甘くて苦い恋の蜜   作:敷き布団

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甘くて苦い恋の蜜

 恋愛マジック、なんていうものがある。傷心だったり、その場の雰囲気とか、何かの事情で、気が狂ったように恋愛に溺れたりする、あれのことだ。

 参考までに、私はそんなもの信じてはいなかった。芸能界で審美眼は磨いたはずで、目の前にいる人を過大評価することなんてことは滅多にない。そこまで入れ込みすぎたって、何も良いことはないということだって知っている。

 でも、今の私は間違いなく、その恋愛マジックとやらの餌食になっているようだった。原因が何かは分からない。人肌恋しくなる季節だったからかもしれないし、私の気づかないうちに心が疲れて癒しを求めていたのかもしれない。辛いことを全て忘れられるような甘ったるい何かを心が欲していたのだ。

 

「私、貴方のこと、好きになっちゃったみたい」

 

 あぁ、恋って甘いな。甘い蜜に狂わされる愚かな人を、この目でたくさん見てきたというのに、私はその甘さに憧れていた。

 願わくは、この恋がいつまでも甘いことを。

 

 

 

 

 

 その日は、淡い白の雪が降っていた。街角を頼りなく照らす街灯の傘にも薄く雪が積もり、いよいよ冬が到来することを予感させていた。口から漏れる、濁った白の吐息は瞬く間に宙に消えていく。それはこれ以上ないほどに、私たちを取り巻く空気の冷たさを教えていた。

 歩道につけられた、数多の人の足跡を踏み躙りながら歩く。本当ならもう少し顔を上げて、沢山の電飾を纏った街路樹に目を向けたい。でも、単に久しぶりに出掛けるだけだったはずの、隣を歩く密かな想い人を気にして、私の視界は足元ばかりを捉えていた。

 たった数センチ隣には、禁忌を犯してでも触れ合うことを望む人がいる。二人の間に会話らしい会話はなく、周囲の雑踏の歓談に足音すらも掻き消されていた。むしろ全くの無音であれば、私の緊張はさらに高まっただろうから、これは一周回って幸運なのかもしれない。それでも、雪に隠された互いの顔を見つめることすら出来ない程度には、芳しくはない状態なのかもしれない。

 

「……緊張して、喉が渇いたわね」

「飲みかけだけど、いる?」

 

 もはや殆ど意識もせずにこぼした愚痴のような言葉。隣を歩く想い人はなんだかんだ優しいらしく、鞄に入れていた飲みかけのコーラのペットボトルを差し出してきた。

 

「あまりこういうのは飲まないようにしているのだけれど。間接キス……なんて考えても仕方がないわね。ありがとう、少しだけ頂くわ」

 

 飲みかけとはいえ、多分つい先ほど買って開けたばかりなのだろう。私がキャップを回すとシュワーという炭酸の音が聞こえる。あまり大量に飲むのも申し訳ないので少しだけ口にする。

 甘い。良い具合に炭酸が少し残ったコーラは程よく甘い。いや、甘く感じるのは私が彼との間接キス云々だとかを多少なりとも意識しているせいか。初恋の味はコーラの味なんて、流石に風流の欠片もなさそうなので頭から退散させる。私は変な意識をしないようにしながら、彼にペットボトルを返した。小さく相槌の声が聞こえて、鞄の中にまたペットボトルが消えていった後は、さっきのような沈黙に戻ってしまった。

 

 念のために言っておくが、決して関係性が薄いだとか、そういうことはない。それは今のやりとりを見ても分かるだろう。それどころか、私が普段接する異性の中では最も砕けた関係で、所謂腐れ縁なんていうやつだ。知り合ってからもう長いし、薫とだって共通の知り合い。白鷺千聖という人間が成長してきた姿を粗方知っている、というより共に成長したと言っても過言ではない。

 そんな親しい人間と顔も合わせないなんて訳だから、とんでもない喧嘩でもしたのかと疑われるかもしれない。でも、そういうわけでもない。もしそうならば、こんなカップルが跋扈する街角を、すぐに触れそうな距離で並んで歩くわけがない。むしろ正常な私なら、スキャンダル扱いされるのを恐れて、進んで距離を取っていたっておかしくない。でもそうしていない。それは即ち、私自身が恋愛マジックなるものに掛かっている証左だった。

 

「千聖はさ。これから、どうするの?」

「これから? どういうこと?」

「これから、だよ。来年から」

 

 私を取り囲む彼以外の何かに目を向けることに夢中で、少しぼうっとしていた。質問をうっかり聞き落としそうだったが、彼が気にしているのはこの冬の時期、考えずにはいられない問題のそれだったらしい。

 私は、そして彼も、もう高校三年生、しかも冬である。避けては通れない、進路選択という問題だ。もっと的確に言えば、大学受験である。もう少しすれば、大学受験の最初の関門が訪れるわけで、全く知らない話というわけじゃなかった。けど、ある意味では私は無縁の問題だったこと、そして、彼にはまだ自分の近況を教えていなかったことを思い出した私は、雑踏の騒音に隠れながら口を開いた。

 

「私、四ツ葉女子大学の総合型選抜に合格したのよ。だから、春からは……自分で決めた道に進むわ」

「そっか。おめでとう」

「えぇ、ありがとう」

 

 悩みに悩んで決めた、自らの進路。そこには間違いなく彼の姿はない。そもそも道を決める時に彼のことを考える余地など一ミリもなかった。今、この場においてはそれは少しの申し訳なさと後悔を含んでいるけど、仮に彼がそこにいれば、私はさらに後悔していたに違いない。

 そして、後悔がないのは彼も一緒のようで、私の答えを聞いても、何一つ動揺したりだとか、落胆する様子はなかった。いや、当たり前か。私は一夜の魔法に誤魔化されて、彼に落胆して欲しいという願望を押し付けているだけだった。

 

「千聖はすごいな。小さい頃からやり抜いて、貫き通して、これからを生きようとしてるんだから」

「褒めても何も出ないわよ?」

「まさか。見返りなんて求めてないよ。ただ、千聖に比べて進む道すら決められてない自分が情けなくなっただけだから」

 

 進むべき道なんて、そう簡単に決まるわけがない。そんなことを言おうとした。けど、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。そんな上から目線の助言を彼は求めているだろうか。

