やあ、マナクマだよ。
このテキーラはサービスだから、まずはゆっくり飲んで落ち着いてほしい。
形を変えたマナクマ劇場みたいかもしれないけど、そうでもないんだよね。
あのさ、今回の章、めんどくさいじゃん?
あっち行ったり、こっち行ったり、たまごっちな感じじゃん?
というわけで、今のところの時系列をまとめてみちゃったんだよね! 参考にしてね!
【時系列】
22:00 角と黒生寺がトレーニングルームで戦う
2:00 井伏 死亡
3:00 白河が何者かに閉じこめられる
・
・
・
7:30 角と黒生寺が保健室に向かう
8:00 大豊が脅迫状を見つけて紅から鍵を盗む
8:10 七島とランティーユがプールに向かう
8:20 十和田がランドリーに向かって真田に見つかる
8:30 プール集合(七島、真田、十和田、萩野)
角がランドリーで黒い布を見つけて包帯代わりにする
9:00 スイカ割り 開始
9:10 大豊が保健室を荒らす
その後、委員の仕事でロッカールームに向かい、ロッカーからの音に動揺する
9:30 スイカ割り終了
七島、真田、十和田以外が各々スイカを渡しに向かう
十和田も逃亡。真田もその後を追い、七島は一人に
9:40 大豊がプールに来て七島を連れてロッカールームに向かう
二人で閉じこめられた白河を救出する
10:00 七島がロッカーを開け、井伏の死体が発見される
今のところ分かっている時点ではこんな感じだね。
え? やっぱりわかりづらい?
でも、それは、ボクのせいじゃないですよ。ボクの腸に住んでいる綿の疼きのせいなんだからね!
というわけで、本編はアンテナ野郎の独白から始まるよ!
こまめな水分補給と眼精疲労対策を忘れないでね!
『万引きをしてしまった。
金に困っているという理由で、ずっと金品を盗んできた。いままでバレたことはない。
サラリーマンから■布から時計、■輪もなんでも盗んだ。
身なりのいい女、弁護士からなど……金目のある人をねらって、スリを行ったこともあった。
一番金があったのは、■■公■樹だ。
気がつけば、金に満足していても、どうしてもそのスリルに身をまかせてしまう。
このまま、ずっと続くのだろうか』
大豊が持っていた作文は彼女のものではなかった。
『……はっ……そ、そうだっ……そうだな……っ! っじゃあ、こう言えば、もっと満足か……!? 僕があのチビに頼んだ……作文を捨てろと頼んだのは僕……っ!』
この声は、十和田弥吉のものだ――彼の自身の罪はここでは裁かれない。
だとしても、この作文が公開されるという事を彼はやはり恐れていたのだろう。
『彼の背を打ち付けたフェンスが外れた。
あの人は、屋上からパッと瞬く間に消えた。
そのまま下へ下へと落ちたのだ。
屋上から、真っ逆さまだった。
赤い車に一回バウンドして、そのまま駐車場のコンクリートへと叩きつけられる音を聞いた。
血が瞬く間に染みになって、服が摩擦で擦れ、あの人の目玉がぎょろりと飛び出しているのを上から見ていた』
十和田は井伏の作文を盗んだ。
だが、そこに書かれていたのは。
『私はイノシカイチョーさんを見殺しにしました』
マナクマが動機発表の時に、同時に発表された作文。
あの作文の全容――そして答えが分かるものだった。
『この罪は明かさなければいけないのだろう。
そして、それまで自らを断罪し続けなければいけないんだ』
イノシカイチョーを殺したのは井伏だったという事実。
『ねえねえ、お通夜は今やんなきゃダメなの?』
重い静寂を壊したのはマナクマの言葉だった。
十和田がそれを聞いて、忌々しそうに姿勢悪く証言台に肘をつく。
「ほんと、君ってうざいよねえ? 畜生風情は人の心は分かんないだろうから、仕方ないだろうけどさあ。このウジクマ」
『十和田くんは底意地が悪いねえ、うぷぷぷ……犯罪者だもんねえ。クソ犯罪者だから、長所も皆無って言ったところですかな!』
「はいはい、そうでえす。いまさら僕如きが犯罪者でなにか問題でも?」
「それは違うんじゃないかな。十和田くんは優しい人だよ」
マナクマの言葉を否定したのは天馬だったが、十和田は微塵も嬉しそうな様子を見せずに彼女をうざったそうに睨みつける。
「めんどくさいこと言うなよな。って言うか、なんで、不運が指摘するかなあ……」
「だって昨日の夜だって、私のこと手伝ってくれたから」
「なっ!? なんだよ、おめーら……なんかやったんか? 夜の学校で!?」
萩野がすぐさま「手伝う」という言葉に反応した。
そして、ちらりと俺を見て心配そうな瞳を向ける。
なんで、俺なんだ……と言うか、俺の心まで見透かさなくていいぞ!
っていうか、俺はお前みたいにやましいこと考えてないぞ!?
「げえ、クソチンピライオンはまたすぐそういうところに反応するんだねえ? 直球に言ってキモすぎだろ。そういう童貞あけっぴろげな人生で恥ずかしくないの?」
「うっ、うっせえ! おめーもおめーで意味深なこと言うなよ?!」
「えっとね……昨日の深夜12時ぐらいに、小腹が空いたときに食堂に行ったら十和田くんがトランプタワーを作っていたから一緒に3時ぐらいまで遊んだんだよ」
「相手が、こんな万引き犯っつーのはナンだけど、天馬ちゃんもヨフカシするんだねー」
「遊んだというより、あれは僕なりの瞑想だけどなあ。だから邪魔されて本当にむかっ腹が湧いたよねえ」
「でも、ちゃんとカードの立て方とか教えてくれたよね」
「あれはさあ……あまりにも君がへったクソだからだよ! カード立てようとして、なんでカードが真っ二つに破れるのかなあ!? 不運通り越してバカかよ君は!」
「うーん、どうしてだろうね……七島くん、分かる?」
「いや、さっぱり……」
というか、俺に聞かないでくれよ……。
ここで、白河が咳払いをする。少し脱線しすぎたせいだろう。
「みなさん、それはともかくとして……話を戻しましょう。井伏さんの作文にそれぞれ思いはあるでしょうが……今はその思いは胸にしまってください。作文で気になる点も、たくさんあるでしょう。なにか指摘するところはありますか?」
「そ、そういえば井伏さまの作文に書かれていた“イノシカイチョーさまの娘”……というのは、いったい、どなたでございましょうか?」
「そもそも、イノシカイチョーはどこのどなただっつーのってハナシじゃない? 萩野はなんか知らないワケ?」
「あー……悪いが病院関係者ぐらいしか知らなくて……そーだ、錦織なら、知ってんか?」
「はっ、話しかけないでよ……! 脳内検索かけているんだから……っ!」
「ふははは! まさに、人間コンピュータというわけだな!」
萩野も曖昧みたいだな。
せめて、字面だけでもわかれば……いや……待てよ?
「なあ、萩野。イノシカイチョーって、どこからが名字、どこからが名前とかは分からないのか?」
「あー……そういや、イノシカが名字でイチョーが名前だったかな? イノシカは猪と鹿で、イノシカだったような気がするぜ」
なるほど。だったら……こういうことなのか。
「十和田。なら、お前がスリをした人物は、イノシカイチョーなのか?」
「……はあ?」
「作文の字を見れば分かるんだ。この、『■■公■樹』……仮に萩野の猪鹿という文字が正しければ、下の文字はイチョーを表すことになる……イチョーと伸ばす部分をウにすれば、イチョウ。ならば」
俺は半紙を取り出し筆を執った。
さらりと一筆をして、みんなに文字を見せた。
「……これが当てはまるはずだ!」
「ええっと。こう、まご、き……むう! ぜんぜん、ちがうのだ! こんなの“いちょー”って読めないもん!」
「い、いや、たしかに、そう思うかもしれないけど、本当なんだって……」
「……! た、たしかに書道家の言う通りね……これはイチョウって読めるわ……!」
「そーなの? 錦織ちゃんがいうならタダシイね」
そう言って、ゆっくりとみんな頷き始めた。
な、なんだか腑に落ちないけど、納得してくれたならいいか……。
「っていうか、十和田はイノシカのこと知ってたのかよ!?」
「そうだけど、それがなにか?」
「なんと! 開き直っただと!?」
「だから実際、井伏くんの作文通りだよ。あの男の死体から金品を盗んだのは認めるよ。財布とか腕時計が転がっててさあ。たしかに仕事始めてからは盗むのは止めてたけど、このときは魔が差したっていうか……なあに? ミドリムシ、また僕をぶん殴るつもり? ちなみに質屋に入れたら50万はしたよ」
「ご、ごじゅうまんえーんでございますかぁぁっ!? ああ、これで甘納豆がいくつ買えましょうか……!」
また、角が白目を剥いて頭から倒れそうになり……って、うわっ、危な……っ!
