少なくとも六時には起きる癖がついた。酒類もバトルが終わるまでは断つことにした。スパイクタウンのアーケードの外に出て、高い壁で囲われた街の周りを軽くジョギングする。この街の通りは細く、その上雑多だ。朝早く体を動かすには向かない。私が壁の外に出るころ、勤勉なジムトレーナーたちも起き出していることが多かった。早くから仕事している、体を動かしたがるマッスグマ達に付き合っているトレーナーたちだ。彼らは私を見ると、少し驚いたような、しかし敬意を含んだ目で会釈をした。私のドゴームはジョギングに付き合うつもりは毛頭ないらしい。
街から少し離れると海辺に出る。夜中は雨が降ったらしい。空気は湿っぽく希薄で、さざなみの音が薄曇りの中に響いていた。私は少しの間その光景を見つめていたが、やがて砂浜に降りていった。革靴を履きこなしていた頃はともかく、今はスニーカーにポロシャツだ。砂粒が歩くたびに靴の中に入り込んで来る。額ににじむ汗を拭いながら波打ち際まで歩いていった。
「出てこい。あの場所だぞ」
私は軽く息を切らしながら腰のホルスターからモンスターボールを抜いた。海風に煽られて帽子が飛ばされそうになるのを押さえ、砂浜に軽く放る。ドゴームは大きな岩を見つけるとすぐさま飛び乗る。夜中の生ぬるい霧のような雨が岩の表面を濡らしていた。彼はその上に腰を落ち着けて歌うのがお気に入りだった。
軽く体を捻ると、体の中で何かが動くような感じがする。筋肉が引き締まり、骨が軋む。雲が左から右へ果てしなく動き始める。ドゴームは能天気な笑みを浮かべ、いつもの日課であるかのように、『キャモメ・レター』を歌い始めた。
ジョギングを済ませてバトルコートに戻ると、もうクラウトが来ている。そのときのドゴームは血気盛んで、はやくやろうとでも言いたげに駆け足でグラウンドに向かっていく。
もっとも、やる気だけでどうにかなるものではない。バトルに慣れない最初のうちは、相手の攻撃を避けることさえ一苦労だった。相手に背中を向けて逃げ出すような恥ずべき真似こそしなかったものの、跳ねては顔面に『すなかけ』を食らい、相手を追いかけても気付けばわき腹に体当たりを食らうというありさまだった。ドゴームはそれでも体に擦り傷をつくりながら、指示を出す私の方を見つめていた。
見たことがある表情だった。あれはニュアンスに富んだ顔だ。演技に――とりわけポケウッドの演技に――慣れれば慣れるほど、我々が忘れてしまうたぐいの表情ではないか。映画の全体像が何ひとつ分からず、手持ち無沙汰なままでも監督の指示を待ち続ける、あの忠実なエキストラのような。ドゴームは無様に額の汗を拭う私に、何度も目を向けた。次の台詞を、次の歌詞を、次の指示を待っている。私がまだ、マエストロであると信じているかのように。あの頃の輝かしさを、この老いぼれたシンガーに求めているかのように。彼はきっと、まだ、私のことを尊敬し続けているのだ。
最初のバトルは惨憺たるものだった。実力不足に加えて、相手との相性も悪い。多少は改善したものの、今もマッスグマは『すなかけ』の後で『でんこうせっか』を使えるし、こちらはそれを躱しきれない。私は乱れる呼吸を整えながら、頭の中で作戦を立てた。相手の技が当たると、オボンのみを与えるタイミングを確認する。マッスグマが突っ込んでくる寸前、その体が見えなくなるまで、一瞬たりとも目を離してはならない。
――いいぞ。そら、来た――私は心の中で叫んだ。
今度は成功した。マッスグマがドゴームに接近し、爪の先が触れるか否かの刹那、ドゴームは体を逸らして躱した。間髪入れずに指示を出し、『ハイパーボイス』で反撃する。マッスグマは後方に転がったが、まだ健在だった。
「いいですね!」とクラウトが言った。「今のは咄嗟に指示が出ましたね。それくらいでいいんですよ」
ドゴームは体勢を立て直し、こちらを見つめる。まだ戦えるか、と目で問うと、彼は力強く頷いた。
「最後の技は決めましょう」とクラウトが言った。
マッスグマは突進してくる。私のドゴームは体を逸らした。私は一拍置いて、技の指示を出す。
「『ハイパーボイス』!!」
