全盛期の夢を見ることは幾度となくあった。とはいえ、酔いを残したまま見るのは今回が初めてだ。寝返りを打つと、絨毯のような何かにぶつかった。優しい感触に警戒心を感じた。絨毯に対して?いや、本当に混乱していたのだ。恐る恐る目を開ける。最初の二回は目の前が真っ暗で、もう一度目を開けると白い毛が見えた。だからといって、何かが分かったわけではないのだが。
しばらく経ち、ようやく首をひねる元気が出てきた。目線を少し上げて瞬きをした。アイボリーの天井を見ると、少なくとも我が家ではないことが分かる。ぼんやりした意識の中で、私は自分が知らない場所にいることを悟った。
目を覚ますと、ひどく頭が痛んでいた。かすんだ視界にはよく鍛えられたタチフサグマの姿が浮かんでいた。腕を目の前に交差させてメトロノームのように揺れていた。ここがどこなのか、ますます分からなくなってきた。
まずは現状を把握せねばならないと私は考えた。昨日は何をしたのだったか?もっともらしく脳裏に光るコンサートの幻覚を振り払って、懸命に思い出した。そう、確かバーに居たのだ。曲のフレーズを頼りに、頭をはっきりさせようとした。二人で逃げてしまおう、陽炎と、あのバッフロンの群れと一緒に。何か歌った覚えがあった。カクテルも三杯ほど飲んで。
遠くから、「おじいさん起きたと?」という声がした。知らない少女の声だった。
「そうみたいですね」こちらは知っている男の声。「しかしマリィ、あの人に近づきすぎてはダメですよ。酒臭いですから」
「そげなこと言うちゃ……」声はだんだん近づいてくる。「言ったらダメ」もう私にも声が聞こえていることに気付いたのか、幼い声が急いでスパイク訛りを直した。
ちょっと間をおいてから、二人が視界に現れた。一人はネズ。もう一人は黒髪碧眼で、片側に剃り込みが入り、ツインテール、根元には小さく角が生えているような髪型で、隣のアーティスト同様ほっそりして、知らない人を目の前にした時特有のぎこちない表情を浮かべていた。
なにか言わねばと思ったがうまくいかない。咳以外に喉を抜けたものはなかった。タチフサグマはすかさず水の入ったコップを手渡してきた。流石によく躾けられているらしい。
「脱水寸前だそうですよ。少しずつ飲んでください」とネズが言った。私は言われた通りにした。吐き気のせいかひどい味だったが、なんとか飲み下した。気持ちが静まり、注意深く辺りを見回しても、結局のところ、既視感のあるものはない。
「君たちが酔いつぶれた私の世話を?」私はたずねた。
ネズは私が寝ているソファーの方に近づいた。シャワーを浴びた後らしく、彼は水玉模様の黒い部屋着に長い髪を真っすぐ下ろしていた。ファンが知ったら喜びそうな服装だ。ほかの人間が着ていたら時代遅れに見える服装でも、ネズが着ているとなんでも洗練されているように見える。職業的にはいい資質だと、私は思った。趣味こそ異なるが、その部分は変わらないだろう。フォーマックが被っていた折れ帽と同じように。
私は棚の上に置いてあった写真をじっと見つめた。若い頃のネズ、もっと若い頃の黒髪の少女が写っていた。「この子が、その妹さんか」と私は言った。「いい写真じゃないか」
すぐに視線を外そうと思っていたが、実のところ、首を動かすのがひどく億劫だった。
少女は照れたような様子だった。
「そんなに長いこと人ん家の写真を見やがるんですか」ネズは顔をしかめる。「流石はレジェンドですね」
「アニキ」と少女が言った。ネズは諭すように少女の肩に手を置いて何かを告げると、私の方を一瞥した。きっと事情を説明していたのだろうと思う。次に彼は私の目の前にちょっと屈み、目線を合わせて言った。
「コーソンともあろう歌手が、なぜあんな真似を?」
「あんな真似か。落ちぶれた歌手がバーで酔いつぶれることに、何か問題があるのかね」と、私は答えた。
「どうやら、君の家まで運んでくれたようだ。もちろん昨夜のことには感謝はしているが。それは、いくら感謝しても足りないぐらいだが」