「って……あ、あぁぁぁああっ!! い、いいぃぃ、猪鹿、いちょおおおっっ!?」
「うわっ!?」
突然叫び声をあげたのは錦織だった。俺もそれに合わせて驚嘆の声をあげてしまった。
倒れかけた角も、その声で目を覚まし、すぐさまツインテールを跳ねさせながら態勢をを立て直した。
「錦織さん、なにか思い出したの?」
「ええ……字面を見たら思い出したわ……猪鹿公孫樹ってこの学園のOBじゃない……!!」
「っつーことは、うちらの、パイセンってこと?」
「パイセンですって……!? い、いやらしいわ……! デザイナーっていつもそうなのね、そうやって過激な……」
「そ、そのパイセンっつーのは、先輩っつー意味だぜ?」
「せ、先輩……? そ、そうね……彼は65期卒業の“超高校級の医者”だったのよ……」
超高校級の医者だって?
そして、俺たちのOBと聞いてなにかが俺のなかで引っかかる。
……どこかで、しかも近いうちに聞いたことがあるフレーズだった。
「OBということは“Old boy”。すなわち男性ということで間違いありませんか?」
「そうよ……医者の名家ともいえる猪鹿家の長男。内科から外科まで多くの治療を施すことができる神の手の持ち主……すでに16歳のときから彼の両手は“神が微笑えんだ奇跡の腕”とも言われていた……う、うらやましくて憎らしいレベルの天才型よ……!!」
奇跡の腕、と聞いて、俺はちらりと萩野を見た。
敵を見据えるように冷静に見えるが……やはり目玉がちらちらと血迷ったように動いている……。
萩野はこの事実を知らなかったのだろうか。いや、それとも……?
「治療だけじゃなくて薬品の特許もたくさん持っていたそうね……そんな彼の資金は、全盛期の時は兆を超えていたみたいよ……ちょ、兆よ、兆!? こっ、国家動かせちゃうわよ……! 正直、ここまでの大金だと妬みを通り越して唖然よ……!?」
「あ、あべばぶばば……い、いいいったい猪鹿さまは何者でもない何系なのでございましょうかかか……!?」
「君、お金嫌いなのかなあ? 貧乏性?」
またもや、角が泡を吹いて倒れそうで、別の意味で俺の心臓に悪い……。
そういえば、角の家って家にキャベツが生えてくるぐらいの年季が入ってる……本人がそうスイカ割りの時に言ってたっけ。
あの時は、たしかみんなの家族の話題になったよな?
「うち、スイカ食べるの久しぶりかも。小さい頃、カーさんがスイカでインスピレーション湧いたのか、服をデザインしてくれたっけなー」
「マダム真田のママンもデザイナーなのかい?」
「デザイナーっていうか、マルチなゲージュツカってとこ? 世界を飛び回ってなんでもするアグレッシブなカーさんだったよ」
「だった、ってことは……あ、ああいや、なんでもねえ! 今のは聞かなかったことに!」
「うちのカーさん勝手に死なせんなっての! オヤジとソリが合わなくて、カーさんが出て行っただけ。シンケン? ってのがオヤジになっちゃったから、なかなか会えてないんだけどさ……でも、しょっちゅう絵葉書はもらってるよ!」
「私はスイカ割りなんて初めてだわ。家族でなにかするってことはほとんどなかったから」
「たしか紅さまの親御様は、希望ヶ峰学園の卒業生なのでございましたよね?」
「ええ。そういえば、映画鑑賞の時に角には話したわね」
「ウ―ララ! パパンもママンもかい?」
「そう。父親は医者で、母親は裁判官だったのよ」
「お、おめーすごすぎだろ。二世タレントかよ?」
「芙蓉もスイカ割りはやったことないのでございますが、代わりに家のリビングに生えてきた『キャベツ割り』は、角家の恒例イベントでございました! 妹や弟たちと一枚ずつ分けて食べたキャベツには青虫さまがたくさん住んでいらしていて絶品でございました!」
「ちょ、ちょっと角!? まさか、あなた青虫ごと食べてたの!? う、うう、考えただけで寒気が……!」
「モンデュー! 大変だ、ギョーチュー検査にひっかかっちゃうよ!」
「え、えーと……なあ七島。俺はなにからツッコめばいいんだ?」
……繋がってしまった。
思い出は様々なことを繋ぎ合わせて、一つの結論に辿りつかせる。
俺はゆっくりと“その人物”と目を合わせる。
「……なあ、紅。もしかして、猪鹿公孫樹の娘ってお前なのか?」
俺はいとも簡単に、精悍な紅の瞳を捉えてしまった。
「お前が、この事件の犯人なのか?」
ざわ、と裁判場が騒然に変わるのに時間はかからなかった。
紅だけではない、指摘した俺にも視線が飛ぶ。
それは、ほとんど同じ状況だった。四月一日の時と……。
「……え!? ど、どーいうこと!? なんで!? なんで紅っちがイノシカイチョーの娘だって分かるの!?」
「プールのスイカ割りの時、俺たちは紅から聞いたんだ。彼女の父は希望ヶ峰学園のOBで医者だっていうことを……」
「ちょ、ちょっと待った七島!! 紅ちゃんがイノシカの娘だってことは、ともかくとして……犯人ってナニサマのつもり!?」
真田が証言台を叩き、突き刺すように指さす。
魔女のような爪に驚かされるが、それでも冷静に俺は紅に視線をしっかり合わせる。
「紅、昨日の夜、お前は委員の仕事があるって言ってなかったか? 委員の仕事は保健室でやることじゃないか?」
「そんなのわかんないっつーの! 部屋に戻ってやることかもしんないじゃん!」
「そ、そうだよ! ムッシュ、いくらなんでもマダム紅が犯人だなんて! 早急すぎるよ!」
真田やランティーユたちが俺の考えを次々と否定してくる。
だが、当の紅は……。
「詳しく聞かせてちょうだい。そう言うからには私が保健室にいた証拠はあるってことなんでしょう?」
冷静沈着そのもの。
瞳孔もぴったり定まっていて、落ち着きを払っている。
……本当に指摘していいのか心配になるが……だけど、真実を突き出さなければいけないんだ。
「お前が保健室にいたことは証明できる。割れたガラス棚の中に……こんなものがあったんだよ」
そう言って、俺は“金の飾り”を見せた。
黒生寺は俺の手の中にある飾りを見にくそうに目を細める。
「ふん……それが、このアマとどう関係があるんだ……」
「スイカ割りの時、紅は髪を結っていなかったんだ。紅、お前は部屋でなくしたって言ってたよな? でも、それは本当なのか? この金の飾り、俺は紅のものだと思っているんだ」
「ま、マジかよ!? あの猫のカザリは、紅のなんか!?」
「だ、だから、なんでそーやって、スピーディに決めちゃうワケ!? 大体、紅ちゃんの意見も聞い……」
「……それ。猫じゃなくて、牛を模しているみたいよ」
「…………へ?」
真田の怒りがすと抜け落ちたように、彼女の真っ赤な顔はするすると血の気がなくなる。
萩野も、「え、牛?」とキョトンと目を瞬かせる――でも、このような答えをした紅は……。
平穏。
この言葉が一番合うほど落ち着いていた。
「これは、お前のもの……なのか」
それは作業的な確認だった。
言及ではなく、疑いでもなく、俺がそうさせているのでもない。
彼女の気品溢れるオーラが頷いていたのだ。
「実は、俺は昨日の夜、紅たちと別れた後に井伏に会ったんだ。彼は胃腸薬が欲しいからって保健室に行くって言ってたんだ」
「…………そうだったのね」
「角が言うには、保健室の棚、赤い棚のガラスが壊されていたのは7時半以前だったと考えられるんだ。8時以降に紅が大豊に会って鍵を盗んだから、大豊が保健室を荒らした……だから……」
「“壊されたガラス戸”……あれが凶器。井伏の死因じゃないのか……そう言いたいのね?」
なあ、紅。お前はどうしてそんなに……
「少しでも抗うのは、私らしくないわよね……だから、結論を言わせてちょうだい」
冷静に立っていられるんだ?
