。皮肉なことに、歌を聴くには最高の環境だったらしく、唯一のスターは街の顔としてさらに輝く。だが、本体であるはずの街は――余所者の私には――顔以外の魅力を、すっかり忘れているように見えた。
曲が終わりかけて、私はバーに入ることにした。ドアをくぐると小さくベルが鳴り、ひんやりした空気が私のスーツを取り囲む。店内の雰囲気は、バー、というよりも、酒場といった雰囲気の方が相応しく感じた。一枚板の黒いテーブルの上に、リネンの布と、カクテルがぽつりと置かれている。視線を滑らせて、店の奥に目を向けると、ぐうぜん、ネズがいた。彼は少しだけこちらに目線をやると、飲みかけらしいカクテルに手を伸ばした。私とは違い、彼は特に何も思わなかったかのように振舞っていた。丁度、また別の曲がかかったところだ。
私はミュージシャンを実際に見るのが好きだ。そうすれば存在のすべてから声の手触りが得られる。得たければだが――例えば、この白黒のスターがどのように歌っているのか知りたい場合などだ。それにまた、私の過去に重なる物を見出せるのもよかった。だから、ネズを見た時のあの興奮といったらない。ぜひ何か話しかけねばと思った。
バーテンダーは、見たところ五十に近いだろうか。おそらく染めずしてそうなったのだろう、オールバックで半分ほどは白髪。精悍な顔つきだが、その表情は穏やかだった。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
低いが、よく通る声だ。バーテンダーは席を指して、座るようにやさしく促した。カウンター席が四つだけ、それも不規則に波打つような並び方だった。四人の邪魔者という店名に合点がいく。私は席についてダイキリを一杯頼み、相棒を出してやれるかを尋ねた。
「かしこまりました。ポケモンの方は、高さ実質1.7m、重さ実質80kgまで、ジムバッジ4個制限となっておりますが」とバーテンダーが答えた。
「ああ、では、条件に抵触する。やめておこう……あの、そのダイキリ、シュガーシロップは多めでお願いできるかな」
ジムバッジ四個は、中々信頼できるラインだった。ドゴームとオンバットはもう暫くポケットの中だろう。ダイキリを待ちながら、私はレコードプレーヤを探した。
"ダダリンを出せ、ダダリンを戻せ ホエルオーの腹の中から――"またビードルズの曲だ。カウンターの奥で、ひっそりと回っている。
「お待たせしました、ダイキリです。ご要望通り砂糖は多めに。無用な気遣いかもしれませんが、外はお暑かったでしょうから氷と、それに合わせてラムの割合を増やしております」
やはり良い店だ、と感じられた。私はゆっくりとグラスに口をつけ、最初の一口を堪能して、ほっと息をついた。頭を冷やすにはちょうどよいカクテルだった。今の私は、彼にすぐさま話しかけられるような人間ではない。ただの、落ちぶれた歌手だ。相応のものを作らねばならない。とてもいい、と呟くと、バーテンダーはそっと微笑んだ。
「これ、選曲は誰が?」と私は尋ねた。まだ、甘い嗄れ声、と言っても差し支えはなさそうだ。「よいレコードプレーヤだ。久々に見たが、針にリングマの爪を使っている。ベアリングも非常に良い状態で、盤も美しい」
「あちらのお客様たっての希望で」彼の気心は知れている、という風の言い方だった。
私は哀愁のネズの方をちらと見た。またカクテルをちびちびやっていたと思う。彼は、彼以外の曲の中から何を聞くかと問われた時、ビードルズを選ぶのか。面白かった。演奏に耳を傾けているという風ではなく、その点は少しがっかりしたが。
バーテンダーはちょっと話をしようという素振りを見せた。
「お客様は音楽には中々お詳しいとお見受けいたしましたが」
「ずいぶん昔、イッシュで歌手をやっていた。それだけだ」と私は言った。「あちらの方には及ばない。あの人、ネズさんだろう」と小声で付け加えた。
バーテンダーは静かにうなずいた後、「ですが、聞き心地のいいお声です。さぞやよい曲を歌われていたのでしょうね」と言った。
