ダンガンロンパ(仮)-よみがえり-   作:冷凍かに缶

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(非)日常編 そして賽は投げられた

 

 

 

 

 

 

 

『突如君たちの目の前に、史上最悪の生ける絶望が現れた。君たちは絶望的なまでの脅威であり狂気である怪物を前にして、どのような決断を下すのだろうか』

 

 

 

 

 

 

 今、目の前の光景は現実なのか?

 

 

 祈りの場に現れた、細身の男性……なのか?

 高身長かつ足腰の筋肉の付き方、さらには声質からしても恐らくそうかもしれない。

 首から下は、変哲もない会社員風のスーツを着た人間。

 

 だけど顔立ちは見飽きるほどの邪悪の化身、マナクマの顔を模していた。

 

 

 

 

『突然の奇襲に、君たちは混乱した。なぜなら“生ける絶望”は君たちに“絶望的なウイルス”を与えようとしているからだ。得体のしれぬ恐怖に、君たちは思考を光の如く走らせ、次の行動を選択を迫られるのであった!』

 

 

 

 

「う、うわぁぁぁ!! こっちに来るのだぁっ!?」

 

 

 大豊が絶叫を発する前に、それは走り出していた。

 それは説教台から降りるや否や、全速力でバージンロードを駆け抜ける、

 

「ウーララァァァ!!? ニンジャァ!?」

「そんなことより早く逃げないと……っ!」

「い、いや待ってくれ! まだ紅がっ!」

「アイツは指揮者には気づいてないわ……! 向こうは隠れているほうが安全なはず……っ!」

 

 その間にもランティーユ、大豊は不遜にも机や椅子を飛び越えて一目散に逃げ出していた。

 

 すまない、紅……!

 背中で謝りながら、俺たちも駆け出していた。

 

 

 懺悔室を飛び出して、すぐに錦織は俺と天馬にくるりと向き直る。

 

「ア、アンタたちは4階のどこかに隠れなさい……っ」

「え?! お、おい錦織!? どこに行くんだよっ!?」

 

 錦織にノートパソコンを胸に押しつけられた。

 そして、俺の呼びかけも無視して走り去っていく。

 意外と逃げ足は早いな……い、いや、感心している場合じゃない。

 

 俺のYシャツの袖が、すぐさま引っ張られる。

 天馬が、じっ、と真剣にこちらを見上げていた。

 

 

「七島くん、女子トイレに。迷う暇はないよ」

 

 

 当たり前だ。一目散に懺悔室の扉から離れる。

 一直線に駆け出して植物園のドアの前を通り過ぎた。

 転ばないように注意して、曲がり角をカーブすると、大きな影が飛び出し……

 

 

 

「失せろッ!!」

「うわっ!?」

 

 怒鳴り声と硬い手の平によって、俺の体は突き飛ばされる。

 隣の天馬にぶつかって、2人してどしんと尻餅をついてしまう。

 次に、鼓膜をドン、と突き破らんとする銃声。

 

 

 

「ってて……こっ、黒生寺っ!?」

「貴様は……今度こそ俺がぶちのめす……っ!」

 

 西部劇のワンシーンのように仁王立ちで黒生寺は何度も発砲する

 狙いは全力疾走するマナクマ顔の人間。

 瞬きの暇も与えず、銃声を何度も撃ち鳴らす。

 超高校級のガンマンの肩書は本物だった。ヤツの足や腕の側面を掠めている。

 

 だけど、完全には当たっていない。

 それは黒生寺の能力の問題ではないことは明らかだった。

 相手は人間業とは思えないほどの身のこなし。

 

 

 そもそも、そいつは廊下を走っていない。

 壁を。天井を。螺旋状に重力をものともせず走っていた。

 

 

 

『君は、生ける絶望の脳の根幹を撃ち抜くため、4発の弾丸を論破するかの如く撃ち鳴らす。しかし残念! 不吉な数字で死を狙う君の攻撃は無意味だ。生ける絶望は野性的な動体視力で次々と弾丸を見切り、間一髪で急所から避けてしまった!』

 

 

 

 気がつけば、ヤツは黒生寺の目と鼻の距離。

 彼は舌打ちをして、拳銃を握りしめ、思い切り腕を振りかぶり……

 

 

 

 

「……っッ!?」

 

 

 

 固唾。いいや、飛び出しそうになった心臓を咄嗟に再び飲み込んだ必死の息だった。

 

 

 黒生寺の体は、宙を舞っていたのだろう。

 

 

 『だろう』だなんて、曖昧な表現だ。

 しかし、それは事実だから仕方がない。

 

 俺が黒生寺が腕振りかぶった瞬間に、すでに彼は廊下に転がっていたからだ。

 見ると、首には大きく腫れた痕が滲んでいる。

 あの一瞬で、一撃を喰らったのか……!?

 拳銃も廊下に滑り、歯を食いしばりながら黒生寺は手を伸ばす。

 

 

 ……が、手の甲は、すぐさま真上から踏みにじられる。

 マナクマ顔の人間は膝をゆっくり折り曲げ、体重をかけながら黒生寺を見下ろす。

 

 

『害虫の如く這いつくばり、希望に縋る君のなんと惨めで滑稽な姿か。人生の終わりに相棒でもある拳銃を手放すガンマンは無様そのもの。生ける絶望は憐れみを施すしか他なかった』

「るせっ……ぅがッ!!?」

 

 脇腹への強烈な蹴り上げで、彼の啖呵は中断される。

 黒生寺は壁際に吹っ飛び、鈍い音を立てて頭を強打した。

 あまりの非情な光景に、天馬も咄嗟に口を手で覆う。

 

 

 奴の右手によって、黒生寺は乱暴に襟元を掴まれた。

 

 

 

『どこからともなく生ける絶望は注射器を取り出した。君は針先を一目見て逃げたい衝動に駆られるが、転倒によって大きく挫かれた右足はデクの棒同然。絶対絶望的な苦難を前に、君は果たしてなにができるのかと生ける絶望は問いかけた』

 

 

 ヤツの左手には細い注射器。

 黒生寺はもがいているも、渋い顔で右足を引きずって立とうとしても力が入っていないようだ。

 

 

 まさか、本当に足を挫いてしまったのか……!?

 

 いったいどうすればいいんだ?

 俺が出ても同じ結果どころか半殺しだろう。

 でも、だからって、このままだと黒生寺が……!

 

 

 

『あ、あのっ! 開けてくだちゃい!! 今の声って……!?』

 

 

 

 幼い舌ったらずな声。

 その出所はノートパソコンだった。

 

 その時、ヤツの注射器を持つ左手がぴたりと止まった。

 慌てて俺はパソコンを開くと、小さな悲鳴があがる。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……………う、うそ……先生……? 先生でちゅよね!? なにやっているんでちゅかっ!?』

 

 

 

 

 

 

 先生だって?

 

 

 

 先ほどから、もしかしてと思ったが。

 

 

 まさか、こいつが……

 

 

 


 

 

「『君はナイフを振り上げ、生ける自殺志望者の心臓を一突きしようとした。しかし、生ける自殺志望者は、たんと壁を蹴り上げて天井に駆けだしてしまった。悲しきかな、これは怪盗のサガなのであった。おお! 歌え、虚ろなるよろこびであり、かなしみを! 生ける自殺志望者は高らかに歌った。しかし、なにも起こらなかった』」

 

 

 

「……と、こんな風に、先生はいつも申し上げてございました。とても客観的な性格でございましたから。怪盗故に、どんな罠や攻撃も避けてしまう才能を得てしまったのか、先生は殺されない体質でございました。それはそれは驚異的な身体能力で、ゾウが百頭乗っても死ねない体と豪語しておりましたのでございます!」

 

 

 


 

 

 

 

 

「お前が“怪盗”なのか……!?」

 

 

 

 角が話していた『先生』

 それは、仰々しい説明口調。

 人外を思わせる身体能力。

 

 もとい、元怪盗だと思われる人間は、捕らえていた黒生寺を床に放り捨てる。

 

 

 ヤツはノートパソコンを、いいや……俺を凝視している……!?

