図書室に足を運んでみた。
希望ヶ峰学園の図書室はとても広く、蔵書から最新の文学までおさめられている。
今は、貸し出しは特に定められていないみたいだから、本は適当に持っていてもいいみたいだな。
パソコンは古いもので検索用の一台だけ。
さらに昔ながら、しかも貴重な“和製タイプライター”も横に並んでいる。
図書室の貸し出し机では、俺が手渡したノートパソコンとにらめっこをしている錦織がいた。
机には大量の本が積み上げられている。入門書から専門的な本まで……多種多様みたいだ。
入って来た俺には気がつかないほど錦織は集中している。
しかも、タイピングが……早い!
彼女の手首から下が見えないって、どういうことだ!?
時々手を休めては、本を一発で開き、また作業を再開する。
……これが、超高校級の司書なのか?
俺はなにをしてようか。
応援しても、邪魔そうだし……本でも読もうかな?
この本棚は文芸か。ふと『磯の香りの消えぬ間に』のタイトルが目に入った。これにしようかな。
「……書道家」
背表紙に手をかけようとすると、地獄に引きずり込みそうな恨めしい声。
振り向くと、皿が足りないお菊さんのように錦織がたたずんでいた。
「あ、あいさつも無しでアンタは読書タイムとは……さ、さすが書道家様ね? いい御身分だこと……!」
え!? ちがう、まるっきり逆だっ!
俺は何度も首を振ったが、錦織の陰鬱な顔は晴れない。
まずいぞ、なんとかして弁明しなければ。
「錦織、ちがうんだ。俺はお前の邪魔をしたくなかったから、ちょっと本でも読んで待ってようかなって思って……ほ、ほら、だって勝手に図書をいじられるのはイヤだろ?」
「そ、そうだけど……どうせ、私に気づかなかっただけの言い訳にすぎな……あっ。あ、あああ……あんたぁぁぁっ!!! 『磯の香りの消えぬ間に』を読むの!!??」
な、なんだ!?
突然、錦織が絶叫に近い歓喜の声をあげて俺のほうに身を乗り出してきたので思わず、反射的に後ずさりをしてしまった。
「こ、これか? ああ、まだ読んだことなかったから……」
「“これはまだ”ってことは、他の作品は読んだのね!?」
「え、ええと……多くの賞をかっさらったって言う私小説なら」
「あれは今世紀最大の日本文学だもの! 人間である以上、読まなくちゃダメよ……ふふふ、そうよね……次のお札の肖像画は“腐川”さまに決まりよね……!」
「素晴らしい」なんて一言も言ってないのに。
フィルターがかかっているというか幻聴でも聞こえてるのか?
でも、俺が読んだ私小説は問題作でもあり傑作でもあった。
彼女の文体は古風でありながら、現代に生きる俺たちにも共感できる神がかった表現の小説だ。
そのため、手にとって読み始めたら最後、息をするかのように読むことができたと言っても過言ではないだろう。
……とんでもなく暗かったけど。
そんな私小説、及び『磯の香りの消えぬ間に』を書いたのは。
「“腐川冬子”の小説が好きなのか?」
「なっ!? さっ、さまをつけなさいよ、この薄汚Yシャツ男……!!」
「ええっ!? その、腐川冬子……さまの小説、読むのか?」
「ふふふっ、言うまでもないわ……彼女の文学はすべて名著よ……『磯の香りの消えぬ間に』は初めて小説で号泣した私のバイブル……デビュー作が10歳だから才能の開花も早くて今でも筆を執り続けていらっしゃる、まさに私の生きる希望……! ああ、そんな類稀なる才能の彼女と同じ学園に入学できるなんて、夢にも思わなかった……!」
“腐川冬子”
元超高校級の文学少女。
言うなればこの学園のOG、正確には78期卒業生だ。
今もなお小説家として多忙の毎日らしいが、かつては学園の復興や運営にも関わっていたと聞いた。
なにしろ……。
「腐川……さまって、コロシアイ学園生活の生き残りだったよな?」
「そうよ……本当に神様は微笑んでくれたわ! 腐川さまはコロシアイ生活の中で生き残り、今もまだ歴史的に残る偉大な作品を書き続けていることができているんだから! あんなステキな殿方の隣で仲睦まじい生活がエッセイに描かれていて……ああ、なんて羨ましい、嫉妬しちゃう! って、いけない! 腐川さまには、絶対に幸せになってほしいもの……!!」
「あ、ああ、そうだな……」
もはや崇拝の意味でも彼女は腐川冬子を尊敬しているようだ。
そういえば彼女のエッセイは作者の誇張が多いっていうウワサもあったけど、そんな話を持ち出したらアンチだの人間じゃないと罵られそうだからやめておこう……
それにしても、こんなに生き生きと語る彼女は初めて見た。幸福絶頂の彼女に別の話を振るのも難だが……
この話をしにきたのではないから仕方ない。話を切り出そう……
「ええと、今こうやって喋ってるってことはパソコンの解析は終わったのか?」
「うぇうぐっ!? そ、その、あ、あれは、ロックが頑丈にかかっているってことはわかって……って、なによ、その残念そうな顔は! あ、あんたじゃなくて、それは私がしたいぐらいよ……! 大体、まだお手上げじゃないわ……!」
そう言って、錦織はちらりと遠くのほうを目くばせする。
彼女の視線の先にあったのは、蔵書が多く積まれているという図書倉庫室だ。
「ロックが厳重だから、ここで開けるのはちょっと厄介になるじゃない……でも、あそこの図書倉庫室は見たところ、監視カメラがついていなかったわ……ホコリが鬼のように舞っているから監視カメラも汚れるんでしょうね……だから、そっちで処理をすることに決めたのよ……」
なるほど、たしか何回か足を踏み入れたことはある。
その倉庫は裸電球のみで、今にもネズミがでそうな空間だった。
掃除も行き届いていないみたいで、当然相当な量のホコリが舞っていることだろう。
「で、でも、もう一つ、厄介事があるのよね……」
「なんだ?」
「図書の整理よ……この部屋の蔵書を把握したいけど、まだ完全には終わっていないのよねぇ……明日辺りにしたいんだけれど……」
そう言って、俺のほうをさっきからちらちらと見ている。
目を合わせようとしながらも、また視線をさっと戻してモジモジとしている。
つまり……。
「俺に手伝ってほしいのか? 構わないけど」
「べ、べつに、そんなこと言ってないわよ……!」
「えっと……でも、今のは絶対そうだよな?」
「な、なに勝手に決めつけてんのよ……!? 書道家のくせに妄想が激しいわね……!?」
そういう錦織もしょっちゅう被害妄想が激しいけどな……しかし、それを言ったら、今度こそ錦織と仲良くなれるチャンスが絶たれるので、あえて飲み込んでおこう。
……でも、明日って言ってたよな。
「なあ、明後日でもいいか?」
「な、なによ……! 明日って言ってるのに、なんであんたの中では明後日になってんのよ……!?」
「ご、ごめん。明日は用事が入っていて」
「あっ! や、やっぱりそうなのね!? ほら、見なさい……! 汚物と埃まみれで気持ち悪い司書の私が嫌いだから、そんな手のひら返しが簡単にできるのね……!」
だから、なんでそうなるんだ!?