「よい曲、というのがどんなものかは難しいが」と私は答えた。「まあたぶん、ゴールドディスクが何枚かのところじゃないか」
私がこう言うと――別に信じてほしいわけではないが――冗談と受け取られることが多い。焼きが回ったのだと思うことにしている。それか、ゴールドディスクの価値が、私が思っている以上に上がったかだろう。ネズは少しだけ目線をこちらに向けた。バーテンダーの反応は絶妙だった。信じられない、と大仰に驚いては、かえって発言者を不機嫌にさせてしまうことがある。とはいえ、あまり反応を示さないのもよくない。騒ぎ立てはせず、軽く驚きの声を発した。
「おやまあ、それは素晴らしいですね……とすれば、お客様の曲も当店にあるかもしれません。よろしければ、探しておかけしましょうか」
丁度二曲目も終わるが、私は手を振って断った。
「せっかくだが、いらないかな。リクエストもない」ダイキリをまた一口飲んで、グラスを覗き込んだ。
「そうでしたか。それは、少々残念ですが、仕方ありませんね」またいつか機会があれば、と言って、バーテンダーはネズの方へリクエストを聞きに行った。私は何が流れてくるのか気になっていた。二人で何か話しているが、聞こえなかった。
すると、何があったのか、バーテンダーが戻ってきた。「お客様、せめて曲名だけでもお聞かせ願えませんか」
「私のかね」少し驚いて言った。「何だったかな……あれがある。8月の……『オーガスト・フォー・バッフロン』とか」覚えていたのはマイナーな曲だったが、答えないよりはマシだと思った。彼はご協力ありがとうございます、と言って、再び戻っていく。
私はダイキリを飲み干して、ほかの曲名を思い出そうとした。駆け出し時代、黄金期、ビードルズが出てきた頃のこと。私はもう酔いが回っていて、だから出来事を思い出すままに追った。ネズとバーテンダーは、また、二人で何か話し込んでいる。私は次は何を飲もうかと考え、溶け出した氷をまた飲み、レコードプレーヤに目をやった。
少しして、「コーソンの、『オーガスト・フォー・バッフロン』はありやがりますか」という声が聞こえてきた。歌手とは思えないほど気の抜けたネズの声。白い顔だが、あれでもベロベロに酔っていたようで驚く。だが、それ以上に私は、私の名がネズの口から出たことに驚いていた。出た理由は推測がついたが、それでも酔いが醒めそうだった。
「あちらのお客様が、この曲を聞きたいと」とバーテンダーが言った。鮮やかな赤文字で書かれた曲名、砂煙を上げて駆けるバッフロンと太陽のジャケット、私の名の表示が見えた。
「よろしいですか、コーソン様?」私はぽかんとした顔で頷いた。かなり慎重にレコードが取り出され、ゆっくりとプレーヤの台にセットされた。それから、そっと針を落として、懐かしい前奏に浸らせてくれる。
私は目を細めてネズを見た。もう、酒の量があまり減っていない。限界に近いのか。確かに私にも過失はあった。随分と酒が入っているなと思っていた。そうでなければ、バーに来て自分の曲を聞かされるとどのような気分になるか容易に思い出せただろう――なにせスパイクタウンでは哀愁のネズの曲ばかり流れているのだ。これで三度目になる。
別に私は自分の曲が嫌いではないが、待ち望んだネズのプレイリストを、彼の悪戯心や酩酊のような何かに乱されることは少し残念に感じた。でもそれから、私の曲を彼に聞いてもらえるというのはラッキーではないかと思い直した。なんとなれば、私も哀愁のネズの曲をリクエストし返してみればいい。バーテンダーがやってきたのて、空のグラスを下げてもらう。もっと酒を入れねば今の彼とは話せまい。
「アンタ、一体どんな歌手なんです?」
機会というのは、得てして思っているより早く来るものらしい。
「過ぎ去った時代の歌手だよ。それよりも、私はなぜ君がそんなにも酔っぱらっているのか気になるがね」私はマルガリータを頼む。若いころの丁寧な歌い出しが耳に残った。