ネズは早々と立ち上がり、少し険しい口調で言った。
「アンタ、まだ自分の声の価値を分かっていやがらないんですか?アンタは単なる歌手じゃないんですよ。まして、落ちぶれた歌手?もっとありえません」
私は抗議しようと何かを言いかけた。ところがネズの方を見ると、彼はもう出かける準備を終えるところだった。多忙なアーティストの動き方だ、と私は思った。
「シャワーを貸しますから、酔いが落ち着いたら入ってください。しばらくしたらジムトレーナーが来る予定です。いいですか。それまでの間、妹に何かしないこと。自分の立場を考えること。これを守ってくださいよ」とネズが言った。私が声の聞こえた方へ首を回し終えた時には、ネズは家から出て行こうとしていた。
玄関ドアが閉まる音がし、それから私はネズの妹さんに何かを言おうとして、目線をそちらへ向けた。確か、マリィという名前をしていたはずだ。「情けない大人で申し訳ない。本当に、私は落ちぶれた歌手なんだが」と私は言った。
すると、玄関ドアの開く音がした。もう一度険しい声が入ってくる。
「いいですか、マリィに、何も、しないこと、です」
彼はすぐに出て行った。今度は鍵のかかる音がした。
正直、私はこの状況に覚えがある。熱狂的なファンだった妻との出会いに似ていたのだ。だが、私のことを知らないはずのネズがこのような行動に出るなど、いったいどういうことなのだろう。ガラルのことはよく分からない。色々考えたのち、私は何もかも億劫になって、気付けば再びソファーに横たわっていた。酔いは収まってきたものの、今度は起こっている事態の何もかもが霞んでいた。タチフサグマは少女を庇うように立ち、相変わらずユラユラと揺れていた。
ようやく決心がついて、「失礼した。さて、私はシャワーに入ることにしよう」と私は言った。歩き出してすぐにタチフサグマの鳴き声と少女の声が聞こえてきた。私は立ち止まって、何の用かと振り向いた。
「あの、そっちは洗面所じゃなくてアニキん……アニキの部屋、です」
私は苦笑いで誤魔化すことにした。まだ、酔いは完全には醒めていなかった。
シャワーを浴びるのは嫌いではない。少し面倒で、常に好ましく思っているという訳ではないが、単独コンサートを終えた後のあの心地よさはそれを補って余りある。二日酔いの朝に浴びるシャワーも同じだ。酔いさえひどくなければ。そして実際、酔いはおさまりつつある。私は古い歌を口ずさみながらボディソープを掌で受けた。私が古い歌と言うのは、廃れかけている歌のことだ――あるいは消耗したレコード、その時代を知る者の一人はいみじくもそう呼んだ。私が話しているのは、それこそ『オーガスト・フォー・バッフロン』といった種類の歌い継がれることのない歌のことだ。刻まれた溝に埃が溜まり、針が空滑りし、これ以上増えることのないレコードのことだ。経年変化を経て忘れ去られた曲のことを言っているのだ。肌を滑らせるように手を動かすと、つま先から首までが泡に包まれた。ゴールドディスクを獲り、そこでフラッシュを浴びながらの授賞式が行われる。それから何度か波があるが、さらに五年かそれ以上経つと、気付けばひびが入っている。
体を流しながらぼんやりと思った。これらすべて、かつては偉大だった。そして現在は悲劇であり、つまるところ、常に当然なのだろう。
ドライヤーで髪を乾かしていると、玄関扉が開く音がした。おそらくはジムトレーナーだ。今の格好で出ていこうか?それは魅力的なアイデアのように思えた。私はもはやスターではないということを、これ以上ないくらい端的に示すことができる。ただ、ネズやその妹さんのことを考えるとそういう訳にもいかなかった。パンツとシャツのみ、首にはタオルを掛けている。そんな人間がネズの家から出てきたら、大問題だ。結局私は髪を乾かし続けた。ドライヤーの風量は思いのほか弱く、それが幸いした。この後の面倒ごとを忘れて白髪に櫛を通す。髪はよく乾いた。髪は実に、よく乾いた。