 聞けば、彼はこれから受験を控えているわけで、志望校というものすら一つに絞れていない自分を卑下しているらしい。でも、そんなのは試験の結果次第で簡単に変わってしまうものなのだから気にしても仕方がない、なんてのは、無事に道が決まった自分の驕りかもしれない。こっそり心の中で自分を戒めた私は口を噤み、他の話題に逃げることにした。

 

「受験勉強は忙しいかしら?」

「まぁね。千聖みたいに芸能活動してる忙しさと比較しちゃダメかもしれないけど」

「条件がまるで違うじゃない。大切なのは貴方が忙しいと思うかどうかじゃないかしら」

「それなら……忙しいかな」

 

 長いこと近況報告が出来ないぐらい関わることが少なかったのだ。チャットでやりとりすることもそうないし、腐れ縁とは言いつつもそれほど関係が濃いということもないのだ。お互いの近況を知らなかったことに気がついた私は、なんだか余計に記憶の中にある彼と、今の目の前の彼との違いが浮き上がってきたような気がした。

 そういえば彼の身長は少し伸びただろうか。私がそれほど身長が伸びていないということもあって、彼との身長差はより一層大きくなっている気がする。前に会ったのは夏前とかだっただろうか。たった半年ちょっとでこうも成長するものなのか。

 気がつけば、それまで雪のカーテンに甘えていたはずの私の視線は、すっかり彼の体を、顔をはっきりと捉えていた。

 

「そう、それなら」

「それなら?」

「今日くらいはハメを外して、楽しんでみない?」

「えっ?」

 

 待ち合わせした時の一瞬を除いたら、今日初めてかもしれない。私と彼の、高さの違う視線が交錯して、暫く見つめ合っていた。彼の顔の背景で霞んでいたのは、それまで街路を華やかに彩っていた木々の電飾だった。そんな文明の灯りが雪に反射して、すっかり惚けた彼の肌を紅く照らしていた。

 

「現実逃避というのも必要でしょう? 行きましょう」

「えっ、うん」

 

 まるで置物のように何の抵抗もなく、彼は私に引きずられて歩き出す。それほど力も込めていないのに繋がれた手に釣られるように、彼は私のすぐ後を追いかけていた。やがて追いついた彼は、私の大胆さだとかそういうのに困惑を隠せないようで、頬を赤らめるなんていう可愛らしさを見せつけている。雪の寒さに気を取られて、恋の急病に罹患してしまった私に。

 

 

 

 

 

 私は縁石をも覆う植え込みの脇を抜けて、歩行者天国と化しそうな通りを歩く。徐々に電飾は激しくなって、青や黄、赤も混ざったイルミネーションが街を飾り出した。その頃にははちきれんばかりだった私の心臓も落ち着いていた。

 きっと側から見たら、私たちはお似合いのカップルに見えるのだろう。少し身長差のある、けれど冬を楽しむ幸せそうな恋人たち。彼がどう思っているかなんて知るよしもないけど、周りから見ればそう見える。それだけで私の心は高揚した。擬似的な恋愛に酔うことができたのだ。

 

「ここのイルミネーション、結構評判だよね」

「えぇ。通りの方なんか、もっとすごいのよ」

 

 丁度その時、交差点に差し掛かった。片側三車線の大通りと交差する歩道には人が溢れている。その多くが隣に親しそうな異性を侍らせて歩いている。

 歩行者の信号が青に変わる。一斉に人の波が流れて、それに合わせて大通りに面した方まで歩く。

 

「わぁ」

 

 群衆の騒ぐ声が一瞬止んだ。その瞬間に響くのは彼の感嘆だった。口をぽかんと開けて、大きく開いた瞳孔に大粒の光が差し込んでいた。まるで周りの人々の声が何も聞こえていないようにフリーズした。

 大通りを飾るのは、黄金と呼ぶのが相応しい光の数々だった。まさに光の宴に等しいイルミネーションが広がっている。どこまで先にも、ゴールドに輝く電飾が並んでいるのだ。空からこれを見れば、地上に流れる天の川と勘違いしたっておかしくない。明かりのない車道を包むような光の束に街が飲み込まれているようだった。人も、物も全てが光に覆い尽くされていた。

 かくいう私たちも、その明かりの中に消えてしまいそうだった。いや、飲み込まれていた。圧巻の光景に惚けた彼は、私が強く握った手に反応して、ようやく夢から醒めていた。醒めた現実も、私にとっては夢同然なのだけど。

 

「ほら、行くわよ?」

「ちょ、分かった。分かったから引っ張らないで」

 

 偶然にも人の少ない空間を波間に見つけて飛び込んだ。足元の磨かれたタイルは天からの光を映し返していた。空を見上げれば、星が落ちてきたのだと錯覚するような光の夜空。そして、手を繋いで歩く、まさしく隣に確実に存在している彼。私にとって、どれもこれもが満ち満ちた世界がそこにはあった。

 

「綺麗でしょう?」

「うん、本当に花道みたいに……」

「花道、というよりは星の道かしら」

 

 次のステップに踏み出そうとする私たちに準えて粋な表現をしようとしたのだろうか。今はそんなこと気にせずに、ただ私とこの一生に一度の星降る夜を楽しんでくれたらそれでいいのに。そんな気持ちを込めて、私は一度手を離した。

 

「えっ?」

 

 すぐさま私は手を組み直す。彼の寒そうな左手を取って、私の右手を絡ませる。固い結束を示す恋人の契りを結ぼうとしているのだ。指の一本一本が擦れる。絡め取った彼の手をもっと強く握りしめた。

 

「ね?」

 

 わざとらしく首を傾げる。彼は小さく頷くと、少しだけ力を込めて手を握り返した。私の微笑みの意味は彼に伝わっているのだろうか。

 私がそんな不安に悩もうとするより前に彼は歩き出した。周りの人たちも歩いているのだから、私たちだけがずっとここに留まるわけにもいかない。

 それでも、どういうわけか私たちの周りは少し人が少ないような気がする。だからだろうか、甘い世界に没入しているとはいえ、二人きりの世界を堪能しているように、余計に感じていた。

 あちらこちらの店から聞こえてくる、祝福を奏でる、荘厳で幻想的な音楽。頭上から私たち二人の歩む先を照らす華やかな灯り。自分たちが主役だと勘違いしても仕方がないような、密かに想いを寄せる彼と手を重ねて歩くシルエットが、道の上にぼんやりと浮かび上がっている。