結局のところ勝敗などつかなかったも同然だったが、私たちはクールダウンのために砂浜に戻って海風に当たった。私は久々に煙草に火を点けて、波を見ていた。ドゴームは岩の上でまた歌っている。『ハイパーボイス』を使った後だと、いつもこうだった。あれはドゴームの最も得意とする技だ。だが、同時に、酷く喉を消耗させるものでもある。歌が、あの美しい歌声が掠れるまで、私はドゴームを見ていた。
「お前は、いつまで歌い続けるつもりかな」
ドゴームは答えなかった。返事もなかった。代わりに歌が返ってきた。あの大きく響く『ハイパーボイス』でなく、掠れ、小さくか弱い声だった。砂浜で遊んでいる子供の声でさえ、この音を掻き消すのにそう苦労はしないだろう。歌い終えると、ドゴームは私の足元に戻って、そのまま眠った。情けない姿を見せた直後であるのに、嫌がりもしなかった。あどけない寝顔、というには少々年を取りすぎているその表情。少なくともゴニョニョだった時とは比べ物にならないほどの時間が、顔に、大きな耳に、短い手足に、びっしりと張り付いているのが分かる。そしてそれは私も同じだった。老いとの戦いは今や我々の世代のメインテーマだ。ゲンジやシャガはまだいい。ドラゴンタイプのトレーナーは、彼の寿命が来てなお全盛期であり続けるポケモンを友にしている。だが、アデクはどうだ?ヤナギは?私は?
マリィとのバトルは、もう四日後に迫っていた。海は黒い。波が岩を打つ音を聞きながら、私はただ立ち尽くしていた。ドゴームを起こさないよう、静かに歌った。陽気で、だが拭えないもの悲しさの残るフォークソング。
「……『キャモメ・レター』は、僕も少し覚えてます」
不意に背後から声がした。クラウトが、私のハミングに気づいて言ったのだ。
「……まあ、昔はお互いの曲をよく歌ったものだ。私と、フォーマックとで。今はたまにだな。海に行くのも懐かしい。決まってこの曲をリクエストされたものだ。私と妻が……いや、もうどうでもいいな」
クラウトは少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかい表情に戻り、眠っているドゴームを見た。
「父も歌ってましたよ。僕が子供の頃に流行っていた歌ですよね」
「流行っていた……」と私は言った。「うん、流行っていたと言うべきなのだろう。いつまでも彼がスターだとしても」
海は暗い色を湛え、夜は深まりつつあった。「私の知る彼と、君たちの知る彼は異なるだろうから」
砂浜には波が砕ける音が響き、潮の匂いが鼻につく。空気は湿っぽく重たい。まるで世界全体が海の底にあるような、水の中の音だ。海風がドゴームの毛を靡かせて、彼は静かに寝息を立てている。
『キャモメ・レター』はフォーマックが彼の故郷への想いを込めた歌だった。彼はいつも、どこか遠くを見つめていた。何処から来たのか、その頃は知らなかった。だが、当時の私にもこの男の故郷がイッシュではないことぐらいは簡単に想像がついた。ガラルのどこか、小さな島から来たと彼は言っていた。
「そうですか。そうなんですね」クラウトが言った。彼は少し泣いているようだった。海が空と交わる水平線を見ていた。「僕にはよく分かりませんが、コーソンさんが思う以上に、コーソンさんの歌は素晴らしいですよ」
そのときの彼の表情はよく覚えている。目を細め、眩しそうに海の方を向いて、泣きながら笑うように。ドゴームの寝顔を見る顔は優しかった。私は彼に手招きした。そして、もう一度だけ歌った。薄汚れたバーで出会った、古い友人の歌を。
――彼が歌っている店に入ったとき、殆どメニュー表は私の目に触れなかった。ヒウンシティは丁度真夏に変わろうとしていた。私は冷房も効いていないレストランで初めてフォーマックを見たのだ。
当時の私は湿っぽい路地裏を歩き回り、邪魔者扱いされながら歌の練習をしていた身だった。若者らしい気安さと、売れないシンガー特有の、行き場のない自尊心が暴れていた時期だ。煙にまみれた夕方の光のせいだったかもしれない。呼ばれたら何処であれ歩いていき、フラベベの花の露にも満たない額をもらって、今度はノースサイド・ストリートの訳の分からないバルで芸を披露する。業界の中にあっても、私の歌声は輝きを失っていなかった。親兄弟や友人に持ち上げられた連中とは違う。誰が聞いても立派なものだ。しかし出てくるのはウエイターとしての職だけで、歌手だとはとても考えられない。