ジムトレーナーが私の顔を見る頃には、私は既にそれなりの服装に着替えていた。と言っても、ネズの私服を借りただけなのだが。二度目のリビングは待合室のような仕上げになっていた。柔らかい寝心地のいいソファが置いてあり、硝子のテーブルには、ネズが表紙を飾る見栄えのする雑誌が置かれていた。私は少し表紙を眺めてから、忘れていた、という風にジムトレーナーの方を見た。小太りでも、清潔感はある。髪は全体的に短く刈り込んでいるが、真ん中がトサカのように伸びていた。そう……例えばイッシュのバッドボーイを横に引き伸ばしたら、こんな見た目になるだろうか。
「おはようございます」と男は言った。眠たげな眉の下で目が困惑気味に動いている。「クラウトといいます」
「おはようございます」と私も言った。「コーソンです」
私は手を差し出して、握手した。癖になっているのだ。もう握手して喜ばれるような歳ではないのに。
「ネズさんから街の案内をするように頼まれたんで、お互いのことを知っておきたいと思いまして。朝食はもうお済みですか?」彼は時計を見ながら尋ねた。「どちらかといえば、もうお昼ですかね」
「いずれにせよ、まだでね。なにかいいところがあれば、そこで食べようと思う」と私は答えた。
「ああ、それならいい食堂がありますよ。どうです?そこで軽くランチでも」
彼がそう言うと、マリィが後ろからひょっこり顔を出した。「おじいさんの分の朝ごはんも用意してあるから、食べていって欲しいばい」
クラウトは少し驚いたような顔で言った。「そうだったのか。ではコーソンさん、朝はこちらで」
彼は洒落たダイニングテーブルの方に手のひらを向けた。
「じゃあ、お言葉に甘えるとしよう」と私は言った。待っているとサンドイッチが出てきた。
私は朝食を食べた。トーストの焼き加減は素晴らしいが、卵は少し茹で過ぎだと感じた。これは単なる好みだから、私も構わない。ネズの妹さんは料理上手な方だろうと思う。ただ、ドレッシング。これは金属の味がした。ガラルの味付けは慣れない。多分、いつまでも。
クラウトが言った。「僕の大好物なんですよ。この子が小さい頃は、差し入れでよく持ってきてくれたもので」マリィはどことなく緊張した面持ちで見ていた。
「どう?」と妹さんが言った。
「ああ……」眉の筋肉が動くのを抑える。「本当に美味しいサンドイッチだ。お礼を言わせてほしい。だって、現役時代でもここまでいいのは食べたことがない」
私は笑顔で嘘をついた。ただ、お礼を言いたいのは本当だ。
一時間後、私たちはスパイクジムの、暗いフィールドの脇にあるベンチに座っていた。小さな客席を保護するこぢんまりとした装置、スポットライトが六つほど。一段高くなったステージの片方には、スタンドマイクが一本置いてある。意外と悪くない、と思った。他のスタジアムは人が居ないと空白を持て余すような雰囲気があるが、ここはそうではない。夜のレストランと大きなコンサート・ホールにそれぞれの良さがあるのと同じことだ。コンサート・ホールが空いていれば大惨事だが、レストランが空いていてもさして違和感はない。むしろ風情がある。このフィールドは後者だ。私はしばらく天井にあるスポットライトを見つめて、あそこから降り注ぐ光はどんなものだろう、と想像した。
クラウトは、フィールドを転げ回るモルペコを見て口を開いた。
「マリィちゃん、喜んでいましたよ」コートにはマリィの姿もあった。
「それならいいんだが」
「あの子、表情があんまり変わらないんです。僕たちはすぐに分かるんですけど」クラウトはベンチから腰を上げて、少し申し訳なさそうに笑った。
「すごくご機嫌で。嬉しかったんでしょうね、褒めてもらえて。そのおかげで僕たちは腹ごなしにここまで来ることになった訳ですが……コーソンさん、お疲れでは?」
「普通だよ。ちょっと食べすぎた気もするが、あまり変わるところはない。ただ、バトルができるかは怪しいだろうな。何十年もやっていなかったものだから」
