(非)日常編 道しるべは見当たらず
「と言うわけで、ハムレットがどんな結末を迎えるかは実際に見てからのお楽しみっ」
「うわー良い引き方されちゃった! 気になるなぁ!」
「古典とか、ただトシを重ねただけの本だと思ってたけどさあ。女優さんが言うなら面白いのかなあ?」
がくり、と顎が手から滑り落ちた。
…………あ、あれ?
俺は食堂のテーブルを前にして座っていた。
懐中電灯の光が薄ぼんやりと暗闇を照らしている。
今はどうやら夜のようで……思わず懐かしいという感想が漏れた。
「あら竜ちゃん。おねむかしら?」
茶目っ気溢れた可憐な声。
お前は藤沢……なのか?
「ん? どうしたの? アタシは藤沢峰子。頭の先からつまさきまで藤沢峰子ちゃんよん?」
「あははっ、オシャレな言い方でカッコいいね!」
澄み渡るほどの爽やかな笑い声。
井伏……だよな?
「あれ? 俺、また忘れられちゃった? 井伏歩夢だよ。あはっ、もう一度よろしくね?」
「さすが。空気のなんとかくんのあだ名はダテじゃないねえ」
間延びしているが我が強い声の持ち主。
彼は十和田……か?
「なんだよ。おやつを取り上げられたおサルさんみたいな顔しやがって。十和田弥吉、まさかもう忘れたのかなあ? いやあ、さすがミドリムシ、脳がないことが取り柄なだけあるねえ?」
存在していた"彼ら"に対して不思議と違和感は湧かなかった。
ただ、そこにいる。それだけなのだから。
唐突に俺の腹もグゥゥと鳴ってしまった。
思わず腹を隠そうとするも、くすぐったい笑い声に遮られる。
「あら竜ちゃんったら。はい、チョコレート。うふふ、バレンタインじゃないけどあげちゃった」
「シーチキンもおいしいよ。そこにマーマレードをかけるとさらに絶品だから試してみてよ、あははっ!」
「どこの料理研究家かなあ?」
テーブルの上には食べ物はポテトチップス、チョコレートなどのお菓子の袋や箱。
サバやチキンなどの缶詰が並べられていた。
庶民的で御馳走とは言い難いけど、唾が湧き出るのには十分だった。
ありきたりの感情や生理現象は固まった脳を解していく。
藤沢が手を広げて、ほらほら。と促す。
「さあさ竜ちゃん。お食べなさいな。そうそう、ハムレットは、アタシの舞台でも公演しててDVDにもなっているから。宣伝になっちゃうけど、ぜひ見てちょうだい!」
「あははっもちろん! 十和田くんと七島くんも見るよね?」
「劇なんて興味なかったけど、女優さんの頼みなら、仕方ないってところかなあ」
「やったわ! アタシはオフィーリアの役で出ているの! ねっ、竜ちゃん。一緒に見ましょう!」
一緒に見よう、そして笑い合い、時には涙して。
それじゃあ時間は、場所はいつにしようか?
とにもかくにも、なにを言おうか迷う必要なんてない。
俺はただ「ああ」と力強く頷けばいいだけの話だ。
だというのに。
どうして、俺はみんなに声をかけられない?
どうして、俺は食べ物に手をつけられない?
どうして 俺は 頷けない?
「そうやって。また、ありもしない妄想に行き着くのだな。私を犯人にさせたときと同じ手口で」
……気が付けば、暗闇の中、俺は保健室のベッドに放り出されていた。
3人の影に見下ろされているが、やはり俺は動けないままだった。
なんなんだ。さっきからこれは。
「どういうことだと言いたいのだな。……まったく。自問自答ほど不毛なものはないというのに。嘆かわしい」
どうしてだ。四月一日。
「ふははは、疑問は必要ないだろう! 何故ならお前はすべてを知っているはずではないかね? こんなデタラメな光景を見ている理由も、お前自身が何者かなども、すべてだ」
知ってる、だなんて。
円居、お前はなにが言いたい。
「ちょっとー。さっさと答えなよ。……ほんっと相変わらず卑怯だよねアンタって。相変わらずうちらに言わせようとするなんてさ」
真田、そんなわけないじゃないか。
「違う」と叫びたかったが、声帯が締めつけられる。
またしても四月一日が深く溜息を吐いた。
「これが現実ではないと思っているのか? お前の空想で絵空事、すべてが取るに足らない『夢』だとでも思っているのか? だとしたら……ツマラナイ答えだ。お前は知っているはずだ。この空間がどのような意味を持つのか。そして、お前自身のすべて。お前が何者か……そして、お前自身が嘘をついている理由を」
刑事、あるいは裁判官の如く四月一日は告げる。
松明を脳みそにつきつけられたように、一瞬、視界が真っ黒に焦げ付いた。
嘘をついている?
俺は知らない。考えても思い当たるところなんて一つもない。
今まで生きてきて、やましいことも苦しいことも確かにあったけど……俺は。
……俺……は?
必死に叫ぼうとした。
だって、これは夢だ。夢なんだろう!?
だけど、言葉にならない。できなかった。
自分の思いとして反射して自分の元に返ってくる。
「だからあなたに聞いているんでしょう。竜ちゃん?」
「七島くん、俺たちは君なんだよ。君の中にいる俺たち」
「おい逃げんなよ七島くん。ちゃんと釈明してくんない?」
ちがう、ちがう。全然ちがうぞ。
俺に聞かないでくれ。俺はお前たちじゃない。俺は逃げてなんか
「嘘つき!!」
今のは誰の声だ?