その言葉は、彼女の瞳の中に吸い込まれていく。
彼女は瞼を閉じて姿勢を正し、みんなのことをゆっくりと見渡す。
「そう、全てあなたの言う通りよ。井伏を殺したのは私。そして私の父は元・超高校級の医者、猪鹿公孫樹で間違いないわ……正真正銘、私の実の父親よ」
言葉がなくなった裁判場に、再び言葉を紡いだのは当事者の紅だ。流れるようにすらすらと音を連ねる。
彼女をぐるりと取り囲む観客の俺たちを置き去りにして。
「う、うそ……えっと、紅っち……でも、イノシカイチョーと名字がちがうよね……!?」
「そうね、今の紅の姓は母方のものだから。以前はコンクールでも猪鹿紅葉の名前を使っていたけれど、父の死をきっかけに名字を変えたの。厄介な問題が起こってしまう前にね」
含みを持った言葉を呟きながら、紅は再び正面を見据えた。
特定の人に向けてではない。
俺たち……観衆に向けて奏でているようだった。
「あの病院で、私も父の遺体を見たわ。みんなの言うイノシカイチョーの姿を……自殺だって言われたことには納得できたわ。亡くなる前に父親と会ったけど、まるで生きた標本、もうあの時から死んでいたのかと今では思うぐらいよ……右肩の怪我と体調不良も相まってね」
「紅……許されるつもりはねーんだけど……俺は、その……」
「謝らないで。あなたは悪くない。あなたが負わせた怪我は、父の死の原因ではないと思うわ」
紅の言葉は柔和だが、その言葉はどこか硬さを帯びている。
それに対して、萩野はずっと頭を下げ続けていて表情が見えない。
しかし、猪鹿の死の原因は萩野が負わせた怪我ではないと聞いて俺は疑問が膨らむ。
その疑問を発する前に、紅が話を戻すために一息吐く。
「父が気を揉めていたのは、恐らく“借金”のせいよ」
「借金?」
「さっき錦織は、父の財産は全盛期は兆を超えていたと言ってたわね。でも、父が死ぬ間際には、乱暴な押しかけや、身に覚えのない父親宛の請求、財産の移動があったのよ。だから、私はあの日、父親に問いただすために病院にいたの……父は端的に言ったわ。『もう少し時間が欲しい。手間はかけないから』って。……その後、父は会議の後に詳しく話すからと出ていって、私は応接室で待っていた。そして、まもなくして病院のスタッフが飛び込んできたの。父が駐車場で倒れていると…………その後のことは、覚えていないけれど……警察は父を自殺と判断した。残された私たち家族もそれを信じて疑わなかったわ。…………借金のことだけじゃない。父は多くのことに悩み、苦しんできたから……」
俺は紅の父、猪鹿公孫樹のことを知らない。
だけど、紅の影を帯びた顔は、その瞬間が映画のワンシーンのように浮かんでくるようであった。
「だから…………信じられなかった。優しくて、誰よりも協調性があって……それこそ、父にそっくりだったのに……私は井伏から、保健室であの罪を聞いてしまったの。そしたら今まで我慢してきたことや責任を私は井伏に擦りつけていた。父親を殺したのは井伏……井伏が……私の父を……殺したんだって……」
「おめーは、だから……井伏を殺したっていうのかよ!?」
「そ、そんな……っ! 紅ちゃん……でもそんなのって……!!」
「エゴよね」
呼吸困難のように真田が言葉を途切れさせる中、紅はきっぱりと言い切った。
このまま指揮台に立ってもおかしくない、凛とした佇まいだった。
「父が死んだことで、心労で母が倒れた。警察やマスコミだってうるさかった……楽団にも押しかけてきて……遺産や保険金目当てで自殺に仕向けたのではないか? そんな根も葉もないことも言われたわ。父親が死んで真っ先に狙われるのは親族、家族なんだって痛感させられた。でも殺した犯人の家族に世間が注目するんだから当然よね。私の父を殺したのは、父自身なのだから」
彼女から奏でられる音楽が呪詛に次第に変わっていく。
「正すことができないほど、滅茶苦茶な不協和音の生活。それが私には耐えがたかった……それ以上に、私が母のために、楽団のためになにもできなかったのが悔しいの。私ができるのは音を指揮して世界中の人たちに調和された旋律を届けること。でも、それがなんだというの? 私は父を生かすことができなかった、母を癒すこともできなかった、真実を見つけることもできなかった……なにが超高校級の指揮者よ。私の才能は役立たず。なにもできなかった」
俺たちが気が付かない間に、精巧な技を使い、音楽は変貌していく。
「過去に執着するのもおかしな話ね。だけど、私は許せなかったのよ。1人で抱え込んだまま私たち家族を残して逝ってしまった父も、図らずも父を突き落としてしまった井伏も、なにもできない愚かで無力な自分も……だから、」
その音は、レクイエムのように悼むように、死を宣告するように……。
「これは、私の“断罪”なのよ」
井伏が書いた"断罪"という文字が脳裏にカッと照らされる。
俺は耐え切れず、彼女から視線を逸らしてしまった。
ああ、どうすれば。彼女を――。
「今までの罪を収束させるために、これ以上の罪を断ちきるために……私は井伏を殺したの」
俺たちは、どうすればよかったのだろう?
井伏や紅がこのようなことに至る前に、俺たちはなにをすればよかった?
いや、逆に問うならば、なにができたのだろうか?
なあ、紅、お前はなにを思っているんだ?
なあ、井伏、お前はこれでよかったのか?
そして、この思いは……どこに吐きだせばいいというんだ?
ふう、と紅は瞼を閉じて一息吐いた。
指揮が終わり、スタンディングオベーションを待っているような、どこか晴れやかな表情にも見えた。
今、俺はいったい、どんな顔をしているのだろうか。
「どうして……」と問いただそうとする顔だったのだろうか、すぐさま紅は察したように言葉を繋いだ。
「事件の全容はこうよ。私は井伏を保健室で突き飛ばして、井伏は棚にぶつかって怪我をしたの」
「ま、待ってくれ、考えてみれば紅……お前は井伏を運べたのか? あの保健室からロッカーなんて」
「……実は、井伏を突き飛ばした時、身勝手だけど怖くなってしまったの。だから一旦部屋に逃げてしまった。それで、しばらくは部屋で息を落ち着かせていたの。それから何時間経った頃か……ドアのノックが聞こえたのよ。開けたら誰もいなかったけど……このメモが落ちていたわ」
紅はそう言って、ズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。
これは……また“方眼紙のメモ用紙”だ。
ひとごろしの くれない もみじ へ
いぶせ あゆむ は いま にかいのろうかで しんでいる
ろっかー に いぶせあゆむ を なかに とじこめろ
だれか いたら おなじく とじこめてしまえ
おまえなら できるだろう
おまえは ひとごろし の あくじょ
おまえの つみは すべて おみとおし
……どういうことだ?
これも、また破られた跡が見受けられた。
大豊のところに届いたのと同じで、タイプライターで打ったことは分かるが……。
「お、おいおい……これって目撃者がいたってことじゃねーか……?!」
「そうね……でも誰かが見ていたにせよ、私が殺したことには変わりないわ。もしかしたらマナクマのイタズラかもしれないし」
『ど、どきぃっ!? とでも、言っておきますかねー』
「……それで、手紙を見て保健室を見たら、たしかに井伏がいなかったの。このメモの言う通りよ。彼は自分の足で2階に向かっていて、そこで絶命したのでしょうね。私が井伏を発見したのは“2階の廊下”、そこに倒れていたから、私は井伏のリュックサックと、そこに入っていた黒い布を使って、くるんで……それと井伏のバッグを使うために、井伏をテーピング包帯で固定してバッグに入れてロッカールームにひきずって向かった。そこには白河がいたから殴って気絶させて、そのまま私は白河の電子生徒手帳で井伏の遺体と、白河をロッカーに閉じ込めた。これが事件のすべてよ」
心地よい弦楽器を聞いているように淀みがなく、そして、綻びがなかったように思えた。
……なのだけれど。
……なにか、おかしくないか?
一つだけ彼女の言葉に意図せぬ"音"が聞こえたような気がした。
そう聞こえるように、わざと取り繕っているのか?
……いや、取り繕っていないんじゃないのか?
もしかして俺たちが……いいや、彼女すら知らない"真実"が、まだあるというのか?
「お、おい、紅……!? これで……終わりだっていうのかよ……!?」
「そうよ、終わりにしてちょうだい。とっくに覚悟はできているわ。父が亡くなったあの日から。ずっと……」
『お、じゃあ、いいっすか? じゃあ、オマエラ! 投票タイムと』
「待ってくれ! まだだ!」
俺の震えた声によって、水を打ったように裁判場が静まり返った。
紅が一瞬怪訝な目になるも、すぐさま柔和な表情に戻る。
根拠は、多くないことは分かっている――だけど、これで終わってはいけない。
「七島ありがとう。でも殺人者に気を遣う必要はないわ」
「……気を遣っているんじゃない。俺は真実を知りたいだけだ。今、お前が話した内容は不十分だ」
不十分と聞いて紅がぴくりと眉を動かす。
「やっぱり」と天馬が呟く。
「七島くんも気になるみたいだね」
「ちょ、ちょっとどういうことよ……アンタたちだけで話を進めないでよ……!?」
「なにをしているの。早く投票をしてちょうだい。事件の内容はすべて語ったわ。これ以上、細かく話しても堂々巡り。それか、もっとややこしくなるだけだわ」
「大切なことを後回しにしたら、今は楽かもしれないけど、後にもっと苦しくなる。今、分かっていることをハッキリさせないと、紅さんも不幸になる……これ以上に、なにもかもがバラバラになってしまうよ」
天馬が淡々とそう切り返して、紅が少しだけ身をひいた。
――ように見えた。
「和を乱さないで」
凛々しく整った顔が、キッと鋭い眼光へと変わる。
その顔は一言でいえば、嫌悪と言える歪んだものだった。
「私は嘘なんて言ってない。私が言ったことは、すべて事実よ。繰り返しても無駄なことだと思うけれど」
「いいや、無駄なんかじゃない。俺はお前の意見を正したいんだ」
「正したい? 井伏を殺したことは間違ったけど、私の話はなにも間違ってないわ……それでも、あなたが正したいなら、正してみればいい。もっとも私が納得するかどうか、事実が覆るかどうかは別だけれど」
根拠はないことは、たしかだ。
だけど、この紅の話が不十分であることはわかっているんだ。
ならば、見つければいいだけだ。
その隠された矛盾を!