彼女の行き過ぎた想像がどんどんとこじれている。
これは、なんとかしないと……
というか、さっきからなんとかしようとしてばっかりだな、俺……!?
「なにしてるの?」
「二人して漫才とは実にいい! 吾輩がサクラにでもなってやろうかね?」
「あっ」と錦織が声を漏らして、すぐさま口を閉じる。
図書室に天馬と円居が入ってきたのだ。
物静かな天馬はともかくとして……。
「なんだか、円居が図書室って珍しいな」
「これでも小学校は国語が大好きな文学少年だったのだぞ? だから、活字はキライではない、むしろ大がつくほど好みだ! 吾輩のオススメの本は『ビロードのうさぎ』だぞ!」
「……たしか、それって絵本じゃないか?」
「わざわざ現実にいて、リアリティたっぷりの物語を読むのはタイクツでつまらないものではないかね? そもそも、現実の出来事をわざわざ本にして読むというのは奇妙だ。物語というのは非科学的、非現実的であってこそ、読む意義があるとは思わんかね?」
「な、なにげに、腐川冬子さまの作品をディスってんじゃないわよ……!」
「まあいい。絵本はないかね? 絵本」
「今、表に出ている本だと『マナとクマ 著者マナクマ』っていうふざけたのしかないわよ……」
錦織は取り繕って、すぐさま円居に本を差し出した。
表紙には二体のマナクマが手を取り合って歩いているという、どこかで見たことのあるような絵が描かれている。
円居は少しだけ眉間にしわを寄せて受け取り、ぱらぱらとページをめくった。
「ねえ。さっき二人とも、なんの話をしてたの?」
「えっ、えーと、明日、錦織と図書の整理をしようっていう話になってたんだけど。あいにく、俺は都合が入っていて……」
「都合とはデートのことか!」
「で、デデデデデデデート……!?」
「七島くん、すごい」
そ、それは誤解だ!
何度も首を振ったが、錦織は手を戦慄かせて、天馬は目を見開かせる。円居もなにやら興奮して鼻息を荒げている。
「い、いや、違うって! 明日はプールでスイカ割りをする予定があるんだ。だから、俺は図書整理を明後日にしたいんだけど、錦織がそれは乗り気じゃないみたいで……」
「じゃあ、私が手伝おうか?」
ふと手を挙げたのは天馬だった。
錦織はじい、と彼女を伏し目がちに凝視している。
やはり、天馬は不運だからあんまり嬉しく……。
「……いいわよ」
「えっ?」
「『えっ』ってなによ……書道家に比べたら不運のほうがマシだわ……」
「ええっ!? な、なんで?」
「だって不運なら、ヤッカミとか妬みとか持たずに済むでしょう……私よりもある意味、弱者の立場……正直なところ不運は羨ましくないもの……ふふふ……」
……えーと、要約すれば。
錦織は、天馬の不運という才能は、嫉妬しないほど残念な才能だから接していて平気ってことなのか?
でも、それはさすがに天馬に失礼だろ……。
「本当にいいの? ありがとう、錦織さん」
「って、いいのか!? あんなに言われて……」
「だって、不運を認めてくれたんたよ。私が不運で喜んでくれる人なんて初めてだから。すごく嬉しい」
「うむむ、イソップ物語のようだが、なんというか、自尊心の最底辺を見た気分がするぞ! ……正直、あまり心地はよくないものだな」
たしかに。円居の言う通り素直に「よかったな」とは言いづらい。
かといって、二人とも変に喜んでいるので、あまり水は差せないな。
「でも私だけは足でまといになっちゃうかな」
「それならば、吾輩も手伝ってやろうではないか!」
「うぐぐ……科学部はさすがに妬みが……」
「手伝うだけだ。なにもお友だちになろうとは言ってないぞ?」
いや、その言い方は、ひどいんじゃないのか……。
だけど、錦織は、「まあそうだけど……」となぜか丸めこまれていたので、フォローは必要なさそうか。
「じゃあ、アンタたち二人に頼んで言いわけ……?」
「それは錦織が決めることだろう。吾輩たちが決めることではないぞ」
「なによ、その上から目線……!? ま、まあ、いいわ……じゃあ、図書整理してくれる……? 詳しい説明は、私もまとめたいから……明日また話すわ……」
「3人ともごめんな。でも……ありがとう」
「わ、私がなにをしたって言うの!? 書道家の妄想は甚だしいのね……!」
「いやいや、だから! 図書整理とか、パソコンの解析とかしてくれてありがとうって。でも気をつけろよな。体調とか、いろいろ……」
「そんなことわかってるわよ……せいぜい、スイカの種を飲みこんで盲腸にならないといいわね……!」
そんなひねくれた皮肉は初めて聞いたぞ。
錦織は作業に戻るのか、さっさとノートパソコンを持って倉庫に入って行った。
「……ところで七島くん。その持ってる本は?」
「あ、ああ、これか? 『磯の香りの消えぬ間に』っていう腐川冬子の代表作だ。まだ読んだことはないけど、漁師が一時期人気になるほどの社会現象を巻き起こしたラブロマンスとして有名なんだ」
「腐川さんって、この学園のOGの……私、読んだことないな」
「俺も前に私小説は読んだよ。かなり暗い話だけど、身に染みるものがあると思うぞ」
「吾輩も、この『マナとクマ』を読んでみるとしよう! ざっと見たところ、マナとクマという双子が森の動物たちとシチューを作るハートフルストーリーみたいだな!」
「ありきたりな話だな」
「しかし、シチューから人間の足が出ているのは何故だね? 八墓村のパロディだろうか?」
いや……やっぱり、ありきたりではなさそうだ。
キーンコーンカーンコーン
突然、チャイムが鳴り響く。
図書室の時計をふと見たが、示しているのは夜の7時……。
モニターに目を向けると、マナクマが楽しそうに両手とメタボ気味の腰を振っていた。
『イエー! めっちゃ毎日ホリデーイ! ずばっと久しぶりに号令かけますかね! そうしちゃいましょうかね! それでは、オマエラ、至急、体育館にお集まりくださーい! いいもの持って待っちゃってますからねー!』
呆気に取られていると、倉庫の扉がばんと勢いよく開いた。
「い、いいいいいい、いまいまい……今の、な、なんなのよ……!?」
錦織が血の気の引いた顔で飛び出してきた。
倉庫には監視カメラはないが、モニターはついていたのか。
天馬は考え込むように黙り、円居も眼鏡に手をあてたままだ。
俺も思わず、錦織から目を反らすように自分のつま先を見つめてしまった。
まさか、また――。
「……行こう。ここで立ち止まってもなにもならないから」
「そ、そうだな。まだ“あれ”とは決まっていないからな! 青春のためにギネス級のカルメ焼きをみんなで作ろう、とかそう言うプランでの収集だろう。うむ、そうだろうな!」
「う、ううううう、リア充の話を聞かされた挙句、なんでこんなことになるのよ……!?」
天馬は少し視線を落としながら、円居は無茶苦茶なことを言いながら足早に図書室から出て行った。
錦織は完全に恨みがましそうに、俺を睨みつけたまま天馬たちの後に続いた。
……リア充って、俺のことか?