そんなことを考える暇もなく、矢継に言葉を投げつけられる。
「あなたっていつもそうね!? ねえ素敵な文字を書いてちょうだいよ、あなたはアタシのために書を書いてくれるって言ったじゃない。約束を破るなんて最低よ!」
「そんなことをしてまで自分にウソをつくなどふざけている! 正直に正しいことだけを言うんだ! 私はお前が認めるまで認めない! 認めるものか!」
「逃げたらダメだよ。これ以上逃げたら俺と一緒で死んじゃうよ? 罪は裁かれなきゃいけないんだ。さあ笑って。君は償いを続けるんだ」
「このまますべてを終わらせるつもりか。時間はかかってもいいから真実は見つけろと言ったはずだ。お前は相変わらず甘い認識でいるのだね?」
「また、ボウリングのピンみたいに立っているつもりなんだねえ? いつまでそんな人生続けてんの? 君なんかが、そんなちっぽけな正義に生きてても意味ないだろ、身の程弁えろよ」
「アンタ、全然わかってないっ! うちらがなんでこんなことになっているのか理解してないでしょ!? 卑怯モノ!! どーしてわかってくれないんだよ、アンタは!!」
音の洪水が迫り渦巻いていく。
見たこともある光景も、ない光景も。
空想が、夢が一気に押し寄せてきた。
「ち、ちがう、俺はなにも……っ!」
ようやく言葉を発せた……が、それを言い切る前に。
キーコーンカーンコーン……
『午後10時になりました。今から夜時間となります。一定の部屋にロックがかけられますので、すみやかにお部屋にお戻りください。では、よりよい青春のためにも! おやすみなさい』
俺は自室の机に突っ伏していた。
ようやく現実に戻ったと気づかされた。
さっきのアナウンス、そして机の上の泡立った涎の跡からして現実だ。
十和田と真田の事件が終わったのが深夜……それから朝まで起きてたんだ。
しかし、睡魔に勝てずに昼の一時に転寝をしてしまい、気がついたら夜時間というわけか。
ますます時間の感覚が狂っていくばかりだ。
「…………はぁ」
……歪な夢を見てしまったものだ。
夢の中で逢いましょうとは古来からの思い言葉ではあるが、こんな再会はあんまりだ。
裁判で疲れていたせいで、あんなのを見てしまったのか? それもあるかもしれないが……それだけではないはずだ。
それは、たぶん『あの話』をされたせいだ。
「“あの話”か…………」
裁判後、錦織に連れられた脱衣所で語られた話。
それは、深夜にまで遡る。
Chapter4 わたしの、最高の絶望
「どういうことか詳しく説明してもらおうかしら……マナミ。ガンマン。それに魔法少女も……嘘を吐いたなら、一生、本の紙で指を切る呪いをかけてやるわよ……」
『イヤァ! 地味にサイアクな呪いでちゅ!?』
錦織は鋭い気迫で角と黒生寺を凄む。
しかし、このような形相になるのも無理はない。
「佐藤チャーミング……元は超高校級の怪盗と呼ばれた人間……現在は足を洗っているそうだが、今でも非人間的な身のこなしや頭の回転は健在……俺の担任だ……」
俺たちのクラスはバラバラだった。
だから、黒生寺の担任が元怪盗だったとしても、おかしいことではないが……。
『ええっと。チャーミング先生は、大手グループのAIの試作品だったあちきを盗んで、そして新たにプログラミングし直してくれた素敵な先生でもあり怪盗でもあり紳士なんでちゅ! 経歴は知りまちぇん……というか、本名も不明でちゅ……』
「い、いつも言ってるけど怪盗に紳士もなにもないわよ……結局は泥棒じゃない……!! ちなみに私の担任は元超高校級の植物学者で磯野家の婿養子に似た顔をしてたわね……」
経歴不明というのが気になるけど……
怪盗だから秘密は隠しているということなのか?
「じゃあ、角さんはどうして元超高校級の怪盗のことを知っているの?」
「当然でございます! チャーミング先生は、芙蓉たちの担任の先生でございますから!」
さて、問題はここだ。
「え、えーと? 2人とも同じクラスだったのかい?」
「ンなわけあるか……こんなアマと……」
「芙蓉は一時も、忘れもしないのでございます。黒生寺さま……いいえ! みなさまも! 芙蓉たちは共に切磋琢磨する仲だったではございませんか!」
いや、切磋琢磨と言われても。
黒生寺は否定もせずに、罰が悪そうな顔だ。
不機嫌とも捉えられそうな眉間の皺だが……戸惑いにも見えなくはない。
状況を見かねたのか、紅が「ちょっと」とアルトの一番低い音域まで落として呟く。
「……これって冗談かなにかなの? だって私たちは」
「でも、これという確信は今のところ誰も持っていないよ。改めて、確認してみようよ」
紅は吐き気を抑えるように、口に手をあてていた。
そして、天馬は軽く目を伏せながら静かに俺たちを見据えた。
「“人類史に残る例の事件”のこと」
俺たちは知っている。
この学園で起こってしまった“事件”のことを。
ぴり、と脱衣所の雰囲気が痺れたように張りつめる。
「……そうね……事の発端は私たちが生まれる前に起こった、“希望ヶ峰学園の予備学科による学生運動”……本科との待遇差、生徒会の全滅によって、学園に不信感を抱いた生徒たちによって“パレード”と呼ばれるデモ活動が勃発した……そして巨悪の絶望が絡みあった結果……学園の絶望はあっという間に膨らみ破裂した。学園から放たれた絶望たちは日本、さらに世界へと病のごとく絶望は広がり、破滅をもたらした……ここまでは、居眠りせずに授業を受けていればわかるわよね……?」
錦織は淀みなく語った。
頷く者。強張った者。反応がない者。
それぞれは異なるが、すべて肯定のように思えた。
「し、知ってはいるけど……あの授業、好きじゃなかったのだ……だって人が死んじゃうとか、絶望がなんとかなんて……むずかしくて、こわくて、考えたくもないのだ……!」
「たしかに、見ているだけで胸が張り裂けそうだったよね。だけど、そうでもしないと私たちは本当に知ることができなかった。喉元過ぎれば熱さも忘れるように風化されていたかもしれない。そして、絶望を知らないままだったら、同じことが起こった時に対処できなかったはずだよ」
今にも泣きそうな大豊に対して、天馬は冷静に胸に手をあてて言った。
俺も何度も授業で目を背けたくなった。
生徒たちにそんなものを見せるなという抗議も、一部の職員からあったとは聞いたけど……
もしも、なにも知らないまま、マナクマと会ったら?