「僕の経験上、腹ごなしにはこれが一番なんですよ」彼は胸を張って言った。「まずは実力を見せていただこうと思います。その後は、お互い楽しみましょう」
「まあ、そうしてくれるならありがたいよ」と私は言った。
「さて、ドゴーム」と私は呼びかけた。「出てきなさい、食後の運動にちょうどいい場所だ。ヨプのみが腹に溜まってきた頃じゃないか?」
彼はしばらくの間コートを見回すと、ステージとスタンドマイクに目をつけ、確認をとるように私の方を向いた。「残念だが、そっちじゃない。久々のバトルだ」
クラウトはドゴームを見ると意外そうな顔をした。思ったよりも練度が高かったらしい。
「随分と鍛えられてますね」
「場数だけはそれなりに踏んだからな」と私は言った。「なんと言おうか。安っぽいバーで頼れる用心棒に恵まれることは稀でね」
しばらくの間、クラウトは私の相棒を見つめていたが、やがて自分を納得させたような素振りを見せ、マッスグマを繰り出した。白黒のストライプ。ガラルの姿だが、ドゴームは相変わらずステージの様子をチラチラと伺っていた。
「歌がお好きなようで」
「これでもマシになったんだよ、私が落ちぶれてから随分と経つ。昔はああいった設備を見るたび飛びついたものだが、この体たらくではな」私が言うと、クラウトは神妙な顔をした。そういうつもりで言ったわけではないのだが。空気を変えるため、手を叩いて周囲の注目を集めると、言った。
「さあ、始めようじゃないか、クラウト君。まずは歌い出し。『ハイパーボイス』からだ」
格好をつけたところまでは良いが、肝心のバトルはひどい有様だった。あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるでヒウンの人波に揉まれる若者のような動き。ドゴームが悪いわけではなく、私の腕が衰えていたのだ。昔を意識し老いを吹き飛ばそうとしたが、徒労に終わった。歳月を経て失ったものは人気だけではない。クラウトはやはり強い、と思いながら指示を飛ばす。二度目の『ハイパーボイス』がコートに虚しく反射した。その隙を逃す相手ではない。マッスグマが懐に飛び込んでくる――もちろん一撃で倒されるとは考えていなかったが、肝を冷やした。『でんこうせっか』を鼻の辺りに受けたドゴームを見て胸が痛んだ。『かみつく』ように命じたが、ドゴームの方はまだしも、その時の私は半ば諦めていたように思う。歯がかみ合う音が聞こえた時には、そこにマッスグマはいなかった。実際そんな技を喰らうはずもない。
「もうやめにしよう」と半ば諦めるように言った。ひどく惨めだった。
双方が殆ど傷つかないままにバトルは終わった。クラウトは私の方に近寄って慰めるような視線を送ってくる。
「ひどいものではなかったと思います、コーソンさん。バトルから長い間離れていれば、昔のようにいく方が稀ですから。指示は的確とは言い難いですが、最初に技を繰り出すときの息の合い方。あれには驚かされました。気になった点は他にもありますが、どれも改善できるものばかりです。今日のところはもう終わりにしましょう。あなたと、ドゴームのためにも」
「せっかく越してきたのだから、できれば直したいものだな。親切にどうもありがとう」私はつとめて明るく言った。
「まあ、ネズさんに言われてますから。それに、あれだけ強いドゴームに信頼されてる人ですし」
「確かに、あれは強いな。ほら、ドゴームはもう大丈夫らしい。あのステージに上がりたくてたまらんと言ってる」
ドゴームは土煙を上げてコートを駆け抜けると、ステージの前に立って、私の方をじっと見つめた。普段は落ち着いていて、頼れる相棒なのだが、歌となるとすぐこうなる。信じられない程純真なところがあるのだ。私は肩をすくめてみせた。彼は納得したような素振りを見せて、クラウトと私の話し合いが終わるのを待っていた。
クラウトは安心したような表情になった。私が思ったより落ち込んでいないように見えたからだろうか。
