ダンガンロンパ(仮)-よみがえり-   作:冷凍かに缶

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学級裁判編 魔境編

 

 

 

" 学級裁判 再開? "

 

 

 

 俺たちは出口がない洞窟の中を彷徨っていた。

 答えの知っていた俺を除いて。

 だから、俺が答えを開拓した今、この迷宮の出口を見つけられたはずなんだ。

 

 それだというのに迷宮から脱出した俺たちが目にした光景は。

 

「え……っと……萩野っち……?」

「危うくGAMEOVERになるところだったな。犯人が主人公で、これがオレたちの出した結論か……なんて言うかと思ったけど安心した。王道そのもの。お約束の展開になってくれた」

「あ、あなた、萩野なの……?」

「それ以外に、どんな答えがあるのか。オレは萩野健だ。どこからどうみても。違うのか」

 

 

 ――魔境。ありえない光景だった。

 

 彼は言った。萩野は生きていると。

 自分自身で、どこからどう見ても萩野そのもの。

 

 さっきから俺たちは堂々巡りをしているようだった。

 件の萩野も多少疲れ気味に首を乱暴に擦っている。

 

 

「貴様……本当に健なのか……?」

「なんで、同じことを何度も言わせるんだろう。そうだ、オレは萩野健。それ以上でもない、それ以下でもない」

「っていうか、ほ、ほんとうに生きてたの!?」

「むしろ死んでいるって思われていたことが驚きだ」

「じゃあ、私たちが見た死んだあなたは、やっぱり……」

「ご察しの通り。あれは作り物の人形。『カリモノ』だ。……すげえよな、替え玉って。それだけでどんな物語も三流に変えちまうんだから。原作はコロッケ好きなロボットの日常を描いた作品が、ゲームでは奇天烈地獄な異世界で横スクロールするっていうぐらい世界観狂わせてくれるよな」

 

 目の前の萩野は、たしかに萩野だった。

 だけど、いつもと喋り方が異なるのは俺の気のせいだろうか。

 それに服装だって違うじゃないか、薄いクリーム色のベストに黒と赤のネクタイ。

 器は同じなのに、中身がすべてが燃え尽きて灰となって消えたような顔立ち。

 

 空薬莢ばかりが転がっているような状況。

 こんな状況で、俺は……萩野に、いいや、これを萩野と呼んでいいのだろうか?

 

 

「な、なあ、君は……いったい、何者だい?」

「何者。今度は質問を変えてきたか。笑えないけど笑わせてくれる。だからオレは萩野健だ」

 

 その男は、平べったい口ぶりで答えた。

 大きな手のひらで、赤い瞳に染まったクマのぬいぐるみの頭を撫でる。

 そのクマの名前は、マナクマと出会う前から知っている。

 

 

 

「"盾子お姉ちゃん"を愛する絶望的なほどに、どこにでもあるような設定のボクサー。それが、オレ」

 

 ……今、なんて言った?

 腹の奥底に備え付けられたコンロに火がつけられたようだった。

 沸々と腸内が煮えたぎる不快感が押し寄せる。

 

 

「盾子お姉ちゃん……? あ、あなた、一体なにを言ってるの……!?」

「オレは事実を述べたまでだ、愚民」

「ぐ、ぐみんっ!? よくわかんないけど、ひどい言葉なのはわかるのだ! あやまるのだー!」

「……ああ、たしかに。今のは謝るよ、さすがに口が悪かった。地球上に有象無象の人種がいるとはいえ、オレはどうやら人間を三種類でしか認識できないもので」

 

 くたびれたように、萩野は首を傾げながら言った。

 そして、右手で三本指を作って折り曲げる。

 

「一つは憐れな凡庸な民衆。もう一つは、オレたちに憎しみを持つ対立民族。最後の一つは…………いま、中二臭いと思ったか。オレもそう思った。今テキトーに決めたから。ちなみにお姉ちゃんは民衆の領域じゃなくて、女神サマだからそこのところよろしく」

「ふざけたことを言ってんじゃねえ……」

「なるほど、オマエも中二病患者か。インフィニティアンリミテッドフレイムでも発動するのか」

「俺の話を聞け……何故、その名を呼んだ……!?」

 

 黒生寺は眉間に皺を寄せ、萩野の額を狙うように銃口を向けた。

 それでも、萩野はまったく動じない。

 黒生寺が撃たないということを知ってか知らずか、呑気にモノクマの手を持ってそれを振っている。

 

 

「どうして、お前が」

 

 やっとのことで喉から疑問を絞りだす。

 神経を削ぎ落とされたような真顔のまま、彼は俺のことを眺めていた。

 だけど、瞳だけは、いつかどこかで見た……いや、いつも俺に見せてくれたような父性が混じった温もり。

 いまは、その温かな眼差しは居心地が悪い。

 

「オレがどうして“こうなった”か知りたいんだろう。ああ、知っているよ。なにもかも」

「ま、まだなんにも言ってな、」

「知ってるんだよ。オレには全部」

 

 萩野はふっ、と息を吐いて握り拳を見せて首を傾げた。

 

「じゃあ、カンタンに話させてもらおうか。できるだけに簡潔に。あまり話すのは慣れていないもんで……その前置きすら、バカらしいか」

 

 結論に辿り着いたはずなのに、また議論が始まろうとしている

 理不尽で、それこそ萩野の独擅場で。

 

 

 

 

「オレが盾子お姉ちゃんに出会ったのは……いいや、会ってないな。オレたちが生まれる前に、本物の盾子お姉ちゃんは命を絶っていた。資料には無様な死なんて書かれているけど、映像を見れば一目瞭然だ。盾子お姉ちゃんは最期まで望みのない器を保ったまま、その身を完膚なきまでに潰した」

「な、なにが言いたいのだ?! 会えてないって言ったよね!?」

「そうだ。本物には会えてないって言わなかったか。"本物"のお姉ちゃんには」

 

 「本物」と萩野はわざとらしく強調した。

 

 

「物語でも現実でもありふれた、まだブタのエサのほうが食べられるほど荒んだ家に生まれ、萩野少年は笑うことも泣き叫ぶことも望まれない世界に放り出された……それでも神は見離さなかった。人生からドロップアウトしようとした萩野少年の"ケータイに送られてきたデータ"。

 

 それが盾子お姉ちゃんの魂だった」

 

 脳裏にフラッシュバックのように映し出されたのは"紙面"だった。

 

 


 

 

『アルターエノシマ撲滅成功

 

 20××年にアルターエノシマが各地に蔓延。N氏を始めとした希望ヶ峰学園78期卒業生によって、20××年6月19日、データ根幹の破壊に成功。プログラムも撲滅が完了し、アルターエノシマをプログラミングしたハッカー組織も逮捕に至る』

 

「これは海外でも話題になっていたわ」

「あー……たしかに、こんなこともあったよな。俺らがマジでガキんぐらいのときだよな?」

 

 記憶が遠いが、その件については俺も聞いたことがある。

 携帯やパソコンなどの電子機器にウィルスとして入り込んで、プログラムで構成された超高校級の絶望が形を変えて蔓延っていた時代があったそうだ。政府や病院施設の停電やハッキング。はたまた人間の洗脳もしていたのではないかなんて荒唐無稽なウワサも聞いたことがある。

 

 


 

 そんなことがありえるのかという疑念。

 そして歴史が今も目の前で繰り返されている事実。

 猜疑と恐怖が入り混じった得体の知れない真実に俺たちは追い詰められていた。

 

「あの時の情報……アルターエノシマ……あれのせいで、お前はこんなことになったのか?」

「あれのせい……いいや、校正がいるな。『せい』じゃなくて、『おかげ』。盾子お姉ちゃんのおかげ。オマエは超高校級の書道家だろう。言葉の使い方はもっと正しくあってくれ。お願いだから」

 

 諭す様に萩野は真顔のまま拳を作った。

 萩野は腕組をしながら顎をひき、少しアンニュイ気味に眉根を寄せた。

 

 

 

「オレが出会った盾子お姉ちゃんはアルターエゴと呼ばれる人工知能だった。ある有名なプログラマーによって作られた魂を宿すプログラム。そのおかげで……希望あってこその、絶望を生み出した世界の秘密を知った。オレは……いや、萩野少年はすべてを解き放つほどの快感を覚えたというじゃないか。そして、盾子お姉ちゃんはラム肉にされかかっていた子羊の萩野少年のことを愛してくれたんだ。この世に絶望という名の愛を与えてくれた。愛と望みと力は紙一重だと。力はすべてを支配できる。そのことを教えてくれたのも盾子お姉ちゃん。

 

 オレはお姉ちゃんの血肉になりたかった、細胞になりたかった。白血球でもよかったかな。なんだっていい、お姉ちゃんに踏まれる名もなき雑草でも石でも。この世界にオレが存在しなくとも。お姉ちゃんのためなら、オレはなんだってできる。してみせるさ」

 

 

 一瞬にして、鳥肌が背筋に浮き上がる。

 一言でそれを形容するなら、"気持ち悪い"。

 萩野は江ノ島の名前を出す度に、愛欲に満ちたような恍惚な瞳へと変貌する……ドーパミンを過剰に得たような快感を彼は惜しげもなく俺たちに見せつけていた。

 

 

 

「盾子お姉ちゃんは美しかった。魅力的で優しく艷やかで完璧な生命体だったのさ」

「でも、資料ではたしか」

『そーなんだ、オマエラも知ってるよね! そのプログラムもすべて抹消されやがったんだ! 盾子ちゃんは今度こそ死んじゃったよ!』

 

 アルターエノシマも消えた。

 だから今度こそ、この世界に脅威の火種はなくなったはずなのに。

 

 

「だから、オレにこれ以上の望みはない。あるとしたら死だけだ」

 

 

 絶望の残り火が、目の前で燻ぶっている。

 

 萩野は証言台に両手をついて、がっくりと項垂れた。

 タバコの煙を吐きだすような、長い、長い吐息が続く。

 

 

「だから、オレはオレを捨てた。盾子お姉ちゃんから受け取ったもの以外のすべての過去を感情を。これまでにあった萩野健という少年を消した。粉々になるほど潰した。つまり、今までオマエらが見ていたのは、粗暴だが頼りがいのあるテンプレな兄貴肌の萩野健という仮面にすぎないんだ」