マナクマを殴ろうとした萩野を止める人はいなかったのではないか?
最悪の想像を思い描いてしまい、こめかみに冷汗が伝った。
「巨悪の絶望が猛威をふるい、多くの人々の命が脅かされた。それが“人類史上最大最悪の絶望的事件”だったと私たちは習ってきたわ」
「事件なんて生ぬるいものじゃねえ……あれは戦争……いいや災害だ……」
「ああ。そして、その事件の中で“超高校級の絶望”によって行われたのが“コロシアイ学園生活”だったんだよな?」
俺の言葉に、錦織は噛みしめるようにゆっくりと頷く。
「希望ヶ峰学園の生徒たちを、学園内、あるいはバーチャル世界で監禁。逃れられない閉鎖空間でコロシアイを起こさせた……監禁された学園の生徒たちは記憶を奪われていて、お互いが初対面だと思い込んでいるけど、実際は共に教室で過ごした仲間たち……ここまで言えば、さすがに理解できるわよね……?」
後は自分たちの中で答えが出ているだろう? そんな視線で促される。
彼女の思惑通りだった。
まさか、俺たちは…………。
「"コロシアイ学園生活"で集められた生徒さまたちの共通点。それは"全員が同じクラスメイト"でございましたね。記憶喪失、あるいは記憶を奪われてしまったせいで悲劇、絶望が生まれてしまった……ええ。そうでございます。今のみなさまとまったく同じでございます」
結論を出したのは、場違いともいえる愛らしい声。
生徒達は、クラスメイト。
全員記憶を奪われていた。
ここまでは俺でも出せた結論だった。
そして……「みなさまと同じ」
…………まただ。どうして。
そんなのウソだ、ありえない。
拒絶したいのに、それを“なにか”が違うのではないかと必死に止めている。
俺だけでなく、角以外のみんなが混乱、動揺しているのは火を見るより明らかだった。
「ウーララ!? 冗談だよね?! ぼくたちは同じ教室で、同じ机を並べてたのかい!?」
「たしかに昔と今回の共通点は多いけれど……いくらなんでも信じられないわ。だって前例と違って、私たちは“別々のクラスで希望ヶ峰学園を過ごしてきた記憶”があるわ。記憶を消すならまだしも改竄だなんて……できるとは思えない」
「で、でも! 今はハイテクなのだっ! そんなこと、ちゃちゃっとできちゃうんじゃないの!?」
「ランナーの言う通りよ……ま、まあ、ちゃちゃっとは無理でしょうけど……記憶操作はなんども実験にも引き合いにされていたわよ。そして実際にできたという例もあるけど……だけど、そう簡単にできるものでもないし、仮に記憶操作だとしても、ここまで整合性の持った記憶を持てるものかしら……」
……だけど。
「で、でもさ。もしかしたら本当に」
「書道家、混乱するのはわかるけど落ち着きなさい……結論を出すにはまだ早い……情報が不確かすぎるわ……」
真田から託された手紙のことを伝えようとするも、錦織に止められてしまった。
彼女が語っていたシーンだけじゃ証明はできないのか?
たとえ、手紙原本があっても……それで俺たちは納得できるのか?
実際、俺たちは、各々が暮らした学園生活の記憶を持っていることは確かなのだから。
……そう……確かなこと……だよ、な?
「…………あのよ。堂々巡りしてるところワリィが、つまりこういうことだよな」
議論に割って入ってきたのは萩野だった。
どこかダルそうに壁によりかかって腕組をしている。
空気を打破するための言葉だろうという期待の目が紅から飛んだが……。
「なんにせよ全部辺見が悪いってことでいいんだよな」
「…………え? 萩野?」
返ってきたのは見当違いの言葉。
冗談でも、その場しのぎでもない。
彼の言葉も、面立ちも奇妙すぎるほど本気で、奇怪なほどに真剣だった。
「ふ、ふざけないで……私がいくら蚊の鳴くような声って陰口を言われ続けてきたとはいえ、全然聞いてなかったのね……!?」
「いや聞いてた。だから辺見のせいなんだろ?」
「こ、この……ッ! 恋人がいないからって耳掃除ぐらいはしなさいよ……!?」
憤慨の方向性がおかしい錦織に対しても、萩野は前髪を掻きあげて苛立ちを吐露したままだ。
なんだ? 一体どうしたんだ?