とにかく、そんなことよりも。
今は、体育館にイヤでも行かなければ―――
体育館に向かうと、すでにほとんどの生徒たちが集まっていた。
どうやら俺たちが最後のようだ。
萩野は俺に気づいて、「来たか」と目配せをよこした。
『集まったー? 始めちゃいましょうかねー?』
全員が、一点に集中する。
いつの間にかステージには、休日の父親のようにマナクマが寝転がっていた。
俺たちのピリピリした空気もお構いなしに、能天気に「やあ」と片手をあげる。
「むう、なんなのだ! せっかくバーベル上げの記録更新するところだったのに!」
『今日は、ちょっとした“昔話”でもしようと思ってね』
“昔話”?
よいしょ、と、マナクマは重い腰をあげて立ちあがり、いそいそと演説台にのぼる。
「まあ、昔話でございますか! 楽しみでございますです! 芙蓉も鶴の恩返しを読んでもらったのでございます!」
「あはっ、俺も金太郎やカチカチ山をおじいちゃんに読んでもらったなぁ……」
『あのねえ、そんなマンモス横行している時代の話じゃないよ! ほら、オマエラ。あの歴史の先生知ってる? オマエラが2年生の秋ぐらいに退職したおっさん先生ね』
「ああ、あのクッソ説教臭くてバーコード頭を帽子で隠してたアイツ……って、なんで、お前が知っているのかなあ?」
秋に退職した歴史の先生。
数名は覚えていないのか、はたまた習ってないのか首を傾げているが、おおむねは誰のことか理解しているようだ。
かく言う俺や、萩野もその先生に習っていたため、すぐに顔は思い浮かぶ。
その教師は希望ヶ峰学園のOBで、元超高校級の考古学者として有名だった。中年だが、転がる岩を相手にしたような強面の教師だった。
『ボクが知っているかなんてどうでもいいの! オマエラが知っているかどうかなの! その先生、前の学園長によってクビにされたんだよ。その解雇された事情がひどくてね。これには、さすがのボクも元学園長には悪魔で鬼で人でなしのサディストだと言わざるを得ないね!』
「はあ? アンタにだけは言われたくないっつーの!」
『その先生が解雇された理由は他でもない。“作文”だよ』
「……“作文”って?」
天馬がじろりとマナクマを見つめる。
『その先生は、全校生徒に作文を書かせたんだ。オマエラ覚えてるかな? まっ、覚えてないこと前提で話すけどね。なにせ“曰く付き”だから……』
曰く付きを強調しながら、マナクマは変わらぬ顔で『うっぷっぷ』と不敵な笑みを浮かべる。
『作文のテーマは“自分の罪”。生徒全員に書かせて、それをファイリングして発表しようとしたんだ。先生は生徒たちに罪を認めることの大切さを説こうとした素晴らしい先生なんだ! だけどそれを良しとしなかったのは、頭でっかちで希望厨(笑)な元学園長! そんなことを強要して書かせるなんて非道だー! 生徒たちのトラウマや罪悪感は増すだけだー! とかなんとか言って、その作文を撤去しちゃったんだ! しかも、あろうことか“作文を書いた”という事実もみんなの記憶から消しちゃったんだよね!』
「な……馬鹿な!? 学園長が我々の記憶をか!?」
円居は腕を組みながら、ギョッと目を丸くする。
たしかに円居の驚きはもっともだ。
作文を書いた記憶も消したって……学園長がそのようなことをしたというのか……!?
『おっと、「そんなの知らない!」とか「許可もないなんて法律上うんぬん」の前に言うけど、まったくもってその通りだよ。元学園長(爆笑)はオマエラの意志関係なく、オマエラが作文を書いた記憶を消したんだよ。希望の芽を守るためとは言え、とんでもない暴挙だよね! かつては素晴らしい才能で、人類の希望なーんて称えられていたのに、今や見る影もないね。希望に縋るだけの壊れたマシーン……うぷぷ、憐れな学園長ですなあ』
「……っ、が……学園長の悪口を言うんじゃないわよ……!?」
『なに言ってんの? 今の学園長はボクですよ!』
マナクマが、威嚇のように両手をあげて歯をむきだしにする。
今の学園長……って、そう言えば。
「マナクマ。お前の言う“元学園長”……“俺たちが知っている学園長”は、どこにいるんだ?」
『ドキィ! いやなところに目がつくね、七島くん! まあ、お代官様。お硬いことは言わずに。いずれにせよいつかはわかります故……』
「いつかっていつだよっ!? 五日後か!?」
「っていうか、学園長先生だけじゃなくて、他の先生も友だちも、みんなどこ行っちゃったのだー!? 答えてよー!!」
「待ちたまえ、むやみに聞くのも危険な真似でないかね。今、“真実”が発表されて、しかも、その“真実”が絶望的なものであったら……間違いなく大混乱確実だろう!」
啖呵を切った萩野、今にも泣きそうにマナクマに詰め寄りかけた大豊を、円居が白衣を揺らしながら制した。
――真実。
その言葉に思わず唾を飲み込み、喉に痛みが降りる。
たしかに、俺たち以外のみんなは一体どこに行ったって言うんだ……?