「つまり二重人格か……?」

「二重人格とは。自分でも阿呆らしいと思えないなんて可哀想に……自分が本当だと思いこんでいるウソってのは、なかなか気づかれないものさ。本心を見透かそうとしても無理だったんじゃないか」

「ど、どういうことなのだ!?」

『あのね。萩野くんって、なんにもない人間なんだ。名前は萩野健なんだけど、過去も性格も捨てちゃって、盾子ちゃん以外なんもない絶望バカ! だけど絶望的に絶望が好きだからそれでよかったんだよ! でも、ほんっとになんもねーんだよな、こいつ! ケーキのスポンジしかねーの! だから、いつもは見栄えがいいように、クリームをべったべたに塗りたくってんだ。言うなれば厚化粧のピエロ野郎なんだよ!』

 

 今度は赤い瞳のクマが、萩野の代わりとなって語る。

 腸の心象を現すかのように、同じように滔々と喋った。

 血まみれのカミソリのような刃を隠して、俺たちには人を守る日本刀のような鋭利な姿を見せていたとでもいうのか。

 

 

 

「過去も捨てたのっぺらぼうの人間が、自分の経歴や性格を入念に作った仮面を被ったら、その仮面に頼って生きるしかないだろう。だから、鑑定士のランボルギーニ……なんだっけ。まあ、いいか。とにかくオマエが覗こうとしても、オレの心なんて見えはしない。実際に、オレだって、自分が何者かわからないんだ。むしろ教えてほしいぐらいだよ。

 

 …………なあ。オレは何者だ。どれほどの価値があるんだ。どうか、その美しい目でオレを値打ちしてくれないか」

 

 そう言って、萩野はランティーユを射止めるように乞うた。

 ひゅ、と一瞬、喉を鳴らしたランティーユだったが、すぐさま武者震いのように頭を振る。

 

 

「ぼ、ぼくはランティーユ・クレール! ……ムッシュ、萩野…………君はどうして、そこまでして過去を」

「盾子お姉ちゃんの存在は認める。だが、それ以外の過去はオレにとっての虚無だ。空洞だ。そんなものに手を伸ばしても仕方のないことだろう。だから、オレは過去を憎んでいる……まさか、絶望病の時にその過去を思い出すとは思わなかったけど……それは、どうでもいいよな、うん、今は関係ない。切り捨てるよ。そんでもって、オレは望みの母胎にも一応入っていた。そしてオレは、この後も波乱万丈だったよ。割愛するけど」

「そこ重要だと思うのだ!?」

「話すの嫌いなんだよ。だらだらと自分語りするのって小者っぽいだろ。辺見の二番煎じは御免だ」

 

 恣意的なまでに滅茶苦茶なアイツは、それでも話すのはあまり好きではないのか。

 めんどくさそうに髪を掻いた。

 硬くてカッコいいと思っていたあの髪が、どんどんと絶望に染まった色に思わされる。

 

 いいや、俺たちは逆に錯覚を見せられていたのかもしれない。

 いままで、ずっと………。

 

 

 

「そうだ。ウソ繋がりで。オマエの親父の肩をぶっ壊したっていう話。あれもウソだよ」

 

 

 オマエと言われたのは俺ではなかった。

 結われた髪を跳ねさせて、目を見開いたのは指揮者の少女だった。

 

「それってパパ……私の父のこと……?!」

「へけ!? いのしかいちょーを殴ってなかったの!?」

「不良仲間の話を適当にかいつまんだ。俺が殴ったって思いこむようにしてウソをつかせてもらったよ」

「じゃ、じゃあ……私の相談に親身になってくれたのは……」

「気のいいアニキ分っていう性格の上の行動。人間らしさを見せるための筋書きとして活用させてもらった。同情される、一定の信頼を得るには見せかけの弱さが必要ということを身に染みて体感させてもらったよ。いささか屈辱的な体験ではあったが、結果としては成功だから良しとしようか」

 

 今まで見ていた萩野の頼りがいのある姿。

 これすらも、すべて計画の内だったというのか?

 

 

「実際のオレはお姉ちゃんの教えを守って、強さを保った結果、超高校級のボクサーになった。試合や相手を事細かく見て、オレは相手のクセやプレイスタイルを分析した。どう動くか、なにをすべきかを瞬時にマッピングして動いてきた。それだけで、ボクサーだけじゃない、なんだってなれることに気づいたんだ。盾子お姉ちゃんの教えてくれたことは、まさに神の賜物、いや、女神の秘宝というべきだ」

 

 "神の賜物"……こんなの崇拝そのものじゃないか

 もっといえば、狂信者なのか?

 そして、その賜物って……。

 

 

「超高校級の絶望と同じ、"分析能力"を、あなたは持ち合わせていたって言うの……!?」

「まさか。教えられたことを実践しただけに過ぎない」

『だって盾子ちゃんの完コピなんて無理だもんね!』

「ああ、そうだとも。これから人類71億人が滅亡して、もう一度71億人が産み落とされようが、お姉ちゃんも、お姉ちゃんの代わりもこの世に君臨することは二度とない。

 

 ……だが、勘違いしないでほしい。オレはボクサーという肩書き自体は好きだからさ」

 

 萩野は大きな左の握り拳を口元に当てた。

 幼子に祝福の口づけをするかのように、彼はぼんやりと目を伏せていた。

 

 

 

「ボクサーには観衆がいるだろう。『強くあれ』『立ち向かえ』『勝利を掴め』……焼け焦がれるほどに熱烈に望まれて贔屓にされる。だから、オレたちは強い相手と戦う。観客たちの希望のおかげで戦える。

 

 歓声。熱気。オレに対して向けられる希望のおかげで、オレは存在している。

 

 それと同じだ。強い希望があるからこそ、絶望も立ち向かえるんだよ。絶望と希望は表裏一体、どんな時代も逃れられない。希望が求められる度に、絶望もまた鈍く輝けるのだから」

 

 

 その瞳は渦を巻いたように薄暗く濁っていた。

 

 こんなにも絶望に飲まれているというのに、どうして、お前は俺たちの傍にいようとするんだ?

 どうして、俺たちの心に寄り添おうとする?

 どうして……お前は俺のことを大切な宝のように見つめ続けているんだ?

 

 

 

「だが、ままごとみたいな学園生活に付き合わされると思うと吐き気がしたけどな。そこは耐えていたよ。ボクサーらしい喧嘩好きな兄貴肌の設定で」

「ぼくたちとの"本当の生活"を、最初から知っていたとでもいうのかい」

「知ってなきゃ一緒にいないだろ。七島と」

 

 飛び出した自分の名前に、肩が異様なほどに震える。

 厚い雲に覆われた大雪の日のように悪寒が襲いかかっている。

 証言台に手をつきながら、天馬は萩野を静かに視線を注いでいた。

 

 

「どうして、七島くんと一緒にいたの?」

「はぁ……オマエ、質問しかできないのか。尊敬するよ、答えしか求められない脳ってネットジャンキーみたいだ」

「そ、それは俺も聞きたい……どうして、俺なんだ?」

「深い意味はない。そこに山があったから登るように、そこに絶望的な種があったから花を咲かせたかった。それと同じじゃないか」

「…………ねえ、本当に理由はないの? それに七島くんは絶望なんてしてない」

「そんな根拠はどこにある。言ってて『どうして私ってこんな質問しか聞けないぐらい脳みそが足りないんだろう』って虚しくならないのか」

 

 質問以外になにを言えばいいのだろう?

 「こんなの冗談だろう」と泣き叫ぶべきなのか?

 

 だけど、そんな体力なんて残っていない。

 天馬も質問を繰り返す余力しかないのか、微かに唇を噛みしめながら萩野を睨むだけだった。

 

 

 

「オマエはオレと一緒で、こいつらと一緒のB組に所属していた。だけど、オマエは特別だったんだよ」

「とく、べつ?」

「特別という名の孤独……あれ、聞き間違いだったか。オマエ、自分で言わなかったっけ」

 

 みんなの顔を見ると少し申し訳なさそうに、同情的な視線が突き刺さった。

 どうやら、本当に言ったみたいだ……過去の俺が、今の俺の唇で。

 

 

「オマエは、保健室生活を余儀なくされていた。病弱で虚弱な体と心のせいで、オマエはまともな学園生活を送れていなかったんだ。希望ヶ峰学園だというのに、希望も見いだせないオマエは…………だれよりも、輝かしい絶望だった。それに、オマエとオレはなにもない者同士。似通っていたのさ。

 

 だから、オレはオマエとすぐに友達になれた。すごく嬉しかったよ。だってオマエは……オレにとって絶対的に絶望的な弱い人間だったのだから。そんなオマエの虚空の日々を埋めるのは……本当に、絶望的なほどに幸せだったんだよ」

 

 過去に思いを馳せているのか?

 遠い目をしていたが……本当に俺にとっても素晴らしい日々だったのか?

 

 

「だから、"ノアの箱庭"にちょっと細工させてもらった。管理者を殴って……失礼。話し合いをしての間違い」

「細工ってなんだよ……?」

「おかしいと思わなかった、というのは天然発言なのか。どうして他のヤツらと違って、オレとオマエだけが"仮の生活"でも一緒のクラスになれていたか……なんて、疑問に思わなかったのか。そこまでオレに信頼を置いてくれていたのか。逆にちょっとそれは絶望的に無神経というか、一図すぎるというか。いや、悪くないけども」

 

 俺たちが仮初の記憶でも一緒のクラスだったということも萩野によって仕組まれていた?