裁判後の辺見への暴力だってそうだ。
たしかに腹立たしいのは分かるが……それでも、頭を靴で踏むなんて萩野らしくない。
俺が今までに見たことない種類の萩野の怒り。
いいや、感情が目の前にあった。
突如、萩野はのれんの方向へとズカズカと歩みだす。
「お、おいっ! どこ行くんだよ!?」
「決まってんだろ。辺見を殺す」
「なっ!? お、おい萩野、なんで」
「そうすれば丸くおさまんだろ。で、アイツはどこだ」
『ヘンミ? サケのキリミとはどう違うんすかね?』
飛び出した殺意に驚く前に能天気な声。
銭湯の出口に立っていたのはマナクマ。
……そして。
「帰らせてもらえませんか!? 今、最悪な殺害予告を聞いてしまいました!」
「っ!? なっ、なんでいるのだっ!」
大豊は黒生寺の後ろに勢いよく隠れた。
ランティーユが、「ぼく! ぼくの後ろ!」とジェスチャーしているが大豊には届いてないようだ。
ロープで手首を手錠のように前に縛られている辺見は右往左往していた。
『こいつ縛られたまま保健室にいたから、ぷぎゃーしてたんだよね。そしたら、笑ってもいいし繋がれたままでいいから歩きたいって言ってきてさ。そんなわけでエスとエムなプレ……んがぐっ! ではなくドナドナ仕様でお散歩してやっていたのです』
「萩野さん、あなたは非道ですね……私を縛ったまま保健室に放置するなんて! 餓死ルートに行かせるつもりだったんですか!? ……でも、これでも私、徹夜とか一夜漬けはどんとこいな体質でして」
「おめーなんで生きてやがる。ゴミがよ」
萩野は重低音で吐き捨てる。
だが、辺見はにっこりと唇を緩ませる。
一見すれば、耽美的な絵本から飛び出してきた美青年だというのに。
実態は、人間という化けの皮を被った悪魔だ。
「ゴミって……自己紹介されていますか? ああ、いえ、冗談です! 生きている理由ですか? もちろん死にたくないからです。みなさんだって、そうでしょう?」
「だからって、あなたの生き方は間違っていると思うけど」
「あらら。殺人未遂犯の紅さんには言われるとは。それではあなたの生き方は正しいと?」
「どっちもどっち。私もあなたも同類」
「え!? 同類ですか! いやはや困りましたね……私はあなたと違いますよ。だって血の繋がった肉親に間違った情欲は」
「いい加減にしろ! 辺見!」
思わず、俺も声を荒げていた。
だけどカエルの面に水なのか。辺見は再び口を開いている。
「さて、質問を質問で返すのはいけないと先生に習っておりますが、それは棚に置きましょう。あなた、それは私に言うべき言葉ではないでしょう?」
「……っせえな、ごちゃごちゃと……!! ンなことどうだっていいだろうがよ。だから辺見。てめえは何人殺した?」
「だから私は人なんて殺したことありませんよ! でも、あなたは……どうでしょうか?」
「ンだよ、俺のことなんかは」
「いいえ。萩野さんではありませんよ」
気がつけば、毒薬の方向は萩野からすり替わり。
「あなたですよ、黒生寺さん」
眠気眼の黒生寺へと標的が移っていた。
百戦錬磨のガンマンにも、こいつは毒を注ごうとしているのか。
「あなたは、何人、人間を殺されましたか?」
「あ……? 急になんだ……覚えてねえ……」
「でしょうね。あなたはそのぐらいに多くの人を殺してきた。数を忘れてしまうほどにね。今まで、このコロシアイ生活で犯人となってしまった彼らよりも、多くの人間を殺されていらっしゃる」
一瞬だけ、黒生寺の眉間のしわがぴくりと動いたような気がした
「……俺に倫理観でも説くつもりか……無駄だ……貴様らが殺し、殺されようともどうだっていい……俺は生きてる……それだけの話だ……」
「でもね、人という字は、棒が支え合うものなんです。殺人犯は人に支えられず、一という文字になるんです。だからあなたはいつまでもひとりぼっち。あなたは誰にも愛されずに、孤独に、一人を貫き、人類が絶滅した街で、一人で野垂れ死ぬ覚悟があると? もしも仮に、みなさんが私を許さなくてもですよ! 黒生寺さんは? みなさんは黒生寺さんを仲間だとお認めになるのですか?」
「あのな……ムッシュ黒生寺のことは、今関係ないだろう! だいたい、お前と違って事件を引っ掻き回してないじゃないか?!」
ランティーユが真っ当な怒号を飛ばすも、辺見は目を瞑って肩を竦める。
「今のことなど不確定事項でしょう? ガンマンという才能である以上、彼は人殺しには違いませんよ。傷をつけるというのはおぞましい悪事です! 手とか足とか、心臓とか……まだ短い人生だというのに、彼は多くの人々に傷をつけて葬ってきた。今のコロシアイ生活では、まだ罪を重ねてはおりませんが、時間の問題では? 四月一日さん、円居さん、真田さんと同じ……命を奪う人間。条例違反の悪を、あなたたちは仲間と呼べるのですか?」
黒生寺は腕を組んだままだった。
俺たちの視線は気にしていないようだったが……辺見の声は届いているようだった。
「あなたは先程、生きていると言いましたね。だから、私は、あなたに問いますね。ねえ黒生寺さん。どうして、あなたは生きているんですか?」
黒生寺の顔色は……一目瞭然だった
『分からない』という『恐れ』を刻みつけていたのだ。
彼にとって生理現象に近いものに名前をつけられ、彼は……逃げるように足裏を擦っていた。
「そうでございますね。かつて黒生寺さまは殺人を犯しておりました」
俺の肩は痙攣を起こしたように震えた。
殺人を認めた声に驚いたのは俺や、天馬、錦織たちだけじゃない。
あの黒生寺でさえ、突然鼻先に銃弾を掠めたような顔で、その声の主を凝視した。
それは言うまでもなく、ステッキを構え柔和な笑みを浮かべる角だった。
「おやおや! お認めになるんですね! 角さん!」