「私は井伏を殺したのよ。それは私自身が知っているわ」
「もっと言えば、お前以外に知っている人はいないってことだ。もしかしたら、粗があるかもしれないじゃないか」
「粗なんて、まるで私が隠ぺいしているみたいに言うのね……私は“井伏を突き飛ばした”のよ、この手で。本当よ、今さら嘘なんてついても意味がないわ」
「なあ、紅。俺はお前を混乱させたいわけじゃない。もう一度、確認がしたいだけなんだ」
「確認って言っても、どこが違うと言うの? じゃあ、何度でも言うわ。“井伏を突き飛ばした”のは事実よ。“井伏が棚にぶつかって亡くなった”のも事実。“このメモが私の部屋の扉の前に置かれていた”のも事実。“井伏が移動して2階の廊下で死んでいた”ことも事実。“私がロッカールームで白河を気絶させた”のも事実。“私が白河と井伏をロッカーに閉じ込めた”のも事実よ。間違いなんてどこにもない」
「止めが甘いぞっ!」
見つけた!
俺は彼女の言葉を突き刺すように、人差し指を向けた。
紅が射竦められたように、一瞬少しだけ後ずさったようだ。
「お前は今、井伏を突き飛ばして、棚にぶつかって亡くなったと言ったな? 紅はマナクマファイルに書かれていた井伏の“外傷”を覚えているか?」
「"切り傷"と、"打撃痕"でしょう? 井伏は私のせいで保健室の棚の枠にぶつかって、ガラス窓を割ったから破片が頭に刺さって……だから、打撃痕と切り傷。ちゃんと当たって……」
「いや、それは間違っているんだ。そうだろう、円居?」
「なるほど、そういうことか……その通りだぞ。吾輩の検死の結果、びっくりドンキホーテ! “打撃痕は二つ”だったのだよ!」
腰に手を当てばさりと白衣を払いながら自信満々に言い放った円居に対して、紅が瞬く間に鋭い目を満月のように丸くした。
やはり、そうか……しかし、すぐさま紅は顔色を取り繕う。
「でも、私もうまく覚えていないの。私がもう一回殴った可能性もある。ガラにもなく取り乱してしまったから」
「ふん……貴様みたいなアマに男を殴り殺す腕力があんのか……?」
「そ、そうだって! こいつの意見ってのはシャクだけど……紅ちゃんにできるの?」
「できるわ。白河の後頭部だって殴ったもの。女子トイレにあったデッキブラシでね」
「うっ!? 今、あまり知りたくない事実を聞いてしまったような気がするのですが……!?」
白河は後頭部を擦りながら青褪めている……。
「それに“傷にガラスの破片が埋めこまれていた”ことは聞いたわ。だから、私が殺したのは間違いない」
「あ、そ、そうなんだよ! なんとか検出したんだけど、伝えるのを忘れていたね……ムッシュ井伏の頭部にはブルークレーユのガラスとオランジュのガラスが埋めこまれていたよ! 正確にいえば、“水色”と“橙色”のガラスってことだね!」
これだ。今の、ランティーユの新たな証拠!
今の言葉で、決定的におかしい箇所があったはずだ!
「紅……やっぱりお前は井伏を殺していない」
「まだ言うの? 七島、ここまで言われると惨めになるわ。最期ぐらいは私を信じてちょうだい……」
「なら、信じたうえで質問させてくれ。今言った“井伏の頭部に埋め込まれたオレンジ色のガラス破片”は、なにか説明できるか?」
「…………えっ?」
俺の言葉に、紅は今度こそ目を見開いたまま石になったかの如く動かなくなった。
取り繕う様子もなく、その場で顔を強張らせたままだ。
「って、ウーララ!? ムッシュ! まさかぼくの目にケチをつける気かい!? さすがの穏健なぼくでも鑑定士のプライドを傷つけるつもりなら黙っていないぞ! ほら、ちゃんとこのガラスの破片が……」
「いや、このガラス破片があること自体は正しいんだよ。問題は、どうしてこのガラスが井伏の頭に埋めこまれているかだ。“水色のガラス破片”は“赤の棚”窓ガラスのもので間違いないだろう。だけど……この“オレンジ色のガラス破片”は、なんなのか説明できるのか?」
紅は、「それは……」と口籠る。
ゆっくりと彼女の冷徹な氷の仮面にヒビが入る。
「薬品の瓶だわ。保健室の棚だったもの。井伏を突き飛ばした際にそれが割れて……」
「いーや、待った! 俺は七島とチェックしたぜ。割れていた赤い棚の中に入ってたのは、全部“”書類”じゃねーか?」
『そうそう! オマエラの性的嗜好が書かれたファイリングだね!』
「こ、これこそ、プライバシーの侵害じゃない……!?」
「……っ!!」
ついに、紅が薄い唇を噛み、眉間にしわをよせて不快感を露わにする。
自分の間違いに気づき、正しいことではなかったことへの嫌悪か。
機微は俺には分からないが、だけど、これで充分だ。
「ま、まるで、脳みそがこねられている気分でございます! いったい、どういうことでございますか!?」
「井伏くんは紅さんに突き飛ばされて棚に頭を強く打った。そして紅さんが目を離した後、井伏くんは廊下で転がるように亡くなっていたから、紅さんは自分が犯人だと思い込んだんだよね。でも、遺体の井伏くんには頭に“2つ打撃痕”が残っている……それなら、紅さんが目を離してから、井伏くんが廊下で亡くなる間に、“もう一度、頭を打った”ってことだよね」
「ウソっ!? ガチマジなのっ!?」
「ちょ、ちょっと待ってちょうだい……っ! 私は井伏を殺したのよ! 殺意もあった……! わ、私は、井伏を……!」
「そもそも、紅にも脅迫状が届いている時点でおかしいんだ。だから、その手紙を大豊と紅に届けた人物。そして、2回目に井伏を殴った人物……それこそが“真犯人”じゃないか?」
真犯人、それを聞いて、みんなの瞳に不安とこの裁判の終わりが見えたように鈍く光った。
その中で、紅は自らの名前と同じ紅色の髪を手で乱しながら、額に手を添えて青ざめていた……。
自分が裁判を乱したことへの後悔か。
井伏を殺すことができなかったことへの苛立ちか。
真犯人への憤怒か……そこまでは踏み入ることは今はできなかった。
「それでは、紅の言う事が本当だと仮定しようかね? 井伏は怪我をした後に、逃げて2階に向かって絶命した……とすれば、2階の廊下、あるいは向かっている途中に殺されたのだろうな!」
「ええ、そうでしょうね……まず、凶器を探していきましょう」
円居や白河の言葉を皮切りに、裁判は加速を極める。
真犯人の追及に、裁判場を取り囲む瞳はギラギラと獲物を探す獣の如く光りはじめる。
「頭の傷なら、やっぱり“グーで、殴った”と思うのだ! ぼかっ! なのだ!」
「殴殺は道具を使わないと無理だ……“バット”じゃねーのか……」
「そういえば、スイカ割りで使った“モギトウ”は? たしかそれ持ってたのって……"萩野"?」
「って、バカ言ってんじゃねーぞ!? そもそも殴った跡が金箔でついちまうじゃねーか!」
「うーん、“オレンジ色のガラス破片”は、いったい、なんだったのかな?」
「ということで、萩野っちが怪しいと思うのだ!」
「異論はないねえ」
「なんでそーなんだよ!?」
さすがに、これでは萩野が居たたまれないし、俺も納得がいかない。
殴打、道具、オレンジ色のガラス破片……この三つから考えられるのは……。
「待ってくれ。もしかして"薬瓶"……あれが凶器なんじゃないのか?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい……薬瓶ってどういうことよ……"毒殺"ならまだ百歩譲るけど……」
「いや、"毒殺"じゃない。“撲殺”だ」
「は、はあ……!? あんた論破のしすぎで、言語がおかしくなってるわよ……!!」
「錦織さん、七島くんが言いたいのは、犯人は"薬瓶"で殴った……ってことじゃないかな」
「ああ。この井伏のカメラの写真にある薬品棚の写真と、今の薬品棚の配置図を見てくれないか?」
赤いデジカメを提示して、そこに残された写真データを映し出す。
カメラの写真に写っているのは、赤、橙色、黄色、緑、青、紫。
配置図は、赤、黄色、緑、青、紫の薬品と俺の字で書かれている。
「なるほど、マメだなあ……そーだ、七島! そのカメラ写真をズームしてみねーか?」
「……ズームの仕方、分かるのか?」
「あ、あたりめーだろ! そんぐらいは、わかる!」
なるほど、ズームという機能は失念していた……萩野に貸してズームした写真を確認してみた。
オレンジ色の薬品ボトルには、『胃に優しいオナカスッキリ!』と可愛いフォントで書かれている。
「よっしゃ、凶器見っけたぜ! “胃薬の薬瓶”で殴ったってことか!」
「ふむ、なるほど……古い形式の薬瓶だな。この手のタイプの薬瓶はガラスの層も厚めで薬も入っていれば重さも十分にある。これなら井伏の死因と合致するだろうな!」
「じゃ、じゃあ犯人がそれを持って行って、廊下にいた登山家を……?」
「いや……元々胃薬の瓶を持っていたのは、井伏だと思うんだ。お腹が痛むって言ってたのは井伏だから……なあ、紅。お前は黒のボストンキャリーバッグに井伏を入れたって言ったよな? その時、ボトルは入っていたか?」
「……いいえ。入っていなかったわ……」
「それともう一つ、保健室に入った時に、先に井伏がいたのか?」
「ええ、そうよ。彼が先に保健室で待っていたわ……」
「なら、井伏が持っていた可能性が高いはずだな。きっと、井伏は犯人に薬瓶を奪われたんだ」
そう言うと、ランティーユが顎に手を当てながら苦い顔をする。
「い、いや、ムッシュ井伏が持っていたことも、犯人がそのボトルを奪って殴ったことが本当だとしてもだよ? そうしたら、“血が大量に出るし、薬だって撒き散らされて汚れちゃう”だろう? ムッシュ白河も怒っちゃうほどにね!」