 今まで見て、感じて、触れてきた日常が、なにもかも音をたてて一瞬で崩れる。

 

 アイツは、俺の"今持っている記憶"を無理矢理、奪おうとしている。

 

 

「あなたたちが、切っても切り離せない関係だったって言うことは……偶然ではなくて、あなたによる必然だったとでも言いたいの?」

「まるで、オレたちの仲が偽物だっていいたいのか…………たしかに仲とは違うかもしれないな。どちらにせよオマエはオレに頼るしか道はなかった。オレ以外の信用できる人間はいない。それは変わりない事実であり、覚えていないとしてもオマエの魂に刻まれた、揺るぎない真実なのだから」

「だから、なんだっていうんだよ……!?」

 

 萩野の言葉を止めたのはランティーユだった。

 俺を庇うように、そして、萩野を透明なモノクル越しで睨みつけた。

 

「たしかに、昔は君だけの世界だったかもしれないよ……! でも、今は違う!! ムッシュ七島は、ぼくたちと過ごして、ちゃんと心を開いているんだ! 現に、過去の幻影にも負けずに君のことを引きずりだしたんだ! ぼくたちを騙して、マダム錦織を殺した君とは違うっ!!」

「あっそう」

 

 憤るランティーユとは対照的に、アイツは至極つまらなそうにあしらった。

 

 

 

「オマエは、オレがいなくても生きられる。七島は、そう言い切れると」

 

 

 それは耳打ちではなく、みんなに聞こえる声だったのに。

 耳奥底で囁かれたようで、思わず冷汗が滲み出る。

 臆しちゃいけないと思っていたが、萩野を怯えた目で見ていたせいか。

 

 萩野は目を細めて残念そうに肩を竦めている。

 路地裏の少年を助けようとしたら逃げ去られたように。

 大人しく、助けられていればいいのにと憐れむような顔色で……。

 

 

「そ、そんなことはどうでもいいだろ。……なあ、本当に……お前は錦織を殺したのか?」

 

 

 あえて話題を背けてしまった。

 萩野は微かに鼻で息を鳴らしたが、唇の歪みは見られなかった。

 

 

 

 

 

「いいや、殺してない」

 

 きっぱりと萩野は否定した。

 

 

 

 

「愛しただけだ」

 

 彼から発せられた答えは"異形"そのものだった。

 

 

 

 

「あ、あい……だと……?」

「錦織は望みの母胎に接触していた、それは本当なんだ。錦織は母親への反抗心か絶望に傾いていてオレの味方についてくれた。嫌いじゃなかったんだよ」

「じゃあ、何故……」

「ビコーズアイラブユー。絶望的に好きだったから、愛してあげた」

 

 ……なにを言っているんだ?

 お前はさっきからなにが言いたいんだ?

 

 

「盾子お姉ちゃんは絶望の女……そう言われているが、本当は違う。彼女の真なる肩書は愛の女神だ。ヴィーナスにも勝るほどの愛の象徴。知っているか、死は生と異なり永遠だ。永遠の無という絶望……だから、錦織にはそれを与えたんだ。それをオレの手で行うことで、オレはオレの究極の愛を完成させたんだ。結婚の誓いと同じ。愛する人を殺めることの苦しみを、絶望を胸に刻むこと……永遠に、死の瞬間まで味わえるこの絶望。苦しみの愛を、愛の苦しみを。オレが錦織に与えてあげたんだ」

 

 とめどなく溢れる動機。

 それは非現実的で、俺たちの脳の形とは違ったもので考えられたのではないかという奇妙さ。

 喉越しが良い綺麗な言葉の羅列だというのに、胃がひっくり返ったように吐き気を催す。

 

 

「冗談でしょう……?! あなたのそれは愛なんかじゃない!!」

「愛だよ。全米が泣く、だれもが羨む純愛だろう。オレのすべてを捧げたんだから」

「ふざけないで! 顔まで殴って、髪まで切っ……」

 

 憤怒を露にしていた紅のトーンが一気に落ちる。

 それを萩野は見透かしたように鼻を鳴らす。

 

 

「顔まで殴って、髪まで切って。……それから、どうした。次の言葉はなんだ」

「っ! なっ……お、お前……っ!!」

「勘違いしないでくれないか。ハードポルノはゴメンだ。オレは純愛派だよ。服と顔以外に手は出してない」

 

 オマエたちは、そんなことを思っていたのか。

 そう言わんばかりの軽蔑するような興ざめを向けられる。

 

 

 

 

「も、もういいっ!! 投票を始めよう!!」

 

 まだ語り足りないようだったが、俺は萩野の言葉を無理矢理止めた。

 不満そうに鼻白んで、舐めるような視線を寄越した。

 

「それもそうだな、一旦インターバルを挟もうか。いささか自棄になっているようだから」

「違うっ!! お前のためだ! お前のために……そして、錦織のためにも……この裁判を終わらせなきゃダメなんだ!!」

 

 錦織を殺した犯人は萩野。萩野自身を殺したのも萩野。

 もう決定事項だ。なぜなら彼は自白したんだ。

 ……これ以上、話し合うことなんてない。できない。

 

 

 ならば、歪な形であったけど、それでも……

 

 この裁判を終わらせるのが、かつて親友だった俺の最後の役目だろう……!

 

 

 

「なるほど、オレのためか。それはうれしいね。たしかにオマエの言う通りだ。こんな絶望的にツマラナイ裁判、さっさと終わりにしよう」

 

 慈愛と憐れみは似たような感情なのかもしれないと、ふと、過った。

 

 

 

「と、言いたいところなんだが」

 

 そのときの萩野は俺に慈しみと哀れみの眼差しをかざしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「"それだけ"で本当に終わりにできると思ってるのか」

 

 

 

 

 

 

 躍起になっていた感情がひたりと止まる。

 それでも萩野は静寂に動じることもなく、空虚な瞳で裁判場を眺望している。

 

 

「……どういう意味だ」

「そのまんまの意味。オレは白いタオルを投げられて引き下がるほど絶望的につまらないヤツかっていう意味」

「お前は、つまらなくなんかないだろ」

「どうもありがとう。そのお人よし、心配になるよ」

 

 ……皮肉だったんだけどな。

 それでも今の彼には通用しない。するはずがないのだ。

 

「投票の前に、一つ、話をさせてもらってもいいだろうか。ツマラナイただの身の上話」

「聞きたくない」

「わかった。じゃあ、適当に会話スキップしてくれ」

 

 萩野は語る準備を始めたのか一息吐く。

 

 

「オレは昔から古典文学が大嫌いだった。なんのために勉強するんだよって思ってた。でも、竹取物語だけはベツだった。あれは名作だから」

「おい……貴様、いきなりなんなんだ……!?」

「あの作品のラストって覚えてるか。かぐや姫が帝にくれた不老不死の薬ってヤツ。帝はそれを山に捨てて、捨ててきた山の名前が不死の山となり富士山になった……っていう、しょうもないダジャレオチは好かないが、オレは思うんだ」

 

 喋るのが嫌いと言ったにも関わらず、萩野は唐突に謎めいた長広舌を繰り広げる。

 いったい、なにが言いたいんだ?

 

 

「かぐや姫が帝にあげた秘薬が、もしも"毒薬"だったら……どうなってたのだろうな」

 

 

 ……不老不死の薬が毒だったら?

 そんな気のふれた考察なんて聞いたことがない。

 そもそも、今、こんな状況で竹取物語はまったく関係ないだろう。

 

 それでも、萩野は大真面目に平然と語り続ける。

 

 

「だが、オレがかぐや姫だったら、そうする。人間界で帝が他の女に取られるぐらいなら、帝に毒を飲ませて亡き者にする。自分だけの永遠の契りとして留めたい。人間って誰しもそういう欲があるものだろう。かぐや姫は、月から来たから人間じゃないって言っちゃおしまいだけど。それでも彼女は感情を知っていたじゃないか。天の羽衣を着せられるまで……そう、同じなんだよ。まったく同じ」

「ね、ねえ……ちょっと!! いきなりなんなのだ!? なにが言いたいの!?」

「悪い、興奮してしまった。オマエは感情が市場に並んだマグロみたいに分かりづらいってよく言われるのにな。

 

 ……あのな、科学室に"羽衣"っていう薬があったんだよ。それと同じだって意味で思ったから。

 実は、こんな資料をある人物からもらっていたもので」

 

 資料? 『羽衣』という薬?

 そう言って、萩野は一つの紙を提示した。

 古びた羊皮紙にも見える……そのぐらいボロボロの用紙だった。

 

 

 

『羽衣(H-TS281203/powerful medicine)』

 

 "観測者グループ"の一員が学園に所蔵されていた薬に手を加えて改良した毒薬。

 無味無臭だが、一滴でじわじわと心臓、血の巡りを不規則にさせる。

 最終的には、15時間以内に呼吸停止、あるいは吐血による失血死で死亡する。

 科学準備室の第5番棚の上から3番目の引き出しにある劇薬区分に保管されている。

 

 

 

 ……どういうことだ?

 "観測者グループ"……以前にこの名前は出ていたけれど。

 文章の意味はわかる、わかるけれど……

 

「待ってちょうだい! その情報はどこにあったの? まさか、"動機"を渡さなかったということ? マナクマを操作していたならできるわよね……!?」

「そんな卑怯な真似はしない。この情報はオマエたちに教えてもらった。そうだろう、ランティーユ」

「…………え、?」

 

 萩野の声に、俺たちは一斉に視線を向ける。

 そして、声の主は軽い疑念の声をあげた。

 

 

 

「余計なお世話だが、今度からは日本語の読みの勉強もしておいたほうがいい」

 

 

 視線の矢を向けられたランティーユは、その鋭さに目を開き体を縮ませる。

 

 

「なっ……なにが? な、なんで、ぼくなんだよ……!?」

「忘れるなんて悲しいな。オレを信用してくれたから、これを渡してくれたんじゃないか」

「Que voulez-vous dire?」

 

 どういうことだとランティーユは口走ったのだろう。

 萩野は目を瞑って、わからないのかと残念がっているようだ。

 

「え、えっと、ランティーユの動機はアンタが持ってたんだよね!? それで、あたしたちにも見せてくれたよね、2枚!」

「そうだな。1枚目はオレのもの。もう1枚は錦織の分さ。だから、錦織の"情報"はどこにもなかった……そして、オレは錦織の文章を読み上げた。それだけに過ぎない」

「ふ、ふざけたマネを……! 俺たちには、ランティーユからもらったものだって言っただろ……!」

「高校生にして記憶喪失か。確かにランティーユから動機の紙はもらったが、オレは『ランティーユからもらった情報を見せる』とは一度も言ってない。これに関してはバックログを確認してくることをオススメする。だが、そもそもランティーユが中身を分かっていれば、こんなことにはならなかった」

「な、なんてことを……そ、それじゃあ……ぼくは……?!」

「オレに毒を渡したのはオマエだよ。ランティーユ・クレール」

 

 端的に、その男は言い放った。

 「ダメ!」と大豊の甲高い声が響き渡った。

 彼女は余命幾ばくかと宣言されたようなランティーユと目を合わせようと必死だ。

 