「さようでございます。タイムマシンはまだ完成しておりませんので、過去を変えられないのだございます。黒生寺さまが殺しをしていたことは、本当のことでございます」
「ああ、あんなにもお優しい角さんでも心の底ではそう思っていらっしゃったんですね。黒生寺さん、胸は貸せませんがわんわんお泣きになっても構いま……ひっ!? ちょ、銃おろしてください! どうどうっ!!」
キレる言動もなく、黒生寺は銃口を辺見に向けていた。
いつものように発砲という意志はあまり見られない威嚇ではあったが。
一方の、先ほどから突拍子のないことを言っている角。
彼女はしっかりと二本足で立ち、桜の花弁のような柔らかな顔立ちだった。
「いいえ、黒生寺さまはそう簡単にお泣きになる人間ではございません。それに黒生寺さまは悪ではございません。許されない罪を背負いながら、誰よりも強く、未来に生きる力を持つ方でございますから」
それでいて、桜の大木のように地に足が根付いた声。
辺見も少し意表を突かれたように目を見開いたが、くす、と唇を歪曲させる。
「は、はは、は……でも、黒生寺さんは殺人者だとあなたは認めている。つまり汚物同然だと心の片隅では思っていらっしゃる! 角さんだけに……なんちゃって」
「そんなことを大きな声で言わなくても聞こえるのでございます。黒生寺さまは、黒生寺さま自身が、完全に許されない人間であるということは知っているのでございます。だからこそ、黒生寺さまは汚い人間ではございません」
「渾身のジョークはスルーですか……ええと、まったくもって言っている意味が分かりませんね! やはり、頭をぶつけたせいでしょうかね? 可哀想な角さん! 真田さんのせいでこんなになってしまって」
辺見は縛られた手で顔を隠してめそめそと泣き真似をする。
手の隙間から見える目玉のなんと美しく濁っていることか。
彼の瞳は俺たちと違って、作り物のように思えた。
「んだぁぁぁぁぁッ!!! くそがッ!!」
そして、次に反響したのは雄叫びだった。
「ちょ、ちょっと、いきなりなんですか!? 鼓膜が割れたらどうしてくれるんですか!」
「いい加減にしろっ!! おめーのせいで全部っ、全部!! あいつらみんな皆殺されちまったじゃーねか! こんなことになってるっつーのに、なにが楽しいんだよおめーはよっ!」
「なんて品のない…………ああ。しかし」
辺見はもったいぶったように言葉を切った。
なにかを思い浮かべる仕草……いいや、パズルを解く子供のような顔立ちが一瞬見えた。
「ええ。そうですね、構いませんよ。……そのように言うならばどうぞ。私に一発いかがですか?」
止める暇もなかった。
萩野は一直線に踏み込み拳を振り上げていた。
だが、辺見は一歩下がって。
『およ?』
「あっ……!?」
アイツの声と、俺の声が重なる。
辺見はマナクマの後ろに隠れていた
まずい、と思った矢先には。
萩野の拳は一直線に、マナクマの鼻先に向かって――
『あーあ。あーあ』
マナクマは呆れていた。
『あーあ、くたばってやんの、だっさー!』
マナクマは嗤っていた。
なにも欠けた部分がない顔で。
あの鋭利な拳が、マナクマをへこませることはなかった。
拳が辿り着く鼻先の前で、萩野の体はくの字に折れて、そのままどさりと崩れ落ちていた。
……俺は。俺たちはなにが起こったのか分からなかったが、ありのままに今、起こっていることを見るとするなら。
「萩野さまは、少しお休みなさったほうが身のためでございますよ」
倒れた萩野の隣に立っていたのは、手刀を構えた角だった。
「お、おい!? す……萩野っ?! しっかりしろ、萩野っ!」
角に声をかけようとしたが、咄嗟に動いたのは俺の足で倒れた萩野に駆け寄る。
萩野は白目を剥いて気絶しているようだった。
『あー、びっくりした。おんどりゃ学園長を盾にするなんて、良い度胸してるじゃねーか!』
「私は一歩後ろに下がっただけにすぎません。あなたを殴ろうとした下劣なレッドカード、違反者は萩野さんですから、私は悪くないでしょう?」
『ふんだ。連れてきてやったってのに、ああ言えばこう言うプレゼントフォーユーかよ。だいたいオマエラ、そろそろ鶏が絞殺されたときと同じ声を出す時間じゃねーか! 睡眠はアレやコレやドレがデカくなるためには必要なんだぞ! とっととねんねんコロリしやがれってんだい!!』
ツメを剥き出しにしながら、マナクマはぴょいんと跡形もなく消えていった。
時計を見ると6時45分。チャイムが鳴る頃合いだった。
裁判場を出たのが、深夜四時近くだとすると、疲労のせいもあって、相当、眠気も限界にきている……はずだが。
脱衣所の蛍光灯に当たって、瞬き一つもできないまま、萩野を見つめていた。
角は、すぐにくるりと華麗に辺見に向き直った。
「お話が途中でございましたね。……しかし、白河さまと、このようなお話をするのは初めてでございましょうか? 黒生寺さまの殺人行為は、生きるためでもあり、そして敵と対峙してきたが故でございます。それは穢れではございません」
「生きるため? 敵と対峙? は、はは……でも結局は殺していますよね?」
「黒生寺さまが、いま生きていらっしゃるのは、この学園生活で殺されず、人を殺さないでいたからでございます。犯人、そして真実を見つけて、生き抜いているからでございます」
「でも、どうするつもりですか? この学園生活以前に彼は殺しをしていました! それは非常に悩ましく罪深いことでしょうね!」
「ええ。しかし罪は消えずとも、更生はできるのでございますよ」
「つまり黒生寺さんが善人になれると? どうですか、黒生寺さん。今のご意見は」
「なわけあるか……馬鹿馬鹿しい……」
身も蓋もない黒生寺の言葉。
角の言葉を聞くのに没頭して、黒生寺の顔は見れなかったが……彼はどんな表情をしていたんだろう?