 そいつは、ゆらりと一歩大きく足を踏み出し……

 

 

 

 

 

「みなさまっ!!」

 

 

 

 突如として、俺とヤツの間に割入るように飛び出してきたのは、柔らかいスカートを翻した少女。

 

 

 

「……! 角さん!」

 

 

 天馬の呼びかけの通り、角だった。

 彼女はヤツの腕を取りあげると、勢いよく背負い投げを決めた。

 ヤツは倒れることなく着地して、角もまた臨戦体勢に変わる。

 

 角の手刀と怪盗の腕。

 それは矛となり盾となり打ち合った。

 

 

『獲物は生きのあるほど良いものだとは古来から狩人も釣人もよく言ったものだ。ようやく手応えのあるターゲットを発見した生ける絶望は狙いを定め直す』

「っ……! なんてことでございましょうか…………いえ。ここで会ったが百年目。フラワー・フローラが必ずや! あなたを成敗させていただくのでございます!」

 

 

 そうして角と怪盗の彼らは勢いよく飛び掛かる。

 

 黒生寺は、その道のエキスパートに比べれば接近戦がうまくなさそうだった

 一方の角の攻防を見ていると、相手の間合いや、タイミングを把握している。

 思わず、その気迫に瞬きも忘れてしまうほどだ。

 しかし、何故腰にメガホン拡声器を吊るしているんだろうか?

 

 

 そうして呆然と突っ立つ俺たちに、角は険しい横顔を向けた。

 

 

「七島さまっ、天馬さまっ! 黒生寺さまを連れて早くお逃げくださいませっ!! ここはフラワー・フローラが食い止めるのでございます!」

「……!? ふ、ふざけたことを……ッ!」

 

 黒生寺は驚愕したが、俺と天馬は目くばせをする。

 ああ。言われなくても。

 俺たちは黒生寺の両腕を抱え、女子トイレに精一杯の力で引きずった。

 

「っお、い、ぐっそが離せェ……!! アイツ一人でヤツを倒せるワケがない……ッ!」

「角のことが好きなのはわかるが、今は彼女に任せて……と、いうジョークは置いておいて! 行くぞ!」

「黒生寺くん、今は落ち着いて!」

 

 角に任せてのところで、俺の腕が潰されそうな予感がした。

 だけど、黒生寺は痛みを抑えるような苦悶を漏らす。

 

 それにしても、アイツはいつ足を攻撃したんだ?

 まったくわからなかった。きっと誰であろうと見逃してしまう攻撃。なんて恐ろしい身体能力だ……

 

 

 

「角も早くっ!!」

「えいっ! 鬼さんこちらでございます!」

 

 角は俺の差し出した手を押しのけて駆け出していた。

 怪盗と思われるヤツも、彼女の後を跳ね飛ぶように追いかけ、階段から雑踏が遠ざかっていく。

 

『ああっ! 先生待って!?』

「きっ、貴様……ッ!! そいつは俺が仕留める……ッ!」

「っ!? まっ、待て黒生寺!!」

 

 しまった!

 一瞬の隙をつかれ、俺たちの手が振りほどかれた。

 黒生寺は右足を引きずりながら駆け出す。

 

 足をやられているにしても、やはり歴戦のガンマン。

 俺と天馬では追いつけない。

 

 まずいぞ、このままじゃ黒生寺も危険だ!

 慌てて彼を追おうとするが、黒生寺は曲がり角の前で立ちすくむ。

 

 

 

 

 その時、がしゃんっという鋭い音が響き渡る。

 それは遮断。あるいはギロチンの切断音にも思えるほど不吉なものだった、

 

 

「……え? いまの音は……?」

「へけっ!? なにが起こったのだ!?」

 

 大豊が男子トイレから怯えた顔で出てきた。

 ここにいたのか大豊。

 

 いいや、そんなことより早く下の階に……

 

 

 

 

「えっ……?」

 

 

 

 だが、俺たちは階段を下りることができなかった。

 一目最初に“それ”を見ても、状況を理解することは不可能だった。

 

 

「……どうなってやがる…………」

「へけっ……えっ? ええぇっ!!?」

 

 

 みんなが動揺の声を発したのは無理もないだろう。

 

 

 

 そこに階段なんてなかった。

 代わりに存在したのは、“分厚いシャッターの壁”だった。

 

 

 

「な、なんだよこれ……」

 

 不用心にも、俺はふらふらと近寄り、拳でシャッターを叩いてみた。

 しかし、開く気配は一切なかった。

 当然のように、壊れる気配もあるはずがない。

 

 

「みんな大丈夫? いったいなに、が……?」

 

 

 続いてやって来たのは、懺悔室に隠れていた紅だった。

 ああ、よかった、無事だったんだ。

 首を擦りながら青ざめた顔をしているが、シャッターの存在に、ますます血を抜かれたようだ。

 

「な、なんなのこれ……? 4階から5階もシャッターが降りたままだったけれど……」

「え?! じゃあ、あたしたち閉じ込められちゃったの!? えええっ!? ど、どどどどどうしようぅ!?」

「大豊さん落ち着いて。大丈夫だよ。私たちもいるから」

「ふん……気休めにもならん慰めだな……」

『ほ、ほわわ、なんでこんなことに……!?』

 

 

 阻まれた壁の前で、皆の動揺が沸き上がり渦巻いていく。

 

 

 

 

 

 その混乱を一時的に止めたのはサイレンだった。

 廊下が赤いランプの光に染まり、放送機からはマナクマの声。

 

 

 

 

 

『緊急放送! エマージェンシー!!』

 

 

 

 

 

 モニターに映し出されたのはオレンジ色の防災ずきんをかぶったマナクマ。

 映像には、HAZARDという字幕がついていた。

 

 

 

『緊急事態発生! “絶望ウイルス”を持ちこんだ“危険人物”が現れました! 学園の隠し通路を経由して、神出鬼没に現れる極めて危険な人物です! そのため、当学園では今から行動範囲を狭めた対処を行うことにします! 生徒のみなさまも厳重な警戒を!』

 

 

 

 

 脳の情報の収集能力が限界を迎えようとしていた。

 これ以上、詰め込むと脳だけでなく、体ごとパンクして破裂しそうだった。

 

「ど、どういうことなの!? 説明するのだ!!」

『さっき言ったのがすべてなんだけどなぁ。オマエラ、“絶望ウイルス”って知ってる? 人類史上最大最悪の絶望的事件の中で、某医療グループが開発した絶望と恐怖を巻き起こすと言われる凶悪イジワルウィルスなのであります!』

「さっきの話と合わせると……そのウイルスを感染させる人物が現れたっていう解釈でいいのかな」

『そゆこと。空気感染じゃないんですよ。注射でウィルスをちゅーっと注入するんです。サッと塗るだけじゃダメなんです』

「……注射ですって?」

 

 

 紅が神経質な声で聞き返す。

 それじゃあ、さっきのヤツが持っていた注射器は……

 

 

『病状はシンプルに言えば絶望的です。かかったら最後! 苦しみます!』

「ふん……インフルエンザに比べたら大したことねえな……」

『ま、これはあくまでシンプルに言ったバージョンだけどね』

 

 

 シンプルで単純明快と言えばそれまでだが……

 そのとき、マナクマの青い瞳が鈍く光り始めた。

 

 

 

『詳しい説明をしましょう。最初は情緒不安定、発熱や、節々の痛みが始まります。日に日に症状は悪化して、やがて全身が数万本の針で刺されたような痛みを襲います。目玉も心臓も脳もかきむしりたくなる死の瀬戸際が一生続く絶望に苛まれます』

 

 

 

 ……え?

 

 

 

『完全に発症すると強い悲しみ、怒り、恐怖、自己嫌悪を呼び起こす光景や思考を休むヒマもなく脳に完膚なきまでに叩き込まれ、寝ても覚めても永遠に逃れられない悪夢を見る羽目になります。やがて、本来の人格や思い出、生きる希望をもすべて失います。絶望、まさに絶望。ああ、オソロシヤンルーレット』

 

 

 

 ……な、なんだよ、それ!?

 言葉だけでも地獄絵図そのもの。苦悶の絵面が脳裏に浮かび上がる。

 

 

 

 

『んで。それの成れの果てが、さっきオマエたちも見た"ボクのヘルメットをかぶったアイツ"です』

 

 

 

 シンプルに言い切られた答え。

 ということは……隣に立っていた黒生寺も一筋の汗を流していたようだ。

 

「まさか……」

『元・超高校級の怪盗だった希望ヶ峰学園のOBで現在は教師! それが“危険人物”なのでーす!』

『そ、そんなのウソでちゅっ!!』

 

 マナミが叫んだが、マナクマは臆することなく嫌らしい笑みを向けていた。

 

 

『と言うわけで、オマエラ。くれぐれ気をつけてください! 注射も最先端の技術で痛みも最小限だし、睡眠薬だって完備されている時代だもんね!』

「それって私たちに寝るなとでもいいたいの?」

『そうは言ってないでしょ? 気をつけてって言っただけなのに言葉の外の思い汲み取りすぎじゃない?』

「な、なんでもいいから、シャッターは開けてほしいのだ!!!」

『そうはいきません! これより"コロシアイ避難訓練"が始まるからね!』

 

 

 コロシアイ避難訓練だって?

