甘くて苦い恋の蜜   作:敷き布団

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エピローグ

 朝、頬に刹那の冷気が触れた。暖かい寝具の中にいるのに身震いした私は惰眠を求めることなく起き上がる。部屋の空気は凛として、寒い。

 もう一月も半ばで、正月気分もすっかり抜けた頃だった。Pastel✽Palettesの白鷺千聖として表舞台に出る毎日も束の間の休息を迎えている。こんな朝早くに目が覚めてしまうあたり、まだ仕事に追われる気持ちは抜けていないようだけれど。

 

「……さて。今日が」

 

 テレビのニュースが、世間が騒いでいる。それは、今日が大学進学を控えた受験生にとっての第一関門、当日だから。そんな第一関門は推薦で大学進学を決めた私にとっても無関係ではなかった。

 何故ならば、私には今日、果たさなければならない責務があるからだ。仕事ではない。むしろもっとプライベートで、アイドルのタブーといっても良い恋愛に類することで、そして、僅か数週間前に儚く散ってしまった私の思い出の禊のためだった。

 

 家を出た。受験生の形見となるものを沢山持って。目的地はそう遠くない。まだ仄かに暗い住宅街を歩いた先。

 太陽は出ていないから、まだ星がチラチラと空に見えている。こうして空を見上げて寂しい道を歩くと、私が恋敗れた日のことを思い出してしまいそうだった。

 

『私、貴方のこと、好きになっちゃったみたい』

 

 思い出すのは、淡い恋心。焦らすような間接キスの仄かな甘さ。

 

『そう。私は貴方のことが好き。だから、私とお付き合いしてください』

 

 脳裏を過ぎるのは、燃え上がる恋心。心が奮い立つ刺激的な甘さ。

 

『ずっと、大切な友達でいよう。千聖』

 

 記憶から消えないのは、敗れて散った恋心。舌に残り続けて私を苦しめる苦さ。

 

『ん……ち……さと……』

 

 心に焼き付いたのは、彼の優しさ。苦さを全て塗りつぶしてしまうほどの甘さ。

 

 私は因縁の、私に苦々しい現実を突き付けた自動販売機の前で立ち止まった。あの日の夜とは違って、大体の飲み物が売り切れていないようだ。もしあの時、私があんな刺激的なコーラの味を知らなかったら、私は今頃、内に恋心を秘め続けて、それはそれは幸せな生活を暢気に送っていたかもしれない。

 

 ガコン、という音が静寂の住宅街に響く。私は再度彼の家に向かって歩き始めた。

 彼の家に辿り着く。町を歩いていても、休日出勤のサラリーマンとも出会さない。彼はまだ家を出る準備もしていないかもしれない。けれど、万が一を考えて、私はこんな時間に辿り着いたのだ。

 

「あっ」

「あっ」

 

 そして、その予想は的中して。玄関のドアから姿を現したのは、制服姿の彼だった。防寒対策のマフラーをしっかりと巻いて、袖口からほんの少しだけ、腕時計らしき銀色が見て取れた。

 

「どうして、千聖が」

「大切な友人の一世一代の勝負に、エールを送りに来たのだけれど」

「にしても、こんな早い時間に」

「こちらの台詞よ? でも、こんな時間から試験会場まで向かおうとするなんて、流石ね」

「遅刻でもしたら全部水の泡だからね。電車にも乗らないとだし」

 

 段差になった玄関前を駆け降りて、誰よりも大切な友人の彼が私の隣に並ぶ。私がゆっくり駅の方向に歩き始めると、彼も遅れを取らないように並んで歩く。

 二人で歩く道のりは、あの日の夜のような輝かしい星空の道ではなかった。むしろ、早朝の、ほんのわずかに太陽が顔を出したにも関わらず、陽光を浴びることのない薄暗いアスファルトの主張が激しい。どう考えたって、結婚式だなんだと宣っていた豪勢なものではなかった。

 