手の込んだ髪型と服装。やつれながらも端麗な容姿。猫背と病的なスタイルさえ魅力に変えるようなカリスマは、遠くからは平然としているように見えたが、同じカウンターに座ると、流石に酔っぱらっていることが見てとれた。彼が喉を見せてカクテルをぐびりと飲んだ時、私は、少なくとも二日酔いはするだろうなと思った。ひどい頭痛に吐き気もあるかもしれない。
「オレの妹が行っちまうんですよ」とネズが言った。絞り出すような情感たっぷりの声。
先ほど頼んだマルガリータは、あと一口分しか残っていなかった。
「行ってしまうというのは、どこにだ。嫁にかね?そんなものはだね、君、閉じ込めておきなさい。分かってくれるはずだ」と言いながら、私も、自分が相当酔っているのを自覚した。
嫁……!?とネズが言い、狼狽するそぶりを見せた。
「うっ、全っ然違いますけど、アンタ、良いこと言いますね。名前は……」
「コーソン」と私は半ば反射的に答えた。「それでぇ、妹さんはどこに行くんだね」
「ジムチャレンジ、ですよ。マリィのやつ、チャンピオンになるって」とネズが言った。「推薦状もオレが書いたんです。マリィの意志は尊重しますし、責任もって応援もしますよ。ただ、チャンピオンより憧れられる背中を見せられなかったのがどうにも不甲斐ねーんです」
私はその告白を聞きながらマルガリータをゆっくりと飲み干し、リストを確認する。我々の体にはたっぷりと酒が染み込んでいる。珍しくフォーマックがあったので、それと砂糖漬けフルーツを頼んだ。『オーガスト・フォー・バッフロン』のコーラスをバックに待った。私の好敵手だった歌手の名を冠する、素晴らしいカクテルの味わいを。
「難しいな。私には誰も悪くないように見えるし、流れが悪かったんだろう」と私は答えた。
「そいつは……分かってるつもりなんですがね」とネズが言う。だが、こういうことほど折り合いをつけるのが難しいというのも、彼はよく承知していた。
「こういう問題は、他人の似たような事例を見るのが一番いい――時に君、私がどんな歌手かを聞きたがっていたね。どうだろう、つまらないだろうが、ここは少しばかり、コーソンの思い出話に付き合ってもらいたい」すこし芝居がかった口調で言うと、「それじゃあ、頼みます」という一言が帰ってきた。
ここで喋らないあたりが、このバーの人気の秘訣なのだろう。カウンターに音もなく砂糖漬けフルーツとフォーマックが置かれる。私はグラスをぐるっと回して最初の一口を含む。次第に思い出が蘇ってきた。
セッカシティの生まれなんだ、と私は言った。ホウエンから来た父とイッシュの母との間に生まれた。
「子供の頃、寒くて遊べない日というのがよくあった。ネズ君、きみの妹さんはおいくつなのかね……ああ、であれば、それより少し小さいぐらいだ。当時の私くらいの年齢の子は、どこであれ動き回らずにいられない。だが、家は断熱材がたっぷりで少し狭かった。いつも物足りなかった」
そんな時は、父が決まってホウエンの歌を教えてくれたものだ、と私は言った。
「全く、童謡というやつはよくできている。今の私を見てみなさい。こんなに年をとっても口ずさめるものばかりだ。単純で、愛もある。旅に出てもゴニョニョと歌ってばかりで、ジムバトルは二回しかやらなかったが。やっておけばよかったと思うかね?バッジ二つで辞めずに。もう少しバトルに精を出し、何度か大会に出ていたら、君と素面で話すことがあったかもしれない」
ヒウンに着いてからは、そこらの楽団に入って修行を積んだ。専らバーのラウンジで歌っていた。20歳の頃にデビューしたが、その時は歌ではなく旅の途中に覚えた芸ばかりが受けた。人の可聴域を超えた音でゴニョニョに指示を出す。カクテルを一口飲むと、跳ね橋前でのことが鮮明に思い出された。つまらない芸だ。