 

 

『睡眠はどの部屋でも可能となりますが、従来のルールはきちんと守ってください。植物園の管理は通常通り行うからね。非常食は4階なら多目的室に乾パンと水があるから、それでしのぐように!』

 

 

 なんだよ、それ……まさか、俺たちに逃げて隠れろっていうのか?

 寝泊まりはできるとは言うが、こんな状況で寝られたものじゃない。

 いつ、アイツが出てくるか分からないというのに。

 

「わぁぁぁん!! こんなの訓練でもないのだぁ!!」

「ねえ……どうやったら、このふざけた状況は終わるの?」

 

 大豊の背中をなだめながら、天馬が鋭い視線でモニターに質問を投げかける。

 めずらしく強い怒りのようだ。

 でも、至極真っ当な意見でもあり感情なのは確かだ。

 

 

『良い質問だね。この生活が終わるのは……"危険人物”がいなくなった時だよ。火事だって火が消えなければ炎上のまま。それとおんなじだよ。火の元をなくさないとね』

『あ、あんた……それってなにが言いたいんでちゅか……!?』

「……なるほど」

 

 

 

 黒生寺は拳銃をくるくる、と器用に回しながら、冷酷な面持ちで息を吐く。

 

 

 

「アイツの死を持って、この分断状態は終わる……そういうことか……」

 

 

 

 

『そのとおりです! “元怪盗”の死亡が確認され次第、避難訓練は終了になりまーす!

 

 

 

 

 

『いっ、いやぁぁぁぁああぁぁっ!?! なんでぇっ!? そんなのダメでちゅぅぅ!!』

 

 

 

 

 真っ先に反応したのはマナミだった。

 それは悲痛な叫びだったが……マナミには悪いが、ヤツの死亡と聞かれても響くことはない。

 俺たちにとっての怪盗は全くの赤の他人であり敵じゃないか。

 

 

『いやあ、よかったね! オマエラの仲間じゃないから安心して殺せるよ! やったね、マナクマちゃん! ……え? “冗談じゃないでございます”って聞こえたけど空耳? ボク聞こえなーい』

「なあ、その元怪盗を殺すということは、裁判も開かれることか?」

『そうだよ! もちろん卒業の権利も無料で手に入っちまうんだ! 罪悪感ないまま卒業できるなんて最高じゃーん!』

「冗談じゃないわ。半強制的に殺人をさせるつもり?」

『いやいやメリットだらけだよ。治療薬もアイツが持っているからね。アレを殺さない限り、ウイルスに蝕まれて、ずーっと絶望状態だもの。青春のように殺りたいこと殺ったもんがちっすよ?』

 

 つまり、こういうことだ。

 怪盗を殺せば、この分断状態は終わり、病に対する特効薬も手に入れられる。

 ……しかし、学級裁判は行われてしまうんだ。

 

『……うん、わかってる。ボクだってこんなことしたくなかったんだから。すべて怪盗のせいクマ! ボクは悪くないクマ! 許してクマクマー!』

「そ、そんなことで許したらケイサツはいらないのだ!」

「ねえ、その元怪盗……危険人物っていうのは、いつから出てきたのかな?」

『いま、いつから危険人物が出たかなんていう話があったけどさ。野暮すぎない?』

「野暮って……? な、なに、言ってんだよ?」

『あのねぇ、そんなのわかってたら、ボクだってさっさと手を打ってますよ! まったくもう!』

 

 

 いつから出てきたか、分からないだって? 

 

 そのとき、脳裏に過ったのは。

 

 

 


 

 

「……ねえ。萩野って持病があるの?」

「えっ!? そ、そんなこと、聞いたことがないけど」

「でも首に注射の痕のようなものがあるわ」

 

 紅は萩野の首の根元を指さした。

 本当だ……たしかに。首元が赤みがかっている。

 

 


 

 

 

 いや、ウソだ。そんなことって……

 

 

 

『と言うわけで説明はおしまい! オマエラ、実りある避難訓練を!』

 

 

 

 

 一生聞くことのない別れの言葉を告げられて、モニターの電源を落とされた。

 

 

 

 

 

『そ、そんな……先生が絶望で……先生が死なない限り、みんな散り散りなんて……』

「まだ、わからないよ。先生が死なない方法があるかもしれない」

「死んだも同然だ……今まで、あのクマが前言撤回したことがあったか……」

「やめなさい黒生寺。ただでさえ非常事態なのに火に油を注がないで」

 

 苛立たしげの紅に負けじと、黒生寺は忌々しく溜息を吐き出した。

 

 ……どうでもいい

 ……いったい、どうすればいいんだ? 

 俺がいつも頼りにしていたはずの、彼はここにいない。

 

 

 泥のような思考を中断させたのは、軽快なアラーム音だった。

 

 

『あっ!? 図書室のパソコンからの通信でちゅ!』

「なんだって?」

 

 ノートパソコンの画面上に『図書室』というアイコンを見つけてクリックしてみる。

 するとスピーカーから、ざらついたノイズ音が……。

 

『あ、あー……き、聞こえるかしら……』

『マドモアゼル!! 無事かい!? 怪我はしてないかい! ぼくが痛いの痛いのとんでけしてあげるからね!』

『私も無事です! 生きているだけで丸儲けではないですが、さすがに死ぬかと思いましたよ……!』

『う、うるさいわよ……!! い、一応、辺見は鑑定士に出してもらったけど……縛ってるから大丈夫よ……』

『わっ、やめてくださいよ。まるで私が緊縛プレイを受けているみたいな言い方は!』

 

 安堵させる声、忌々しい声がパソコンから届く。

 錦織に、ランティーユ。辺見も……まあ、一応は無事ってことか。

 

『音声だけで、音質も悪いっていうのがネックだけれど……これで情報共有はできそうね……』

「おい……アマはどうした……」

『ああっ! その素敵なバリトンボイスは黒生寺さまでございますね! 芙蓉はいつだって、お顔を変えなくても元気100倍でございます!』

「よかった。みんな大丈夫そうね」

 

 ああ、角も無事のようだ。

 黒生寺も肩を少し竦めていた。なんだかんだ言って心配していたのか?

 でも、尋ねたところで、また銃口を押しつけられるだけだ。

 

『魔法少女が相手をしていたヤツは、マナクマを見たら、すぐさま技術室に入ったわ……魔法少女が技術室に入った時には跡形もなく消えていた……恐らく、マナクマが出てくる経路を使っているのかしら……?』

「そうだとしたら厄介ね……」

『4階にいるのは不運、ランナー、指揮者、ガンマンに書道家、マナミ……これで間違いないわね……?』

 

 

 つまり、一階から三階にいる生徒たちは錦織、ランティーユ、角、辺見。

 

 

 ……そして。

 

 

「な、なあ、萩野もそっちにいるんだよな!?」

『どうせ自室で寝てるんでしょ……後で確認しておくわよ……』

「そんな悠長にしている場合じゃないだろ!? だ、だって萩野は……は、萩野は……っ!」

「七島くん、落ち着いて」

 

 天馬に声をかけられて、喉を抑えるが言葉は今にも飛び出そうだ。

 居ても立っても居られない。

 呼吸の仕方が思い出せなくなりそうになるが、今は落ち着かないとダメだ。

 

 

 そうだ。落ち着け。俺が、落ち着かなきゃダメだ。

 

 

 ……なのに。

 

 

 マナクマの顔が牙を剥き出しにして嘲笑う。

 

 

 最初は情緒不安定、発熱や、節々の痛み。

 最終的に陥る症状として、全身が数万本の針で刺されたような痛み。

 目玉も心臓も脳もかきむしりたくなる。

 強い悲しみ、怒り、恐怖、自己嫌悪を呼び起こす悪夢を常に見せられる。

 そして、人格や思い出、生きる希望を見失い……そして……

 

 

「……とにかく萩野のことは見張っていてくれ」

『言われなくてもわかってるわよ……』

「なあ、頼むからっ! 今すぐに萩野の無事を確認してくれよ!!」

『ちょ、ちょっと……! わかったって言ったでしょ……!? ボクサーボクサーとうるさいけど、今は情報共有も大事なのよ……私たちが全員ウイルスに感染したらオシマイなんだからね……!?』

『そうですよ! 七島さん、お気を確かに。なんにせよ早いところ終わらせてほしいですが、あの長い裁判は私も疲れるので、無益な殺人はやめてくださいね?』

『おいっお前はなんで! そう、しゃしゃり出るのかな!?』

 

 

 考えがまとまらない中、彼らの雑音が隙間を縫って流れ込む。

 

 

 

 …………ああ、うるさい。

 

 

 

『あいたたた?! 髪は引っ張らないでください!』

『この! 髪を! ぶちぶちって抜いて! かつらにでもしちゃおうかい!?』

『2人とも、ケンカはだめでございます! 白河さまも、ランティーユさまも! 芙蓉の作ったいよかんゼリーでも食べて仲良くするのでございますっ!』

 

 

 

 ……うるさい、うるさい。

 

 

 うるさいうるさいうるさいっっ!!