「そうでしょうね……2階の廊下も確認しましたが、血痕の類は一切ありませんでした」
2階の廊下で殺されたと考えるなら、当然2階の部屋で殺されてたのだろう。
図書室はカーペットが敷かれているし、トレーニングルームには黒生寺たちがいた。科学室も円居の付き添いで萩野も確認したらしいけど、気になる点はなかったと言っていた……それならば。
「……"プール"ならどうだ?」
「プールって……お、おい待てよ! 俺たちがスイカ割りしたとこだって言いてえのか!?」
「で、でも! あそこなら、お水で血を流すことはできるのでございます!」
「井伏くんの服が変に湿ってたのもプールにいたせいかなあ?」
「あのプールの独特な匂い……の名前を私は知らないんだけど。それで血液や薬の匂いも誤魔化すことはできるかもね」
「ってことは、井伏が殺されてたのはローカじゃなくって、プールで殺されてて……そんでもって、ローカに放り出されてたってこと!?」
そういうことになるのだろう。
どうして、こんなことをしたのか。
井伏が所持していた薬瓶をどのようにして奪ったのかとかは分からない。
――だけど、これで。
でも、これが、本当だとしたら……
「七島さん。これで、判明できるのではないでしょうか」
「ふん……なにがだ……?」
「……この事件の真犯人だよ」
「なっ……! こ、これで、わかるっていうの……!?」
俺は気づいてしまった。
この犯行が可能なのは、"あの夜にプールにいたと考えられる人物"。
そう。たった、それだけだ。
ただ、それだけ……だというのに。
多くの不安と怯えを胸に秘めながら、俺は意を決して"真犯人"に指を向けた。
「……円居。お前が犯人なのか?」
俺が尋ねた人物、それは顔がまったくもって見えなかった。
分厚くて汚れたレンズ越しに瞳を隠した円居であった。
俺に指摘をされて、動揺したのか、怒りを示したのか、そもそも、なにを考えていたのかもわからない。
腕組をしながら、白衣を少しだけ揺らしていただけだった。
「え……ええええええっ!? ま、円居っちが!? な、ななんでぇっ! プールで円居っちってそんなの変なのだ!」
「大豊の言う通りだ、七島よ! 科学室=吾輩であるのだから、プールに吾輩という人間は似つかわしくないぞ! 吾輩がプールにいた証拠はあるのかね?」
指摘された円居の一声はごくごくいつも通りの明快なものだった。
だけど、証拠は……彼に語ってもらおう。
「白河。井伏との"約束"を話してくれないか?」
「はい、以前、私は水泳が好きだということを井伏さんに話しました。それで昨日、井伏さんに気分転換としてプールに行って泳がないかという約束を受けたんです」
「ほほう、素晴らしい友情談だな!」
「というわけで、私たちは昨夜に水泳をすることを約束したのです。その話を知っているのは、黒生寺さん、十和田さん、円居さんですね」
黒生寺がじろりと白河を睨み付け、十和田が大きく舌打ちする。
たしかに、この二人もいるが……。
「ムカつくことを何回も言わせるな……俺はあのアマと"トレーニングルームで戦っていた"……アリバイはある……」
「僕は、"寝てた"けどねえ?」
「吾輩は、"科学室で実験"をしていたぞ! ということだ。現時点で確信たるアリバイがないのは、十和田と吾輩だ……でも、十和田が、ばりばり怪しいだろう!」
「はあ? なに言ってんのかなあ、この牛乳瓶底眼鏡はさあ!」
「七島、吾輩にはアリバイがある……言っただろう、吾輩は湿気が苦手だと!」
「プールで井伏を殺したのが正しいなら、円居しかいない」
「無視かね? 吾輩も湿気にはトラウマがあってだな……」
「ふ、ふん……ちょっと、それはさすがに苦しい言いわけだと思うわよ……!」
「しかし、どうして、そんなことを言い切るのだね?」
これに関しては、円居への指摘じゃない。
あいつの意見を正す必要があるだろう。
「十和田、寝ていただけじゃないだろう。ちゃんとアリバイがあるはずだ。"3時半まで食堂にいた"、っていうアリバイが……そうじゃないのか、天馬」
「なにを言って……って、ああ、そういや、そうだねえ。不運といたから、てっきり悪い情報だと思って忘れてたなあ」
「少しは、役に立った……かな?」
「いやいや、しかしだな。誰かといたからアリバイ成立というのはおかしな話だぞ。それは運のツキの問題も関わるではないか! 吾輩は一人だったが、科学室にいたのだぞ!」
円居は腰に手をあてて、仁王立ちをする。
ここからは、あくまで推測だ……でも、少しずつ解いていくことは可能だろう。
「血の匂いを消すための薬品、それはお前が調達したんじゃないのか?」
「プールの匂い、亜塩素酸ナトリウム……と言いたいのかね? しかし、十和田だって手品師だ。タネ的な意味で薬品には詳しいはずだぞ!」
「あのさあ、そういう夢壊す発言やめてくんない? それで商売やってんだからさあ」
「おめーが言うと、まったく説得力ねーからな!?」
「だけど、科学室の鍵束は円居。お前が持っているんだ。萩野は見たんだろ? 棚の鍵は閉められていることを……」
「……あっ、そういや、そーだな……!」
少しずつ円居を追いつめているはずだ。
だけど、彼は顔色一つ変えずに腕組をしながら、うんうんと頷いている。
「ほほう? 面白い推理だな、実に興味深いものだ!」
「ま、マジメに聞けっつーの! で、どうなんだってアンタ……!」
真田は声を震わせながら、苛立ちを露わにする。
それに対して、円居はふん、と鼻息を返した。
「さあ? 知らんな。悪いがその点に関しては吾輩はよく分からないのだよ」
「あーららぁ? この期に及んで、しらばっくれるつもりかねえ?」
「しらばっくれる? 馬鹿なことを。そもそも、吾輩は事件に関わっていないのだよ」
「いいえ、関わっています。あなたの汚れた手を見ればわかることですよ」
汚れた手を見れば分かる……そんな指摘でも、円居は気だるげに首を傾げる。
状況がいまいち頭で理解できていないのか、不安げな瞳の紅に白河は向き直った。
「紅さん、井伏さんはどのような形で廊下で亡くなっていましたか?」
「“黒い布”に頭を包まれていたわ……」
「ガラス破片も、井伏さんの首に埋めこまれていたもの以外、その“黒い布”にはありませんでした。なら、犯人はガラス破片も撤去して、井伏さんを“黒い布”で包み廊下に放置した……そうなると、犯人の手は相当汚れるはずですよね」
「それがどうした」と言わんばかりに、円居はあからさまな溜息を吐く。
「……円居さん。あなたは、なぜ焼却炉に手を突っ込んだのですか?」
「なぜって? それはそこに焼却炉があったからだ!」
「きっと、あなたは、紅さんがテーピング包帯を持って行ったせいで焦ったのでしょうね」
「どういう意味だね」
「あなたはいつも手に包帯を巻いていますね。いきなり、その包帯がなくなったら怪しまれる……と思ったのでしょう。裏返して巻けば多少誤魔化せるとしても焼け石に水。しかも図書整理もあるからダストルームにも行けなかったと私は考えています。だから、そんな包帯の処分に困ったのではないでしょうか? あなたは手をやたらと見せたがりませんでしたからね。ところで、図書整理をしていた天馬さんたちは彼の手を見ていますか?」
「うーん……円居くんとは、ばらばらで作業していたからちゃんとは見ていないよ。錦織さんも図書準備室にずっといたから」
「やれやれ、さっきから聞く気になれない推理だな……そんなの主観ではないか! それとも、吾輩の心を読めるのかね? 白河は魔術師なのかね?」
焼却炉に手を入れた円居というのは、捜査中の行為のことを指しているのだろう。
たしか、なにかが見えると言って彼は手を突っ込んだが、それは見間違いだった。
あの時、焼却炉に手を突っ込んだ円居は……。
鎮火は成功したが、腕の包帯が焼け落ちていて見るに堪えない。
円居はううっ、と呻きながらも、焼却炉の火を恨めしそうに凝視している。
「あなた、まさか自責に囚われているつもりですか? ……悪いニュースをそれほどまでに言いたくないとでも?」
「まさか! 焼却炉になにか物が入っていると思っていたのだが……」
そういって、円居は這いよるように再び焼却炉に近づいて覗き込む。
しかし、首を振って扉を閉めて、付属している赤いボタンを押した。
……そういうことなのか。
布石を発見してしまい思わず唾を飲んだ。
「円居。お前は、どうしてあの時、焼却炉に“付属している赤いボタン”を押したんだ? 俺たちが確認する前に"扉まで閉めて"……」
「もちろん“火を消すため”だぞ! 消灯はバーナーを使ううえでは鉄則であることを知らないのかね?」
「円居……忘れたのか? それとも、これはヒントと受け取っていいのか?」
「どういう意味だね?」
「“焼却炉は人の立ち入りで火が自動的に点火したり、消灯したりするってこと”だ。つまり、お前が押したボタンは消灯なんかじゃないだろう!」
「ふむ……では、吾輩が押したのは、なんだというのだね」
『知らなかったの、円居くん? 焼却炉は炎の強弱はオマエラが変えられるんだよ』
マナクマが言うと、円居は大げさに肩を竦めた。
「やれやれ」と言って眼鏡をくいと持ち上げた。
知らなかったのではない。
円居は知っていたのだろう、そのボタンの意味を。
包帯の処理のために、ハイリスクで奇抜な行動に出たのだ。
でも、円居は相変わらず唇を嬉しそうに歪めたままだ……
「ふむ。話の筋は理解できたぞ。では次の問題だ。物証はどうした。七島よ?」
えっ……?