 それらはまるで。

 

「結婚式、みたいね」

「結婚式?」

「ふふっ。気にしないで? 女の子の夢だもの」

 

 憧れに似た、幼い妄想が先走った。好きな人と二人きりの世界を歩く。上空から示された道は、希望の光に照らされている。当然ドレスを着ているわけでも、彼がタキシードを着ているわけでもない。ただのよそ行きの格好。でも、そうだと勘違いしてしまうほどに、想い人と歩くこの道は魅力的なのだ。

 

「さながらここはバージンロード、なんてね」

「……俺は父親?」

「ふふっ。さぁ、どうかしら」

 

 一般的にはバージンロードは女性とその父親が一緒に歩くことが多いか。けれど、大切な人と歩くバージンロード、その相手が父親じゃないことだって多い。後は言うのも無粋というものだろう。それに気づかない彼は、相当に鈍感な方らしい。気づかせてあげたいけれど、ここで言うのはなかなかしっくりこないものがあった。

 

「……さて、折角だからここのイルミネーション、高いところからも観たいでしょう?」

「高いところ? そんな一望できる場所あるんだ?」

「この間とある知り合いから教えてもらったのよ。すぐそこだから」

 

 私の意図を何も知らないまま、彼は私の先導に従って隣を歩く。知り合いというのは彩ちゃんだ。なんでもSNSで噂になっているとかなんとか。今度パスパレのみんなと行こうなんて言っていたはずだけど、今日はその下見という体にしておこう。どちらが本命なのかなんてのは、考えれば考えるほど憂鬱になるだろうから。

 

 ものの数分で、件のビルにたどり着いた。大通りに面したそのビルは、なんの因果か意図的なのか知らないものの、少し上の階のエレベーターホールが僅かに歩道の上に伸びていた。これは穴場だ。歩道なんかとは違って人は少ないのに、地上を走る光の束は見放題なのだ。

 こっそりと覚悟を決めた私は遂にその見晴らしの良いフロアにたどり着く。そのホールにやはり人は見えない。下の方からは枝の先に取り付けられた電飾が零す光が淡く広がっていた。

 

「さ、ここまで来たら。ほら」

「すご……」

 

 彼と一緒に振り返る。大きく取り付けられたビルの窓から見下ろす大通りは、まさに天の川を上から見たようだった。見た瞬間言葉を失った。一面の金色。白い雪ですら消えてしまいそうなほどの明かりの舞が目に飛び込んでくるのだ。

 彼と二人、窓に手をついて暫く眺めていた。時間がどれくらい経ったかなんてのは分からないぐらい、目の前の明るい未来に心を奪われていた。釘付けの彼の姿を盗み見ようとも考えたけど、私の方もすっかり放心状態だったのだ。

 

「……今日はありがとう。千聖」

「え?」

 

 どうやら私より先に夢と現実の狭間にまで帰ってきた彼が口を開いた。私はその声に慌てて居直った。この場所まで来た目的をすっかり見失っていたことを思い出して、頭の中を整理しようとしたけど、上手いことまとまりはしなかった。

 

「ずっと息が詰まってたから、良い気分転換になったよ」

「そう……。それなら良かったわ」

「帰ったら、ちゃんと進路のこと、考えなきゃなぁ」

 

 途端に湧いて出た彼の言葉にピクリと反応した。彼にそんな気難しいことを、迷っていても仕方がないことを忘れさせるためにここに連れてきたのに。受験生だから、と戯けながら悩む、予想以上にドライで、リアリストだった彼に慌てて、次の言葉を探した。

 

「今日ぐらい、そんなこと忘れてもいいでしょう?」

「まさか。もう試験まで近いから、一日も無駄にはできないよ」

「それは……そうかもしれないけれど」

「自分じゃ何も決められない、なんて。千聖を見てたらダメだなって。悩むことすら嫌がって現実逃避してる場合じゃないよね」

 

 彼の言葉は、どうも鼻についた。いやまぁ当然か。折角のデート、勿論意識しているのは私だけだとしても、それをまるで無駄なものと言われたみたいで。いや、彼もそんなつもりで言ったわけではないなんてことも知っている。彼が言おうとしたのは勉強をしなければいけないのに、入試の日程が近いから無駄にできる時間はない、ということに過ぎない。きっと私との時間を無駄だなんて思っていない、はずだ。もしそうだとしたら私は悲しすぎて涙すら流せない。

 私が期待をし過ぎているだけ。それだけなのに。ただ、少しだけ揺れて不安定になった心の中の反吐は彼への不満という形で吐き出されてしまった。

 

「進路なんて、決められないと悩んでも仕方がないのよ」

「……はは、千聖に言われると、刺さっちゃうな」

「……ごめんなさい。過ぎた発言だったわね」

 

 相当に悩んでいた頃の自分をふと思い出した。偉そうに言える立場ではないし、あの頃の自分がそんな言葉をかけられたらどう思うか、想像できないわけじゃなかった。

 

「千聖がそんなに暗くなることないからさ。ほら笑って笑って」

「笑ってって……。……えぇ」

 

 重苦しい空気になってしまったのを反省しているのは私だけじゃないみたいで、和ませようとする彼の優しさが却って苦しかった。けれど、それに乗っかる他なくて、彼が差し出した手に自分の手を重ねることにした。

 

「ほら、帰ろっか」

「そう、ね。えぇ」

 

 結局、自分の不用意な発言のせいで、彼に言いたいことを言うことなんて出来なかった。下階に降りるエレベーターでもそんなことを言う勇気はないし、きっとそれは勇気ではなく蛮勇と呼ぶのだろう。

 ビルを出ると、先ほどと同じイルミネーションの通りが見えていた。ただ、心なしか少しばかり暗くなっているような気がした。綺麗だった想い出を暗くしたくなくて、私は少し力む。それは彼の手を握る手の力になって現れていた。でも、彼はそんな私の手を弱く握り続ける。彼の優しさに少しだけ心が救われる気がした。