「……千聖にサプライズで応援してもらえるなんて、俺も幸せ者だな」

「あら、私の大切な友人だもの。当たり前じゃない」

「是非その優しさを薫とかにも恵んでやってくれ」

「……そう。それじゃあ折角だから私が試験会場までずっと着いていってあげるわね」

「ちょっ、ダメだって。絶対に会場が騒ぎになるし、千聖だけ別の電車に乗って迷子になっちゃいそうだし」

 

 そりゃあなるべく彼を困らせるためにそんな提案をしているのだから、本当にやったらまずいことなんて分かっている。会場が騒ぎになって困るのは彼だし、電車で私が迷子になるのは私が困るだけ……でもなく、間違いなく彼は私を探しに来てしまうし、それで試験に遅れても是としてしまいそうである。だから自重するのだ。彼の人生の責任を取る覚悟は出来ていても、無理矢理に彼の人生を捻じ曲げることまでは望んでいないから。

 

「そうね。迷子になったら貴方に電話して助けを呼ぶわね」

「……今日はスマホの電源切っちゃダメだな」

「それは切りなさい? お願いだから」

 

 まるで、その空間はいつも通りの日常だった。私が失恋をして、彼の眠っている間に接吻の罪を犯して、バレないように逃げたというのに、彼は大切な友人としての距離を保ち続けてくれている。あんなことがあった夜を共に過ごしたとなれば、もっとギクシャクしてもおかしくなかったのに。彼の誠実さと優しさは私を狂わせてしまう程で、それでいて、私を落ち着かせてしまう程だった。

 そして、人生が決まるかもしれない大学入試、その初日であることを忘れてしまうほど穏やかな時間だった。彼はもしかすると内心では緊張しているかもしれない、いや、間違いなく怯えているだろうけれど。私の存在が少しでも彼の不安を和らげられていたら、私は嬉しい。

 

「って、もう駅まで着いちゃったか」

「えっ。本当ね」

 

 やはり楽しい時間というのは一瞬だ。私が彼を見送れる限界点。これから試験に挑む彼を送り出す、ある意味では別れの場所。

 まだ人の姿はそれほどない。早くから用事がある人は当然駅を使っているようだけど、通勤通学ラッシュに比べたら無人もいいところだ。

 

「さて、私から言えることは……」

「言えることは?」

「……特にないわ。精一杯頑張りなさい」

「え、ええっ?」

 

 困惑する彼をよそに、きっと緊張しているであろう彼の頭の方に手を伸ばす。ギリギリ届きそうだ。頭頂部ではねる髪の毛をそっと抑えた。多分朝方に焦って鏡を見るのを忘れたか、この冷たい風に吹かれるがままに抑えた寝癖が再度はねてしまったのかだろう。髪の毛を抑えるついでに、これまで受験勉強を頑張ってきた彼を労うために、そっと彼の頭を撫でた。

 

「きっと大丈夫。貴方が頑張っていたことは、私が一番よく知っているから」

「うん。ありがとう」

「……ふぅ。忘れ物はない? 受験票は? 筆記用具もある? 無かったら私が持ってきたのを貸すから確認しなさい」

「ちょちょ、子どもじゃないんだし。でも千聖の筆記用具……御利益ありそう」

「学問の神様じゃないのよ?」

 

 くだらないやりとり。それは、これからの何が起こるか予測できない未来もきっと光に満ちているものだと予期させる、穏やかな日常だった。試験直前で切羽詰まっていることなんて想像もつかないぐらい、私と、大切な友人である彼との、甘酸っぱくて、明るい日常だった。思わず笑みが溢れる。彼のおかげだった。

 

「ん。千聖が笑ってくれて、良かった」

「え? どういうこと?」

 

 私が抑えきれない笑いを隠そうとしていると、彼があの優しい表情で微笑んでいるようだった。丁度建物の屋上から顔を覗かせた太陽が眩しくて、彼の藍鼠のマフラーが白銀色に反射している。そっちに気を取られている間に、彼の表情も澄ました表情へと変わっていた。

 

「……もう、泣いてる千聖は見たくないから」

 