マナクマはその様子を、青い瞳をぎろりと光らせながら眺めていた。
『そう言われると言いたくなっちゃうんだけど……まあ、いいや。っていうか、話脱線させんじゃねーぞ! もちろん歴史の先生は解雇されたよ……だけど、クビになる前に、一矢を報いたんだ。なんと、作文の処分を偽装したんだよ! そして本物の作文をこっそり残しておいたんだ! 先生は最期の時まで言っていました。
“罪を認めない者が、下劣な犯罪者になる。
故に罪を明かすことこそ、真の勇気であり清く尊い存在なのだ!”
そう言って、先生は解雇された翌年に食中毒で亡くなり、奥さんと10歳の娘も無理心中しました……よよよ、いつ聞いてもドライアイが潤う話だね……』
マナクマはハンカチを取り出してちーんと鼻をかんだ。
先生は気の毒かもしれないが、マナクマが憐れみの感情を持っているということが今は妙に腹立たしい。
マナクマは鼻をかんだハンカチを丸めてアンダースローの要領で床に捨てた。
くしゃくしゃのハンカチは、顔を歪めた清掃委員の白河によって拾いあげられる。
「ポイ捨てはやめてください……と言っても、ルールにないから無駄でしょうけど……」
「でも、私もその先生の言い分には疑問を感じるわ。たしかに悪いことに処罰が必要なのは正しいことよ。でも、むやみに人の罪を明かすことは、本当にいいことなの?」
『まっ、それはオマエラが判断することですけどね』
紅の言葉へのマナクマの返答に、俺の心臓はどんどんとうるさくなる。
「おい……どういう意味だ……」
『さーて、今回の動機は、こちらになりまーす!』
黒生寺が一歩踏み出したと同時に、マナクマはお腹をごそごそとまさぐって、なにかを取り出した。
じゃーん、と言わんばかりに何十枚かの封筒を見せびらかす。
『このなかに、オマエラの書いた作文があります! 覚えてないだろうけど、オマエラの直筆だから本物だよ! もちろん題名は――“自分の罪”!』
ぞわり、と心臓が身震いした。
手の先と足の先が突き刺されたように痺れ氷点下に来たかの如く寒気が生じる。
すぐさまマナクマが封筒を紙吹雪のように床にばらまいた。
慌てて、みんなが床の封筒に群がり、自分の名前が記された封筒を開け始める。
反応を見れば、それが本物か偽装かは見ればすぐに察しがついた。
「へ、へけえ!!? な、な、なななな、なんでえええ!?」
「ウーララ!? じょ、冗談だろこれ……! で……でも、これは……!」
「ふん、くだらん……」
叫ぶ者。動揺する者。強がる者。
整然に過ごしていた臆病なピラニアたちの群れに、小石を投げ入れたかのような騒然に変わる。
俺も恐る恐る作文用紙を広げた。
『俺は幼い頃から風呂が嫌いだった。
面倒だし、シャンプーやせっけんの独特な薬品の匂いが好きではなかったからだ。
なによりも姉が友達からもらったという柑橘類の石鹸が嫌でたまらなかった。
あの甘酸っぱいようで苦いような、複雑怪奇な匂いに耐え切れなかったのだ。
だから、夜中にこっそり石鹸を花壇に埋めてしまった。
その後見つかっても飼っている犬が埋めたんだと家族にウソをついてしまった。
幼少のイタズラとはいえ、愚かな真似をしたと思う』
……。
……………。
…………ええと、たしかに小学校1年生ぐらいのエピソードだが。
本当にバカなことをしたな。
たしか「犬が石鹸をくわえて持っていくわけないでしょ!」とすぐにバレて、1週間おやつ抜きにされた。
でも、それにしたってしょうもなさすぎないか……!?
それに、この作文は――
「…………っ、」
いや、やめよう。
“この違和感”は、今考えることじゃないはずだ。
震える指先で作文を折りたたんで俺は無造作に封筒に突っ込んだ。
『はい、これだけじゃ物足りないのでもう一つ! この作文の内容をオマエラ全員に校内放送します! ビラでばらまいちゃいます! 脳内にも直接伝えちゃいます! もちろん、外の世界にもね……! タイムリミットはきっかり24時間。たとえば、こんな風に読みあげちゃうよ!』
そう言って、マナクマが残った封筒をびりっと破いて作文を取り出す。
……ちょっと待て。
俺と考えは一緒だったらしく、いち早く萩野が片足で床を踏み鳴らした。
「お、おいこら待て! その作文は誰のだ!?」
『さあ? 余りものをテキトーに拾っただけですけどー?』
「つまり個人の名前は読みあげないつもりですか?」
『うぷぷ。プライバシーの侵害で訴えられるのはさすがに怖いからね。でも、作文は書いてあるとーりに発表しますよ!』
こんなことをして、なにがプライバシーだ……!
名前は出さないと言われても、まだほとんどの人の顔が曇っている。
俺のはくだらないが……ここのみんなに公表されたら、すぐに俺だって判明してしまうだろう。
それと同じように、自分だとすぐにわかってしまう作文だってあるはずだ。
余りもの……と言うと、亡くなってしまった藤沢や四月一日のものなのだろうか?
そんな考えをよそに、マナクマはもったいぶったようにおほん、と咳払いをした。
『オマエラ、しずかーに聞けよ。ごほん……“私はイノシカイチョーさんを見殺しにしました”』
「…………は?」
『こら、萩野くん! 先生まだ喋ってるでしょ! は? ってなんだよ、は? って! 先生の奥歯にのりしおがついているからって失礼ですよ!』
マナクマの突拍子もない怒りはどうでもいい。
さきほどの聞き慣れない言葉に、俺たちは疑問を浮かべずにはいられなかった。
“イノシカイチョー”
『さん』付けと、『見殺しにした』という言葉から人間であることは分かるが……。
『まったく、続き読みますよ……
“中学3年生の時、私は死体を発見しました。
私は人気の少ない駐車場を歩いていました。
最初はホームレスが寝ているのかと思いましたが、全く動かなかったので私は心配になって駆け寄りました。
それは新聞で見たことのある顔、イノシカイチョーさんだということがわかりました。
しかし、その頭は血だらけで、服も破れ、生気のない瞳がぎょろりと飛び出していて、今にも目玉が飛びかかりそうなほどこちらを見つめていました。
助けなきゃ。
そう思いましたが、足がすくみ、石のように硬くなって動けませんでした。通報もできませんでした。
私ができたことは、そのまま逃げることだけでした。
ちなみに、後に知ったことですが、偶然にも目撃した同年代の学生が、私を含めて5人もいたそうです。
イノシカイチョーさんはあの時点で、助からなかったでしょう。
しかし、もし、私が助けを呼ぶことができていたら……このことを考えると、私は罪深い人間と思わざるをえません”
……ひゃー、ナゲー作文! しかも下手なサスペンス劇場みたいだね』
……いったい、なんだこれは。
つまり、まとめるとこういうことか?