 大通りから離れるとすっかり賑わいは減った。電飾も減り、裏路地のお店が放つ明かりや、自動販売機の明かりが淋しく道路を照らしていた。それに当てられたのか、私と彼の会話もめっきりなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 一駅分ぐらい歩いただろうか。もうすぐ私たちの家の近くにまで着くというところまで歩いていた。その間、信じられないほどに単調なやりとりしか彼とは出来なかった。まるで、初対面の人といきなり二人きりにされてしまったかのように。

 

「俺の家も近いけど、とりあえず、千聖は家まで送って行くよ」

 

 彼の声がして顔を上げて辺りを見渡す。そこは彼の家の近くだった。多分この丁字路を右に曲がれば彼の家はすぐそこだったか。私の家の方がここから遠いから、多分送ると言っているのだろう。

 

「千聖の家、一応覚えてる範囲ではあっちだったと思うんだけど。合ってるかな?」

「……えぇ」

「良かった良かった。それじゃあ」

「……帰りたくない」

「えっ?」

 

 自然と口をついて出た言葉。帰りたくない。帰ったら、帰ってしまったら、もう二度と、今日みたいに彼と同じ時間を過ごすことは出来ないのではないか、そう思ったから。

 帰りたくない。まだ彼といたい。夢は終わらせたくない。離れたくなかった。

 

「そういえば私、外泊の許可は取っているの。お母さんにしっかりと事情を説明すれば、ね?」

「えっと、どういう」

「さぁ、帰りましょう。貴方の家に、お邪魔しても良いわよね?」

「いやいや、え」

 

 彼の手を引いた。半ば無理やりだった。暴論も暴論だった。記憶通りに丁字路を曲がり、彼の家があったはずの通りへと出る。街並みは変わっていないし、そもそも近所なのだからこんな感じだったとすぐに分かる。私の半歩後ろで彼は私を呼び止めようとしているけど、私は構わずに歩いた。

 すぐに、記憶の中の彼の家に辿り着いた。表札には彼の苗字が出ている。間違いない。

 

「外泊って。きっと俺の親が」

「私が説得するから、それならいいでしょう? さぁ帰りましょう」

 

 もはや根拠も戦略もへったくれもない言いくるめ。彼はきっと私を突き返すことも出来なかったのだろう。玄関を渋々開けると、私に待つように玄関の中で言いつけ、まだ明かりのついているリビングへかけていった。ドアの向こうからは明るい声が聞こえてきて、ゆっくりと彼が戻ってきた。

 

「……うん。良いって」

「ふふ。ならお泊まり決定ね」

 

 足取りが重そうな彼の背中を押しながら、二階の彼の部屋に辿り着いた。さっき、彼の体からほんのりと漂ってきた匂いと同じ香りがする。間違いなくこの部屋の主人は彼らしい。

 それはそうと、お泊まりなんて言いながら、どういう段取りで自分の考えを伝えるかなんて想定はされていなかった。そりゃそうか。私の作戦はあのビルの上で失敗してしまったわけなのだから。彼の方も多分、私をどう扱っていいか分からずに困惑しているらしかった。

 

「お風呂は、千聖が先に入ってきてくれて良いんだよ」

「あら。そういうことならありがたくいただくわね」

 

 一緒に入るか、なんて揶揄おうとしたけど、さっきの失敗で現れたリスクに怯えてそんな態度は取れなかった。それよりも、彼のお母さんに挨拶して外堀を埋める方がなんなら確実だ。リアリストの私なら間違いなくその選択が正解だというだろう。仮にも息子が連れてきたガールフレンドのお泊まりを認めるのだから確実だろう。そんな打算的な企みは案の定上手くいくのだった。

 

 ちゃっかりと外堀を埋めた私は、なるべく急ぎでお風呂を済ませる。変な臭いがしたりしないか入念にチェックして、結局そこそこの時間は掛かったけどお風呂は上がった。そして、入れ替わりで彼が今度はお風呂へと向かった。

 一人残された彼の部屋。風呂上がりに彼のシャツを借りた私はその彼の帰りを待つことになった。彼もまた湯船に浸かっているから、きっと彼が出てくるまで時間はかかるはずだ。その間に彼に伝えるべきことを整理して、作戦を立てよう。そうしよう。

 伝えるべきは一つだけ、ビルの上で言えなかったその言葉を言うだけ。彼が、貴方が大切な人なのだと。ただ一言、好きですと。

 確か彼に彼女はいないはずだ。もしも居たら、今日のデートもどきなんて、バレたら浮気だと詰られても仕方がない。もしも私が彼の女なら、他の人が華麗な夜道に彼と手を繋いで繰り出すなんて耐えられない。

 彼は私の言葉に、うん、と頷くだろうか。強く押せばいけるだろうか。いや、それで万が一断られたらどうしようというのか。そもそもその告白をどうやって伝えるのか。

 分からない。考えれば考えるほど正解なんてないように感じられた。いくら考えても、私が彼に想いを告げている場面が想像つかないのだ。もしも流行りの恋愛映画の台本があれば、私たちと同じ状況を描いた台本があれば、私は絶対に彼と結ばれるはずなのに。

 

「上がったよ、って千聖?」

「えっ。早かったのね」

 

 グルグルと脳内が混乱に陥ってしばらくして、彼が帰ってきてしまっていた。正直何も考えられていない。でも、ノープランで告白をぶつけられるほど私は情熱的でもないし、愚かしくもない。

 何も決められないまま、壁際で三角座りをしながら、部屋に入ってきた彼と目が合うのだった。

 

「そういえばベッドは、千聖が使ってよ。俺は布団とか敷いて寝るからさ」

「貴方はいつもベッドで寝ているのでしょう? それなら私が布団を借りるわ。それでいいでしょう?」

「いや……その。とにかく、ベッドを使ってよ。俺は他に寝るところあるからさ」

 

 彼の歯切れは悪い。どこか焦る、というより言葉に詰まる彼を見れば、彼の考えは殆どお見通しだった。

 

「本当に……優しいのね。そういうことなら私にも考えがあるわ。このベッドで一緒に寝る。それで解決ね」

「いや、それは流石に」

「布団なんてないんでしょう? それなら一つのベッドで二人寝ればいいだけのことよね?」

 

 どうやら私の予想は完全に当たっていたようで、彼は反論する気もなくなっていた。どこか居所が悪いように目を逸らす彼の手をいつぞやの時のように取って、ベッドの上に乗る。彼の足取りは重かったようだが、私が露骨にベッドの奥まで寝転がり、人一人が優に転がれるスペースを作ると、申し訳なさそうに隣に寝転がってきた。