 ビルの谷間を吹き抜ける、力強くて冷たい風が、私たちを襲う。髪の毛でも隠しきれない耳なんかはモロに風を受けて、もはや感覚すら残っていない。風の勢いで、私の結んでいない髪が舞って、陽光を受けて淡い黄色に輝いた。彼は柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「えっと、どうかしたの?」

「いいや、なんでもないよ。千聖はやっぱり、笑ってる時が一番可愛いなって」

「なっ」

 

 何かを呟いたように見えた彼から、いきなりの不意打ちを喰らう。無意識のうちに私を手玉に取ろうとしているのなら、彼はかなり悪質だ。女誑しと言われても仕方がない。これを素で口にしているというのがそれはそれで嬉しいのだけれど、憎いぐらいだ。

 

「こんな朝から私を口説く余裕があるなら、試験は大丈夫そうね」

「え? あ、ちょ。そういうつもりで言ったんじゃ」

「ふふっ。分かっているわよ。そんなことより、電車に乗らなくても良いのかしら?」

 

 慌てふためく彼を見て、満足感を覚えた私は改札の方を指さした。彼は焦ったように腕時計を真剣に見つめている。

 これだけ余裕を持って家を出たのだから、遅れるなんてことはないだろうけど、早く家を出た以上は多分勉強に時間を使いたかったのだろう。となると、そんな大切な彼の時間を奪いすぎるわけにもいかない。彼の緊張はもう、相当解れたはずだ。

 

「次の電車で行くことにするよ」

「ええ、そうした方が良いわね。……それじゃあ最後に」

 

 私は今ここで、応援の気持ちと、ほんのわずかな意趣返しを込めて、ペットボトルを取り出した。それは私にとって、彼への恋心との別れの象徴であり、それでいて彼との絆の象徴でもあった。

 

「コーラ?」

「ええ、好きでしょう? 試験直前には飲まないだろうけれど。気分転換と糖分補給ぐらいにはなるかしら」

「まぁ、それはそうだし、コーラが好きなのは事実だけどね」

「カフェインが多いし、テスト中に炭酸というのも良くないかと思って悩んだのだけれど。要らなかったら……いえ、何でもないわ」

「……ありがたく頂くよ」

 

 だって千聖はそんなに飲みたくないよね? なんていう彼の言葉に私の心臓は大きく飛び跳ねた。まさかそんなにピンポイントで考えていることを当ててくるとは思わなかったから。

 私はきっと、もうコーラを飲むことはない。あの甘い、炭酸の味は求めていないから。あの苦い味だって、忘れられないから。そして、それを上書きしてしまうような、甘くて苦い彼とのキスの味、それを忘れるわけにはいかないから。

 

「千聖から貰った飲み物があれば頑張れるよ。帰ったら家宝にでもして飾ろうか」

「飲んでもらわないと流石に困るわよ?」

 

 だって飲んでもらわないと、こっそり隠したメッセージだって気づいてもらえないから。甘くて苦いコーラの味だって、黒い蜜のようなコーラに隠した私のメッセージだって。

 

「もちろん、分かってるよ。千聖からのエール、だもんな」

「ええ、大切な友人からの、想いを込めたエールなんだから」

「……千聖が傍で応援してくれてるから」

「ずっと一緒、なんでしょう? 応援しているわ」

「……だな。ずっと一緒だ」

 

 私の想いは、儚い恋の思い出となったあのコーラに託した。願わくは、彼が苦々しい思いをしなくて済むように。彼が進むべき道を決めて、どんな人生を歩んでいくにしろ、私は彼とずっと一緒だから。近くで、大切な友人として細やかなエールを送り続けるのだ。

 彼が手を大きく振る。試験会場に向かう電車はもうすぐ来るらしい。改札を走り抜けた彼の背中が小さくなっていく。駅員のアナウンスにかき消されそうになりながら、私は大切な彼の背中に向けて、呟いた。

 

 頑張ってね。今まで頑張ってきた貴方なら絶対に、絶対に上手くいくから。ずっと一緒だから、私がついているわ。

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