「証拠が見つかっていないぞ。井伏の傷の中に、たしかに"オレンジ色のガラス破片"が、あったことは真実だろう……だが、それが凶器だとどうして言い切れる? オレンジ色のガラス破片など、世界中、ありふれたものではないか! 自動販売機でいくらでも買えるだろう!」
「くそ、今度も証拠かよ……! また捨てられたか!?」
『あ、ちなみに、ダストボックスはムリっすよ。今回から殺人が起こった時点で閉鎖することに決めたからね』
「言うのが遅くないかい!? あっ! だ、だからムッシュ円居も包帯を捨てられなかったのか……」
「まったく、ランティーユよ! いつもお前は早急すぎるぞ! 鑑定士だろう? もっと真実を見極めてから、その口を開くがいいぞ!」
「ああっ、そ、そうだね! 失敬したよ、ムッシュ!」
「な、なに談笑してんのよ、アンタたち……!?」
さりげなく円居が自分が犯人ではないことを誘導しかけている。
いや、うやむやにしようとしているのか。
白河がそれに気づき、それよりも。と議論を戻す。
「ガラスは燃えにくいから焼却炉という点もないでしょう。簡易ゴミ箱にもそのようなものは一切ありませんでした」
「じゃ、じゃあ、"部屋"じゃね? 前と同じでアンタも自分の部屋に隠したんでしょ!?」
「まだ言うかね! ならば、探せばいいさ! 見つかるものならばな! 見つからなければ、終わりにしようではないか。こんなふざけた裁判など! ふははははははははははっ!!」
円居は眼鏡をぎらぎらと光らせながら高笑いを飛ばした。
ここまではっきり言い切っている以上、部屋は考えられないかもな……ならば、どこに隠す?
生半可に放り出しても怪しまれるガラス破片だ。もっと、個人でしか行けないような場所なら。
もっと……絞れ……不審な場所と言えば……!!
「……なあ、円居。お前は"ロッカールーム"を知っているか?」
「なんだね、それは井伏の死体があった場所だろう? ふははは、おさらいかね?」
「実はあそこには、“開かずのロッカー”があったんだよ……なあ、円居。その開かずのロッカーはお前が閉じたんじゃないのか?」
「……ふはははは………は?」
開かずのロッカー、と聞いて円居は壊れた人形のように首をこてんと傾げる。
「んおっ、言われてみれば! たしかに、あのロッカーって閉まってたな!?」」
「円居、あのロッカーがお前がロックしたものか証明したいんだ……すでに、俺と紅、萩野は違うという事が判明している。……だから、円居。お前の電子生徒手帳を貸してくれないか?」
「私が襲われる前の時点で、そのロッカーは使用中でしたからね……円居さん。そろそろ、すべてを明らかにしませんか」
「っふ……ふふ……ふふふふ、ふはははははは、ふっはははははは!!」
これで、終わりか。
唇が裂けることの恐れも知らずに彼は壊れたように。
「は」
笑っていた――はずの円居の首が突如、かくん、前に倒れる。
電池が切れたようにぷつりと途切れて、俺の隣にいる角の肩を震わせた。
しかし、それは束の間で。
すぐさま、おきあがりこぼしの如く、首は正面へと向き直った。
「ところで諸君。カルメ焼きはなぜ膨らむか知っているかね?」
「……………は、はい?」
突如、円居から返って来た言葉は質問。
しかも、裁判には似合わない内容であった。
だが、円居はふてぶてしく不気味な笑顔を浮かべながら腕組をする。
「分からないのであれば、吾輩がお答えしよう! カルメ焼きはなぜ膨らむか……それは重曹、いわば炭酸水素ナトリウムのおかげなのだよ。そいつは火を加えると、熱分解で二酸化炭素を放出する。つまり空気が作られることによってカルメ焼きはできるのだよ! だから、炭酸水素ナトリウムはふんわりとした触感のために、甘いお菓子に使われることが多く、カルメ焼きだけでなく、たとえばケーキや、クッキー、マフィンなどにも使われるのだぞ!」
「円居くん、それって、どういうことなのかな?」
皆の困惑とは裏腹に、円居はにやりと不敵に笑みを浮かべる。
「まだ、分からないのかね? 御粗末な思考回路だ。つまり、今のお前たちは、できそこないのカルメ焼きなのだよ。なにもかも足らずに、膨らまないで、萎んでしまった、ただの甘い甘い甘い、甘い、甘い甘い、甘い甘い甘い甘い甘い甘い。甘い甘い甘いあまいあまいあまいあまい」
「ま、円居、待て。お前……っ」
俺の抑制も無視して、彼は――。
「甘い甘い甘い甘いあまいあまいアマイアマイアマイあまいアマイあまいあまい甘いあまいあまいあまいアマイあまイあまいあまいあまいあまい。アマスギルアマスギルアマイアマイアマイあまいアマイ甘いあマイアまイ甘いアマイ甘いあまいあまいあまい甘いあまいあまいアまいあまいあマイ甘いアマイあまいあまいあまいあまいあまいあまいあまい……ッ!」
声の暴力――マシンガンのように同じ弾丸が放たれる。
まったくもって、抑揚が感じられない声だった。
いや、抑えているのか?
四月一日とは違う激昂ではない。静の迫力が襲いかかって来た。
それは、壊れた機械の暴走のように。俺たちが言葉では言い表せない顔立ちで何度も呪詛を呟く。
「も、もうやめて……もう、いいっ! 円居っ!! やめてちょうだいっ!!」
音の暴力に耳を塞いで叫んだのは紅だった。
その言葉を皮切りに、円居はまたぴたりと言葉を止まった。
機械の故障音を聞いたような不快感が押し寄せる。叫んだはずの紅も完全に怯えていた。
人間を見ている気分ではない……この嫌悪感はなんだと言うんだ。
そして円居は役目を終えた玩具のようにゆっくりと頭を垂れた。
「…………………」
「な、なによ……狂ったと思ったら、また、だんまりなんて……一体なんなのよ……!?」
「……れ……な……」
「まあ、想定内だけどなあ。とにかくこのクソマッド野郎が殺したことで決定でいいだろ? ねえ、投票まだあ?」
「お、………んぞ……」
「あっ、ちょ、ちょっと待ってくださいでございます。な、なにか円居さまがおっしゃって……」
「な、なあ……円居……お前は一体、なにが言いたいって……」
俺の言葉に反応して、彼はバッと正面を向いて。
「何度も言わせるなッ!! 俺はただでは死なんぞ七島ぁぁぁッ!!」
切り裂く叫びを放った。
彼の白衣が強風が吹いたようにばさりと舞い上がり、目がカッと見開かれ、口裂けのように唇が広がる。
それは理不尽ではあるが、この感情は"怒り"である、という事は明確だ……!