 彼が部屋の明かりを消す。ベッドサイドのシェードランプだけを点けて、部屋は暗橙色に染まった。彼の顔も陰になって、あまりはっきりとは見えない。

 

「もう少しこっちに寄っていいのよ。落ちるでしょう?」

「いや、千聖に悪いし。まだ寝るにはちょっと早いからさ」

 

 遠慮がちの彼は、わざとらしく私との間にスペースを空けている。寝るには早いというのはご尤もで、まだ九時を少し回ったか回っていないかぐらいだ。大半の高校生はもう少し遅くまで起きていてもおかしくはない。

 私は彼が無駄に作ろうとしているスペースを埋めることにした。腕を伸ばせば簡単に触れられるところに寝転がる彼。その間をジリジリと詰める。彼もそれ以上向こう側に行けばベッドから落ちてしまうからか、特に動く様子はなかった。

 やがて、互いの吐く息の温かさが簡単に分かるほどになった。彼は恥ずかしがっているのか、それとも不要な遠慮をしているのか、私とは目を合わさないようにしている。だから、私は隣で寝る彼に抱き着くように腕を回した。これには流石に反応をしないというわけにはいかなかったらしく、可愛らしく彼の体が上に跳ねた。

 

「今日は楽しかったかしら?」

「……うん。いい、息抜きになったよ」

「そう……」

 

 明かりは窓から僅かに差し込む外の光だけなのに、すぐそこにある彼の顔はよく見えた。もう言うならここしかないと、そう思った。

 

「ねぇ。貴方に一つ、伝えたいことがあるのだけれど、いいかしら」

「伝えたいこと? それって……ううん。いいよ」

 

 心拍数が跳ね上がる。回数の増えた呼吸。きっと吐く息の温さと頻度で、この緊張は彼にもよく分かっているだろう。

 

「私、貴方のこと、好きになっちゃったみたい」

「千聖が……。俺のこと」

「えぇ。私も長い間見ないフリをしていたけれど。気がついてしまったの」

 

 真っ暗な部屋は静寂に包まれた。私の告白を聞いた彼は、何も答えるでもなく押し黙っているだけだった。彼が二つ返事で頷くなんて予想はしていなかったけど、痺れを切らしそうな私は催促をすることにした。

 

「その、端的に言うと。私とお付き合いしてくれないかしら」

「俺が千聖と……」

 

 彼は悩んでいるようだった。想定はしていたけど、やはりもどかしかった。本心で言えば、あれだけ私のわがままを受け容れてくれた彼なら、きっとこのわがままを聞いてくれるのではないかと考えていたから。

 彼女という存在になれば、あとはどうしようもできる。彼が望むどんな美しい女性でも、どんな可憐な乙女でも、なるための覚悟は出来ていたし、彼が望むならどれほど淫らに堕ちてしまっても構わないという覚悟も出来ていた。勿論、私の全てを捧げるのは彼一人なのだけど。

 だから、後は彼が私を受け容れてくれるだけ。それだけ。彼が私の告白を受け容れてくれるなら、それだけで良かった。でも。

 

「……ごめん千聖」

 

 名前と共に貼られた謝罪の言葉。その言葉が聞こえた瞬間、私がそれまで脳内にぼんやり描いていた夢物語が霧散した。ダメだ、彼は。

 

「違うんだ。その、千聖がそう言ってくれたのは嬉しい。嬉しいけど」

「……やめて。そんなところで優しくならないで」

 

 励ますような言葉は、私を傷つけるだけだった。そんな中途半端な優しさなら要らなかった。でも、私の否定を彼は言葉で遮って、打ち消した。

 

「その……俺には。俺にはそんなこと、決められないから」

「え……?」

「だから、千聖が、決めてよ」

 

 私の予想はやはり甘かった。彼が私の告白を受けてくれる確率と、逆に断る確率しか考えていなかった。しかも、その前者の確率の方が高いだろうなんて楽観的な考えをしていた。甘い。浅はかだった。

 

「千聖に、決めてほしい」

「あ……え……?」

 

 彼と付き合っても良いのか。私が決めろということか。そんなの簡単だ。私から告白したのだ。なら、告白した想いのまま、彼と結ばれたらいい。簡単なはずだ。

 でも、それならばなぜ彼は私の告白を喜んで受けてはくれなかったのだ。自分では決められないから? 本当にそれだけ? 私が決めなきゃいけない理由があるの?

 

 私は震えていた。寒いわけじゃない。ベッドは暖かい。寒いわけがない。

 あれ……。決めることって、こんなに怖かったっけ。あぁそうだ。怖いのだ。私が決めればいいだけ。決めるだけ。なのに怖いのだ。私は震えていた。

 気がつけば私は彼から距離をとっていた。そして徐に体を起こしていた。彼は気まずそうに顔を逸らしている。私は直感で察した。

 

「……私が決める、のよね」

「ごめん。俺、最悪だと思う。だけど」

 

 あぁそうだ。最悪だ。最悪のクズだって罵ってやりたいぐらいだ。でも、分かる。彼の気持ちが痛いほど分かった。だって、私も決められないから。

 

「……ごめんなさい。少し、頭を冷やしてくるわね。何か飲み物でも買ってくるわ。何か欲しいものでもあるかしら?」

「……いや。大丈夫だよ。ありがとう千聖」

「えぇ」

 

 私は彼と同じ空間にいるのが怖くなって、床に落ちていた自分のポーチだけを引ったくって、部屋を飛び出した。ドアをバタンと閉める。足から力が抜けて、自分の体が支えられなくなって、背中をドアに預けたままズルズルと崩れ落ちた。

 鼓動が激しい。不自然に速くなった呼吸で苦しい。少し、落ち着いて、考えなければ。ここにいては、気が狂いそうになる。

 彼の家を後にする。幸いにもこの家の近くには自動販売機がある。何か水とか、飲み物ならなんでもいい。何かを口にして、乾き切った喉を潤して、心を落ち着かないと、何も考えはまとまらなかった。

 

「はぁっ……はぁっ。……え?」

 

 何かに突き動かされるように少しだけ走った。一分もしないうちにたどり着いた自動販売機。けれど、ボタンのところの殆どには非情にも『売切』の赤文字が浮かんでいた。

 