「もちろん善人にはなれないのでございます。芙蓉も、黒生寺さまも、白河さまも、みなさまも。完璧な善人にはなれないのでございます」
「おや、私もですか? そんなぁ……では、善人にも悪人にもなれないなら、なにになるというんですか?」
「それは……」
ここで一息を吐いた。
アニメなら一旦画面を引く場面だろう。
そして角は自信に溢れた顔立ちで、祈るようにステッキを構えた。
「愛の戦士でございます」
……あいのせんし。
「命あるものは生まれたときから、必ず愛の心を持っているのでございます。それは、どんなことがあっても枯れることはございません。道に咲くお花であったり、空を飛ぶ小鳥さまであったり。家族、お友達、はたまた自分自身をみんな自由に愛することができるのでございます。……たしかに、罪や悪は、芙蓉たちの体や心を縛りつける力がございましょう。しかし愛だけは、愛する心だけは命ある限り……いいえ、命の灯火が消えたとて、愛は永久に生き続けるのでございます! だから、愛はどんなものにも打ち勝ち、乗り越えることができる、たったひとつの希望だと芙蓉は信じているのでございます! だからこそ! 世界中のどんな方でも必ず愛の戦士になる資格は存在している! それこそ芙蓉たちに心があり、この心臓が胸を刻む限り! なのでございます!!」
…………あの。なんで、そうなるんだ。角。
黒生寺も顔を険しくさせてるし、辺見も「はあ」とスイッチオフ状態じゃないか。
「だから、みなさまはこれ以上、絶望に落ちることはないのでございます。こうして再び出会えたご縁。そして切っても切れなかった絆がある限り! 芙蓉たちは必ずや道を切り開けるのでございます!」
また、角は「再び」という言葉を使った。
彼女の可憐な口調も、凛々しい顔だちもいつもの彼女のものなのに。
それだというのに…………ああ、もう、限界だ。
どうすればいいんだ? 俺はなにを信じればいいんだよ?
思わず、頭を右手で抑えてしまっていた。
「…………あ、あら? みなさま、どうしてそんな苦しいお顔をなさっているのでございますか?」
「魔法少女……しばらく口を閉じてなさい……」
「は、はいでございます! では芙蓉精一杯、お口チャックをして」
「だっ、だから、口閉じろってんのよ……!!」
キーンコーンカーンコーン……
『オマエラ、おはようございます。朝です。7時になりました。起床時間ですよー! 今日もはりきって青春をエンジョイしちゃいましょう!』
錦織の言葉と同時にチャイムが鳴り響いた。
「チッ……朝までオールとは最悪だ……」
「黒生寺さま! あらためて、おひさしぶりでございます。さあ、ご一緒に世界をやさしさで包むために、また共に戦いましょうでございましょう!」
「包むのはギョウザだけで十分だ……もう寝る……」
「ああっ黒生寺さまお待ちください! それなら、芙蓉がララバイを歌ってさしあげるのでございます~~!」
荒っぽく足を踏み鳴らした黒生寺の後を、軽やかに角がついて去って行ってしまった。
っていうか、結局彼らになにも聞けてないじゃないか。
結局、悩みの種を植え付けられただけ……彼らに罪はないと言いたいが恨めしさが募ってしまう。
「現地解散ですか? それでは私も帰りましょう。ごきげんよう、みなさん!」
辺見が手を縛られたまま、足を踏み出そうとするもロープを引っ張られる。
そのまま「あだっ」とマヌケな声で尻餅をつく。
縄先をしっかりと握りしめているのは、少し伏し目がちに睨みつけているランティーユだった。
「お前は、ぼくの部屋で見張る。これでいいだろ?」
「え? ランティーユ?」
「大丈夫、変なことはしないよ! ぼくはマドモアゼルにしか興味がないから! だいたい、殺人方法なんて鑑定する価値もないからね」
「ランティーユさんですか…………まあ、いいでしょう。他の人と違って、あなたは痛めつける真似はしないでしょうし」
「ウィ。そうだといいね?」
「ひえっ」という悲鳴をあげた辺見だったが、ランティーユに縛られた縄を引っ張られて連れ去られていく。
有無を言わさずに、あのまま連れていかれたが……
いや、だけど。今は辺見やランティーユよりも……。
「……ってぇ……おいなにしやがんだよ」
「『なにしやがんだ』は、こっちの台詞よ」
頭を抑えながら起きあがった萩野に対して、紅は厳しい口調で咎める。
彼は意味が分からないといった様子でオーバーに首を傾げる。
そこには反省も戸惑いの色も見えなかった。
「……ったく俺のことを殴ったのは角だな。黒生寺は打撃技がヘタだし、ンなことしねーもんな……ふざけてんのかよ」
「萩野くんどうして」
「ボクサーッ!! アンタが、ふざけんじゃないわよっ!?」
天馬の疑問を前に、罵声を浴びせたのは錦織だった。
あまりの突然の剣幕に、俺が思わず目を見開いてしまった。
「あんだよ急に。なんでふざけなきゃなんねーんだよ。俺がなにか悪いことを言ったのか?」
「そういう危険なことはするなって言いたいのよ……っ!! ただでさえ、人も少なくなっているのにバカじゃないの……!?」
「そーだよ。俺はバカだ。それのなにが悪い?」
「バ……ッ!? お、恐ろしいこと……バカの開き直りほど目も当てられないものはないわね……!」
「悪かったな。おめーと違って俺はバカでアホでクズだって知らなかったのかよおい!?」
「ちょ、ちょっと、なあ、萩野?」
落ち着けと言わんばかりに、俺は萩野と錦織の間に入って手で静止するポーズを取る。
人格がすり替わったのかと疑うレベルで、あまりに萩野じゃなさすぎる。
真田の裁判、辺見のせいで気が触れたのだろうか?