「おいおいおいおいおい……ッ! さっきから黙って聞いてりゃ論文以下だなァ!? 証拠もない不出来な証明で、俺を犯人扱いするとはオツムがぶっ飛んでるなテメエらッ!! 反吐が出るほど甘いじゃねえかッ!? 科学部として霊的なことは100%信じていなくとも、こんな終わり方じゃ死んでも死にきれずに化けて出るだろうがよッ!!」
「ひっひいいぃっ!? ムッシュめちゃんこ怖いよ!?」
「つ、っつーかよ……おめーキャラ変わってね?」
「しょ、証拠なら……そ、そんなのロッカーに……」
「馬鹿言え! いつどこで誰がなにをなぜどのようにしてそんな根拠を言ったつもりだァ!?」
そういって、円居は激昂を飛ばして証言台を叩きあげる。
が、叩いた拍子に、くい、と口元が極端に上がる。
「ふ、ふふ……やっぱりお前たちは、なにもかも甘いなァ? ならば、見せてやろうではないか。いいか、ここに生徒手帳があるだろ……これを……こうだ!!」
ディスプレイに『円居京太郎』と表示された自らの生徒手帳を見せびらかした後に、彼はそれを投げ捨てる。
玉座から降りたマナクマによってそれは拾い上げられた。
『んじゃま、マナクマ探検隊、第1ロッカーに出動でありまするー!』
マナクマが玉座から消えて、すぐさま大きなスクリーンにロッカールームが映し出される。
マナクマが赤いランプのロッカーに、生徒手帳を押しつけてカードリーダーに読みこむ。
――ぶっ、という何回か聞いてきた音。
もちろん赤いランプは点いたままだった。
『あらま。残念でした』
無情なマナクマの声がスクリーン越しから届く。
ウーララ……というランティーユの声が裁判場からあがった。
そして…………。
「っはは、ははは、はははは……! あははははふははははははひひひひははははははふふははほはははははははははふひひひふほほへへへへははははははははははは!!!!!!」
狂喜乱舞――大口を開けて、舌を覗かせて、笑う、笑う。笑う笑う笑う。
円居は嘲るように、この状況を高らかに嗤いあげた。
「言っただろう! 俺は嘘を吐かない! インディアンも嘘を吐かない!! この世界の常識の理だ! 科学部は全てを証明しきる! これでテメエらの実験もやり直しだ! ふっははははは!! ざまァあみやがれ! 科学の“か”の字も知らぬ凡人どもめッ!!」
「う、うわあぁぁぁんっ!? いつもの円居っちじゃないよぉぉっ!!」
「って、言うかピンチじゃね? 結局、フリダシに戻ってんじゃん!?」
「こんなことになるなら、やっぱり、私が……! 殺したのかもしれないわ……!」
弱々しい声で紅が両手で頭を抱えだした……。
まずい! このままだと彼のペースで、ハッキリしないまま終わってしまうじゃないか!
「み、みんな生徒手帳を出してくれ! それでっ!!」
そう俺が急かした瞬間、円居は――またもや、唇を歪める。
なんだ、あの好奇な笑みは?
まるで策にハマッたかと言わんばかりの表情。
まさか、この考えすらも間違いだって意味なのか?
いや、落ち着いて考えろ……どうして、円居の電子生徒手帳で開かなかった?
俺はもちろん、萩野や紅もダメだったのに……あの笑みが、「全員出しても無駄」という意味ならば、もしかすれば。
「マ、マナクマ!」
『はいはい、中継マナクマでーす』
「井伏の遺体だ! 調べてくれっ! あいつの電子生徒手帳はあるか!?」
ちらりと見た円居が、一瞬だけ。
水をかけられて怯えた猫を彷彿させた。
瞳の瞳孔を強張らせたのが、眼鏡のレンズ越しに見えた。
その表情は嘘か? いや、あの一瞬は確かに。
これに、賭けるしかない……!
『はーい、マナクマ調査終了いたしました! 見つかりませんでした! ざーんねーん!』
当たりだ。
真っ暗闇の事件に一筋の光が差し込む。
「う、うわーん!! 見つかんなかったのだ! これでおしまいなのだああ!」
「あああ、こ、こんなのって、ムッシュ井伏の電子生徒手帳が見つからないなんて!! って、あれ、なんで?」
「円居……! お前は井伏の電子生徒手帳を使って、あのロッカーを閉じたんだな!?」
なんて入念で、狡猾な技を仕掛けたものだ。
ここで、俺はスパートをかける準備をする。
円居もズレた眼鏡を押しあげ、分厚いレンズ越しから沸々と燃える炎を携えた瞳で俺を見据えている。
どうやら、彼も本気で戦う用意ができたようだ。
俺は諦めない。必ず真実を追求する!
「……だからどうした? 肝心の井伏の生徒手帳はどこにある!? なかったということを明らかにされても吾輩は『そうか』としか言えないぞ!」
「それは円居。お前自身に聞くしかないだろうな」
「そいつは傑作だ! 吾輩を尋問して、甚振ったところでなにが分かるというんだね!」
「円居、俺たちは諦めない。お前から必ず聞き出してみせる!」
「往生際が悪いな、七島! そういうところが女の子に嫌われるんだ! おそらくだがな!!」
「学園は広いんだ。部屋以外にも、他に隠せるところはあるはずだぞ!」
「ほう。なら焼却炉で燃やしたのかな? プールに沈めたとか? もう一回、マナクマにお使いを頼ませてやろうか!」
「いや、お前のことだ。“最良の場所”に隠すだろう。だって、お前は賢いからな」
「賢い? 賢いだって!? こんな奇妙変人を賢いと言うなんて、七島も吾輩と同族か! そう、この世界は狂ってるんだ。そうでなければ、こんな世界で生きられるはずないだろうが!!」
「円居、なにかを忘れていないか? お前が行ったところで抜け落ちているところがあるはずだ」
「賢いと言ったら、今度は愚か者扱いをするのだな! 吾輩は――いや、俺は馬鹿じゃない。愚かじゃない。いいや、賢くもないんだ……ああ、違う。違う違う、違う違うっこんなの違うんだ! なにもかも間違っているんだ! 俺はおかしくない! 狂ってなんかないんだ! お願いだから信じてくれ! なぜなら……吾輩の行動範囲は、“これがすべて”だからだ!!」
これだ!!
「止めが甘いぞ!!」
「……円居。“マナとクマ”はどうだったか?」
"マナとクマ"。
その言葉を聞いた円居は、開けていた口から覗かせた歯をギリッと食いしばった。
「……“マナとクマ”……って……あ、あんた、どういう意味よ……!?」
「それって、円居くん、昨日借りていた絵本のこと……だよね? 今日の図書整理で書庫に入れていて」
「そっ、れが……いったい、なんだというのだね……?」
「生徒手帳は薄い。なら、ページの間に隠すことだってできるはずだ。一生、誰にも見つかることがなく、お前が借りていた"マナとクマ"と一緒に。井伏の電子生徒手帳をお蔵入りにさせるつもりだったんじゃないのか?」
「ふざけたことを! 根拠がないではないか!」
『マナとクマ、絶賛発売予定! というわけでオマエラにも見本を見せるためにも、書庫から取ってきちゃったよー! さっそく、朗読しちゃいますよー!』
そう言って、いつのまに玉座に戻っていたマナクマは、二頭のクマが手をつないだ表紙の絵本を持っていた。
円居がハッ、として息を鋭く飲んだ。
絵本を開くとすぐさま、ぱさりとなにかが落ちる。
「んー?」とマナクマがとぼけた顔で、床に落ちたそれを見やる。
一番玉座に近かった黒生寺がそれを拾い上げて、中を確認する。舌打ちをする間もなく、黒生寺はマナクマに放り投げて、それをマナクマがキャッチする。
「…………ふん、ロッカーだ。開いてないロッカーに当ててこい……」
『んもう……座っている者はクマでも使えってか? これで最後だからね? それに、そろそろ時間押してるから、犯人の目星つけといてよ?』
大きなスクリーンに再度ロッカールームが映し出される。マナクマが生徒手帳を手にして、そして……カードリーダーに“それ”を当てる。
ぴっ、という電子音が鳴り響く。
ぎいという軋む音と共にロッカーが開く。
暗闇のロッカーから取り出されたものは。
“ガラスの破片”
それは沈みかけの夕日に似た“橙色”だったもの。
それは血を浴びてその橙は真っ赤に染まっていた……。
「……どうして」
最初に呟いたのは紅だった。
彼女は唇を震わせ、とてつもない寒さをしのぐように腕を抱えていた。
「……嫌よ……どうしてなの? だって、私が井伏を殺したはずなのに……どうして、こんな……」
泣き疲れた子供のように、紅は憔悴していた。
そんな彼女を、ただ円居は表情を変えずに見つめていた。
「違う」とも、「お前が犯人だ」とも……そして、「自分がやった」とも言わなかった。
「七島さん、これで終わらせましょう。この狂った裁判に……決着をつけてください」
白河の言う通りだった……気が進まないのは事実。
だけど、俺たちは……それをやるしか道はなかった。
これが、俺たちの求めていた真実ならば――この罪を改めて、裁かなければならないんだ。
◆Act1