「なんでっ。こんな時に……」

 

 売り切れていなかったのは、エナジードリンクみたいなのと、後はコーラ、炭酸飲料。そういえば、と。そのパッケージから、彼に分けて貰った飲み物を思い出してしまった。

 あのコーラはちょっと甘くて、程よい炭酸で、それでいて間接キスが出来て、とても美味しかった覚えがある。

 まぁ、これなら炭酸で少しはさっぱりとするかもしれない。気持ちが晴れることはないかもしれないけど、気持ちを紛らわせることぐらいはできる。慣れないエナジードリンクとかを飲むよりはマシである。

 手持ちの小銭を入れて、ガコンという音と一緒にペットボトルのコーラが落ちてくる。これみよがしに自動販売機の隣に置かれた寂れたベンチに腰を下ろした。お尻は冷たい。そりゃあそうか。外気が冷たいなら、当たり前か。

 そんな冷たさに目を瞑るため、私はペットボトルのキャップを開いた。炭酸が抜ける音が響く。

 

「んっ……」

 

 少し控えめに口をつける。コーラなんて自分で買って飲むのは、いつぶりだろうか。砂糖が多いから避けるようにしていたし、彩ちゃんにも何度もおやつと一緒に飲みすぎてはいけないと注意した覚えがある。

 でも、そんな毛嫌いしていたみたいなコーラでも、喉を通る爽快感は今の私が欲していたものだった。

 そして何より、甘い。こんなに甘かったのか。舌触りは炭酸で誤魔化されるのに、不思議と甘い。甘くて、さっぱりとしていて、美味しい。清涼飲料水を飲んで、こんなに美味しいと感動するようなことはあまりなかったかもしれない。むしろ自分の活動のために、そういったものは控えるようにしていたから。

 

「んっ……んくっ……。ん……はぁ」

 

 喉を通る液体。最後には泡が喉に溢れて、炭酸飲料の爽快感だけが残った。甘いだけじゃない、刺激的な味が私の体に染み込んだ。

 なんだか心が燃え上がるような気がした。食道を落ちるコーラが私の怖気付いた心を刺激するみたいに。コーラの甘さが魅せる思い出と、炭酸の刺激で震える恋の気持ち。

 気がつけば私は既に半分以上を飲み干してしまっていた。お腹の中に液体が溜まる感覚がして、私はペットボトルから口を離す。ゆっくりとキャップを閉めて、立ち上がった。

 

「よし。私が、決めるだけ。決めるだけだから」

 

 今すぐにでも駆け出すつもりだった。さっきは逃げてしまったけど、決めるのが怖くて逃げてしまったけど、もう、大丈夫なはずだ。彼が決められないならば、私が彼を導いてあげるだけ。そして、私たちが結ばれたらそれで良い。

 

 

 

 

 

 すぐに彼の家に辿り着いた。私が飛び出した時のままで、鍵は開け放たれたままだった。少し軽率な自分の行動に驚きながらも、私は彼の部屋へと駆け上がる。そしてドアの前で一呼吸置いた。緊張していたから、何度も何度も深呼吸をした。

 

「おかえり、千聖。寒くなかった?」

「……あら。起き上がっていたのね。大丈夫よ」

 

 私がドアを開けて中に入ると、彼はベッドに腰掛けていた。そして、部屋に入ってきた私の顔を見た彼は徐々に下に視線を向けた。私はポーチを下ろすと、反対の手で持っていたペットボトルを突き出す。

 

「飲みかけだけど、飲むかしら?」

 

 夜の入りを思い出す言葉にドキドキとしながら彼の返事を待つ。

 

「殆ど残ってないじゃん。千聖が全部飲んだらいいんだよ」

「……そう。気にしなくても良いのに」

 

 やはり彼の中途半端にもどかしい優しさが私を焦らす。でも、無理やり飲ませるのはもっと訳がわからない。大人しく私は彼のベッドの横に置いてある勉強机の上にペットボトルを置いた。

 

「外、寒かったでしょ。布団入っても良いんだよ」

「……えぇ。ありがたくお言葉に甘えるわね。その代わり貴方も、一緒に温まること。それが条件よ」

「……そっか。分かった」

 

 そう、さっきのようになれば何も問題ない。私が決めるのだから。彼が悩んで決められない分を私が決めるのだから。彼はさっきと同じように明かりを落とす。ベッドの奥側に入った私は彼のスペースを空ける。予想通り遠慮がちに入ってきた彼のために、私は身を寄せた。

 

「……さっきの話の続き、する?」

「えっ、いや」

「私がしたいから。いいかしら?」

「……うん。分かった」

 

 彼はやっぱり目を合わせようとはしなかった。私の帰りを待つ間、彼は一体何を考えていたのだろうか。気にはなったけれど、問いただすつもりにもなれなかった。どのみち、彼が何を考えようと結局は私次第なのだから。

 

「それで、さっきの私の気持ちは、分かったかしら」

「うん。自分なりには」

「そう。私は貴方のことが好き。だから、私とお付き合いしてください」

 

 部屋は静まり返った。冷えて重たい空気のせいで余計に静寂が息苦しく感じる。彼からの返事は期待していない。私が勝手に話を進める。

 

「それで、貴方は決められないのよね? それなら」

「そのこと、だけど」

「私が……えっ?」

 

 彼の声が私を遮って、焦った。私はもう、決定事項として彼に想いを伝えるつもりだったから。突然止められた勢いに、私はキョトンとしながらも、彼の言葉を待った。

 

「千聖が出ていってから、俺も考えたんだ。まずは、ごめん。俺が決めるのが嫌だから、千聖に全部任せようとしてた」

「えっ、えぇ。……初めは戸惑ったけれど、気にしていないわよ。むしろ貴方らしくて、安心したわ」

「なら良かった。それで、もし千聖の告白を受けて付き合うことになったら、もしも千聖の告白を断ったら。考えたんだ」

「それは」

 

 私はびっくりした。てっきり彼は、全てを私に任せてしまうのだとばかり思っていたから。自分で決めるのが怖いのなら、全て私が決めてあげようとすらしていた。

 