「上がるのは構わないと思いますよ」彼はマッスグマを労い、ボールの中へ戻した。「すみません、腹ごなしとしては失敗でしたね」と彼は言った。
「いや」と私は答えた。「老人の身には、これでも十分だ。うん……そうだな。若いころの記憶は美化されると言うが、バトルもそうだったのかもしれん。もしかすると、あの頃はそれ程荒れた時代ではなかった。もしかすると、私はそれ程のスターではなかった」
「大丈夫ですよ。何もかも、いつか元通りになります」
「早めに来てくれることを願うよ」と私は笑った。
ふと、ドゴームの囁くような歌声が聞こえてきた。珍しい。大声で歌い上げるのが好きだったはずだ、そう思いステージの方を見れば、マリィが座り込んでいる。隣には小さな影があった。「モルペコか」と私は呟いた。すやすやと寝息を立てている。きっと疲れて寝てしまったのだろう。マリィがうっすらと微笑んでいた。パートナーの小さな黄色い腹を撫でている。
「繊細な声ですね」クラウトが声を潜めて言った。「流石はあなたのパートナーだ」
彼もステージの方を向き、マリィとモルペコを見て、笑みをこぼした。マッスグマのボールを左手で撫でながら、暫く時間をつぶしていた。昔と比べてもドゴームの技量には磨きがかかっている。聞き惚れるということはないにせよ、もう少し自由に歌わせてもいいと感じた。スローテンポにアレンジしたポルカと繋げて、『我が心のブルー』をしっとりと歌い上げる。肩の力を抜いて、少しずつ心の内をさらけ出すように。郷愁と、希望と、少しの諦念。そう、その調子だ――しばらく耳を澄ましていると、マリィが小さく欠伸を漏らすのが聞こえた。
「あの子もだいぶリラックスしてるみたいで」とクラウトが言った。「もしよければ、話しかけてあげてください。あなたのことを知りたいでしょうから」
ドゴームも私の方に目配せしたので、私は言われるままにマリィの方へ歩み寄った。合図すると、ドゴームもその通り歌声を小さくしてウィンクを送ってくれる。私は怖がらせないよう注意してモルペコの側に座り込み、マリィの方を見た。
「やあ」と私は言った。「さっきはグラウンドを借りてしまってすまない。退屈だったろう」
「おじいさん」彼女はほっとしたような表情をしていた。「そげんことなかばい」
「本当かね?」私は大袈裟に驚くようなポーズをとって、冗談めかして笑おうとした。「私はすっかり参ってしまったがなあ」
うまくいっただろうか?先程のバトルの衝撃は自分で思うよりも大きかった。私の覚えているようなバトル。あの日フォーマックと行ったような熱い戦いではなかった。正直な感想だが、少し皮肉っぽい言葉だったかもしれない。マリィは少し考えるような素振りを見せた。始めは誤解を心配した。不安そうにはしていなかった。別のことで悩んでいる気配があった。
案の定と言うべきか、マリィは困ったように眉尻を下げた。
「確かに、ドゴームが戦おうとしとーとにおじいさんが諦めとったんな、ようなかばってん」マリィは言葉を選ぶようにして話し出した。
「バトルって、べつに強さだけやなかけん。アニキはそげんこと言えんちゃろうけど、ポケモンとトレーナーがお互いば想うとー、考えと―って分かれば、あたしはよかバトルだって言うたっちゃよかて思うから」言い終えてから、またモルペコの寝顔を見つめて、控えめな笑みを浮かべた。「うん。それが全部やなかけど、よかバトルやった。おじいさんがドゴームと仲よかだけでん、羨ましか!て思うな。あたしもモルペコともっと仲良うなりたかけん」
その言葉を素直に受け入れるにも、逆上するにも、私はあまりに年を取りすぎていた。「ありがとう」と私は言った。
「すまないね、こんなことを聞いて。嬉しい言葉だった。何か私に協力できることがあれば、ぜひ言ってほしい。まだ、小さな恩返しぐらいはできるつもりだ」
私はクラウトの元へ戻った。彼は小さな円を描くようにうろうろとグラウンドの中を歩き回っていた。