 だが、ヤツは……萩野は、ランティーユを本格的に追いつめようとしている。

 

 

 

「ちがうよランティーユ!! 聞いちゃダメなのだ!! アイツは動機の紙のことも全部知ってたんだよ! アイツが騙しただけだから!! ランティーユはなんにも悪くないのだっ!!」

「よく聞け、ランティーユ。今からオレが語るのは、オマエがなによりも愛してやまない“真実”の話だ」

 

 証言台から降りた萩野は、つか、つか、とわざとらしい足音を鳴らして歩み寄る。

 身動ぐランティーユの背後に、す、と影のように立ち止まる。

 

 

 

「ランティーユ。オマエは、『オレ』を信じて、毒の情報を、オマエ自身の意志で渡してくれた。七島も、錦織も、天馬も、仲間たちを疑い、真実を暴き出したつもりだったんだろう。オマエが憎んだ辺見も、愛する母国が成し遂げた革命の如く、正義の名のもとに断罪できたと、さぞ歓喜したことだろう」

 

 萩野はランティーユを見下ろして告げる。

 いま、劇薬の言葉が彼に降り注がれようとしている。

 

 だが、それを止めようにも、体も言葉も動かなかった。

 まるで萩野が絶対的な王様で、俺たちが逆らえない配下のように……だれも、動けなかった。

 

 

 

「だが、オマエは、このオレを、信じた。信頼できる人間だと情報を渡したんだ。『話し合いに顔は出さなくてもいい。だけど、みんなのために情報は見せたいんだ』 オレは、そう言っただけだ。脅迫も誘導もまったくしていない。それは、オマエがよく知っているはずだ。オレの手が奪い取ったんじゃない。オマエのこの手だ。オマエ自身の意志で、オレに渡してくれたんだ。忘れたとは言わせない。だって、オマエが一番、わかってるだろう」

 

 「聞いちゃダメ!!」と大豊が大声で叫ぶ。

 だが、ランティーユは、愛する彼女の声すら届いていない。

 

 目を見開いたまま、萩野だけを食い入るように見上げていた。

 理不尽を目の前にして凍りつき、ギロチンの刃を前にした罪人の如く、歯をがたがたと震わせる。

 

 

「でも残念だよ。その目は歪んだ、おもちゃのビー玉だったんだ。だって、ニセモノの人形とホンモノのヒトの区別もつけなかったものな」

「……っう、ぅ、あ……!?」

 

 萩野は背後から指を伸ばすと、ランティーユの左目元をぐっと押した。

 指の腹で押された瞬間、ランティーユの喉からは目玉が抉られたような呻き声が漏れ出す。

 

 恐怖や屈辱によって、彼自身が大切にしてきた“誇り”に絶望の刃が突き立てられる。

 

 

 

 

「これで、やっと理解してくれたかな。

 オレの真実を見抜けなかった、『鑑定士を名乗る、ただのランティーユ・クレールくん』」

 

 

 萩野の一言で、ランティーユは膝から地面へと……崩れ落ちた。

 それは、まるで斬首された首が転がるような音だった。

 

 彼は、この瞬間――自分の目を"疑った"のだろう。

 

 ランティーユ!!と大豊は叫んで、すぐさま彼の元へと駆け出す。

 萩野はほんの少しだけ勝ち誇ったように、2人を見下ろして立っていた。

 肩を震わせて大豊は怯えるも、すぐさまキッと一瞬だけ睨んで、ランティーユに必死に声をかける。

 

 

「……さて、話を戻そう。説明通り、毒の効き目は本物だ。煙が天にのぼるように、じわじわと死に至らしめる。タイムリミットは月が現れるまでっていう意味か……書いてある通り、おおよそ15時間後だろう」

「で、でも、だからって……それが、どうしたっていうの? あなたは、一体、なにが言いたいの!?」

「オマエに解答権はない。解答者は七島だから」

 

 紅を冷たくあしらい、萩野は俺に人差し指を向けた。

 

 

「七島。ここまで言えば、わかるだろう」

「…………わからない」

「わからないって、すごいなオマエ。どこまでのんきなスローライフを送りたいんだ」

「わからないんだよ……なあ……お前は本当に萩野なのか?」

 

 絞り出すように言うと、萩野は肯定も否定もせずに今度は俺に歩み寄った。

 先程まで語りかけたランティーユのことなど綺麗さっぱりと忘れた、軽やかな足取りだった。

 

 ……恐ろしいことに、どこからどこまでも萩野だった。

 

 

「へへっ、そうだぜ。オレは萩野健だ。ほら、な」

 

 萩野の肩が俺の右肩にどんとぶつかった。

 そして萩野は背後に立って、俺の両肩をがっしりと捕えた。

 思わず、反射的に身を捩ったがほとんど動かなかった。

 

 

「どうして、わざわざ"毒の話"をしたのか……そのぐらいは理解ってくれないか」

 

 そんなこと、わかるものか。

 一喝したいが、萩野はまた自分の証言台に立って、さて、と一息吐いた。

 

 

 

「さあ、時間だ。答えろ」

  

 設定されたタイムリミットの前に解けと言わんばかりに、脳内は目まぐるしく回転する。

 そして一つのワンシーンが頭を過ぎった。

 それはみんなが集っている食堂の場面だった。

 

 

 


 

 

 ここにいるのは俺と、天馬と紅に大豊、そして黒生寺。

 萩野もおぼんにティーカップをのせて厨房から戻ってきた。

 彼も同じく、空席が目立つ食堂に肩を落としたようだ。

 

「まー、茶でも飲みながら話そうぜ。肩が張ってちゃバテちまうからな」

 

 

 

 

「おうよ、後で俺も本腰入れて探すから。とりあえず今は俺らで情報交換だ。ほら、座った座った!」

 

 俺と黒生寺は急かされて椅子に腰を掛けた。

 すでにテーブルの上には、亜麻色の紅茶が注がれた白いティーカップが置かれている。俺と黒生寺は同時にそれぞれのティーカップを手に取って口に含む。

 口内に温かいミルクティーが染み渡り、緊張していた喉が溶けるように緩んだ。

 

 


 

 

 

 

 

「……っ!! お、お前……ふざけてるのか……!?」

「オレは大真面目だ。いつだってな。さて、タイムオーバー前に回答をどうぞ」

 

 こんなふざけた答えを導き出すために。

 

 

 

 

 

 

 

「まさか……入れたのか?」

 

「入れた……だと……?」

 

 アイツは、こんな質問を投げるために実行したというのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………"紅茶"だよ」

 

 そして、俺に答えを解かせるために。

 

 

 

 

 

 

 

「…………え!? う、うそ……こっ、こここ紅茶って……まさか!?」

 

 

 愕然とした俺たちを前にして、萩野は絶望的な感情を満面に浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、よくできました、大正解。

 

 オレはランティーユの情報で手に入れた毒を、オマエたちが飲む紅茶に入れたんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 がたっ、と一斉に衝撃がぶつかり合った。

 

 黒生寺は後ろに後ずさり、紅はすぐさま口を抑える。

 大豊は口元を戦慄かせ、天馬はきゅっと拳を握りしめる。

 俺も手が恐怖で震え始めていた。背筋に寒気がびっしりと張り付いている。

 頭から硫酸を浴びたかのような、決壊したダムの水が壁となって迫ってくるような、途方もない絶望の渦に吸い込まれる。

 

 

「すっ……げえ……切れていたはずの琴線が動きやがった……気がするぐらいの絶望的光景。ああ、いいな。一生は見られないからこそ、生涯をかけて眺めていたいものだ」

 

 萩野は目を爛々とさせて、興奮のあまりか多少息が乱れていた。

 

 誰も、なにも言えなかった。

 言えるわけがない。なにを言えばいいんだ。

 

 毒を飲んでいないランティーユですら悲鳴も上げることができていない。

 むしろ、彼だけは唯一毒を飲んでいないからこそだ。

 過呼吸を起こしているのか、何度も苦しげにしゃくり上げる。 

 厄災に太刀打ちができない小さな村の民のように、背を丸くして土下座をするように蹲るだけだった。

 

 

 

「くっ……くそ、くそが……くそがァッ!! 騙し打ちとは荒くれ者以下だな!! 貴様ッ!!」

「本職によるお褒めの言葉、実に光栄。…………ふう。気分が良くなったところで話を変えよう」

 

 諸君と言わんばかりに、萩野は両手を上げて制する。

 

 

 

「まあ、落ち着け。闇雲に絶望するな。オレは皆殺しを計るほど殺戮大好き人間ではないから。賢明なる王が簡単に虐殺なんてしないようにな。王が人を殺すとしたら、見せしめって時ぐらいだろう。……だから、毒を入れたのは“一杯の紅茶”だけだ。ほら、安心しただろう」

 

 一杯の紅茶だけで、皆殺しではない。

 だからなんだという話だ。それがなんの慰みになるんだ。

 

 

「ふ、ふざけたことを言わないで! だれを犠牲にしたの!?」

「紅。オマエだったら、どうする。『オマエでした』って言ったら……あくまでこれは一例だから参考にはしなくていいけど」

 

 おどけたように萩野は彼女を挑発した。

 その声のトーンは至極最低な感情によって彩られている。

 

 

 

 

「それでは、悲しくも惨たらしい被害者の名前を発表…………と言いたいところだがな」

 

 萩野は手を上げて高らかに発表する……かと思いきや、その手は頭の上に着地する。

 そして、その拍子で頭を掻いて溜息を吐いた。

 

 

「なっ、なんなのだっ!? もったいぶらないでよっ!!」

「オマエら、『魔』を信用してるか。魔が差したってヤツ」

 

 ……魔が差した。悪魔が唆したとでもいうのか?

 そもそも悪魔が、お前自身じゃないのか?