 

 

 なにを!! なんでそんなに!?

 

 

 

 

 

 

「おい、お前らふざけるなよっ!? だから、さっきから言ってるだろ!! 萩野をなんとかしろ……って……………」

 

 

 

 

 喉元に留まっていた言葉は、口から飛び出して、発言として場を撃ち抜いていた。

 大声を出したことに俺の脳も驚いたのか。

 途中から情けないことに大声が収束する。

 

 パソコンから発されていた声もぴたりとやんだ。

 それどころか……4階フロアの空気も凍りついていた。

 

 

 

『書道家。引っ込んでてくれない?』

 

「……っ!」

 

 

 機械的かつ冷淡な錦織の声。

 その声は、俺をぷつりと針のように刺してきた。

 破裂しそうなほどに溜まって残っていた、むしゃくしゃした思いが完全に抜けて……情けなく萎んだ。

 

 

「……っご、ごめん」

『謝るぐらいなら、さっさと指揮者に代わって』

 

 

 鞭を軽く打たれ、すごすごと紅にパソコンを手渡す。

 紅はなにか言おうと唇を動かそうとしたが、無言でパソコンを受け取った。

 目をぱちくりさせた大豊も、伏し目がちの天馬もなにも言わない。

 黒生寺も「安眠妨害」と言わんばかりに横目で見遣ってくるだけだ。

 

 

 …………最低だ。最悪だ。なんで、あんなこと。

 

 

「紅よ。代わったわ」

『そっちの状況を詳しく教えてちょうだい……』

「黒生寺が足にケガを負った……それと、萩野は注射を打たれたはずよ。昨日、私と七島が注射痕を見つけた」

『後で確認しておくわ……』

「それに、もう1人。私も注射を打たれたわ」

「……え? う、うそ……紅っち!?」

 

 彼女は自らの結われた髪を持ち上げる。

 白いうなじには、ぽちっと赤い斑点がついていた。

 たちまち大豊の顔は血色を失い、ぶるぶると体を震えさせる。

 

「そっ、そんな! あ、あたしのせいだ……紅っちを置いてちゃったから……!!」

「いいえ。これは、だれも悪くないわ。私を庇って全員残っていたら今以上の壊滅状態になっていたもの。それだけは避けないといけなかった」

『ご報告どうも……でも厄介ね……マナクマの話だと発熱や倦怠感もあるそうだし、指揮者に任せるのは…………』

 

 錦織は考え込むように、すぅ、と息を吐いているようだ。

 

 

『ねえ、不運。聞こえてる……?』

「うん、聞こえているよ」

『4階の統率は、あんたに任せてもいいかしら……』

「…………私が?」

 

 珍しくも、天馬の声は驚きで少し上ずっていた。

 自分に言われているのかと言わんばかりに瞳孔が開いている。

 

「頼ってくれるのは嬉しいけど……私に、できるのかな。錦織さんの言う通り。私は不運だよ」

『そんなことは今はどうだっていい……アンタはなんだかんだ生き残れてるんだから、超高校級じゃなくて、ちょっと不運ぐらいにランクアップしてるわよ……そ、それに……4階のヤツらの精神状態含めて頼れそうなのは、アンタしかいないって、私は思っているから……』

 

 天馬は戸惑いを隠しきれていなかったようだ。

 それを慮るように「あのね」と再び錦織から声をかけられる。

 

『仕方ないからアンタでもない……見込んでのお願いでもあるのよ……アンタは常日頃、自分のものさしを正しく使っている……だから、みんなを導ける力がある…………私には分かるわ…………』

「錦織さん……。……うん、わかった。錦織さんが言うならやってみる」

『ただし無茶は厳禁……あ、あと、こういう役が初めてだからって調子に乗るんじゃないわよ……!』

「うん。この状況では浮かれてられないから」

『賢明な答えね……』

 

 天馬の力強い頷きに、珍しくも錦織はどこか満足げに言った。

 

 

『それじゃあ、頼んだわ……指揮者も無理はしないこと……ランナーも、アンタのできる範囲で手伝いなさい……でも空回りは厳禁……』

『うう、マドモアゼル……しばらく遠距離恋愛だね……でも、ぼくはいつでも君の心の中で見守っているからね!』

「げげえっ!! あたしの心の中まで!? ランティーユにむしばまれちゃうよー!!?」

『ガンマン……アンタも変な真似を起こさないように……』

「ふん……アイツを殺せれば、裁判だろうがなんだろうが知ったことない……」

『い、いけませんでございます! 黒生寺さま! 戦う黒生寺さまは芙蓉にとってのあこがれなのは承知でございますが、学園の藻屑になってはいけないのでございます!』

 

 黒生寺は「知るか」と鼻を鳴らす。

 でも、もしも、本当に黒生寺が怪盗を殺してくれたら、萩野の病も……。

 

 ……い、いや、ダメだ!

 どうして、こんなことばかり考えてしまうんだよ!?

 

『マナミ。気持ちはわからないでもないけど、アンタの役目は泣くことじゃないわ……情報収集は怠らないこと……』

『そっ、そうでちたね……しくしく泣いてばかりじゃダメでちゅよね……! あちきもやることをやりまちゅ!』

『わかっているならいいのよ……最後に、書道家』

 

 

 思わず呼ばれて丸まっていた背筋が伸びてしまう。

 果たして錦織は今、どんな顔をしているのだろうか。

 

 

 

『アンタは頭を冷やすこと。余計なことはしないで。考えないで。以上』

 

 

 

 

 だが、顔色を知る由もなく。

 極めつけと言わんばかりに冷ややかに告げられると通信は途絶えた。

 

 

 

 

 

「……紅さん」

 

 

 通信が途切れてから、やがて天馬が声をかける。

 俺たちに振り向いた紅は力なく目を閉じていた。

 

「ごめんなさい。迷惑かけることになるわ」

「紅さんのせいじゃないよ。必ず治してみせるから」

「そ、そうなのだ! 紅っち、あたしもがんばるからっ! だ、だから……っ! 死んじゃダメだよ紅っち!!」

「……紅、大丈夫だ。みんながいる。お前は一人じゃないから、苦しかったら無理せずに頼ってくれ」

「みんな……ありがとう」

 

 紅は、天馬と大豊の激励はしっかりと受け止めていたようだ。

 だけど、俺の言葉に対しては、違和感を覚えるような眼差しを向けてきた。

 

「……七島、あなたも思いつめないで」

「い、いや、思いつめてなんか」

「私が言えることじゃないかもしれないけど……この中では、私はあなたが一番気がかり。たしかに萩野が心配なのは私も同じ。でも、この状況下だから、落ち着いて行動をしてほしいわ」

 

 

 ……ぐうの音もでなかった。

 

 そうだ。俺は、俺の感情を制御できていない。

 萩野が死に追い込まれそうになっているという状況が恐ろしい。

 もっと怖いのは、紅も同じ状況だというのに感情が全く異なることだ。

 

 陰鬱な気持ちを燻ぶらせていると、「み、みなちゃん!」と甲高い声がパソコンから発された。

 

『だいじょうぶでちゅ! だって、みーんな同じクラスメイトさんなんでちゅもの! クラス一丸でがんばりましょう! 文化祭と同じようにね!』

「いつから、あたしたちクラスメイトなのだ!?」

「こんなヤツらと同じ釜の飯を食った覚えはねえ……」

『え゛っ……』

 

 マナミは、ダミ声の驚嘆を上げる。

 そう言えば、怪盗の襲撃前……懺悔室で彼女が話していたことを思い出した。

 

「そうだ。マナミ。さっき言ってた写真って……?」

『えっ? 写真……あー! そうでちた! USBメモリーの解析はまだまだなんでちゅけど、それとは別にデータを見つけまちて。せっかくだから、お見せしまちゅね』

 

 そう言って、パソコン画面に写真が映し出され、みんなで一斉に覗き込む。

 二人の人物が映し出されているが、これは……。

 

 

「へけ!? あたしなのだっ!?」

「いいえ、それだけじゃないわ。彼女は……」

 

 写真に映し出されている世界。

 それは教室の窓際で四月一日がリボンを口に咥えながら、大豊の髪を結っている光景だった。

 まるで、姉妹のような柔らかい笑顔だ。

 