「千聖と付き合ったら……。それはそれで、幸せかもしれない。昔から知っているし、千聖が頑張ってる姿を近くで見られる」

「えぇもちろん。誰よりも近いところで、見ていてほしいもの」

「……うん。そして、断ったら。きっと今まで通り。今まで通りの友達のまま、それこそ薫みたいな、大切な友達の中の一人になるのかな」

「薫が……。色々と思うところはあるけれど、そうなるでしょうね」

「もしも千聖と一度付き合って、その後別れたら。どうなるのかな?」

「えっ。……それは」

 

 別れることなんてありえない、と言い切ってしまいたかった。少なくとも私が別れを切り出すことなんてのはないだろう。勿論交際すらしていないのにそんなことが言えるのかと言われてしまいそうだけど、私は少なくとも彼の欠点なんかも知っている。それを含めて私は彼に惹かれているのだ。だからありえないだろう。でも、彼から私に告げる場合はどうなるだろうか。その時はきっと、彼の心は私から離れているということになる。もしかしたら他の女の人に心が奪われて。

 ……想像しただけで、恐ろしかった。私を捨てて、彼が他の人のところに行ってしまうの? 止めたいけど、止められない。だって彼の心は彼にしか決められないし、私が無理やり変えることなんてのはそう出来ることじゃない。

 

「きっと、友達に、戻れるわ」

「……本当に? 俺が他の人と一緒になるところを、千聖は友達として見守ってくれるのかな」

「もちろん……。大切な友達として……」

 

 彼の正装を思い浮かべた。荘厳な式場の華やかさの中心になった彼。結婚式。彼が主役の片割れ。まるでイルミネーションで飾られた天の川の時に想像した時のように。

 でも、彼の隣にいるのは私じゃなかった。私じゃない別の女の人。私はあくまで彼の友人。脇の席から彼と、彼の伴侶が誓いの口づけを交わすのを、黙ってみているだけ。いや、見ているだけじゃない。大きな拍手で彼と見知らぬ女性の幸せな未来を祝わなければいけない。

 無理だった。そんなの。出来るわけがなかった。

 

「……だからさ。千聖」

 

 いやだ。言わないで。そんな悲しいこと。

 

「俺たちの仲だからさ。きっと千聖も分かってくれると思う」

 

 分かるわけないじゃない。だって、貴方は私と結ばれてくれるって、そう思ってここまで来たのに。

 この甘い、甘すぎた恋を実らせて、これから先も、長く堪能しようとしていたのに。

 今日の夜、天の川を共に下った記憶を永遠のものにしようと思ったのに。

 

「ずっと、大切な友達でいよう。千聖」

 

 どうして。どうして、私の口は動かないの。そんなの嫌だって、言えば良いのに。さっきは、押し切るって決めてたはずじゃない。

 なんで、彼の上辺だけの屁理屈に誤魔化されようとしているの。どうして彼は私の告白を拒んでいるの。なんで、なんで、なんで?

 大切な友達じゃ、足りないのに。もっともっと大切な。この世で一人だけの、たった一人の愛する人になってくれれば、それで良いのに。

 お願いだから、嘘でも、私のことを好きと言って。大切な友達じゃなくて、かけがえのない、ただ一人の愛する人だと言って。お願い。

 

「大丈夫、ずっと一緒だから……」

「ずっと……一緒……」

 

 なんて、なんて甘美な響きだろうか。ずっと一緒でいられる。それならその選択肢は妥当なのかもしれない。そう思ってしまった。でも、違うのだ。私が求めている一緒は、そうではない。でも、でも、彼は。

 

「……分かって、くれるよね。千聖」

「私、は。貴方と……」

 

 目から涙が滲んで、溢れ出した。彼に見えてはいないだろうか。こんな情けない姿、見られたくない。幸い外からの光はないし、部屋も暗い。きっと私の顔は見えない。

 彼と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。心を通わせて、幸せを笑って、そばにいてほしい。それは恋人じゃなきゃ、意味がない。私はそうだと思っていたから。でも、彼がそっちを求めてしまうのなら。

 

「……一緒に……いたいから」

「うん」

「……えぇ。かけがえのない、大切な親友……」

「……ありがとう」

 

 布団を少しだけ被った。袖口で目元を拭う。少し温くて冷たいけど、どうでも良かった。彼との間に空いていたスペースを埋めた。

 彼の胸元に顔を埋めた。彼は拒まなかった。どうして、彼は不器用で、中途半端なぐらいに優しいのか。私をこんなに弄んでしまうぐらいなら、いっそ私が信頼すらおかなそうなクズでいてくれたら良かったのに。私は必死に喉の震えを抑えて、つぶやいた。

 

「これからも、よろしくね」

「ん。もちろん」

 

 改めて言うことではなかった。できることなら、改めて言いたかった。私の甘い恋の妄想は全て、私の勝手で、ただの期待に過ぎなかったのだ。

 今日は寒い。寒い夜だ。だから仕方がない。仕方がないから、私は大切な友人である彼と同じ布団で暖をとった。哀れなものだ。あんなに息巻いていたのに。私は、怖かったのだ。結局は彼と一緒だった。決めるのが怖いし、失うのは怖いし、一番怖いものから逃げたいだけだった。

 ああ、臆病だ。私はバカだ。好きだったのに。なんで、なんで。

 

 

 

 

 

 静かに目を開いた。寝てしまっていたらしい。それも、私は彼に半ば抱き着くようにして寝てしまっていたらしい。

 朝というには少し早い。時期が時期とはいえ、まだ太陽は昇っていない。外からは特に何も音は聞こえないし、本当に静かだった。聞こえてくるのは彼の静かな寝息だけ。

 

「……あぁ。私」

 

 失恋したのね。たった数時間前の自分の愚かしさを思い出してしまった。まだ薄暗い部屋の中で一人、失意のままに体を起こした。私が埋めていた布団の上にはうっすらとシミが出来ている。どうやら昨晩の私は無様な姿を晒してしまっていたらしい。ついでに言えば、今も、サイズの合わない彼のシャツを乱れさせて、だらしない姿になってしまっていた。

 

「起きてないわね」

 

 時間も時間だ。どうにか彼を起こさずに起きることが出来た。

 朝、目が覚めたら想い人がすぐに触れられる距離で眠っている。隣で眠っていた私に一切の警戒を持たずに安心し切った寝顔を曝け出しながら、大切な彼が眠っている。

 あぁ、もしも彼が本当の恋人なら、どれほど良かっただろうか。あの初めの告白で私が彼と唯一無二の恋人になることを選んでいれば、眠る寸前に無理やりでも彼を襲ってしまっていれば、私はこんな惨めな思いをしなくても良かったのかもしれない。