 

 

「一杯の紅茶に毒を混ぜた後に、ふと、オレはぐるぐるとティーカップが載ったおぼんを回してみたんだ。バターになって溶けちまうのかってぐらい回転させたもので。………それでさ、あのカップって色も形も全部一緒だろう。だからさ、」

 

 毒を入れた後に、おぼんをぐるぐる回した……その行為が、意味することは分かっている。

 だけど、知りたくない。分かりたくもない。

 

 

 

「だれが飲んだかオレも知らないんだよ」

 

 それでも、アイツはいとも簡単にその真実を明かした。

 証言台から発せられる音や声は激しさを増すばかりだ。

 

 

「わ……っ、わからないだと……!?」

「な、……なんなの? さっきから、あなたはなにを言っているの……?!」

「ふっ、ふざけないでよ?! な、っなんで、なんでこんな……なんでぇっ!?」

「なんでと言われても、しょうがないだろ。分からないものを分かろうとしたって意味がない。諦めてくれ。それか過去のオレを責めることだな。そうでもしない限り未来は変えられないんだ。今のオレを責めてもしょうがないだろう。今のオレを罵ったところでオレが困るだけで、現実はなにも変わらないことは、オマエたちも知ってるはずだ」

 

 糾弾されて萩野は少しだけ声を落として、悲しげな声色をした……何故だ?

 

 "死なないでくれよ、七島。絶対に"

 

 いつか厨房で言われた言葉……あれは紅茶を飲んだ後の話だ。

 まさか、あれは萩野の本心だというのか?

 毒を忍ばせて、自分でも入れたカップをわからなくして。俺にこんなことを言って涙ぐむなんて。

 

 

 ……………お前、おかしいんじゃないか。

 

 

「でも、最初に言っておこうか。オレは毒を飲ませてない」

「な、なにを、言っているんだ……!?」

「そいつは、自分から紅茶を飲んだ。だから自殺だ」

「自殺……!? あなたが殺したも同然じゃない……っ!」

「毒を仕込んで、それを投げさせて投げた相手を犯人にするって話を知っているか。……あれと同じ。オレは毒を仕込んで紅茶に入れた。そして紅茶を選んで飲んだ相手が犯人。そういうことだ」

「クソが……ッ!! 屁理屈を捏ねてんじゃねえぞ……!」

「錦織は殺してない、愛を与えた。だけど、紅茶に毒を入れた相手はオレにとってはどうでもいい。だから自分で自分を殺させる。……難しいことは言っていないはずだがな。なんでわからないんだろ」

 

 萩野は不思議そうに首を傾げた。

 おかしくないか、と言わんばかりの惚けた顔だった。

 

 

 

「こんなにも悲しいことってあるのか。オマエたちが、なにをさっきから焦ってるのか理解ができないなんて。いずれ、そいつが血を吐いて倒れればわかる話なのに。オマエたち、まさかとは思うが……いま、その毒を飲んだヤツを知りたいとか」

 

 「待っていた」と言わんばかりに萩野は唇を少しだけ、歪な形ではあるが緩ませていた。

 

 

 

「なら、教えてあげるよ。七島、答えてくれ」

「え……?」

 

 このタイミングで、どうしてお前は俺に振るんだ。

 萩野は目を伏せたまま、左腕で抱いていたモノクマを顔元に寄せた。

 

 

 

『どうしてって言いたいの? 今までやってきたことでしょう! なにをいまさら躊躇ってんの? 何度も真実を暴いてきたんだ。だから、最後までやるんだよ! それにさ!!』

 

 

 ちらり、とモノクマの背後からアイツは顔を覗かせた。

 かくれんぼで見つかった子供のような、無邪気な小悪魔のような顔立ちで。

 

 

 

 

「もしかしたら……いいや、もしかしてなんかじゃない。オマエだって、本当はわかっているんじゃないかな。だって、オレも信じているんだ」

 

 もしかしたら?

 いまは、そんな言葉は聞きたくない。

 

 

 

 

 

 

「だって、思わないのか。6分の1の確率で毒を引くヤツ。そんなのってさ。

 

 

 

 …………絶望的に『運がない』だろ」

 

 

 やめろ。やめてくれ。

 考えたくないんだ、俺はそんな言葉信じたくない。

 

 

 

 

「まだ嘘だと思っているのか。信じられないのか。だが、この中に毒を飲んだヤツがいるのは事実だよ。だから、答えるんだ。オレはオマエに花を持たせたいんだよ。オレもなかなか優しいところがあるだろ」

 

 お前が、優しいだって?

 ああ、そうだな、お前はずっと優しかったよ。

 

 だけど、今はこんな優しさはいらない。

 嘔吐しているのに、おいしいだろうと御馳走を口いっぱい詰め込まれているのと同じだ。

 

 

 

 

「七島。ここまで辿り着いてしまった以上、オレはオマエの背中を見送るだけしかできないんだよ。オマエ自身が、オマエ自身の手で、絶望の真実を照らし出すんだ」

 

 

 

 どうしてなんだよ。

 

 

 どうして俺に、こんなことを言わせようとするんだよ。

 

 

 

 なあ、萩野。どうして…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「オレはオマエのことわかってる。……だから、もういいよ。

 

 『どうして』は聞き飽きたから。"考えるな。答えろ"」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「神に見離され、運にも愛想をつかされた哀れな加害者であり被害者の名前を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………天馬なのか」

 

 声は小刻みに震えてしまった。

 それは涙声だったのか、わからない。わかるはずもない。

 

 

 呼ばれてしまった“彼女"は、少しだけ申し訳なさそうな顔で……困惑したような笑みを浮かべながら。

 

 

 

「そう、みたいだね」

 

 

 小さな声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、それを瞬時に打ち消したのは、間抜けなクラッカー音だった。

 

 

「わかっていた。オマエは答えてくれるとオレは信じていた」

 

 ぐらり、と天馬の体が大きく揺れる。

 彼女は証言台に手をついて深く、深く項垂れた。

 必死に息を整えているが、呼吸のリズムが乱れているようだった。

 

 

 先程から薄らと汗をかき、切羽詰まった様子は緊張からではなかったというのか。

 彼女の命の灯火が揺れていたせいなのか。

 

 それでも、彼女は真実を求めようとした。

 アイツの毒牙にかかっていることも知らずに、立ち向かおうとしていた。

 

 ……絶望のタイムリミットを刻み続けながら。

 

 

 

「やあ。ご苦労さん」

 

 絶望のクマに扮した、災厄の悪魔に。

 

 

 

「15時間以上経ってるのに、よく耐えたほうじゃないか。これで『生き汚い生命力』の実績をアンロックしたかな」

 

 男は腕時計を軽く確認しながら、証言台を降りて彼女の背後に立った。

 天馬は今にも床に膝がつきそうな角度で倒れ掛かっていた。

 

 だが、ヤツは彼女の腹に拳を当てて無理矢理立たせる。

 彼女の踵が浮いて、勢いよくつま先立ちにさせられる。

 

 

「っぅ!? ……っ!!」

「なあ、七島の隣にいられるのは幸せだったか。へえ。なるほど。そうか。それはよかった」

 

 やめろ。

 

 萩野の大きな拳が天馬のお腹にねじ込まれる。

 青褪めた天馬の唇から息が漏れるが、彼女は必死に両手で口を抑えた。

 

 

 

「オレだって女子供に手はあげたくないのは本心……なるほどな、本当の心と書いて本心とはよく言ったものだ。なら、オレも真人間だったのかな。錦織が死んだとき、オレは本当は悲しくて。悲しくて…………心臓が張り裂けるかと思ったよ。あんなことしたくなかったのに。それは本当なんだ」

 

 わざとらしくゆっくりと、平然とした口ぶりで。

 彼は彼女のお腹に拳をぐいぐいと埋めていく。

 

 やめろ、ふざけるな。

 

 早く動かなければ。

 

 天馬を助けないと…………。

 

 

 だけど、体が思うように動かなかった。

 どうしてだ。「これは夢だ」と脳が錯覚しているのか。

 だけど、俺だってそう思いたいんだ。そうであってほしいんだよ。

 

 こんなの夢だ。いま、俺は悪夢を見ているだけだと。

 

 

 

 

「だけど天馬。オマエはいらない。これも本心だよ」

 

 

 親友だったヤツが、俺の大切な人を憎んでいた。

 じゃあ、俺は誰を助ければいいんだ。

 

 俺は、どうすればよかったんだ。

 どうすれば、天馬を。萩野を。

 

 

 

「錦織も、七島も、オマエを守ろうとする。不運のクセに守られているオマエが本当は許せなかった。昔からオマエの前向きな希望が大嫌いだった。お情けをかけてあげたけど、やっぱり嫌いだった。不運のクセして、どうして希望に惨めに縋るのかも理解不能でああなんて中途半端で誰よりも虚しくてツマラナイ人生送ってんだろう……って何度か同情してたけど、オマエは同情を甘受していればよかっただけなのに。オマエはどうして七島の手を取ろうとするんだ。惨めなクセして」

「っわ……私の人生は、つまらなくなんかない……っ」

 

 答えるも、天馬はすぐにもう一度口を手で押さえた。

 アイツは疲れたように溜息を吐きながら、握り拳に力をこめている。

 

 

「……事実のすり替えは困るんだけどな。何回でもいうよ。オマエは不運っていう無価値のツマラナイ才能。……ああ、ごめん。いまのは間違えた。そもそも、才能なんてないんだ。オマエは一生不幸だ。オマエはだれかの希望になれないんだよ。……今からでも遅くないぞ。絶望はオマエをいつでも待っているから」

 

 天馬のお腹に右拳を埋めながら、アイツは彼女の肩にもう片方の手をのせた。

 

 

 

「天馬。もういいだろう。悪あがきも無駄な抵抗もやめちまえ。最期ぐらいは自分の身の程を弁えてもいいんだ。死にたくないって泣き叫べよ。だって最期だろ。せっかくの最期なのに。……こんなの惨めだろ」

「ちがう……ちがう、ちがうよっ! 私は――……っ!!」

 

 

 

 天馬に似合わない叫びと同時に、彼女の口から吐き出されたのは。

 

 

 

 

 

 ――真っ赤な。真っ赤な。

 

 

 

 

 

 萩野は天馬の腹から拳をようやく剥がした。

 後は流れに任せるような諦観だった。

 

 拳が離れたと同時に、両膝が床につき、彼女の体がどさりと床に落ちる。

 なんとか体を起こそうとしているが、腕がずる、ずると重力に負けて沈んでいく。

 何度も咳き込み、赤い星屑に似た命が唇の間から溢れ、零れている。

 

 

「派手にいったな、不運さん」

「っうぅ゛……ち、がうよ。私は……ぁ、不運じゃ、な゛……い……」

「はあぁぁ………そっか。…………ま、だ、い、う、か」

 

 わざとらしい大きな溜息を吐いて、天馬の髪を鷲掴むように掌を伸ばそうとする。

 

 

 

 

 その前に、体がようやく動いてくれた。

 

 

 

 

 ヤツに飛びかかると、すぐさま壁際に追いつめた。

 火事場の馬鹿力というのか、彼の大きい両肩はいとも簡単に壁に押しつけられた。

 

 ……驚くほどに抵抗されなかった。

 むしろ、筋力がするすると抜けているようだった。

 

 

 ……どうしてだよ。

 

 

 

「ああ、こわいこわい。また過呼吸にでもなったらどうするつもりだ」

 

 

 こわいと言いながらも、至極、穏やかな口ぶりで萩野は俺の顔を眺めていた。

 

 俺は、どんな顔をしているのだろう。

 いや、知ったことじゃない。

 それが狂気に満たされていようが、そんなことはどうだっていいんだ。

 

 

 …………だって、今、落ち着くべきはお前だろ?