「ひやひやしましたよ、コーソンさん」クラウトは大げさに頭を抑えた。どうやらここのジムトレーナーは過保護なきらいがあるらしい。
「これは失敬。だが、とてもいい子だ」
「そりゃ当たり前ですよ。でもコーソンさん、あの笑い方はなんですか?」クラウトは顔を少し顰めた。
「何のことかね?」と私は言った。
「あの空笑いのことですよ。マリィちゃんが気付いてなくてよかった。コーソンさん、あなたはショックだったみたいですけど、まずはバトルの練習をしましょう。その内直りますよ。コーチは僕がやります。あなたのドゴームと、もう一匹……確かオンバットだそうですね。らしいポケモンだ」
「待ってくれ。なぜ君がそれを?」
クラウトはロトムフォンを呼び出すと、画面を私に向けた。少し古いサイトに、私とフォーマック、それと何人かの歌手の写真が載っている。
「ネットに書いてありました。流石に有名人ですよ、コーソンさん。とりあえず基礎練習からやっていきましょう。明日……は忙しいので、説明とウォーミングアップで。明後日から始めていきます。本当は同じくらいの相手が居ればいいんですが」クラウトはいつのまにか宙に浮かぶロトムフォンに目線をやって、予定を聞いている。
「そのバトルのことなんだが」と私は言った。「一度、マリィちゃんとバトルの練習がしてみたい。いいかね?」
「え?」クラウトがこちらを向いた。
「……えっ?」
――そろそろ別れましょう、と妻が言った。私は新聞から顔を上げ、黙って彼女の目許を見つめた。気が変わるのでは、と期待したわけではない。ファンデーション越しの顔は疲れ気味に見えた。離婚した後のことを考えながら、私はどう答えたものか迷った。別れを惜しむつもりはないが、気の利いた返事ぐらいはしたい。結局は普段通りの返事を心掛けて、ああ、と短く言うことにした。それで、いつにしようか。妻はほっとしたような表情で日の差し込むガラス戸の方に顔を向けた。私も新聞紙を畳みながら、そちらを向いた。ドゴームが寝ている中庭から差し込む真っ白な光。軽く微笑みながら妻の方を見る。彼女の顔から色が抜け落ち、耳の後ろが薄く罅割れた。チラチーノの毛のように。真珠のピアスが小さく揺れるのが目に焼き付いた。離婚の話を進める妻を見ながら、彼女の化粧が変わったのはいつだったか、と思った。いつだったかな、と私が言うと、彼女は少し呆れたような、照れくさそうな素振りを見せる。もう、昔の話はやめましょう。私は微笑んだ。すまないね――と言いかけて、やめた。愛称で呼びそうになったところを名前で呼ぶ。穏やかに二人の道は分かれつつあった。彼女が化粧を変えたのはいつだったのだろう、と私は思った。自分を華々しく見せるためではなく、みすぼらしく見せないためへと変えたのは。
久々に自分の部屋で目覚めたような気がした。昨日のバトルの後クラウトに教わった店で夕食を取って、自宅に戻ってからは白ワインを飲みながらN・スグル脚本の古い映画を見た。目覚ましの音が小さく、メールを確認してからようやく目が覚めた。一通届いていた。時計が指定された時刻を指していた。
「悪いことをしたな」とつぶやいた。私は顔を洗って、乾燥したパンを口に放り込んだ。昔ならまず食べることはなかった味だ。喉の水分が殆ど奪われてしまうからだ。だが、そういうことを気にしなくていいのは、確かに楽なことではある……。髭を整え、ストライプ柄の薄い焦茶色のジャケットを羽織る。予定時刻から三十分が過ぎた頃、ようやくグラウンドへ向かった。アルコールに蝕まれた体が重かった。
「待ちくたびれましたよ、コーソンさん」
クラウトはしばらく私に背を向けていたが、瞼を擦りながら言っているのがすぐ分かった。眠たげな声色で、怒るというよりはぼんやりとした様子だった。能天気なところがあるのだろうか、私が着くまでの間に居眠りをしていたらしい。慣れも存在するのだろう。駆け出しの指導にかけてジムトレーナーの右に出る者は居ないし、今の私はそこら中にいる駆け出しと何ら変わりない。その場で適性を見ながらで十分、ということだ。あれこれと指示を出し、私とドゴームはその通りにしようと努力した。マッスグマが協力してくれた。クラウトはグラウンドの脇に立って、私たちのことを見たり、たまにどこかへ向かったりしていた。一通り指示されたことを済ませると、やがて彼が口を開いた。