この作文の“私”、この作文の書き手は、病院の駐車場で死にかけの“イノシカイチョー”と言う人物をを目撃した。
しかし、“私”は“イノシカイチョー”に対して、なにもせずに逃げてしまった……。
これが、“私”の罪の内容ってことか?
でも、あまりにも素っ頓狂な内容だ。
そもそもの話……。
「“イノシカイチョー”って、なんだ?」
『さあね、ボクは知りません。だけど、“ふさわしい語り部”はオマエラの中にいるって言えば、ミステリー小説っぽくね?』
「語り部って、どういうこと?」
天馬が端的に、マナクマに疑問を投げかけた。
ふさわしい語り部。
その語り部は、俺たちの中にいる。
いったい、どういう意味だ?
『おっと、ぬいぐるみに歯ぐきをつけるレベルの蛇足だったね! なんにせよ罪が明かされるのがイヤなら、誰かを殺っちゃってください。人に言えない罪を明かすか、言わぬまま殺すか……ぶっひゃはははは!! わっくわくのジレンマですな! それじゃあ、次の殺人が起きるまでまったねー!』
マナクマは手を振りながら、すぐさま消えていった。
残された俺たちは様々な意味で、呆然とするしかなかった。
一回目の動機は騒然だったが、二回目のこれは不気味な程の静寂。
だけど、それは形容できないような不安から生じるものなのは確かだ。
「で、でもさー……最初はビビッたけど、大丈夫じゃね? 書いてないのを覚えてないのは気味ワルいけど、そこまでマズイもんじゃないし……って言うかさ、さっきのイノシカイチョー? ってなに? いくらなんでも死人がでるようなもんじゃないって」
「そ、そうでございます! このようなことで、殺人が起こるなどあってはならないのでございます!」
「こんなもんなら、さっさと吐くほうが楽だろ……」
真田と角が顔を見合わせて頷いている。
常人より多くの罪を犯しているだろう黒生寺も、あっさりしていて動揺している素振りが見えないが……。
「ふざけやがって! 誰が話すかよ、ンなこと!」
しかし、彼らの言葉に対して怒号で遮ったのは……。
「は、萩野……? ちょ、ちょっと落ちつけって……」
「落ちつけだって? 落ちついて内容言えって意味かよ!?」
「い、いや、だから、そうじゃなくて……」
まずい。この怒り方は。
萩野の怒りは軽いものから、重いものと極端だが、これは完全に重いほうだ。
しかも、こじらせると三日は機嫌が悪くなるタイプだ……!
「俺は言わねえからな! なにが罪を明かすだ、なにがプライバシーだ! こんなのふざけてやがる!」
「そーは言うけどさ。明日にはマナクマがハッピョーしちゃうんでしょー? そんだったら、今言うのも、明日言われるのも」
「ちげーだろ!? 根本的に! 間違ってんだよ、話すってこと事態がよ! じゃあ、おめーらは言えんのかって話だぞおい!!」
萩野が目をぎょろりと見開いて激昂を飛ばす。
たしかに、彼の言うことはもっともだった。
自分の罪を知られると言うことは相当堪えるものがある。
それは、弱みを見せることだからだ。
「では萩野さん。あなたは誰かを殺すおつもりでいらっしゃると?」
白河の言葉に、今度の萩野は目の瞳孔が開いた。
いや、萩野だけでない。俺たちも思わず息を飲んだ。
白河が飛ばしたのは注射ではなく、ナイフだった。
「な……なに言ってんだよ? 作文の内容を言わなきゃ、人を殺すってのかよ!?」
「しかし、明日には決着がついてしまいます。マナクマが大々的に嘘を吐くとは思えません。マナクマは全員の罪を言うでしょう……あなたは、どうするおつもりですか?」
「だ、だけどな、俺は言わねーぞ、こんなこと……言えるわけねーだろ!」
言えるわけ、ない。
思わず、俺は萩野の瞳を覗きこんでしまった。
常に俺の心配をかけてくれた萩野の。正直に話していたはずの萩野の。
知られたくないこと……って……?
動揺が目に見えている萩野に対して、白河は一息吐いて、言葉を紡ぐ。
「言えるわけないですか。それほどまでに、あなたは自らの罪を恐れているのですね」
萩野、いや、俺たちも一体どんな表情をしていただろうか。
白河の瞳に誰もが撃ち抜かれ、茫然としているようで。
どん、という音が鳴り響いた。
萩野は床を貫く勢いで足をどんと踏み鳴らして踵を返していた。
「お、おい萩野っ! 待て!」
萩野を呼びとめたが、彼はなにも言わずにズカズカと体育館の扉に一直線に駆けだしていた。
横顔は見えなかった。
いや、見ることができなかった。
彼の大きな手によって顔全体が隠されていたから……。
しばらく体育館は重苦しい沈黙に包まれた。
「……うーん、ムッシュ白河。少しいいかい?」
やがて白河に歩み寄ったのは、モノクルを光らせたランティーユだった。
いつもは穏やかな顔が、凍ったように張り詰めている。
「本当はこんなこと言いたくないけど、今回は鑑定士としてケチをつけさせてもらうよ……あれは言い過ぎだ。ムッシュ萩野が暴走していたのは分かるけど、少し時間が経ったら君も謝ったほうがいいよ……」
「何故ですか? 私は殺人を犯してほしくないまでです。たしかに私の言い方もきつくなりましたが、それでしか彼は止められなかったでしょう」
「僕も光るキノコ頭よりは白河くんの意見に賛成だねえ。ああいうチンピラにはキツく言わなきゃわかんないだろ」
ランティーユが珍しく厳しい意見を述べたが、彼らの反論を受け、「うっ……」と引け腰に変わる。
いつもだったら、すごすご引き下がっていただろう。
……でも、今回は少し様子が違うようだ。
再びランティーユはモノクルを直して、彼らを鋭く見つめ直した。
「た、たしかに、ぼくはマッシュルームカットだけど……でも、やっぱり、ぼくは君たちの意見には納得できない。特にムッシュ白河、君は人の思いやプライドを簡単に傷つけることができてしまうようだね。それもどこか無自覚、しかも正しい言葉で……ムッシュ萩野はたしかに乱暴なところはあるけど、ちゃんと節度は保っているし、みんなの意見も聞き入れることができる。場を理解できる能力を持っているはずだ……それなのに、彼にあんな脅迫まがいなこと……『殺人を犯すつもりか』なんて問いただしたら、パニックになってしまうよ」