ヒウンには何もなかった。世界の全てがある街だ。しかし、私たちには何もない。
ともあれ、私はあの夏の夜、あの寂れた店でエマニエル・フォーマックを見かけた。こんな店でも入らないよりはいい。少しは気が晴れる。確かにこの類の店のバンドは粗末なものだが、私も演奏に粗を探して騒ぎ立てたりはしない。彼らは自分たちの音楽の性質を弁えていたからだ。
評論家気取りが偽物を褒め称えているのを見ると胃がむかむかする。実際世の中で持て囃されている連中の大半は、繊細さ、テクニック、構想力、全てが三流以下だ。そういう連中はこの小さなレストランの片隅で腐っていけばいいとさえ思っていた。ところがこの男ときたらどうだ? フォーマックの声は全く鍛え上げられていないにも関わらず、天性の才能を感じさせた。伸びやかで、軽やかだ。
「ちょっと見せてくれよ。ほんの少し見せてくれるだけでいいんだ」と男が言う。
場末の店のカウンターでは酔っぱらいのスキンヘッドが肥った女性に愛を囁いている。ここは全てが偽物の街かもしれなかった。全てが偽物でなければならなかった。自分が評価されない街などは。今までに聞いてきたのは、これ見よがしなビブラートや、不快でボソボソしたハイトーン。思い出すだけで醜い声が匂い立って味までしてきそうだ。沢山の汗と安物の香水の匂いが混ざり合う。部屋の中は湿っぽく、汚れのついたランプが揺れていた。私はカウンターのテーブルに寄りかかり、頭をわずかに傾けて彼の歌を聴く。何度聞いても結論は変わらない。きっと永遠に変わらないだろう。
甘く、耳を惹く声がした。このような店で彼のような歌手が歌っていたのは、だから、ひどく私の気に障った。
いや――今にして思えば、気に障った理由はもっと別のところにあったのかもしれない。客が数人しかいない冷房の壊れた安っぽいレストランは、彼が歌い出した瞬間に彼の国になる。理屈ではなかった。この歌に耳を傾ける人々は、自然と彼の国で生活をする。彼らの住処を、人生を捧げた仕事を、大切な家族をこの時だけは忘れて、あるいは強く思い起こして。彼の国へ入り、彼の国の民になっていく。まるでもう一つの故郷がそこにあるように。
私はどうだ? 環境が悪い、客層が悪い、時代が悪い。言い訳をして、自分が輝けない理由を外に求めていた。だが事実、彼はこのレストランで輝いてみせたではないか。
世の中には太刀打ちできない才能がある。毎日一緒に演じていると、パートナーはいわば家族になる。ジャズ・バンドは兄弟になる。誰かが息を吐くときの癖、喉に声を引っかけるタイミング。それは共にステージに立てばすぐにでも思い出せる。たとえ一人一人は別の店に移るにしても、多少売れればレコードの一枚は送ってくれるだろう、そんな気でいる。彼らとハーモニーを奏でるのは私が一番上手い。今でもその自負がある。自分が立たなくなったステージで、彼らは今日も鍵盤を叩き、息を吹き込んでいる。ホールで力強い声を響かせている。
私はポケットの中で、古びた石の感触を確かめた。この石のように、変わらないでいられればよかったのだろうか。それとも、あのレストランでの彼のように、すべてを変えてしまうべきだったのだろうか。
潮騒が耳に戻ってくる。クラウトはまだ海を見ていた。
「コーソンさん」彼は躊躇いがちに切り出した。
「明日、バーに来てもらえませんか?マリィちゃんのことで、お話したいことがあるんです」
翌日の午後、私は約束通り〈Four Obstructer〉の重いドアを押した。開店前のバーには独特の静謐さがある。舞台裏へ挨拶に来るファンのような気分を、この年になって味わうとは思わなかった。カウンターのグラスは磨き上げられ、皿は音もなく積まれ、店全体が幕の上がる前の秩序を保っていた。バーテンダーは奥で氷を割っていて、私には目礼だけを寄越した。