 

 

 

 

 

「オレは落ち着いてるよ。いつだって」

 

 

 ――オマエはちがうようだけど。

 

 

 心を見透かしたように、萩野は静かに呟いていた。

 

 落ち着いているだって?

 なにが、どうして、そこまで、お前をこんな風にさせてしまったんだ。

 お前は、ずっと嘘をついているんだろう? 信じない。俺はなにも信じない。

 

 

 本当に、天馬に、毒を、お前が。飲ませる。わけが。

 

 

 

 

 天馬を殺すなんて。

 

 

 

 

 天馬が死ぬなんて。

 

 

 

 

 

 ありえない。そんな現実は認めない。

 

 きっと、これは夢なんだ。そうだと言ってくれよ。

 

 

 

 

 だって、お前は、

 

 

 

 

「………っ、う、わっ!?」

 

 突如背後から首根っこを引っ張られ、萩野が遠くなったと思ったと同時に尻餅をついた。

 

 代わるように、萩野の眼前に立って、彼の両腕を壁に抑えつけているのは……。

 ひたりと、萩野の顔が一瞬強張った。

 そして、鼻白んだようにツンと顎の先を向ける。

 

 

「……なんだオマエ。映画版のガキ大将にでもなったのか」

 

 黒生寺が萩野の両腕を壁に押さえつけていた。

 いつかの食堂で怒りに満ちた黒生寺を羽交い締めにした萩野の光景とは真逆だった。

 尻もちをついたままの俺を、黒生寺は咎めるように見下ろす。

 

 

 

「竜之介……ッ! いま、向き合うべき相手は……こいつじゃないだろ……ッ!」

 

 

 「早く行け」と咎めるような眼光で、黒生寺は促した。

 

 

 

 その視線の先は……。

 

 

 彼女の周りには、涙を溜めて膝をついた紅。

 首をいやいやと振って口を震わせている大豊。

 茫然と立ち尽くしているランティーユ…………。

 

 

 …………ああ。…………そうか……。

 よろめく足取りで立ち上がり、彼女の元に向かっていた。

 

 

 かち、こち、かちこちと、時間の針が頭の中でうるさく鳴り響いている。

 

 頼む、お願いだから止まってくれ。時間が戻ってくれ。

 

 

 

 

 彼女は。

 

 

 

 天馬、は――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「天馬」

 

 

 天馬は、紅の膝の上に頭をのせて、ぼんやりと天を仰いでいた。

 目は微かながらに、ちらちらと動いていた。

 近づいてきた俺の姿を見るなり、柔らかな頬をゆっくりと緩ませる。

 血の気は失われていて、肌は病的なまでに青白く一段と薄かった。

 

「……あ、……よか、った……」

「よ、よくないのだ! だ、だって……だってぇ……!!」

 

 白くて柔らかい顎には、とめどなく血が流れている。

 それでも、天馬は……なんで、笑っているんだ?

 

「うう、ん……いいんだよ……だって……私、不運じゃなか、ったから。みんな、私のこと。看取って、くれる、から」

「あ、あなた、なに言ってるの……?」

「死ぬとき……は、一人かな、って思ってたけど……こうして……見守られて死ぬか、ら……、私、幸せなんだ、って……」

 

 幸せだって?

 どうしてこんな時まで……こんなことを……。

 

 

 

「だ、だめなのだ! いままで大変なこともがんばってきたじゃん! 死んじゃヤなのだっ!! ね、ねえ、ねえってば! だれか天馬っちを助けてよぉ……!!」

 

 

「わ、わたしだって、いつもあなたに助けられたのに……ちがう、ダメよっ! まだ終わってなんかない!! 天馬っ! しっかりして……! 生きて……!! あなたは生きるのよ……っ!!」

 

 

「マダム天馬……っ! 君は不運だろうがなかろうが、ぼくらの仲間だろう……?! 君はぼくを信じてくれた……みんなを信じてくれたじゃないかっ!! だから死ぬなんて絶対にダメだっ! な、なのに、ぼくは、きみを疑って……っ! ぼくのせいだ、ぼ、ぼくが、あ、アイツのことを信じたせいで……ああぁぁぁぁあぁぁっ!!」

 

 

 童女のように泣き叫ぶ大豊。

 

 懇願して無数の涙を落とす紅。

 

 自らの過ちに慟哭するランティーユ。

 

 裁判場は血涙も厭わずに、彼らが枯れて萎むのを望むように悲鳴が溢れる。

 

 

 

「もう、いい、んだよ……っ……お願い、だから……自分を、責めない、で……ね、え、大豊さん……っ、紅さん……ランティーユくん……そ、れに、黒生寺くんも……ありがと、う…………」

 

 黒生寺は背中を向けて黙したままだった。

 萩野を最大限の力を出して食い止めているのだろう、小刻みに腕が震えるだけだった。

 

 

 

「天馬」

 

「七島くん」

 

 

 今は彼女の名前を呼びかけたい。呼び続けたい。

 

 そうでもしないと、俺は………。

 

 

 

「天馬」

「七島くん……私、ね。七島くん、に会え……て、よかっ、た」

 

 俺だって。いや、俺のほうが。

 会えてよかった。会えたのが奇跡、なんじゃないのか。

 まだ、御礼も言えてない……人生を賭けてでも返さなきゃいけないぐらいに。

 

 

 

「私、ね。七島くんに、いつも、助け……られてた、から……本当に、ありが、と……う……」

 

 なにを言ってるんだ。助けられていたのは俺のほうじゃないか。

 これからも、お前を助けなきゃいけないのに。

 

 

 ――天馬。

 

 

「天馬、お前は……本当は、不運じゃなかったんだろう」

「……う、ん……そう、みたい……不運じゃ、なかった。………でも、ね。七島くん……不運じゃなかった時の、私……それは、遠い……過去、……だから」

「過去だからって……でも、お前は」

「振り返っても……っ才能は、返ってこな……で、も、いいんだ。私、っ……幸せ、だよ。不運、じゃなくて、きっと……幸、せ者、なんだ」

 

 幸せなんて……まだ、どうしてこんなにも前向きなことが言えるんだ。

 みんなに心配をさせないため?

 前にも言ってくれたように、不運だからこそ元気でいたいのか?

 

 ……でも、言ったはずだぞ。天馬。

 

「天馬、ウソをつかないでくれ」

「ウソ、なんて、わた、し……」

「ついているよっ!! どうして今が幸せなんて、言えるんだよ!?」

「七島、く……だ、いじょうぶ、だか……ら……泣かな……い、で……」

「……っ、泣いてなんか……っ!!」

 

 そう言われても、自分が泣いているのか分からなかった。

 このどうしようもない感情に、俺はなんて答えればよかった。

 

 いったい、どうすれば、彼女を救えるんだ?

 

 

 

「…………そう、だよね……私、……っほんと、は……こ、んなとこ、見せたくなかった、のに」

 

 

 彼女の目からは、ほろほろと涙が零れていた。

 いつもの彼女の喋り方に似て、静かに、その雫は流れていく。

 命を蝕む苦しみか、それとも悔しさなのか……それは天馬にしか分からない。

 

 俺は、彼女の頬の滴を人差し指ですくった。

 ありがとう、と目で訴えていた……弱々しくて、悲しげな瞳で。

 

 

 

「あ、ぁ………やっ、ぱりダメ、だな……私……ウソ、ばっか……っ言っちゃ、ってさ」

 

 

 

 彼女が肩で息をする動作が、少しずつ小さくなる。

 話すたびに口から、顎へと、血はとめどなく流れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、もっと、生きた、いよ……っ、みんなと……いっしょ……に、……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 死の恐怖は、彼女自身が知っているんだ。

 

 俺は、ずっと天馬を見てきた。

 

 

 

 初めて見た時に驚いた、"不運"らしくない佇まい。

 

 自分は不運になってもいいけど、みんなが悲しい顔をしているのは嫌だと言った寂しげな顔。

 

 疑われた俺のことも信じてくれて、差し伸べてくれた手。

 

 錦織と友達になろうとして、彼女のことを慕って信じつけて守ろうとした強い意志。

 

 

 

 誰よりも人の心を大切にして、真実を見つめようとしていた彼女は。

 

 外に出たらみんなで、星を見たいと言って静かに微笑んでいた彼女は。

 

 

 

 

 

 だれにも見られたくなかった涙を、俺たちの前で流していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 天馬は小刻みに震えた左手を前髪にあてて……なにかを取り外した。

 彼女がいつも身に着けていた。星の髪飾りだった。

 咄嗟に右手を差し出すと、彼女の震えた手が俺の手のひらにのった。

 なんて冷たい。ウソだと思いたいほどに冷たい。

 

 

 

 

「天馬」

 

 

「七島くん……オルゴール、っありが、と、……っ大事に、して……くれた、ら…………うれし、い…………」

 

 

 

 ゆっくりと体重がかかったと思うと、彼女の手がふわりと滑り落ちる。

 

 

 俺の手のひらには、小さな星の髪飾りだけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天馬」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は彼女の名前を呼びかけた。

 

 

 返ってきたのは、たった一つの答えだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天馬は、死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 薄暗い音楽室で待っていると扉が開いた……ようやく、お出ましのようね。

 