「そして、丁度同時期に出てきたのがフォーマックだ。何、フォーマックも知らない?信じられん。『キャモメ・レター』の名を聞いたことがないか?世界ツアーもやっていたはずだが……。失礼、取り乱してしまった。そうなると、予定を変えねばなるまいな。バーテンダー氏、フォーマックの『ストーミィな気分』はあるかね?そう、それだ。感謝する。本当は君の曲をかけてもらうつもりだったんだ。まあいい、フォーマックが出てきた頃の話に戻ろう。やつはひどく真っすぐに歌った。反応は良くなかったが、私だけはエールを送った。汚い話だが、よい歌で、しかも拍手が少なかったから。私だけが彼の音楽を理解し、彼だけが私の音楽を理解していたと思う。いや、今でさえそうかもしれん。ありうる」
お互いの歌唱法を高めあう内、私たちはいつしか盟友になった。小さなラジオに出てはファンを少しずつ増やし、駆けずり回って業界の風向きを確かめ、二人で一口分のスイーツを分け合い、仕事をそれぞれに振り分けた。だが、転機は何と言ってもポケウッドだった。
「月の綺麗な夜のことだ。出先のレストランでディナーを食べる、と言っていたフォーマックから、いきなり電話が掛かってきた。聞けば、映画出演が決まったというニュースだ。私は祝福の言葉を送った。ようやく彼が報われる時が来たのだ、と思った。しかし、どうも様子がおかしい。まさか、辞退しようと思っているのか?私は不安になった。歌一本で成り上がりたい、とでも思っているのだろうか。奴ならありえそうなことだ。私は説得を試みた。プライドが傷つくというのなら、歌うシーンを入れるよう私が交渉する。ほかにも、出来ることはなんでもしよう。お前の才能は世に出るべきなんだ。ともかく、レールを外してはいけない、云々……。反応はなかった。しばらくして、別の声が聞こえてきた。こんな具合だ。やあ、コーソン君。フォーマック君から話は聞いている。レコードを聞かせてもらったが、実にいい声じゃあないか。私は耳を疑った。間違いなく、ポケウッド映画監督、S.ポケモンスキーの声だったのだ。曰く、ぜひ劇中歌を歌ってほしい、と。信じられない思いがした」
結局、ポケウッドの映画にしては興行収入は芳しくなかったようだが、と私は続けた。それでも、ある程度の地位を築くには十分な出来事だった。
「不思議ですね。なんでそのフォーマックって人、自分で映画に出なかったんです?」
「いい質問だが、君はこういうことには疎いようだ。酒が入っているからかもしれないな。どこから説明を始めればいいのか分からんが、重要なのは、やつには人たらしの才能があったということだ。丁度今のリーグチャンピオンと同じように。君の方がよく知っていると思うが、例えばダンデ君は自分から企業とスポンサー契約を結びたがったのか。そうではなかろう。むしろ逆、人々が彼のもとに寄って来るんだ。チャンピオンという肩書が放つ魔力と同じ種類のものが、フォーマックの人間性から溢れ出していた。そして、魔力には代償が付き纏う。あのマントのデザインをどう思うかね?いっぱいに入ったロゴマークを美しいと?確かに多くのモノを背負って戦う姿は美しいかもしれん。とはいえ、デザイン自体が美しいわけではない。貶すわけではないが、そういうことだ。彼は、自分の魅力が……この場合、優しさと言うべきか。そう、自分の優しさが引き寄せたものを、自分の優しさのゆえに手放さなければならなかったのだと、私は理解している。さて、私は私で正当に評価されだしていた。ステージに立つ傍ら、彼を全力で援助することにしたよ。パーティーに連れ出し、有力者と引き合わせるなんてこともした。こんな借りを作ってしまったのだからな。この人たらしが援助を得たらどうだ。前より大きな機会を得たら、もちろん。彼もまたチャンスを掴み、颯爽と一流になった。私も着々と進み、気付けば二人は音楽界に燦然と輝く星になっていた。だから、君、その時の喜びが想像できるかね。昔は二人で見向きもされなかった。仲間の何人かは成功し、私たちのことを忘れ……そして、頂から放物線を描くように居なくなってしまった。さっきも言ったとおり、フォーマックはいつも真っすぐに歌っていた。私たちは成功を本当に喜んでいた」