それともストレスが溜まっているのだろうか?
とにかく、彼の興奮状態を少しでも落ち着かせないと。
「な、なあ、萩野。疲れてるんだよな? 辺見がムカつくのは俺だって同じだ……それに、お前は自分のことバカとか言ってたけど、ちがう。そんな人間じゃない。たしかにちょっと乱暴なところはあるけどさ、でも誰よりも面倒見がよくて体も心も強い……俺なんかよりもずっと。……それは親友の俺が保証するよ。だからクズなんて言うな。そんなお前らしくないこと」
俺はぎこちなく笑みを浮かべた。
萩野は俺のことを食い入るように凝視した。
穴が空くのかと錯覚を覚えるほど、俺は見つめられる。
萩野はふぅ……と深く、深く。感情を息に乗せて吐露する。
「おめー、よく言えるな。そんな思ってもいないウソ」
「……は?」
なんて、言った?
背筋がぴんと伸び、その背骨がずきりと抓られたように痛む。
萩野に、俺に、周囲の視線が一気に飛んだ。
声帯が、ぶるぶると氷点下に放り出されたように震え始める。
「な、なに、言ってんだよ……全部本当のことだ」
「どうだか。今までだって、今だって、俺のことをめんどくさいと思ってる。乱暴モノのバカだと笑っている。惨めだと見下してる。尊敬しているフリをしている」
「なっ!? なに言って……そんなわけな」
「そんなわけあるだろうがよっ!?」
俺の言葉の前に怒号が飛んだ。
がつん、と心臓がパンチを受けたように一瞬、不自然なリズムを打ち付ける。
萩野、待ってくれ。
だが、振り払われるように、萩野は腕を組んでそっぽを向いた。
「結局、俺の顔色見てるだけだよな。じゃあお前、それで? ケンカと暴力しか取り柄がないクズのなにに憧れてる? 節介焼きで、ただ最初に生まれただけでアニキと呼ばれるようになった男が頼りがいがあると思ってる? 負けを誰よりも恐れている臆病者のどこが強いんだよ? おい、言ってみろ七島。言えよ」
「萩野、くん……?」
天馬も呆然と呟き、代わりに俺は言葉を失っていた。
萩野は、ぐしゃりと笑う。
だが、今にも解れそうな泣き顔にも似ていた。
「ほら言えないな。俺は、誰よりもクズなんだよ。なのに、おめーは、いつも……いつもだ。それでもこんな俺のことを尊敬して、萩野、萩野、って俺がバカやっても庇いやがって……おめーはおかしいよ七島。ほんっとになんにもわかってないんだなお前」
萩野、どうしてだよ。
大きな手のひらで顔を隠している萩野は、俺の知っている萩野とどんどん乖離していく。
「だから俺は……俺のせいでもあり、おめーのせいでこんなヤツになってんだよ……おめーがいるから、俺は……俺は……っ!!」
萩野は握り拳をがちがちと震えさせて腕を上げる。
だけど、俺の頬に拳は当たらなかった。
刹那、ばつん、というなにかが割れるような音が響き渡る。
でも、俺の頬自体には。痛みもなかった。
「萩野っ!!」
反射的だった。
俺は萩野の腕をずるりと掴んでいた……が。
「え……う、うわあぁぁあっ!!?」
「ちょ、ちょっとアンタ、一体、なにしたって……えっ……や、やだっ……いやぁぁぁっ!?」
大豊は悲鳴をあげて、錦織も遅れて状況を判別したと同時に両手で口を抑えた。
天馬も紅も俺たちに駆け寄ろうとしたが、呪いを唱えられたように固まる。
萩野の右頬は、人を恐慌状態にさせるほど真っ赤に腫れ上がっていた。
頬が壊れるという表現はおかしいか、いやそれが似合うほどに彼の顔立ちは歪んでいた。
しかも、口からはだらりと血が流れていた。
王者の拳が、王者の頬を叩く。まるで矛盾の光景。
ツバと一緒に血を吐き出したが、顎を伝った血液は拭われることはなかった。
「七、島」
萩野は挫かれたように膝をついていた。
ぽつりと、萩野は力なく呟いた。
「お前、また……俺の、ために……なあ、どうして……お前は、俺に、強くあってほしいって願うんだ。頼りがいのある良い兄貴分という男を演じさせようとするんだ。なんで俺は、俺じゃなくなって……いや、俺は……誰だ……、なん、なんだ……オ、レは……な、ン、ダ……」
鮮烈な光を浴びて、頂点に立つ奇跡の王者。
そんな男が、今、首を垂れながら、のろのろと俺の手を取る。
それは路地で恵みを与えてほしいと願い縋る孤児のようだった。
「七島……どうしてお前は……こんな、こんなことになるなら……」
「俺は、お前に、会わなければ…………」
「……………え?」
それがどういう意味かと問う前に、萩野は真横に床へと倒れた。
肩を冗談で叩くことはあったのに。
リングの上でも一度も屈することのなかった体が。
今、俺の前で、崩れ落ちていた。
「……っ萩野!?」
慌てて俺もしゃがみ抱き起こした。
呼びかけに答えず、手首を取ってみたが……やたらと熱い。
「お前……熱、なのか?」
一旦、冷静さを取り戻したが、やはり萩野からはなにも返ってこない。
その無言は、俺の心臓をゆっくりと押し潰していく。
「お、おい……萩野っ? し、しっかりしろっ! と、というか、い、いまのなんだ? 冗談なんだろ? 疲れてるだけだよな!? あれって本音とかそういうんじゃないよな!? なあ萩野!? そうなんだろ!?」
慌てて肩を揺さぶるも、それでも萩野は答えてくれなかった。
魂が抜けたように、体がぐらぐらと揺れるだけだ。
「萩野っ!! おいっなにか言えって……!?」
「七島くんっ!」