「チビガキ……このアマとは知り合いだったのか……俺たちと会う前から……」

「ち、ちがうのだ! チビでもガキでもないし! 四月一日っちとは知り合いじゃないのだ! だって、あたしバカだもん!」

「ランナーと優等生……もっと言えば生徒会長。そうそう会う機会はないかもしれないわね」

『まだありまちゅよ! ほら、これも!』

 

 次に映し出された二枚目の写真は同じく教室のようだ。 

 床には段ボールや、色とりどりの資材が散らばっている。

 写真の中心には王冠をかぶったランティーユに、黒いマントを羽織った円居。ピンク色のドレスを着た藤沢はお姫様のようだ。紅は騎士のような格好をしている。

 それぞれが、ポーズを取ってふざけあっているようだった。

 

「あっ、ランティーユもいる! へんちくりんな恰好!」

「……私もこんなの記憶にないわ。以前に、彼らと会ったことなんてない」

「ああ、俺たち全員が生きている頃も、こんなことをした記憶はないよな」

 

 次の三枚目もまたしても教室のようだ。

 映っている真田は鋏を持ってピースと言わんばかりにブイサインを作っている。

 その後ろで、十和田もくつくつと頬を緩めている……隣では井伏が頭にハトをのせられ困ったように笑っていた。

 さらに真田の隣で同じくサンドウィッチを広げて、真顔でダブルピースをしているのは……

 

 

 

「え!? こ、これ辺見……!?」

 

 

 井伏と十和田と真田、しかも辺見も一緒なんて。

 特に隣にいる真田なんて、憎しみも後悔もないハツラツとした笑みだ。

 辺見もこんな愉快なポーズだし……どうなってるんだ?

 

 

 また、スライドショーのように四枚目が映し出される。

 一番見覚えのある顔ぶれ……俺もいる。場所は窓がないが廊下だろうか?

 

 萩野が俺の肩を引っ張るようにしてピースをしている。

 そして、天馬も錦織を軽く腕を取って、一緒に映ろうと言わんばかりにカメラを指さしていた。

 錦織もつられながらも、ひきつった顔を向けていた。

 それにしても俺、写真うつりが悪いな。肌の色が飛んでるし……

 

「七島くん、私たちって前に会ったことある?」

「……いや、こんな記憶はないよ」

「…………そうだよね。私も錦織さんや萩野くんとも面識はないし……」

 

 ただでさえ、この状況だというのに。 

 先程からいなくなってしまった彼らを久々に見てしまったせいもあってか、写真の中で見る萩野の笑顔は直視しがたい。

 

 

 

「ばっ!? 馬鹿な……冗談じゃねえ……ッ!」

 

 

 次の五枚目の写真に、黒生寺は狼狽えた。

 一目見て無理もないと察した。

 

 彼と一緒に映っていたのは角だった。

 体操服を着た二人は鉢巻をつけており、角は一位の旗を掲げている。

 それに、この黒生寺はいつもの冷笑と違って、満足そうに唇に笑みを浮かべている。しかも。

 

「わあ! めちゃくちゃ角っちと距離が近い! なかよしこよしなのだ!」 

「へ、へえ……あなたって、こういう顔もできるのね?」

 

 

 思わず、俺も一瞬だけ微笑ましさが胸によぎった。

 

 ……が、すぐさま現実の黒生寺を思い出す。

 ぎこちなく隣を見ると、彼は屈辱と言わんばかりに、顔を禍々しく歪めていた。

 今にも画面をぶち破りそうなオーラを放たれ、俺は慌ててパソコンを閉じてしまった。

 

 

 ……と、とにかく。みんな先ほどの写真は身に覚えがないようだ。

 でも、こうして写真が残っているのはなぜだ?

 合成という結論を下すのが今は一番手っ取り早いだろうが

 だけど、どうにも頷きがたい気持ちがあるのは、真田から聞いた話のせいなのだろうか。

 

「ねえ、あなた、角に会ったことは」

「口を噤め……ファムファタール……」

「『会ったことない』ぐらい素直に言ってもらえないかしら?」

「答える義理もねえ……」

「ふう……随分、私は嫌われてしまったのね」

 

 呆れられながら黒生寺は踵を返して、右足を引きずる。

 それに対して、天馬が黒生寺の前に立ちふさがった。

 

「待って。黒生寺くん、どこに行くの?」

「……どけ。病人の看病をするつもりはねえ……俺はヤツをブチのめすまでだ……」

「……怪盗を倒すつもりなの?」

「それ以外に方法はねえだろ……」

 

 黒生寺が天馬の肩を突き飛ばそうとしたが、彼女がそっと手の表面に触れた。

 その行為に驚いたのか、黒生寺の手が止まった。

 

 だが、それは一瞬だった。

 

 臆することなく手を払うと、彼は天馬の肩を掴み取る。

 まるで鷲が獲物を得るときと同じ手つきで、天馬が顔をひくりと歪め……。

 

 

「っ! お、おい、やめろ黒生寺っ」

 

 咄嗟に声が出ていたのは俺にとっても意外だった。

 だけど、黒生寺はやめようとしない。

 

 黒生寺の手の力は強さを増している。リンゴを玉砕するときのようだ。

 俺は黒生寺の頑丈な手首を掴みあげる。

 やはり動く気配も、離れる気配も見れない。それでも。

 

 

「黒生寺……っ! その手を離せ。天馬はなにも悪くないだろっ。彼女はお前を心配してるんだぞ!?」

「……ありがとう。七島くん。でも、私は。大丈夫だから……っ」

 

 肩の痛みに耐えているのか、天馬は軽く眉根を寄せて黒生寺をじっ、と見つめる。

 

「黒生寺くん、その足で、どこに行くつもりなの?」

「ここのアマは……どうも俺を馬鹿にするな……?」

「ううん、馬鹿にしているんじゃない。七島くんの言う通り、黒生寺くんが心配なんだよ」

「余計な世話だ……心配されるほど落ちぶれてねえ……」

「……ねえ。黒生寺くんが怪我をしたから、角さんは人一倍頑張ると思うよ」

 

 「角さん」という単語に、黒生寺の手がずる、と動揺したように外れる。

 俺は気がつけば、黒生寺の手首を掴みとる形になっていた。

 

「…………だから……どうした……」

「萩野くんが不調で、角さんまで怪我をしたら……私たちは、危険人物に太刀打ちする手段がなくなるといっても過言じゃない。だから今、角さんと黒生寺くんの二人が潰れた時点で私たちは間違いなく全滅するんだ」

「て、天馬……」

「厳しい言い方なのは分かっている。……でもね、そのぐらい私たちは追い込まれているんだ」

 

 さきほどの痛みを噛みしめるように。

 そして、黒生寺を案ずるかのように天馬は息をついて唇を開く。

 

「だから黒生寺くん。足を休ませて。角さんのために。黒生寺くん自身のためにも」

「…………ふん、めんどくせえ…………まあいい……今日は疲れたから寝る……」

 

 黒生寺は、目を瞑って俺の手を振り解く。

 そして足を引きずりながら、黒生寺は歩き去っていった。

 

 

 黒生寺の影が消えた後、天馬は俺に向き直る。

 いつものクールの顔立ちだが、心まで見透かしそうな目で俺の視線と合わせてきた。

 

 

「錦織さんに言われたばかりなのに、調子に乗っちゃったかもね。……ありがとう。七島くん」

「い、いや、俺のほうこそ、ごめんな……こんな……俺は……全然、お前みたいに冷静じゃない。ただでさえ萩野のことばかり考えているのに」

「いいの、七島くんが助けようとしてくれただけで、私、嬉しかった。こんな状況で、こんなこと言うのも……変だけど。……心配しないで。七島くんが大丈夫なら、萩野くんも大丈夫だから」

「え?」

「私の勘……っていうのも、これも変かな」

 

 

 彼女はいつもの淡々とした顔立ちで首を傾げた。

 だが、不思議と彼女の言葉は頭に染み渡る。

 ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた黒い思考に、一粒のミルクが落とされたように。

 苦い気持ちを残しながらも、荒れた思考の波が優しく鎮まっていく。

 

 

「ああ……。……俺も。そう思いたい。……そうだ。萩野は……大丈夫だ」

 

 

 噛みしめるように正直な思いを言葉に出してみる。

 天馬はゆっくりと微笑んだ。

 

 

 

 なるほど、錦織が彼女を統率に選んだのも分かった気が……

 

 

 

「わわ、2人とも、ちゅーらぶなのだ! 肩だいちゃってるのだ! このまま今夜はお楽しみになるのかな!?」

「し、しーっ、大豊っ。あなた一体どこでそんな言葉を覚えたの!?」

『えっ、えっ? だれが、らぶらぶなんでちゅか? あ、あちきも見たいでちゅー!』

 