とはいえ、私はいま、スターダムにはいない。カクテルを少し口に含んで転がした。好みのバランスだった。十年ほど経ったころだ、と私は言った。
「分かれ目は、スキャンダルだった」
ネズは怪訝な目で私を見た。「へえ、そんなことしそうには見えませんがね。あくタイプが全員悪いわけじゃないのと一緒ってコトですか?アンタもやりたくなる時は……」
「私が?いや、いや。私は見ての通り真摯な紳士なものでね。スキャンダルはフォーマックが起こしたものだ」私はやや意地の悪い笑い声を立てた。
「そう、フォーマックが起こした。まあ、奴の好いていた女性と結ばれた手前、私が起こすはずもなかったか。スターに上り詰めた数年後、私たちは二人とも結婚していた。ガラルにも来た覚えがある。素晴らしいハネムーンだったし、写真は何十枚も撮った。パパラッチに聞くと、これがスターの常道とのことだ。プライベート・ジェットに乗って誰も辿り着いたことのない場所まで行くような者もいたが――今で言うと、ハチクが結婚したらそうなるだろう。想像もつかんな。だが、私たちはそこまではしなかった。物事は最初が肝心だ。飛ばしすぎてはいかん。スピードがある時にこそブレーキの点検をしなければならない。出発の際には、いつでも減速する心構えがいる。レールについた他人のブレーキ跡を確認する。レバーを引き、はじめの内にどれだけ減速できるか調べておく。でなければ、奈落が見えた時には、もう止まれなくなっているかもしれん。飛び越えるも停止するも不可能な、底の見えない奈落がな。速度計を見て考える余裕はあっていい」
「覚えておきましょう」とネズが言った。
「ぜひそうしてくれると有り難い。そうすれば、もし結果が変わらずとも覚悟は生まれる。この奈落を飛び越えるか、寸前で止まるかのな……最も、私の落ち方には先例がなかった。先例がありえないような落ち方だ、と言った方が適切かもしれない。正直、私はフォーマックの方が先に落ち込むだろうと思ったし、事実その通りになったかもしれん。フォーマックがある俳優の妻と不倫したことがスクープされてな。当然非難は浴びたものだ。だが、当時のやつの人気。あれは想像を超えていた。しかし、ともかく、フォーマックはこの不倫によっていっそう躍進したよ。ああ、理解できずとも構わん。ガラルとは事情が違うからな。イッシュには派手好きが多いし、こういうゴシップは皆が欲しがっていた。やつは、その大風をうまく自分の方へ引き寄せたのだ。全く大した男だと思わんかね?当時の芸能界で、やつはもう魅力あふれる大スターになっていた。女性に目がないところもチャーミングだとさえ言われていた。一方、私は仲良くニドラン夫婦で通したよ。私の絶頂期はこの頃だったと思う。さらに数年後には、その差は歴然だったからな。確か、『オーガスト・フォー・バッフロン』はこの時期に出したものだ。やつがスキャンダルを重ねる度に人気を増していたのに対して、私はゆっくりと落ちぶれていた。これでもよく持った方だろう。御覧の通り、私は真摯な紳士だ。イッシュの人間が好む派手さなぞ元から無かった。フォーマックとすれば、納得いかなかったらしいが。一度、奴から、同格のスターとしてテレビに推薦されたことがあってな。では、と出てみたが笑いものになっただけだった。業界の人間からは、もう少し女遊びでもしていればよかったかもしれないねと言われたよ。だから、あの状況で私たちが疎遠になることを非難する人は誰もいなかったろう。その後も私はゆっくりと落ちぶれていき、妻も離れていった。これが他の地方ならまた違ったかもしれんぞ?私はそこでもスキャンダルを起こさなかっただろう。地味かもしれんが最低限の華もあった。今でも偉大な歌手だっただろうということを夢想せずにはいられん――が、もうどうしようもない。私はイッシュに生まれたし、今でもイッシュを愛している。今でさえ、フォーマックのことが嫌いではない。ネズ君、この中の誰が悪かったと思う?この問いに答えはない。誰もがだし、誰も悪くない……今のこの街によく似ているだろう。このような場所がガラル以外にあれば、また違った結果になっていただろうに」