「よっす。どうしたんか?」

 

 アイツは、屈託のない笑みで部屋に入って来た。

 軽い足取り、軽快な手の振り方……なんて薄っぺらい。

 それに、こいつの笑顔っていつ見ても乱暴だわ……。

 

「おいおい、なんだよ。あいさつされたら返すのが基本だろ?」

「…………バカなボクサー」

「あ!? 出会い頭、直球な悪口ぶつけんなよ!? っつーか、話ってのはなんだ?」

 

 アイツの言葉を無視して、私はポケットから一枚の切り抜きを取り出す。

 これは昔の古い雑誌から切ってきたものだ。

 切り抜きの中身も見ずに、はらりと床にそれを落とした。

 

「お、おい? に、にしご……」

 

 アイツが茫然としていても、私は落ち着きを払っていた。

 足を振り下ろして、その切り抜きを足の裏で踏む。

 ぐり、ぐりりり……と思いっきり、上履きが擦り切れそうなほど踏みにじってやった。

 

 ……私はなにもされなかった。止められもしなかった。

 ふいに足の底を切り抜きから外して、アイツを見遣った。

 

 

「アンタの番よ……やりなさい……」

「な、なんだよ、踏み絵か? ……ほらよ、踏んだ! 踏んでやったぜ!」 

 

 どん、とシューズで、"それ"をすぐさま踏んだ。

 アイツはこれで満足かと言わんばかりに勝ち誇ったように笑った。

 足の裏で、その切り抜きを蹂躙して甚振っている。

 

 

「ほら、これで。これで、いいんだよな?」

「ええ……十分よ……」

「おうよ、それならよかったぜ。……これで、いいんだな」

 

 そうか、これでいいんか。

 何度も確認するように頷いてアイツは……。

 

 

 

「ああ、ごめんなさい」

 

 突然、床に膝をついて跪いた。

 アイツは写真を手に取って頬に寄せた……その顔に感情はない。

 写真には煌びやかな化粧を施したツインテールの女子生徒が映っていた。

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……踏んじゃってごめんなさい、裂けられたチーズのように胸が千切れちまいそうだ。ごめんなさいごめんなさい。盾子お姉ちゃん、ごめんなさい。あの日から感情捨てちゃったんだ。お姉ちゃんだけに感情を注げたんだから苦しくも後悔もないけど、写真に笑いかけられなくて泣けなくてごめんなさい、ごめんなさい」

 

 ただ、言葉の羅列を並べて謝罪する。

 これを聞くと口から生まれたと言われてもおかしくない。

 しばらく、なにか聞き取れない声でまだぶつぶつ言っていたが……ようやく終わったので、私は一息を吐いた。

 

「アンタにも、そういう趣味があったのね……」

「おいおい。にも、って、どういう意味だよ?」

 

 ボクサーは呆れた表情の仮面で困惑している。

 まるで、二重人格……いいや、人格ってほどじゃないわね。

 それこそ、アイツの崇拝する"彼女"そっくりの飽き性なのかもしれない。

 

「過去をなくした亡霊ってところね……お祓いしてあげたいぐらい惨めだわ……」

「なに言ってんだよ? 俺はバリバリに現世に生きた人間だって!」

「そうやって自分の本当の姿も忘れてしまったんでしょう……? 江ノ島盾子に奪われてしまって……」

「奪われた、じゃなくて。捧げた」

 

 現れたのは錆びれた男の姿。

 今までは笑顔と憤怒の仮面をつけては変えてはを繰り返してきたのだろう。

 大きな声を出せばステレオタイプは誰だって演じられる。

 

「ほんと、アンタってバカ。アンタに頼った私もバカだわ……」

「いいんじゃないのか。マナクマみたいなクソコンパチに頼られるよりはマシだ。絶望的に言葉では感謝するよ」

「……本当に。救いようもない」

「知ってる。なあ。そんなオレに頼って絶望に愛想ついても……それでも母親のことは千年先も恨むつもりか」

 

 私は黙っていた。アンタにそんなことまで答える義理はない。

 ボクサーは舌を出して揶揄うような顔をしていた。

 

「……変人」

「知ってるわよ」

 

 そう返すと、アイツは不思議そうに私のことを見つめた。

 いや、面白そうな……興味を示したような反応だ。

 

「本当にオマエって不思議だ。どうして絶望なんかに肩入れをしているのか。絶望的に興味深い」

「不思議で済ませないでよ……こっちにとっては大問題よ……!」

「そうかよ。そんで、結局オレに接触したのは、なんでなんだ」

「……情報が欲しかったのよ……アンタの偽書道家に関する話をね……絶望に落としてやりたかったから」

「そうか。でも、オマエも十分知っているんだろう。七島が、驚くほどに絶望的な男だってことぐらい」

「ええ、最低で最悪だわ……アイツに、私も絶望してもらいたいと思っていたから……」

「その言葉を待っていた」

 

 何度も偽の書道家が不安定な姿を見てきた。

 もちろん彼も過酷な立場に立たされているということは知ってたし、その境遇に多少は同情している。

 

 それでも、私は彼を、そしてアンタも許せない。

 

 かたくなに真実から目を背ける偽書道家。

 そんな彼に紛い物の真実を与えるボクサー。

 アンタたちの友情はふざけている、それを証明するためにも。

 

 

「それで……私を殺してくれるのよね……」

「そうだな。オレはオマエを殺すんだ。約束通り」

 

 ボクサーは私を指さした。

 私もアンタもこれで終わり。

 偽の書道家も頭を冷やして真実を見てくれるはず。

 

 

 

 

 

「私を殺せば」

 

 

「オレが殺せば」

 

 

 

 

 アイツは、絶望する。

 

 

 

 

 

「それがよかったのだけれど」

 

 

 はたりと、あっけなく本が落ちた時と同じ感覚。

 不穏しか、感じられない音が響いた。

 

 

 

「やっぱりオレは天馬を殺すよ」

 

 

 

 音は衝撃となって、そして霰に変わった。

 私の脳内にばらばらと破片が降りかかった。

 

 

 

「……は、はぁ……? なにを、言っているの……? アンタは私を殺して、親友が人を殺して処刑されたことにアイツは絶望する……そ、そういうことなんじゃないの……? だ、だいたい、約束を破るつもり……!?」

「約束なんてしていないけど。そもそも、オマエを殺したくなくなったっていうか……いや、それは違うか。むしろアイツを殺してやりたくなった」

「な、なんで……あの子は……なにもしてないじゃない……!」

「なにもしてないからだよ。オレは、アイツのこと嫌いだったみたいなんだ」

 

 みたい、ってなによ。

 そういう曖昧な言葉はイライラするのよ……。

 でも、パズルのピースが頭の中で音を立ててぴったりと合う……そうか……それもそうね。

 書道家の味方にとって、彼女は邪魔な存在なんだ……! 

 

「友情ごっこしてたけど、実際は反吐をぶっかけてやりたかったよ。多分だけど。だから殺す」

「どうして、そんな曖昧な理由なのよ……!!」

「曖昧な理由だからこそ殺すんだ。そのほうが明確な理由よりも絶望できるものだろう」

 

 迂闊だった……いや、私もバカだったのかもしれない。

 都会の人間が死んだカブトムシを珍しいと言って目を爛々と輝かせているような気持ち悪さが迸る。

 

 

「だが、オレが天馬を殺すことで七島を絶望させられる。お前の望んだ結末になることは変わらない。ウィン、ウィン、とよく言うだろう」

 

 ウィン、ウィン。

 私もあなたもどちらも利益を得るという意味……だけど。

 

「ふ、ふざけないで……私は得なんてしないわ……! 大損よ……!」

「なんでだ。死なずに七島を絶望させられる超最適解ルートなのに。それともオレを殺したいとか」

「あ、あの子は死なせないわ……計画はそのまま続行して……私を殺しなさい……!」

「だから、それはできないんだよ」

 

 きっぱりと言い放たれた。

 何故? 尋ねたかったけれど、アイツの威圧感に負けた。

 後ずさりをしたが、アイツは殺意を持っていないようだ。

 むしろ、私を見つめるこの瞳は……この感情の色は……。

 

 

 

「だって、オマエが好きだから」

 

 それは降って湧いてきた愛の告白。

 古来からの愛の言葉に、頬が嫌でもカッと熱く火照った。

 

 

 

「は、はあ!? バ、バカにしないで……! アンタの本命って、え、えの、えのし……」

「お姉ちゃんは本命じゃない。お姉ちゃんは崇拝対象。オレはあくまでお姉ちゃんの忠実な弟。恋心もない。結婚もしたいと思わない。性欲も湧かない。お姉ちゃんは女神なんだ。地に生きて戦うオレにとっての天空に咲く絶望の花。……だから、」

 

 白馬の王子様がいつか迎えに来てくれる。

 御曹司のような金髪美青年が、私の元へ颯爽と現れて汚い現実世界から連れ出してくれる。

 そんな夢を見る夜を何度も過ごした。

 

 だけど、今、私にプロポーズしている男は。

 

 

 

 

「錦織、オマエが初恋だよ。オマエは、オレの運命なんだ。だから、オレと生きてほしい」

 

 

 

 真っ暗闇の絶望に堕ちた男だった。

 

 

 

 

「……ど、どうだか……アンタは私の生い立ちや過去……母に捨てられた娘……そんな絶望の要素が好きなだけでしょう? 言うなればメサイアコンプレックスってヤツかしらね……」

「いいじゃないか。男が酔ってくれるなんて冥利に尽きる展開そのものだと思ってたんだが。…………そうでもないのか」

 

 ……今までどういう恋愛モノを見てきたのよ、アンタは。

 

 後ずさりしすぎて距離を取っていたが、おもむろに私は足は少しずつアイツに近づいていた。

 手を後ろに回してから、ゆっくり、ゆっくりと歩き出し……お互いの爪先が触れ合った。

 痙攣したように膝裏が勢いよく震えたのは、意外にもアイツの方だった。

 

 

 

 

「………そう…………。…………それじゃあ、まずは……プロポーズ、どうもありがとう……」

 

 

 そうね、それがいいかもしれない。

 あなたに殺意はない。

 

 

 ……だって、愛しているんでしょう?