 

 

 …………。

 

 

 

「……今夜はお楽しみってどういうことかな。七島くん知ってる?」

 

 

   

 いいや、さっぱり。

 後、肩を抱いているように見えるのは大豊、お前の錯覚だからな。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん、あ……」

 

 

 

 目を開けたとき、ベッドの上に寝転がっていたことに気づかされる。

 棚には黄金色に磨かれたトロフィー。

 壁にかかっているのはチャンピオンベルト。

 なるほど、ここは自室ってことか。

 

 ……って、なんでだよ。

 

 どうしてベッドで寝てんだ。しかも空きっ腹とは。

 

 寝ぼけ眼のまま頭を掻いているとノック音が聞こえた。

 ……なんだ。七島か。

 ベッドから起き上がり、床に足をつけると、がくんと膝が曲がりそうになった。

 重力に負けかけているってことか……クソ。なまりやがって。

 

 

 気持ちを切り替えるために、パン、パン、と頬を両手で叩き、ゆっくりとドアを開ける。

 

 

「っなんだよ。ななし……あ、れ?」

「ふん……ようやくお目覚めかしら……眠れるボクサーさん……?」

 

 同じ黒髪だったが小柄で赤縁の眼鏡……錦織だった。

 しかも、なんで皿なんか持ってるんだ?

 そういう前にチョップを喰らったかのようにがくりと膝が震える。

 前に倒れ掛かったため、錦織は慌てて後ろに避けた。

 

「ちょ、ちょっと……?! まだ熱があるなら言いなさいよ……!」

「いや、わかんねぇんだ……熱なのか良いのか悪いのかなんなのかがよ……」

「自分の体調すらわからないの……!? 王者は王者でもキング・オブ・馬鹿なのかしらね……!」

「なっ、なにもそこまで言わなくてもっ」

 

 強い語気は喉に絡みつき、言葉がでない。

 錦織はヒステリーを起こす前の顔でベッドを指さす。

 ったく、戻れってことかよ……すごすごとベッドに横になる。

 部屋に入ってきた錦織は、椅子に腰をかけて睨みつけていた。

 ……ってか、なんで睨むんだよ?

 

「……なあ、なにがあったんだ?」

「なるほど……あんた、なんにも覚えてないのね……?」

「お、おい。納得してねえで教えろって」

「聞いたら罪悪感に蝕まれるからやめておきなさい……」

 

 な、なにしやがったんだよ、俺は。

 ええと、覚えているのは裁判で白河が辺見ルカリスだったってことだ。

 犯人の真田が処刑されて、そんで…………

 あ? なんで、こんなに記憶が細切れになってやがんだ?

 

「じゃあ、放送は聞いた……?」

「あン? なんだよ、それ」

「あ、あれでも気づかないわけ……!? 寝太郎並に爆睡してたとは……ああ羨ましいこと……!」

 

 ぶつくさ文句を言う錦織だが、やがて俺からの視線に察したのか口を一瞬噤んだ。

 

 

「元超高校級の怪盗が現れたのよ……」

「え?」

「そいつはマナクマの手先といっても過言じゃないわ……見境なく私たちを襲ってくる危険人物……そのせいで3階から4階への階段がマナクマによって強制的に封じられたわ……その怪盗は厄介な絶望ウイルスが入った注射を持っているわ……そして……」

 

 錦織は俺の鼻先にぴっ、と細い指を向ける。

 

「アンタは、その感染者第一号よ……」

「は?」

「書道家と指揮者が確認したわ……アンタのうなじに注射痕があったみたいよ……自分では気づけないでしょうけど……ちなみに感染者二号は指揮者……」

「お、おい待て待て。整理させろって……そりゃ調子は悪いけどよ……注射はねえって。刺された記憶がねえんだよ」

「注射は最先端なら痛みも最小限に抑えられるのよ……その怪盗は学園のありとあらゆる経路から飛び出す……恐らくマナクマと同じ経路だと私は睨んでいるけど……それなら部屋に出没して寝ている隙に……っていうのは、不可能ではないわよ……?」

 

 ……信じらんねえ。

 この俺が病気だぁ? そんなの冗談じゃねえぞ。

 

 だいたい、マナクマの手先? 怪盗?

 しかも三階から四階が封じられたって言わなかったか?

 誰かが取り残されているとかっていう状況じゃねーだろうな……!?

 

「っつーかよ……そもそも階段が塞がれたって」

「それはアンタが心配することじゃないわ……患者は頭も休めることね……」

「だ、だから、俺は病人なんかじゃ」

 

 荒げようとした声は、差し出された一枚の皿によって止められる。

 湯気がほのかに漂っていて、ぐ、と腹が鳴った。

 

「おじやよ……栄養をつけておきなさい……」

「あ? おじや……おかゆじゃなくてか?」

「こ、これは魚と卵と野菜が入ってるからおじやよ……!」

「わ、わーったよ」

 

 どっちも同じだと思うんだけどな。

 病気は信じたくねえが、調子が悪いのは事実か。

 なにはともあれ、俺のために食事を持ってきてくれたんだ。揚げ足は取れねえ。

 

「さんきゅーな、錦織……」

「ガツガツ食べてむせないことね……」

 

 早速、俺は水っぽいごはんをスプーンで掬ってみた。

 

 ……って、なーんか。

 

「野菜、焦げてね?」

「う……! す、少し火加減を間違えただけよ……」

「タマゴとか潰しちゃったんか?」

「ばっ!? バカにして……!? 卵ぐらい割れるわよっ!?」

「お、おう……ワリぃワリぃ。そーだよな?」

 

 でも、あんまりうまくないのは事実だ。

 そうは言ってるけど、カラ入ってるじゃねえか……。

 

「ま、まあ、なんだ……今度さ。俺が元気になったときに料理でもしようぜ。な?」

「は、はあ……!? なんで……」

「料理って良いスキルだぜ? 根が暗くても料理できるってだけで、おっ、こいつできるなーって、俺は思うしよ」

「あ、あんたに思われたところで、どうだってなんないわよ……!!」

 

 エサを嫌がるペンギンのようにそっぽを向かれてしまった。

 やれやれ、どーすれば素直になるんだよ?

 七島だったら、もう少し気の効いたことでも言えたか。いや、どっちもどっちか。

 

 

 

 ……七島、だったら?

 

 

 

 ふと頭の中で現れた名前にゾワリと身の毛がよだつ。

 あのとき、七島は、俺のことを、あの目で。

 どうして、俺のことをあんな目で見てきやがった。

 

 

 

 そうだ、あの目、あの目、あの目、目、目、目!!

 

 

 

 いまにも俺のもとから逃げ出そうとする、あの怯えた顔。

 

 

 ちがう。これは、ちが……

 

 

「……っ……ぐっ!」

「ちょ、ちょっと……!?」

「ぐっそ……ッがぁぁ……!!」

「……!? なにをして……や、やめなさいッ……!!」

 

 錦織は握り拳を作った左腕を必死に止めようとする。

 だけど、俺の腕が波打つ。燃えたぎる血によって。

 

 俺だって、傷つけたくない。痛いのは嫌だ。違う。俺は痛みを欲している。欲しい、欲しい。

 いや違う。俺は傷つけたくない傷つけたくない傷つけたくない傷つけたくない。俺は傷つけたくない傷つけたくない強い強い傷はいやだ強い強い強い強い強い強い強いいやだいやだいやだ傷つけたくない傷つけたくな――

 

 

「……っぅ!!」

 

 

 破裂音。

 俺の運動神経に電流が流れたのか、左腕はびくりと大きく跳ねてようやく止まった。

 拳は解かれていて……平手となっていた。

 

「にしご……っ!?」

「っぅぅう…………ずっ、随分……派手にやってくれたわね……っ! 加減は少ししてくれたのかしら……?」

 

 目の前の彼女の頬は真っ赤に腫れていた。

 拳とまではいかなかったにしても…………

 同時に一気にざあっ、と豪雨のように罪悪感が降りかかる。

 

「っあ……! に、錦織っ!? す、すまねえ……っ!! お、俺は、なんてこと……っ」

「謝るのはアンタらしくないからやめて……で、でも、これで分かったでしょう……」

「な、なにが、だよ……」

「アンタは病気だってこと。嫌でも理解できたでしょ……?」

 

 肺をクマの大きな手で押しつぶされているようだった。

 まだ、左腕もびりびりと痺れて止まらない。

 こんな感覚は練習でも試合でも味わったことがない。

 今更ながら俺は痛みというものを十分に理解できていなかったことが、今になって思い知らされた。

 