ランティーユの言葉を聞いて、白河は少しだけ目を伏せた。
ふうん、と言いながらも、十和田も視線を反らす。
「あの……俺もランティーユの意見に賛成だ。萩野の親友だから……っていうのも変だけど、アイツは弱さを見せたがらない。だけど、その弱さを自分自身で解決の道は切り開く力を持っているのを俺は知っている。だから……あまり、萩野のことを悪く言わないでほしい」
「……わかりました。そうですね。少し、私も強く出すぎたかもしれません……申し訳ございません。私は……ただ、萩野さんに、劣悪な罪を犯してほしくなかっただけなんです…………すみませんでした」
俺の言葉に、白河がそう言って、深々と頭をさげた。
言葉がキツくなったものの、彼も彼なりに、萩野を止めようとしたのだろう。
十和田はそっぽを向いている。謝る気はなさそうだが、反論もなさそうだ。
張り詰めた空気は少し緩んだが、それはほんの一時に過ぎない。
なぜなら、問題はまったく解決はしていないからだ。
「しかし、萩野の言うことにも一理あるのは事実だな。それは吾輩も言いたくなかったからだ!」
「ううう……い、胃痛がしてきたわ……! 過去のことを思い出すと胃炎が……!」
「あ、はは……俺も、これまた嫌な部分をえぐられちゃったな……どうしようもないね……」
「…………私も、ちょっと怖いかも」
天馬も腕を組んで少し伏し目がちに床を見つめている。
……天馬も怖いと思っているのか。
やはり、彼女にも後悔している罪があるのだろうか……。
「とにかくみんな。今夜は解散よ。部屋に戻りましょう。みんな思うところはたくさんあるでしょうけれど……くれぐれも、変な気は起こさないで。日常の壊れた先にある殺人、そしてあのような裁判を起こしてはいけない。もう一度、あの裁判を思い出して。みんな痛いほど身に染みているはずよ。『どうしようもない疑心暗鬼と絶望をまた繰り返したいの?』 そう心に唱えて……落ち着いて。今日は静寂の中でゆっくり休みましょう」
紅が諭すようにしてゆっくりと語りかけたのを機に、俺たちは足早に体育館から離れた。
この動機が、不安を煽るものであることは事実だ。
だけど、なにか俺たちに燻らせるような。
別のところで、自分だけが知らない水面下で物事が動き始めているような底知れなさ。
そんな見知らぬ不安が溢れ広がっていくようだった。
「萩野、俺だ。萩野、聞こえているか?」
俺は体育館を出て、すぐさま萩野の部屋の前に立った。
何度もインターフォンを押して、ドアを叩いてみた。
かれこれ30分は、この調子でドアの前で待ったり、叩いてみたりしていた。
それにしても叩きすぎて、拳の表面が痛くなってきた……。
「萩野、おい、萩野、萩野ってば。いないのか、寝ているのか? なあ、はぎ」
「っだぁぁ!! っるせえよ!?!」
「うわっ!」
前触れもなく声を荒げた萩野が部屋から飛び出してきた。
その拍子に悲鳴をあげて、尻もちをついてしまった。
慌てて立ちあがって、すぐさま萩野の肩に手を置く。なんだかいつもより小さく感じられる……。
「ご、ごめん。さすがに迷惑だったな……でも、お前が心配で」
「いや、こっちも怒鳴って悪かった……ってか、おめーも変なところで心配性だな……そんなんだと、ストレスたまっぞ?」
「で、でも、抱え込まないでくれよ。悩みがあるなら、いつでも俺に言ってくれって。いつも俺が萩野に頼ってばかりだからさ」
「おいおい、なーに言ってんだ。俺の心配よりも自分の心配しとけって! 俺は、大体のことは寝りゃ治るからよ……そーだ。明日のスイカ割りはやるからな。だからおめーも、そのシケたツラさっさと治しとけよな」
そう言って、手を静かに払われて、すぐさま扉を閉められてしまった。
ああ、やっぱり。
今回も、一人で抱え込むつもりなのか。
萩野は面倒見がよく、俺が一つため息を吐いているとすぐさま声をかけてなんでも聞いてくれる。
そして、俺もついつい話して、気持ちを楽にさせてもらっている。
だけど、その逆パターンというのが、ほとんどなかった。
「親友だからお互いさまだろ?」と萩野は言うが、大体、俺が萩野に頼りっぱなしだ……。
俺は、なにも萩野に返せてない。
実は萩野のことを、理解できていない。
白河に説得したけど、俺は萩野と腹を括れていないのだ。
そんなふがいなさが、親友というアイデンティティを打ち消しているようで――
「……七島さん」
突然、後ろから声が聞こえて現実に戻る。
振り向くと、いつもよりも暗い表情の白河が立っていた。
「あの、萩野さんの容態は、いかがでしたか?」
「あ、ああ、大丈夫だぞ。寝れば治るって言ってたから」
「申し訳ないことをしました。萩野さんにも、あなたにも……ランティーユさんの言う通り、私はどうやら無自覚にみなさんを傷つけてしまっているようですね……」
罪を告白しないなら、誰かを殺すつもりか。
きっと白河にとっては、ストップをかけるつもりだったのだろう。
……しかし、萩野にとっては、予想以上に相当重い意味でとらえられたのだ。
「そう言えば、白河はどこに行くんだ?」
「さきほど、マナクマが捨てたハンカチを処分しようと思いまして」
「そ、そうか。さすが清掃委員だな」
「……あなたは他の方に比べればとても落ち着いて見えます。しかし、大丈夫なのですか?」
「あ、ああ……なんていうか、俺の作文は、その、肩すかしっていうかなんていうか」
「そうなんですね……」
多少しどろもどろになってしまったが、白河は特に言及しなかった。
たぁん、たぁん、という俺たちのゆっくりとした足音だけが廊下に響く。
「“イノシカイチョー”……私が言えたことではありませんが、変わった名前ですね」
「え? ええと……ああ、マナクマが言ってたヤツか。あれって、なんだったんだろうな」
「このように発表するという脅迫だったのかもしれません……しかし、本当にそれだけなのでしょうか?」
……えっ?