クラウトは一番奥の席にいた。傍らには既に空のグラスが一つあり、二つ目に口をつけている。私を見ると彼は腰を浮かせ、椅子の位置を直し、結局は中途半端な会釈になった。私はその隣に掛けた。
「すみません、急に」
「構わんよ。暇な老人だ」
バーテンダーが何も訊かずに炭酸水を置いていった。よく見ている。私は今、酒を断っている身である。
クラウトはしばらく、グラスの中で氷の崩れるのを眺めていた。低くジャズが流れていた。誰の演奏かは分からなかったが、ピアノの左手が少し急いでいた。開店前に流す曲としては、正しい選択とは言えない。
「試合、三日後ですね」
「知っている」
「コーソンさんは、ダイマックスを生でご覧になったことは」
「テレビでなら」
「音が違うんです」と彼は言った。「歓声とも地鳴りともつかない音がして、足の裏から入ってくる。あれを一度浴びた客は、もう戻れません。うちの親父もそうでした。昔はここのジム戦を欠かさず観に来ていたのに、今は列車に乗って、よそのスタジアムまで通っています」
私は炭酸水を一口飲んだ。氷が鳴った。
「たとえば、の話をしてもいいですか」
「どうぞ」
「たとえば――どこかのチャレンジャーが、試合の前の晩、ホテルで眠るとします。朝、カーテンを開けると、通りの向かいに人垣ができている。楽器を鳴らして、揃いの服を着て、別の子の名前を歌っている。道を塞いでいるわけではない。ただ、そこにいる。スタジアムに行けば、客席の一角が真っ黒に染まっていて、自分の指示だけが通らない。……反則ではありません。応援ですから」
彼はそこで一度グラスを呷り、空にした。
「応援団です。名前も考えてあります。エール団。……趣味の悪い名前でしょう」
ピアノの左手は、まだ急いでいた。私はステージの端のレコードプレーヤを見た。リングマの爪の針は、今日は布を掛けられて眠っている。
「ネズ君は知っているのか」
「いえ」クラウトは首を振った。「あの人は反対します。あの人は、その……美学の人ですから。マリィちゃんにも言いません。知れば、あの子は勝ちを喜べなくなる」
「君たちだけが泥を被る、というわけだ」
「被るとも思っていません」と彼は言った。それから、自分の言葉に驚いたような顔をして、小さく言い直した。「……いえ。被るんでしょうね」
昔、似たような話を聞いたことがある。名前ももう思い出せないプロデューサーが、食後のナプキンで口元を拭いながら言ったのだ。君は清潔すぎる、と。客は汚れを拭いてやるのが好きなんだ、その娯楽を客から取り上げるな、と。私はその晩、丁重に礼を述べて、以後二度とその男と食事をしなかった。それから十年をかけて、ゆっくりと落ちぶれた。
あの晩の私が正しかったのかどうかを、私はいまだに知らない。ただ、あの晩からこちら、あの手の話は決まって食後に、決まって上等な店で持ち出されるものと思っていた。開店前の、氷を割る音のするバーで聞いたのは初めてだった。
「なぜ私に話す」と私は訊いた。「止めてほしいのかね」
クラウトは長いこと黙っていた。バーテンダーが氷を割り終え、布巾で手を拭く音がした。
「では、何かね。エール団に入れ、と?」私はグラスを傾けながら聞いた。クラウトは悲しげに微笑んだ。「いや。忘れてください。こんなことを頼む権利はなかった。もし今あなたの気が変わったとしても、僕は即座に許すでしょう。あなたの足元を見て無理な立場に追い込んだ。ただ、それを許して欲しいと思うだけです」
バーカウンターの隅には闇が蹲っている。私は上着のポケットに手を入れた。癖だった。そこにはもう、何も入っていない。あの石は今、ドゴームが持っている。私は空の指を一度だけ握って、開いた。
「考えておこう」
自分でも意外なほど平坦な声が出た。クラウトは頷き、それ以上は何も言わなかった。私は炭酸水の残りを飲み干し、勘定を断られ、礼を言って席を立った。ドアのベルが、来た時と同じ音で鳴った。
アーケードの照明が一つ、切れかけて瞬いていた。そのうち誰かが直すのだろう。この街は、たぶんずっと、そうやって保たれてきた。
何も歌う気にならなかった。
このところ全く小説を書いておらずかなりへたくそになってしまいましたが、完結はさせます
次回で完結させる予定です!