いつの間にか空になっていたのに気づかないふりをして、私はグラスを傾けた。最後の一滴と共に響いてくる力強い歌声の抱擁。私はクライマックスを数小節優しくハミングした。昔はいつもそうしていたのだ。ハーモニーは昔とほとんど同じだったが、全く同じではなかった。別の場所にいる感覚がした。レッドカーペットの上からひらひらと、一人一人の顔が鮮明に見える。記者があちこちに立ち並び、群衆をかき分ける声が微かに聞こえて、次の瞬間には鮮烈なフラッシュを飛ばしていた。沸き立つような歓声が私たちに飛んでくるのが聞こえた。私の魂がそこにあった。私は立ち上がって手を振ろうとしたが、気が付くと全てが蒸発し、バーの景色が横滑りする。振り向けばネズが私の体に優しく手を回していた。親切なことだ。どうも長話をしすぎて嫌われたと思っていたのだが。
「家までお送りできればよいのですが」という声が聞こえる。バーテンダーだろうか。それともネズ?もう私には分からない。支えを離れて椅子に寄り掛かった。誰かが私の体を持ち上げようとしているのは分かった。痩せぎすで火照った手にこういうことは向かない、ということも。
「こいつは参りましたね。この人はどうも本物みたいですし。なんでこんなところにいやがるんですか……」
「お代はどうしましょう。目を瞑ることも出来なくはありませんが、それも流石に」
「今日のところはオレが払ってもいいですがね」
「そういう訳にもいかないでしょう」
内容は殆ど分からないが、彼らの会話が聞こえた。私はポケットから財布を出して、カウンターにそっと載せた。起き上がるには瞼も体も重すぎた。
「この中にカードがあるから、私が支払うべき額を引き出してもらいたい。皆さんに対する迷惑料も含めて。今日は本当にすまなかった。いい街、いいバー、いいジムリーダーだ。自分で家まで帰るつもりだが、もしそれが叶わなかったときにはゴミ捨て場に寝かせておいて欲しい」
実際どこまで口にできたかは分からない。カウンターから腕を下ろし、重力に引かれるままぶら下げた。ひどく眠かった。頭を少しばかり左に動かせば、銀色の小さな背もたれに寄り掛かれることに気が付いた。ひんやり冷たくて心地がいい。レコードの音はゆっくりと小さくなっていた。少し意識が飛ぶのが分かった。
「ポケモンセンターはどうなんです?」とどちらかがたずねた。
「開いてはいますが、今からアーケードの外に出るのは」
「家は分かりますか?まずリーグカードは?」
「これでしょうか」胸ポケットに大きな手が入ってきて、また出ていった。
「ああ……酷いもんですね」と皮肉っぽい声が言った。「本物のコーソンで決まりですよ。ってことは、あの逸話も全部本当だったことになります。なぜこんな……レジェンドですよ。まさか本人ではないと……知らないなんて言いましたが、確かにレジェンドだったんです」多分ネズの声だったんじゃないかと思う。内容はよく分からなかったが、褒められているのだと考えた。『オーガスト・フォー・バッフロン』を数小節歌うと、体が持ち上げられるのを感じた。誰かの肩に寄り掛かっているらしい、妙な酩酊感に、また意識が飛ぶ。
「重いうえに、ノイジーですよ……」
「本当によろしいので?」とバーテンダーが言う。
全ての音が遠くなっていく中、微かにシンガーらしき声が聞こえる。この状況じゃ、そうするしかねーでしょう。とりあえずは――私はまた歓声に包まれながらその言葉を聞いた。そう、確か、アンコールを歌い終わった後だったか。私は一段高いステージに立ち、感動に打ち震え恍惚と観客を見渡した。全盛期の頃だから、拍手が止むのを待っても切りが無かった。一つ、また一つとスポットライトが消える。光が薄れゆく中で、私は精一杯、大きく手を振った。なぜかバランスを崩しそうになったが、気にしてはいられなかった。
拍手喝采の中、ついに最後のスポットライトも消えた。
そうしてすべてが真っ暗になった。
続きます