 彼の性格を考えたら、私が無理やりにでも彼と関係を持ったら、なし崩し的に恋人として私と一緒にいてくれるかもしれない。でも、きっとそんなことをしてしまえば私は後悔することも分かっている。

 結局、どうしたって運命は変わらなかった。そう慰めるしかなかった。なんて惨めなんだろう。でも、夜のうちに出尽くしてしまったのか、不思議と涙は出なかった。

 

「……馬鹿ね。私」

 

 本当に馬鹿。愚かで、自分勝手で、浅はか。勇気もないいくじなし。これじゃあ彼に選ばれなくても、仕方がないのかもしれない。

 不意に、自分を嘲る最中にくしゃみが出た。昨日は寒かったのに変な格好で外を出歩いてしまったからだろうか。ベッドの中はあんなにもあったかかったのに、もう二度と、私はあのベッドに戻ることは出来なかった。けれど、部屋の中は冬の朝ということもあってとんでもなく寒い。寒い。温もりが欲しい。

 時刻はもうすぐ六時とかになってしまう。もしかしたら彼が起きるかもしれない。そのくしゃみで彼が起きなかったのには救われた。不幸中の幸いというやつか。

 彼が起きてきたら、私はどんな反応をすれば良いのだろう。大切な友人でいると誓った翌朝に、彼があの私を狂わせる優しさを見せてきたら、私はいよいよ朝からどうにかなってしまうかもしれない。

 

「ふふ……ふふふ……」

 

 どうやら、私に残された選択肢は一つだけらしい。彼が起きる前に、何事もなかったかのように、姿を消してしまうこと。昨日の夜は熱で魘されていただけだと思うしかないのだ。

 私はそそくさと部屋を抜け出そうと、荷物をまとめることにした。脱いだ衣服は後日取りに来ればいい。後は荷物と。

 

「これ……」

 

 机の上に置かれた、私の飲みかけのコーラだった。ペットボトルに入った黒い液体。それだけなのに、なんだか星が浮かんだ夜空に思われた。

 咄嗟に目を背けた。このパッケージを見れば、昨日の幸せなイルミネーションを思い出してしまうから。私がまだ彼との幸せな日々を夢見ていた、愚かな過去を思い出してしまうから。でも、置いて帰るというわけにもいかない。ならばもう、どうせならここで飲み干してしまおうか。

 私はキャップを捻ってコーラを開ける。炭酸の抜ける音は小さかった。ゆっくり、ゆっくりと口に運び、残った僅かなコーラを一気に飲み干そうとした。

 

 あぁ、苦い。甘いのだけど、変に苦い。甘くほろ苦いなんて、そんな良い響きではない。舌の上に残る甘ったるい、炭酸の抜けた苦い味。昨日の夜の爽快感はまるでなかった。

 私は大きく咳き込みそうになり、嘔吐いた。私の体がその黒い液体を拒むように、吐き出しそうになって焦って飲み込んだ。冷たく寒い空気も一緒に大量に飲み込んでしまった。

 苦しい。どうして、どうしてこんなに不味いの。昨日のコーラは、彼に貰ったコーラは、あの間接キスは、あんなにも甘くて、美味しかったのに。

 気持ち悪くなって、壁に手をついたまま私は崩れ落ちた。いつまで経っても、その苦い味が、甘く美味しかった記憶が、消えないのだ。

 

 ずず。という音が聞こえて、私はハッとして振り返った。彼が寝返りを打った音だった。それまで壁側に向いていたはず彼の無防備な寝顔がこちらを向いた。

 ゆっくりと立ち上がる。足取りは覚束ない。数歩歩いて、彼の近くにしゃがみ込んだ。

 安心し切って緩んだ口元。彼の唇。口から漏れ出る吐息に視界が揺れた。

 

「……ずるい。ずるいじゃない……」

 

 私をあれだけ狂わせておいて、まだ私をおかしくするのか。貴方は。消したと思ったはずの恋の炎は、ほんの僅かにだけ燃えていた。目を閉じる。眠る彼の肩を抱いた。

 

「んっ……んはぁっ。んちゅ……」

 

 あぁ、甘い。甘い。どうしようもなく甘い。舌に残る苦いコーラも消えていった。彼は息苦しそうに荒い息を続けているけれど、私は構わずに彼の口を蹂躙していく。私の苦い唾液が口の中で激しく混ざり音を立てる。もう彼が起きたって関係ない。私はただ、この甘くて、美味しくて仕方がない彼の唇を味わっているだけ。

 

「んっ、んはぁっ。はぁっ」

 

 やがて、唇が離れる。糸を引いていた唾液は途中で切れる。

 私は、泣いていた。あれだけ夜に泣いて、もう涙なんて出ないと思っていたのに。

 もう二度と元には戻れない。愚かな私は罪を犯した。目の前で酸素が足りずに激しい息を漏らす彼に、小さく、ごめんなさい、と呟いた。

 

 そうか、そういうことだったんだ。一度知ってしまった甘い味は忘れられなくなってしまう。きっと彼が本当に恐れていたのは、これなんだ。こんな甘い味、忘れられるわけがない。苦しむのはきっと、私だから。

 どうしてこんなところでも、彼は優しいのだろうか。私は彼の優しさを裏切るために、もう一度だけ静かに、そっと彼に口づけを残した。

 

「ん……ち……さと……」

 

 彼の声に耳を塞ぐ。きっと、その言葉を聞いてはいけない。急いで部屋を後にする。荷物は全て、忌々しいペットボトルも持って、部屋を、家を出た。

 外はまだ暗い。でも曇っているのか星は見えない。けれど、もうじき太陽が昇ってきてくれるかもしれない。じゃないと、こんな寒さは耐えられそうにない。

 昨日の夜、私に現実を告げた自動販売機の前を通り過ぎた。立ち止まった私はもう一度空を見上げた。思い返したのは、昨日の綺麗な、言葉にするのも惜しいような祝福のイルミネーション。

 

「……さよなら」

 

 ゴミ箱に、空のペットボトルを投げ捨てる。乾いた音が静寂の住宅街に響いて、静かに消えた。

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