 錦織は軽蔑とも憐れみとも言える表情で俺を見据えていた。

 

 

「ねえ……アンタって、なんで書道家の親友なの……?」

「はあ……っ? なんだよ急に」

「す、少しでも落ち着かせたくて……気休めの雑談……なんでアイツなの?」

「っ……んだよ、ケチつける気か? 友達いなさそうなくせによ」

「いっ!! いいい、言ったわね!? このボクサー様は、人の頬どころか、コンプレックスをまでも、めっためたのぐっちゃぐちゃのどろどろにしちゃうのね……っ!!」

 

 あっ、やべ。妬みに変わってやがる。

 ちょっとした冗談だったのによ。

 

 深呼吸をしながら、ぽん、と錦織の頭に手を置いた。びくりと彼女の首は震えた。

 錦織の頭は小さかった。女性っていうより子供の頭を撫でているみたいだ。

 やましい気持ちより、親しみのほうが近いな。

 

「……いや。なーんて。ま、まあ。おめーにも友達はいんだろ? 七島や、俺だってそうだろ?」

「なっ、なんでいつの間に……って、ていうか、話をすり替えてんじゃないわよ……!」

 

 頭をぶんと振るわれて、手を振り払われてしまった。

 っていうか、話をすり替えるなっつーと……また、さっきの質問に戻っちまうじゃねえか。

 

「なんで、ってなんだよって話だぜ。別に俺はアイツをレンタルしてるわけじゃねーぞ」

「……親友としては歪。そう思っただけよ……」

 

 その後に訪れたのは沈黙だった。

 返す言葉がない俺に錦織は意地悪く唇を歪めた。

 恍惚……勝ったと言わんばかりの笑みを浮かべられた。

 

「ふ、ふふ……図星? 図星なの?」

「んだよ、おめー、さっきから趣味悪ぃな!? ツメを瓶に貯める趣味並に悪趣味かよ!?」

「そ、そんなことないわよ……っ!? これ以上、司書にネクラとオタク以外のマイナスイメージをつけないで……!!」

 

 なんでそこまでネクラになんだよ、こいつは? 

 錦織は、ふんと鼻息を荒げる。

 俺をじろりと流し目で見下す視線を取ってきた。

 

「私から見たら……アンタたちは、ヤマアラシのジレンマの良い模範だと思ってるわ……」

「……あ? どーいうことだよ?」

「寒いところの二匹のヤマアラシがお互いを温めたいと思って身を寄せ合う……だけど、ヤマアラシには針がある。故にお互いに針を持っているから近寄れない……でも温め合いたい……そういう関係性……言わば、哲学用語ね……」

「は、はあ? それがなんだって言うんだよ」

「書道家とボクサーはお互いに相手のためになりたいと思って一緒にいたがる……だけど、アンタたちは本気で分かり合うのが怖くて近寄れない……でも、このままの関係を続けていきたい……ちがう?」

 

 

 おいおい。俺たちが、ヤマアラシだって言いたいんか。

 毛を逆立ててはいねえっての!

 

 

 ……だけど。

 

 

「……悪いかよ」

「な、なによ……」

「だいたいさ。俺がバカだから、そんなヘタな説明をしたのか? ヤマアラシ……いいや、生物にとって、つかず離れずは生きていくうえで、当たり前のことだ。歪なことなんかじゃねえよ」

 

 一瞬だけ、錦織は軽く瞼を震わせた。

 

 ……へっ、バカにされるのは嫌いなクセして、ボクサーはとことんバカにしやがってな。

 だけど、そんな人間臭さをどうにも嫌いになれないのも、俺も同類ってわけか?

 

 

「大切なものを傷つけたくない。そんなの当たり前だ。お前の言う親友ってモンがどういうものを想像しているのかは知らないけどよ。七島をひょんなことで傷つけてしまって、離れ離れになるのは嫌なんだよ……もしも、そんな最悪なことになったら、いったい、どうすればいいんだ。俺は空っぽになっちまう」

「へえ……そこまでアンタたちの友情は……いえ、なんでもないわ……」

 

 錦織はなにか言いたげだったが首を振った。

 なにを思ってるのだか。でも、何度でも言えばいい。

 

 

「だって、俺から七島を取られたら、なんにもないんだぜ」

「な、なにもないって……あんたね……」

「七島は、俺以外に友達がいないって、よく言ってたっけな。でも、俺もそうだった。…………ああ、いや、違うな」

 

 感情がどろりと口から吐き出される。

 どうして、こんなことを。そもそも俺は誰に話しているのだろう。

 錦織か、俺自身か。それとも。

 

 

 

 

 

「ずっと一人だったのは、俺も同じだ」

 

 

 

 

 壁の影が蠢き、心臓が生きるためではない身震いを始める。

 思わず、枕に後頭部を深く埋める。

 重力に任せてずぶずぶと溺れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気がつけば、俺はリングの角に座っているようだった。

 

 

 ……なぜ? 試合のインターバルか?

 対戦相手もいなければ、観客もコーチもいない。錦織も視界からいなくなっている。

 

 真っ白に燃え尽きやがったのか。

 拳一つ動かせず、ただ、俺だけがいる。

 

 俺以外、なにもない。色のない世界。

 独裁者がスイッチでも押して、全人類を消してしまったのだろうか。

 

 

 ……………なんて、バカバカしい。

 

 

 その拍子に、ガキの頃、読んでいたマンガを思い出す。

 なにをやってもダメな少年の元に、未来からやってきた不思議な道具を持っているロボットの話。

 道具の一つに、そいつを被ると誰からも無視されて、石ころ扱いになる帽子というものがあった。

 

 今思えば、あれは拷問道具だったんじゃないか。

 鏡の前に立てば自分は存在しているのに、いないものとして扱われる。

 透明人間とは違う悔しさ、屈辱を味わうことだろう。

 

 

 石ころなんて惨めなものだ。

 認識されても蹴られて、火打ちで身を削られる。

 水切りで飛ばされた挙げ句に汚い川の底へ。ロクなものじゃない。

 

 

 

 そして、俺たち兄弟もそうだった。

 

 

 石ころに慈悲などないと言わんばかりに、両親からはあいさつも感謝も罵倒もない。

 汚れた俺たちをちらりと見ては見ないふりして、オヤジは酒の店に、オフクロはパチンコに。

 たとえ、俺たちが死んでも、きっと変わらぬ日常を過ごしていたことだろう。

 

 

 でも本物の石ころになれたら、どれほどよかったことか。

 俺たちは生きていて、とにもかくにも飢えていた。

 

 コンビニ弁当はラッキー。チョコやポテチもいいもので、きゅうり一本でもごちそう。

 すっからかんが生き地獄。

 スーパーの小分けに包装されたマヨネーズやソースをありったけに持ち帰って食いつなぐ日もあった。

 

 

 ここまで言えば、可哀想な子どもで済んだだろうか。

 だが、俺はどうやらそうじゃなかった。

 

 

 俺は、一番目に生まれてきた特権を持っていた。

 それは、弟たちよりも体が大きいこと。

 だから俺は遺憾なく、その特権を奮った。

 

 泣きわめく弟たちを平手で叩いて黙らせた。

 一つしかない菓子パンをむしり取って、まるごと口に頬張った。

 三兄弟なのに一個しか買ってもらえなかった書道セットや絵の具も全部ひとりじめ。

 だから弟たちはいつでも劣等生だ。

 

 そうして、俺以上にいじめられて見下された弟たち。

 結果が一人は暴走族の下っ端。一人は不登校のひきこもりだ。

 

 

 もちろん、俺自身も不良の劣等品なのは変わりない。

 鬱憤晴らしのケンカは日常生活。

 クラスメイトや先輩後輩、はたまた教師から金を巻き上げ続けた。

 

 暴力は金や食事を得るためだけじゃない。

 拳を振るうことで、俺は認識されていたんだ。

 言われようは「野良犬」だの「バケモノ」だが……生き物扱いされるならマシだった。

 

 

 

 ――マシなもんかよ。あんまりに惨めじゃないか。

 

 

 

 ……まあ。そう言われれば、そうかな。

 そのまま家族全員、堕ちたことにも、自分の不幸さも忘れて堕ちてしまおうかと何度思ったことか。

 

 

 そんな時に、ジムのオーナーに出会って、ボクシングを勧められたのは運命だったのか。

 

 

 これが最後のチャンスだと、すべてを賭けた。

 すべてを捧げた。今まで汚泥に溜まった感情を全て拳にぶつけた。

 

 

 どうか二度と飢えないように。

 

 

 どうか二度と誰からも見放されないように。

 

 

 

 そんな祈りは……奇跡のように叶った。

 