事件の発端はマナクマによる『自分の罪が書かれた作文』だった。
マナクマの読み上げた作文に書かれていた“イノシカイチョー”もとい"猪鹿公孫樹"。その正体は“紅紅葉”の父親だったんだ。
猪鹿公孫樹――作文によると、彼は病院内の建物から転落して駐車場で遺体として見つかった。
その時の目撃者は、作文上の私、十和田、紅。
そして――猪鹿公孫樹を屋上から突き落としたのは、“怪我で入院していた井伏歩夢”だったんだ。
だから井伏の作文には、猪鹿公孫樹を殺した罪が書かれていたんだ。
井伏が知っていたことは、彼の娘が紅紅葉であったこと。
猪鹿を殺害した罪に苛まれていた井伏は、作文が全員に発表される前に先に罪を紅に告白しようと決心したんだろう。
◆Act2
夜時間中、井伏は同じく保健委員の仕事として保健室に来た紅に全てを告白したんだろう。
今までの過去のこと、そして自分の罪のことを……。
紅にとって、その罪の告白は衝撃的なものだったんだろう。
自分の肉親を殺した張本人だ……彼女はそのショックで衝動的に井伏を“赤い棚”に突き飛ばしてしまった。
その拍子で"棚の窓ガラス"も割れてしまって……井伏は頭や首から流血してしまったんだろう。
井伏を突き飛ばした紅はますます動揺してしまい、彼を置いてそのまま逃げ出してしまったんだ。
その時点では、井伏は生きていたんだ。
だけど、彼は2階に向かった後、“2階の廊下”で絶命してしまった……
◆Act3
部屋に帰った紅だが、その後、部屋の扉の前にあるものを見つけた。
それは、紅に対する"脅迫状"だったんだ。
「紅は井伏を殺した犯人だ。2階で井伏は絶命した」……そんな趣旨が書かれたメモを見て慌てて紅は2階へと向かった。
そこで、たしかに井伏は"2階の廊下"で亡くなっていたそうだ。
そこで廊下にいた井伏の遺体を、紅はまず彼の手足を保健室から持ってきた“テーピング包帯”で固定した。
井伏のいつも持ち歩いていた“黒いボストンバッグ”。
そして彼が預かっていた十和田の“手品用の黒い布”を使って、ロッカールームまで引きずって行ったんだ。
そのまま体ごと運ぶのは衣服や手にも血がついてしまうからな。
紅はロッカールームには着いたけど、ある人物が先に居座っていた。
掃除をするために、ロッカールームで道具を取り出そうとしていた"白河"だった。
口封じのために、紅は気付かれないように背後から白河を殴って気絶させたんだろう。
そして、紅は“白河の電子生徒手帳”を使った。
"第1ロッカー室"に、彼と井伏のボストンバッグを閉じ込めたんだ。
気絶した白河も、彼自身の"電子生徒手帳"を使って"第2ロッカー室"のロッカーに閉じ込めて、紅は一旦、部屋に戻った……。
"黒い布"は簡単に水で濡らして、朝時間すぐの時間を狙ってランドリーの乾燥機に入れたんだろう。
そして午前8時。大豊にも脅迫状が届いていたんだ。
大豊も紅の部屋に行き、彼女の“保健室の鍵”を盗んで保健室を荒らしたんだ。
ここでいかにも殺人があったと知らしめる伏線にもなりうるだろうな。
◆Act4
ここまでなら、紅が犯人としか思えないだろうな。
でも問題は空白の時間……"井伏が二階に向かった後"のことなんだ。
保健室を出た井伏は自らの足でプールに向かったんだ。
きっと彼は白河と取りつけた“プールの約束”を思い出していたのかもしれない。
複数の人を呼んでいたらしいプールの約束だった。でも……そのプールにいたのは一人だけ。
それが今回の"真犯人"だった。
犯人は井伏の不意をついて、彼が持っていた“胃腸薬の瓶”を奪い取った。
あの時の井伏はケガをしていたから、彼から奪い取るのはきっと容易だろう。
その胃腸薬が入った薬瓶で、犯人は井伏の頭を殴りつけたんだ。
……そして、今度こそ井伏は絶命した。
その際に“オレンジ色のガラス”が散らばって犯人はそれを片づけたが、少しだけ井伏の身体に残ってしまったんだろうな。
流れた血はプールだから水や科学室の薬品を使えば洗い流せるだろう。
犯人は井伏を廊下に運んだ後、ロッカールームに“割れたオレンジ色のガラス”を保管した。
きっと犯人は狡猾だったんだろうな。
自分が疑われるのを恐れて、“井伏の電子生徒手帳”を利用してロッカーを閉めたんだ。
さらに紅や大豊にも“タイプライター”を使って脅迫状を送りつけたんだ。
彼らが動くことによって事件現場を攪乱したのも、今回の犯人が行ったことだろう。
そして、なおかつ、犯人は井伏の電子生徒手帳を自分で持っていたくなかったんだろう。
彼の電子生徒手帳を、自室やロッカー以外の場所に隠すことを決めたんだ。
犯人には朝から図書整理をする約束があった。だから好都合なことに隠せる場所はあったんだ。
そう、犯人が借りていた図書室の絵本……"マナとクマ"のページの隙間にな。
様々な事象と罪、それによって作り出された計算式のような事件の中でお前は逃げ切ろうとしたんだ……。
だけど、そんなお前でも計算が狂っていたようだな。
そうなんだろう、円居京太郎!
「あ……ははっ、……ははは! はははははははっ!! あっはははははははははははははははははは!!!!」
俺が言い終えた直後、突如、円居は笑い飛ばした。
好きな玩具を買ってもらって歓喜する少年そのように……。
事態を分かっていない無邪気さが醸し出されていて、心臓がぐう、と握りつぶされる感覚に陥る。
どうして。死刑宣告に近いことをやったというのに。
「円居、笑っていないで……なにか間違っているところがあれば……」
「笑って……っふはははは……いないで、だって……? はははははははははははははははっ!! いやはやくだらない! 本当に大馬鹿者めが! 間違いだらけじゃないか!! ふざけてる、本当にふざけている!!」
間違い、と聞いて俺はどきりとする。
いや、俺だけではない。萩野や紅も……まさか、俺は――?
「しかし、まあ、今回は及第点とするか」
突如、円居は笑い疲れたのか真顔になった。
及第点。その言葉の意味は――。
「とにかく合格は合格だ! おめでとう! 実験成功だぞ!」
「円居、お前……」
「お前たちならやりきれると信じていたぞ。この絡み合った糸くずを、一本の紐に戻す作業を! 拙いながらも証明を完了させたのだ! 拍手喝采ものだな!」
「意味が分からないわ……円居……あなたは、なにを言って……!」
「よかったな、紅よ。お前は犯人じゃなかったみたいだぞ。吾輩にとっては残念だがな! まあ、未練はないがね。さて、残りは最終的な実験結果を発表しようではないか!」
「ちょ、ちょっと待て円居」
「……みなさん。投票に、移りましょう」
白河が静かに俺を促した。
俺たちは手元のボタンを各々の思いを秘めながら押した……。
しばらくして、マナクマがそれらを確認し終えたのか、「ふひぃ」と満足気な表情で溜息を吐く。
『あー、長かった。さて、さてさて、投票が終わりましたよ! 投票の結果、クロとなるのは誰か! その答えは正解なのか、不正解なのかー!?』
「ああ……ところで諸君。結果を待ちながらでいいから聞いてくれないかね?」
円居は突然、マナクマの言葉の次に喋り出す。
彼に向けられた視線は軽蔑、憐憫……だけど、当の円居は相変わらず眼鏡を光らせたまま。瞳を映さないまま。
彼はポケットから、一冊のメモ帳を取り出した。
手の平に収まるサイズの年季の入ったリングノートだ。
「吾輩の所持しているメモ帳は……これなのだよ」
そう言って開いたメモ用紙は、“白地”だった。
メモ用紙と聞いて、俺は今まで見たメモに目を遠し………………
いや、待て。
「……お、おい、円居っ!?」
どういうつもりだ!?
声は絞り出すことができず、思いが錯綜する。
透明なレンズに隔てられた彼の意図を読み取れなかった。
及第点だ。
あの言葉を真に受けた、俺は。
"馬鹿な七島め!"
「もしかして……お前は、脅迫状を送っていな……!?」
俺の叫びは、けたたましいトランペットに遮られる。
手の中に残っている、脅迫文のメモ用紙は。
“全て方眼紙”だった。
正装を着飾ったマナクマが持ってきたのは、大きなルーレットだった。
マナクマが手元にある青いボタンを押すと、すぐさま、目まぐるしくルーレットが回る。
回る、回る回る、回る回る回る回る……遊園地のコーヒーカップを見ているような滑稽さだった。
その中で、ドラムロールが鼓膜を勢いよく叩く。
のろのろとルーレットが重力に従って遅くなっていく。
そして、ぴたりと矢印が指し示したのは。
Guilty!
それは円居の顔が描かれていた。
メダルがばらばらと降りそそぎ、マナクマが丸々とした手で何度も拍手をした。
二回目の悪夢以上の恐ろしい裁判は終わった。
しかし、いったい、なんのつもりだというんだ。
円居は恍惚の笑みを浮かべたまま、紙ふぶきを顔いっぱいに浴びていた。