今度は俺が手首を掴まれる番だった。
天馬のひんやりとした手のひらで、少しだけ脳に酸素が行きわたる。
「……っ! て、天馬……」
「七島くん、心配なのは私も一緒。……でも落ち着いて。萩野くんのためにも」
「そうよ、あなたは一旦冷静になって。……ねえ、萩野。大丈夫なのっ。しっかりしなさい、萩野っ!」
紅が俺に代わって呼びかけるが、なんにも返答がない。
呻き声も、溜息も聞こえなかった。
「さ、さっきのって精神恐慌? そ、それとも自傷……?」
「どっ、どうしよう……! 萩野っちも死んじゃったらっあたし、あ、あたし……!!」
「大丈夫よ、落ち着いて。彼は体が強いもの。そうそう死なないわ」
紅は微笑して、大豊のしゃくりあげる肩に手を置いた。
そして、彼女は天馬に対して目くばせをした。ハッとして天馬は、大豊と錦織の隣に寄った。
彼女たちの介抱は、天馬に任せるって意味だろうか。
そして、紅は俺に淋しそうな視線を向けた。
「きっと、あの言葉も熱で頭が朦朧としていたせいよ。彼も思いつめていたんだと思うわ。なにかと相談ばっかり乗ってくれていたから……七島。私が片方持つから。部屋まで運びましょう」
そう言って、紅は気持ちを切り替えて、萩野の左肩を抱えて立ち上がらせる。
俺も咄嗟に右肩を支えた。ごつごつしている肩が、どうしてこんなにも今は弱々しい。
でも、そうだ。さっきのも熱による悪夢でうなされたものであって……
「……本当に、そうなのか……?」
「七島? 今、なんて」
「い、いいや。なんでもない。早く行こう」
こうして、俺たちは萩野の部屋まで彼を運ぶことになった。
彼を支えた紅が、ふと俺のことを一瞥しようとしたが、その視線は彼の首元に移された。
「……ねえ。萩野って持病があるの?」
「えっ!? そ、そんなこと、聞いたことがないけど」
「でも首に注射の痕のようなものがあるわ」
紅は萩野の首の根元を指さした。
本当だ……たしかに。首元が赤みがかっている。
……知らなかった。
友達とはいえ、さすがに萩野の体までは、すみからすみまで見たことがなかった。
今だってそうだ、こんなに彼の腕を触れているのも初めてかもしれない。
「ここに注射するとなると、神経痛の病気? ブロック注射とか? でも、この位置は一人で打てるかしら……だれかに注射してもらったとか?」
「神経痛って手とか関節に痛みが起こるんだよな? ……ま、まさか、それなのか?」
「それは分からないわ。本人に聞かないと。それに私も専門家じゃないから、ただの虫刺されって可能性もあるし……でも、大丈夫よ。彼は神経質になっているだけ。環境だって劣悪だわ、身体的、精神的に滅入る人が出てもおかしくないもの。だから、彼のことは冷静に見守ってあげましょう」
そう言いながら、困った様子で紅は微笑する。
「それにあなたは彼の親友でしょう? 誰よりも彼を信じてあげないと」
だから、あなたまで思いつめないで。
唇の裏に言葉が隠れてて、俺は思わず目を伏せてしまった。
あれから、俺はちょっとだけ期待していた。
――あんなことを言ってごめん。
萩野が、そう言ってくれることを……。
だけど、萩野はなにも言わずにベッドで重力に任せて埋もれただけだった。
机の上に残った涎を拭きながら、俺は一時の回想を終えた。
……あんなことで終わらせられれば、どれほどいいものか。
元怪盗。角の不可解な発言。俺たちの記憶。
これらの一連の話で、他の人たちも、それぞれ考え込んでいることだろう。
考えには至らなくても、心の隅ではなにかが引っかかっているはずだ。
だけど今、俺にとっての最大の気がかりは……。
『俺は、お前に、会わなければ…………』
なあ、萩野。
空想の背中に呼びかけても振り向いてくれない。
彼の名前は萩野健。超高校級のボクサー。
だれよりも強くて、カッコよくて、頼りがいのある俺の親友で。
『おめー、よく言えるな。そんな思ってもいないウソ』
あの時、放たれた言葉は、単なるうわ言か。
それとも……萩野の内面に潜む影そのものか?
――それにあなたは彼の親友でしょう? 誰よりも彼を信じてあげないと
……………本当に?
「俺たちは、本当に…………」
俺はどうすればいいのだろう。
拙い英訳のような言葉が脳に反響して溶けていく。
疑問は溶けて、脳を浸して、脳みその割れ目に浸透していく。
瞼を閉じて広がるのは希望でも絶望でもない。
胸に空いてしまった虚空の名前は…………俺にもわからなかった。
明日ってスバラシイんだ。
昨日と今日はクソかもしれないけど、明日はなんでもできるからね。
昔の人も、明日があるさって言ってたよね。
テストで零点取ったって、恋人にフラれたって、リストラされたって、職質に捕まったって、明日があるっていえば、気持ちがすっきりする魔法の呪文だよ。
涙を流しても、明日があるよ!
目の前で人が撥ねられても、明日があるよ!
人を刺し殺しても、明日があるよ!
死にたいって思っても、明日があるよ!
戦争が勃発しても、明日があるよ!
明日がなくなっても、なにがなんでも明日があるよ!
なんだか、どうでもよくなってきたね。
こんな慈悲もない物騒な世界で生きなきゃいけないなんて、ボクはハイスピードで絶望しちゃうよ。
宇宙も爆発して、すべてなにもかもなくなってほしいぐらいにね。
それでも明日はやってくるんだけどね!