突然、白河が疑問符をつけたことで、俺は思わず彼の顔をまじまじと見た。
精悍な横顔がじっ、と廊下の先を見据えている。
「どういうことだ?」
「まだ私も考えがまとまっていないので、詳しくはお話できないのですが……もちろん、脅迫目的もあるでしょうね。しかし、果たしてあの作文が脅迫として役割を果たしていたのでしょうか? それが今、気になってしまいまして」
そう言って、白河はまた黙りこんでしまった。
脅迫としての役割、ならば、“イノシカイチョー”も、なにかを意味していることなのか?
白河はそう言いたいのだろうか?
たしかに、マナクマの言葉も節々も奇妙なところが見受けられたし……あの作文公表は、なんだったんだ?
「おーい七島っちー!! 白河っちー!!」
今度は少し離れた場所からの声が廊下に響き渡る。
大豊だ。それだけじゃない。真田や紅、角もいる。
紅と大豊は大きなゴミ袋を片手に持っている。
「どうしたんだ、みんなして」
「昨日にかけて服を真田が仕立ててくれたの。そのゴミを捨てに今からダストルームに行くところ。動機があったとはいえ……ここのみんなは、そこまでショックを受けてなかったから」
「ゴミをその日のうちに片づけるとは感心です。ところで服とは……いったい、なんですか?」
「それはそれは愛くるしい水着でございます! 明日のスイカ」
「なんですって? いまスイカと」
「あ、あー、角ちゃん? それはマチゲリータ情報だよ。うちら明日プールでファッションショーするんだよ。七島と一緒にね?」
真田はすぐに俺に目配せしてきた。隣の角が目を丸くしていた。
言わんとしていることは分かったので、俺も取ってつけたように頷いた。
彼女たちには昨日、スイカ割りのことは伝えたが……萩野主催は伝えられてなかったのかもしれない。
それでも、スイカ割りのことは白河には伏せないと。
「ええっ! そうでございましたのですか!?」
「そ、そうそう、そうなんだよ。プールで遊ぶついでにファッションショーすることになってさ」
「そうですか……なら、私も見学してもよろしいでしょうか?」
『私も』見学って…………え?
背中に冷や汗が溢れだした。
「ファッションショーなら、私もぜひ行かせてください。興味があるんです。よろしいですよね?」
「えっ、ええ。ええ!! も、ももも、もちのろんぱでございます! 白河さま!」
ダ、ダメだ。
角は嘘がとんでもなく下手みたいだ……。
「それでは、楽しみにしてますよ。プールでのファッションショーをね……」
白河も見透かしているのか、少しだけ勝ち誇ったような表情であった。
掃除魂に火をつけてしまったのだろうか。
ダメだ……これは、いろいろとダメだ……。
真田の「あちゃー」と言わんばかりの顔。紅の苦笑い。角の動揺。
そんな中、大豊だけはみんなの顔を見回して「へけ?」と首を傾げていた。
「え、ええと……ところで、大豊さまは、水着はいらないのでございますか?」
「あたしは作るのが好きなのだ! でも、あたしは泳ぐのは苦手だからプールはパス! 明日こそバーベルの記録更新をしなきゃ!」
「ってか、大豊ちゃんってスイスイっと泳いじゃいそうなイメージがあったよ」
「よくそーいわれるのだ! でもお水の中って足がつかなくて、こわく……って、はむぅっ!?」
話している途中で、大豊は突如ずっこける。
彼女が持っていたゴミ袋がぽーんと前方へと飛ばされた。
ああ! と慌てて紅たちが大豊に駆け寄った。
顔面から転んだが、大丈夫なのか……!?
…………って、あれ?
大豊の手から、なにかが転がってきた。
くしゃくしゃになった紙切れ……作文か? 紙には文字が羅列していていることに気づいた。
床に転がった紙を拾い上げようとした刹那。
顔全体が強張った。
先ほどのマナクマの“動機”からして、見てはいけないとは分かっていた。
だけど、ある文字だけが目に留まってしまった。
『万引き』
人はどうして悪い文字にひきつけられるのだろう。
その尖った言葉に、俺は反射的に目を反らしてしまった。
大豊は顔をあげると、「ああっ!」と床に転がった紙きれをぐしゃりと掴み取りポケットにつっこんだ。
その様子を、なんとも言えない表情で紅たちが見つめていた。
彼女たちも、あの字が見えたのだろうか。
「大丈夫でございますか、大豊さま!」
「う、うん、へーきなのだ! よくちっちゃいころに、すりむいてたからね!」
「今も気をつけなよー、大豊ちゃん? ささ、夜時間になる前に、クシャポイしてこようよ」
「そうね、行きましょう。私もこの後、委員の仕事をしなきゃいけないし……白河、そのハンカチ一緒に捨てるけど、もらいましょうか?」
「いいえ、私は清掃委員です。ゴミを前に働かないわけにはいきません。だから私も行かせてもらいます。七島さんはどうなさいますか? お疲れのようでしたら部屋に戻っても問題ありませんよ」
「あ、ああ、じゃあ、お先に……」
「おやすみ」「お疲れ」と手を振りながら、またはペコリとおじぎをしながら、大豊たちは俺の横を通り過ぎて行った。
最後尾の白河だけが、俺に視線を投げかけたのを見逃さなかった。
――あの作文、あなたは見えましたか?
そう言わんばかりの確認の意が俺には見えた。
『万引き』
……ああ、そうだ。見えてしまった。
もとい、見てしまった。
彼女は作文が見られたって気づいただろうか?
多分、大豊はあの作文を捨てるつもりなのだろうか?
彼女は、大丈夫なのだろうか……?
とりあえず、部屋に戻ろうとして踵を返した。
その視界に現れたのは、黒いボストンキャリーバッグを背負った井伏。
床を見回していたが、ふと視線をあげて俺の存在に気づいて、すぐさま笑みを浮かべられた。
だけど、なんだか痛みをおさえているような苦し紛れの笑顔に見える。
「……井伏? どうしたんだ? そろそろ夜時間だぞ」
「あっ、七島くん……ええと、ちょっと薬もらいに行こうかなあ、なんて思っててさ」
「薬って……具合が悪いのか?」
「いやあ、ちょっとお腹が痛んじゃって……」
「え? 大丈夫か……!?」
「あ、ははっ、そんなひどくないから平気だよっ! でも参ったな……さっき飲んだお茶が腐ってたのかな? あんまり薬とか好きじゃないけど、さすがにしくしく痛んじゃって眠れそうにないね……あはは、今夜はとりあえず、薬もらって笑って治すとするよ」
笑いで完治できるものなのか?