「先日申しあげたとおり、ドゴームの実力が高い。このままでは力押しになるでしょう。ですが、コーソンさんが数日間練習すれば戦えるようになると思います」
「ドゴームを褒められると悪い気はしない。しかし、私にそこまで出来るとは思えんな……」
私は意外に思って言った。クラウトはマッスグマをボールに戻すと、私の方を見て説明を始めた。
「意外に思われるかもしれませんが、コーソンさんの実力も低い訳ではないんです。ドゴームがここまで成長するにはトレーナーの実力が必要不可欠ですから」
では、なぜ……。私が口を開くと、多分、とクラウトが言った。
「僕は歌に詳しくはない。でも、バトルのことは分かります。ドゴームの低音は戦いの中で鍛えられたはずだ。バトルで実力を発揮できなかったのは、ドゴームが傷つくのを過剰に恐れているのが原因でしょう。もちろん無暗に傷つけるのは悪いトレーナーですが、ポケモン達は全く傷つかない状態を望んでいる訳ではありません。そうでなければバトルに出るはずがない。少なくとも、あなたとドゴームの仲ではそうだ」
そうかもしれない、と思った。いや、そうなのだろう。私はドゴームの方をちらと見た。口を噤んでクラウトの言うことにその大きな耳を傾けていた。
「そこで、なんですが」
クラウトはポケットから何かを取り出した。
「バトルの際にオボンのみを持たせてみませんか?傷ついた時に食べると傷を癒してくれるきのみです。持ち物を変えるのには抵抗があるかもしれませんが……」彼の手のひらには黄色いきのみがあった。
「なるほど」と私は言った。
「慣らしていくのはいいアイディアかもしれん。やってみる価値はある」
私はドゴームと目線を合わせ、今持っているものを一旦渡すように言った。今の持ち物はバトルの役に立たないどころか、何の役にも立たなかった。くすんだ色味の小さな石で、言われなければ持たせていることさえ忘れていただろう。私はすぐにでもオボンのみを買ってみるつもりでいた、だが、私がドゴームの手の上のものを見た途端に、その石にまつわる記憶が急激に蘇ってきた。
「そのかわらずのいしが何か?」とクラウトが言った。「どうしたんです」
私はドゴームの手と自分の手とで、その小さな石ころを強く包み込んだ。ドゴームの肌に触れ、握りしめながら、掌に丸い痕がつくのが分かる。グラウンドの中心で俯いて、私は微動だにせず静かに座り込んでいた。窓からは強い光が差し込んでいた。
「ハネムーンの時に妻がくれたものだ。もう別れたがな」と絞り出すように言った。
妻のことを思い出した。スターとの結婚を夢見て集まってくる女が見つめるのは、常に本人ではなくその肩書だ。私の妻も婚約前はそうだったと思う。しかしハネムーンの時、何かが変わったような気がした。あの絡めた指の感触を思い出そうとした。媚びのなかに照れくささが混じっていた、奇妙に初々しいハネムーンのことを。
「それは……」クラウトはそれを聞くと目を見開いた。「すみません、無神経でしたかね」
顔をあげて、いや、と私は答えた。
「人が不変を願うのは、心の奥底では変わらぬものなどないと分かっているからだ」腰を庇ってゆっくりと立ち上がりながら、私はクラウトの顔を見た。
「その内変わる日は来るだろう。今日ではなかっただけで」
次のバトルの約束をして私たちは別れる。私は肩を震わせて、誰にも聞こえないように小さく泣いた。スタジアムを出ていく頃には日は陰り、ぽつぽつと雨が降り出して、暗いスパイクタウンを密かに包み込んでいた。私たちは雨の街を歩いた。ドゴームが、強くかわらずの石を握りしめていた。
続きます