 そうして手に入れたのが、今の才能と栄光だ。

 奇跡の王者、萩野健。それが今の俺だ。

 もう惨めじゃない、腹も満たされている。

 

 だから、俺は勝ったんだ。

 自らの生い立ち、運命そのものに。

 

 

 ……だけど。

 

 

 

 

 ――じゃあ、なんで。オマエは怯えているんだ。

 

 

 

 

 黙れ。……だが、事実だ。

 チャンピオンになった日からだ。

 毎日のように、俺は『なにか』に追われ続けた。

 それはストーカーでもマスコミでもない。

 

 

 

 ――影だ。

 

 

 そう、影だ。

 俺の過去が、いつも背後に立っていた。だから逃げ続けていた。

 

 そいつに捕まってしまったら。もしも、敗北したら。

 無敗の男が負けたら、それは王者じゃない。奇跡の王者なんて、言われなくなっちまうだろう。

 じゃあ、そうなったら、なにが残るというんだ。

 あんな過去に戻りたくない……いいや、ちがう、なにを言ってるんだ。バカか。あの頃の記憶や過去は全部、全部、捨てた。

 

 

 過去のことを『あの頃』と人は言う。

 

 だが、自分に過去などない。

 

 

 自らの手で捨てた。捨てたんだ。捨てたんだろ。そうなんだよ。捨てたどころかないんだよ。

 振り返れど虚空が広がっていた。

 それでも記憶も思い出も、影として、薄汚れた傷跡として残っている。

 

 そして壁に張りついていた痕跡がじわじわ染みる。

 忘れて、なかったものにしたかったモノ。

 

 

 過去が、記憶が、感情が勝手に復元し始める。

 

 

 

 

 

「だから……だ、だから……ッ」

 

 

 

 

 

 いやだ、やメろ、来ルな。

 

 

 

 

 

 オマエハ、チカよルな。

 

 

 

   

 

 オレハ、オマエヲ、ステタ。

 

 

 

 

 

 

 

 オマエハ オレジャナイ!!

 

 

 

 

 

 

「俺は……ッ俺にはなにもない……ないんだよっ!! 俺が負けたら……っ俺は、なんにはなにもなくなるっ!! 未来なんて先の見えないものなんて期待できるかよ!? 負けたら、オレは俺じゃなくなっちまうんだぞっ!? 意味がない、価値がない、なにもかもがないっ!! なあ!!!! オマエにそれが!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 吐き出そうとした呪詛が……飲み込まれた。

 

 途端に、真っ白な世界に色がつく。

 

 

 

 現実の俺は、錦織に口をタオルでしっかりと抑えられていた。

 彼女の怯えた目。今にも逃げ出しそうなほど強張った手。

 タオルに赤い液体が染みとなって付着したのを見て俺は、喉の痛みを知った。

 

 

 

「っ! ……………わ、からない……よな……」

 

 

 

 タオルに粘液混じりの血を思いっきり吐き出す。

 一時的なもので、すぐに止まったようだ。

 だが、人魂を飲み込んだのように喉がじくじくと熱く痛む。

 

 

「……ワリぃ…………なんか言ってたか、俺」

「ブツブツは言ってたわ……私の話以上に聞き取りづらかったけど……」

「……まあ、いいけどよ。聞いてても」

「マナクマ曰く、症状は精神にも異常をきたすものだそうよ…………私も今、十分に目の前で理解させられたわ……」

 

 血に染まった白いタオルを軽く折りたたみ、錦織は目を伏せた。

 

 

「……錦織。さっきの続きだ。なんていうかよ、俺はボクシング以外で求められたかったのかもな。……それが、七島と親友になっている理由の一つ。これが、おめーの質問の答え。満足か?」

「………へ、へえ……それって…………」

「言うな。わかってる、やばいってことは。俺がバカだってことは……わかってんだ」

 

 

 そうは言ってみたが、やっぱり本当に俺は分かっていないようだ。

 

 これ以上、刺激したくないのか、錦織は渋い表情でそっぽを向いた。

 

 

「…………ふざけたウイルスだと話半分で見くびってたわ……悪かったわよ、変な話をして…………だ、だから、もうよしなさい……そんな悲観的な話、アンタらしくないから……」

「へっ。おめーにそんなこと言われるようになっちまうとは。あーあ、奇跡の王者がザマァねえ……」

「だ、だいたい……根暗が二人もいられるのは困るのよ……」

 

 

 そう言って、錦織は苛立たしげにゆっくりと立ち上がった。

 ……なんだ、そろそろ帰るんか。

 

 

 錦織の言う通りだ。俺は七島のためを思って一緒にいる。

 だけど、本気で分かり合いたいとは思ったことがない。

 だから、俺は踏み込みが甘かった。

 頼られれば、それで俺は満足だったからだ。

 

 たとえ俺が石ころでも。

 いいや、石ころだからこそ求められたかった。

 だけど、俺はしょせんガラクタだ。

 

 アイツは俺の強さに助けられ、ありがとうと感謝をして頼ってくれる。

 だが、本当は見ての通り、知っての通りのただの乱暴者だ。

 

 

 もしも、そんな俺を七島に知られてしまったら……

 

 

 ああ、この病は、俺のまさに痛いところを突いてきやがる。

 

 

 ……いっそ負けちまったら楽か。いいや、ダメだ。

 負け知らずの重圧があるとはいえ、病気で負けるのもムカつくんだよ。

 

 

「なあ、錦織。まだ俺は七島の親友でいられるかな」

「は、はぁ……? 知ったことじゃないわよ……」

「へっ、そうかよ……」

「私が不運と友達になるのも……私次第……それと同じ……」

「……なんだ、友達じゃないんか」

「だ、だから、なんでみんな揃いも揃って……っも、もういいから……さっさと寝なさい……っ!」

 

 むんずと毛布をつかまれ、顔に投げかけられてしまった。

 

 まあ、錦織の言うとおりか。

 とりあえず治してから考えっとするか……。

 

 

 それに、こんな形とはいえ自分の抱えていたものを吐き出せたんだ。

 

 

 ……だから、七島にも、すべてをいつかは打ち明けられるだろう。

 

 

 

 

 

 どうやら、俺は……七島と本気で向き合うときがきたのかもしれないな。

 

 

 

 

 

 たった一人の、一番の親友として…………。

 

 

 

 

 

 


 

 

『マナクマ劇場』

 

 

 『マナ と クマ』  作・絵 マナクマ

 

 

 あるところにマナとクマというふたごの兄弟が住んでいました。

 彼らはすんごいおいしい究極のスープを作ろうと夢見て、レシピ本を読み漁りました。

 だけど、どれも見たことのあるものばかり!

 

「こんなの、もうみんなやってるって! オニオンにロメインレタスにオリーブオイルなんてありきたりすぎて欠伸でちゃうよー!」

 

 彼らはありとあらゆる食材を探してスープを作りました。

 

 半殺しのロブスター。

 ゆでたまごから戻した生卵。

 ど根性二十日人参。

 

「おいしい、おいしい!」

 

 森のみんなは大絶賛。

 だけど兄弟は、うんうんとうなっています。

 

「見た目もありきたりだよ。おっぱいに似たケーキ並に飽き飽きしちゃうね。このままじゃ、すぐにパクられちゃうよ!」

 

 兄弟はみんなが試したことがないものを、どんどん入れてみました。

 

 ブタくんの脇腹。

 ゾウさんの上唇。

 キリンさんの首。

 人間さんの腕。

 

 

「こ、これは……! うますぎるぞぉぉ!!」

 

 森のみんなはあまりの美味しさに口から光線を発射して発狂しました。

 それでも、兄弟は三日三晩寝ずに考え続けました。

 

「まだだ! ぼくたちは世界に一つだけのスープを作るんだ!」

 

 こうして、世界中のありとあらゆるキノコを煮詰めて完成した逸品ができあがりました。

 しかし、森のみんなは、キノコの毒によって全員死んでしまいました。

 

 

 しかばねが散らばる静かな森を見た兄弟たち。

 

 

 彼らは、ハッ、と目を見開きました。

 

 

「そうだ! これもスープの材料にしよう! そして、他の森のみんなにふるまうんだ!」

 

 

 業が深いと、人は言うのでしょうか?

 それを人は好奇心と呼ぶのでしょうか?

 それともエゴと批判されるものでしょうか?

 

 でも、どうでもいいことなんですけどね。

 彼らは人間じゃなくてクマだもの。

 

 今日も兄弟はスープをじっくりことこと煮込み続けています。

 あなたの街にも、いつか兄弟が究極のスープをふるまいにやってくるかもしれませんね。

 

 

 

 おしまい

 

 

 


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