最近、井伏の表情を見ていると、笑顔なのに何故か寂しくなってしまうことがある。
なんだか、心ここにあらずのように思えてくる。
「なあ……本当に大丈夫なのか?」
「はは、七島くん、怖い顔しちゃダメだよ? 笑う門には福来るって言うでしょ。笑っていれば、どんなことでも大丈夫だから。あははははっ! あ……そうだ、そう言えば、俺のデジカメ見なかった? 赤いのなんだけど、なくしちゃって……うーん、顔からして見てなさそうだね」
「ああ、見ていないんだ。ごめんな、役に立てなくて」
「ううん、いいんだよ。最近、なにかと物が無くなっているみたいなんだよねー。天馬さんはしょっちゅう物をなくしてるみたいだけどね。十和田くんもマジック用の布を無くしたみたいだけど……俺、さっきランドリーで見つけちゃった。端っこに名前の刺繍があったんだ」
井伏がボストンキャリーバッグから少しはみでている、黒い筒状のものを指さした。
はみだすということは、相当の大きさみたいだな。
「十和田くんのは見つけたけど、俺の探し物は見つからないなんて……あははっ! ついてないな……まっ、俺は明日探そうっと。引き止めてごめんね。そんじゃ、七島くんが富士山の夢を見られることを祈って! おやすみなさい!」
「あ、ああ、おやすみ……」
笑みを張り付けたまま井伏は保健室の方へと向かうため、俺の横を通り過ぎて行った。
富士山の夢は正月に見るものじゃないのか?
しかし、本当に大丈夫なのだろうか。
『偽りの中で生きて耐え忍ぶ。辛苦の日々はやがて常識を反転させる』
これは腐川冬子の私小説の中にあった一節……だった記憶がある。
だけど、いまいち覚えていない。もしかしたら彼女の作品じゃなかったかもしれない。
ただ物語の本筋は覚えている――母が二人いたという主人公は、ずっと苦しんでいた。
愛を知らず、どうやって相手と接触すればいいのかもわからず。
愛とはなにか。優しさとはなにか。
自分の湧き出る喜びや悲しみは果たして本当なのか。
やがて罵られ蔑まれることも『愛』だと倒錯するようになり、彼女が甘美な地獄に堕ちていく描写が丁寧に書かれていく。
この場面は読んでいて頭を痛めたが、この思いは決して分からなくはないのだ。
本当の感情――と人は言うけれど、自分の感情の真偽はそうカンタンに、自分でも分かりえないことだ。
井伏もそうなのだろうか。
あの笑いは、本当に心からの笑みなのだろうか。
「あははっ、まさか! でもね、自分ばかりを守り続けていたら、いつか必ずバチが当たるものなんだよ。俺のおじいちゃんがよく言ってたんだけど、ツケっていうのかな? 自分が可愛いあまり守れば守る分、誰かが傷つくようになっているんだ」
「ふふ……あははっ、うん。いいよ? それなら俺を殺してよ」
「ああ……そうだ。最初からこうすればよかったんだ。俺はこれ以上、他の人が死んじゃうのは見たくない。だからさ。黒生寺くんの好きなようにすればいいよ」
……あの時の彼はいったいなんだったのか。
自分優先ではない、井伏の見解なのだろうか。
誰かを傷つけるのを、恐れているのだろうか。
傷つけない、それが井伏の拘束なのだろうか。
後悔や、罪。井伏もそれを隠して生きているのだろうか。
あの優しく穏やかな笑顔の裏に……。
「……もう、寝よう」
俺は自分の部屋に着くなり、すぐさまベッドに横になった。
果たして、うまく眠れるといいが……。
罪、償い、イノシカイチョー……。
今日の様々なことが巡り巡って、それがどんどんと真っ黒に塗りつぶされていく。
『このなかにオマエラの書いた作文があります! 覚えてないだろうけど、オマエラの直筆だから本物だよ!』
ほんの一瞬、暗闇の中浮かび上がった先刻の言葉。
思い出したくない。忘れたい。知りたくない。考えてはいけない。
それでもボタンを押すなと言われてるのに押してしまう矛盾でありながら、俺は、睡魔に落ちる一瞬に『疑問』を生み出してしまった。
――なぜ、俺の作文は直筆ではなかったんだ?
今から何年前のことだったかなあ。
ボクは、たくさんの女の子から愛されたことがあってね。
たしか、その中の一人に、シンデレラっていう子がいたね。
シンデレラは美人で、家事はできて、中華料理店の店主よりは料理も巧かったよ。
だけど、人に頼ってばっかの貧乏症でさ。
ドレスは病原菌がたくさんついてそうなネズミと一緒に作った自作のものしかないし、結局は魔法使いのおばあちゃんからドレスを仕立ててもらうっていう怠惰っぷりでね。
しかも、自分からは頼みに行かず、ただ待ちぼうけて、お城に行きた~いって、だけ言ってるんだ。
門限が12時のうえに、しかもボクに拾ってもらうために、靴なんか落としちゃって、わざとらしかったよ。
パーティで求婚されたけど、面倒だから、隣の国の切符の買い方を知らない王子にガラスの靴を渡してやったよ!
他にも、小人を従えてマタギのような生活をしている元王女とか。
何十人の男に無茶な要求したうえに、月に帰らなきゃと逃げて婚約破棄した自称姫とか。
100年も眠っている姫、というより屍のような女とかいたけどさ。
どいつもこいつも、権力や家庭的な能力は持っていても、難ありだよ!
玉に傷どころか、玉砕だよね!
だけど、人魚姫っていう子は、健気だったね。
彼女は財も名誉もない、絵に描いたようなTHE・平凡だったよ。
だけど、ボクに会いにいくために、魔法使いに足がほしいって頼みに行ったみたいでね。
もちろん、魔法使いもタダ働きじゃ納得がいかないビジネスライクな性格で対価を求めたんだ。
そうしたら人魚姫は、なんと自分の声を差し出したんだ。
こうして彼女は声を失ったままボクの元に訪れたんだ。
彼女がスケッチブックに描かれてたパラパラ漫画を見て、ボクは事情を知って、ドライアイから涙を流したよ。
だけど、時すでに遅し……。
ボクの部屋の湯船で、彼女は呪いによって泡になってしまったんだ。
……だからね、ボクは、泡風呂の中で言ってやったんだ。
「やっぱり、好きな子は金とか能力とか性格抜きにして、自分の直感で選んだほうがいい」……ってね!
ボクの腕に抱かれたノビタリック王国の王女も笑ってたよ。