 

 

 

 

 

「――っっ!? ……な…………っ………にしご、り……」

 

 

 大きく一歩踏み出して、私は素早くボクサーの腰に手を回した。

 

 大きくて硬い背中……男らしいと言える。アイツの体が僅かに震えた。

 きっと、私の行動に茫然としているのだろう。

 彼の手は見えないけど……私の腰に手を回さない辺り、だらりと重力に任せているのか。

 私は彼の背中をじっと見つめる……黄色いパーカー。そして、彼の太い首筋に視線を向けた。

 

 

 どくん、どくん、と打ち鳴らしているのは私の鼓動か、それとも。

 

 

 

 

 

 

 

「萩野健。あなたの愛がウソじゃないって、今ここで。……証明して」

 

 

 これで、いいのよ。私にはこんな物語がお似合い。

 

 たった一つの希望を守れるぐらいなら。このぐらい。

 私は手を背中に這わせ――先程取り出したカッターナイフを握りしめる。

 

 

 

 だから今は、頸動脈を刺して体勢を崩せば。

 

 頸動脈だ。それが一番良いはず。

 

 今は頸動脈を、頸動脈だけを。――頸動脈。頸動脈、頸動脈。

 

 

 ……………さあ、来なさいよ。

 

 

 

 

 

「萩野健。私は、錦織詩音は、あなたを愛してると誓うわ」

 

 

 

 

 

「…………あ、あ。……ああ。そうか……………。そうだな。……誓うよ、錦織詩音。オレは……萩野健は、オマエを愛してると」

 

 

 

 ゆっくりと私の顔に近づく鼻筋。

 頸動脈に向かおうとした私の手にかけられた言葉。

 それは、まぎれもない愛の言葉だった。

 

 

 

 ……"オレ、は"?

 

 

 

 その言葉の意味を知る前に、額に雷が打たれたような衝撃。

 

 いつの間にか崩れ落ちた私の胴体に跨り、彼はグラウンドポジションを取ってきた。

 背骨の痛みを訴える暇もなく、私の顎に突き立てられる……これ……なに……?

 金色の、なにかが…………?

 

 

「……おみごと。頸動脈を狙ったことだけは褒めてやる」

「……………な…………なん、で……」

「スカートとシャツの間に物を忍ばせるクセがあるんだろう。分析の結果だ。…………そんなにオレが憎かったか」

 

 …………ああ。

 こんなことまで、バレているとは。

 本当に、嫌らしいボクサー。

 

 彼の質問に対する答えは他でもない。

 

 

「あ、あたり前よ…………ここでアンタを受け入れたら、アンタは彼女を殺すんでしょう……そ、それはイヤ……絶対に許さないから……っ」

「それで身を捧げたか。………そうか。そういうところ…………だが、オマエも天馬に熱入れてるクチとはな。でわかったよ、それじゃあさ。そんな天馬が好きなオマエにだけ特別な秘密を教えてあげるよ。オレとオマエだけしか知らない、天馬の秘密さ」

 

 逆上されるかと思ったら冷静な返事だった。

 だけど、その言葉の端々は、いやな響き方をしていた。

 落とし穴にはめようとする少年……いわば、悪巧みをしている声色だ。

 

 

「オレは2つの時限爆弾を仕掛けたんだ」

「ふた……つ……?」

「1つは冷凍庫に保管された爆弾だ。だが、安心しろ。誰も死なないよ。死ぬのは爆弾だけだから」

 

 時限爆弾……たしか、体育館でマナクマから取り出したらしいとは聞いたけど……………。

 でも…………それが、なんなのよ……?

 

 

 

 

 

「もう1つの爆弾は、天馬だ」

 

 

 ……………は?

 

 

 

 

「……………なに……言って……?」

「紅茶に遅効性の毒を入れたんだ。オレの分析が正しければ飲んだのは天馬だよ」

 

 

 ……………頭が追いつかない。

 

 ……いったい、なにを……言っているの……?

 ボクサーは声を弾ませて、ふ、と吐息を漏らした。

 

 

 

「24時間以内に、天馬は死ぬ。誰にも止めることができない定められた運命だ。汚い血を吐いて、ばったりと倒れる。ドラマチックになるかもな。お涙ちょうだいの展開になるかもしれない。

 

 ……でも、それでいい。それだからいいんだ。アイツには絶望が身に宿っていることも知らずに、自らの死をもって仲間たちを絶望させる。つまりは、彼女自身が絶望を撒き散らす爆弾になっているんだ。それが不運にふさわしい最期だろう」

 

 

 だから、本当に……なにを言っているの……。

 

 あの子は毒を飲んでいて、死ぬ……って……?

 

 

「天馬は絶望で死ぬ。天馬が死ねば七島も、みんなも絶望する。それを見てオレも絶望する……彼女を救えなかったオマエも絶望するなら、なおのことだろう。早くこの目で見たいよ」

「……あ……あの子は、死ぬの……? 毒で…………?」

「ああ、死ぬよ。オマエの愛する天馬の死だ。一生で一度の光景なんて貴重だろう。……大丈夫。このケガは治すから、一緒に見届けような」

 

 つう、と額を撫でるように血をなぞられた。

 死の際に追い詰められて突きつけられているのは、さらなる絶望。

 

 い、や、そんなことよりも……。

 

 

 ねえ、どこからどこまで嘘だって。早く言って。

 

 

 

 

「あ……あの子に……会わせ……て……」

 

 

 思わず呟いてしまったが、ボクサーは黙っていた。

 私の顎を乱暴に掴むと、私の目を覗き込む。

 舐めるように、たいらげるように……まじまじと、私を見つめている、見つめている、見つめている。

 

 

 いやだ、やめて、見ないで。

 

 いいから、答えて。

 

 その手を離して。

 

 足の裏の痙攣が止むことはない。

 右足の上履きは脱ぎ散らかされていた。

 

 

 お願い、あの子に会わせて。…………だれか助けて。

 

 

 

 

 

 

 あの子が死ぬなんて、私は聞いてない。

 

 そもそも。どうしてアンタは……

 

 

 

 ……天馬、あなたはッ!!

 

 アイツを、偽書道家を絶望させるのは、あなたのためでもあるのよ!!

 それなのに、どうして元凶なんかに構うのよ!?

 

 …………だけど、そんな怒りは徒労に過ぎない。

 彼女はなにも知らないし、覚えていないもの。

 

 

 

 

 脳裏に浮かんだ、穏やかな彼女の顔。

 

 ……………天馬。

 

 それにしても、どうして彼女に私は惹かれたのだろう。 

 可哀相だというお情け? いや、そんなことで私が……?

 

 

 ふと、走馬灯のように1つの場面が灯され映し出される。

 学級裁判後のエレベーターの中で見た横顔。

 

 その表情の色の名前は…………。

 

 

 

 

 

 

 

 ……………ああ。そうか。

 

 

 

 あの子は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………そんなに嬉しいのか」

 

 …………どうやら、私は笑っていたようだ。

 

 本当だ、久しぶりに笑っている。

 頬が痛くなるほどだとは……私って、本当にいつも不機嫌な顔だったのね。

 そんな事実も可笑しくて、笑いが止まらなかった。

 

「っふふ……アンタって……やっぱりバカだわ……だから笑っているの」

「そうか。変顔をしたつもりはないが。そんなにおかしいか」

「だって……彼女は、絶望しないもの……あの子は……自分の死でも、絶望しない」

「それはない。人間も動物も、命がある限りみんな絶望する。死以上の絶望はない。お姉ちゃんも死という最高のイベントに絶望した。揺るぎない事実だ」

「……………本当にそう言い切れる……? アンタが嫌いな天馬が死で絶望できる……そう確信して言える根拠はどこにあるのかしら……? お得意の分析でわかっているというの……? ふ、ふ……」

 

 ボクサーの指がひくりと震えるのが伝わった。

 彼は……私に抱かれた時のように茫然としているようだった。

 

 

「彼女は感情を知っているの……喜びも、悲しみも、すべて……私たちの欠けた、偽りの感情も本物にしてくれるほどに……っ! 彼女だって絶望の味も知ってるわ……それでも彼女はその絶望も、自分の中で受け止める力があるのよ……っ! 天馬が死んでも、私たちは前を、向ける……真実を見つめさせる力がある……彼女は……彼らにそうさせるでしょう……天馬にはそんな力があるのよ……私は……知っているの……!!

 

 天馬も……彼らも……絶望に堕ちることはないのよ……!!」

 

 

 だから、私は、彼女に惹かれたんだ。

 

 ボクサーの手がするすると離れ、私は床に頭を打ったのだろう。

 だけど、痛みは不思議と感じなかった。

 額から流れ出る生暖かい血が、母親の温もりのように今は心地良い。

 

 に、と私は唇を歪ませて、血眼のボクサーを見上げたまま見下す。

 

 

 

 

「ねえ、ボクサー……アンタは、自分が絶対的な王者だと思っているのね……世界で一番強い人間だと思い込んでいる。……でも、ちがうのよ…………アンタは、天馬には、一生、勝てっこない……だから、」

 

 

 ――もう、負けてるのよ。

 

 

 

 

 それを私は言えたのだろうか。

 それとも口を閉ざしたのか。

 それを考える暇もなかった。

 

 私の視界は暗転したと同時に巨大な衝撃が加わった。

 殴打音が耳に突き刺さるように響く。

 

 頬を、額を、鼻を、歯を、目を、殴られ、て。殴られ、

 

 

 

「おい。バカなことを。錦織。待て。待ってくれ。オマエ。オマエまで。オマエもなのか。希望に毒されてしまったのか」

 

 的確に、規則的に私に拳を振り上げる。

 精肉プレス機のような非感情的な殴打。

 一つずつ、一つずつ、丁寧に拳を打ち付け、お互いの血が私の顔に、拳に混ざり合っていく。

 

 

 

「なんで、どうして。どうして。お願いだ、錦織、戻ってきてくれ。戻れよ錦織。だってオマエ、そんなんじゃなかっただろ」

 

 どうして涙声なの?

 そんなに懇願されても、その手を振り上げた時点で私は帰ってくることはないのよ。

 

 

 

「アイツのせいで。こんなことになって、ああ、なんて。なんてかわいそうな娘だ」

 

 

 ……そうね、私って可哀想。

 

 アンタみたいなのに体を壊されて。殺されて。

 無理矢理、力任せに希望も摘み取られて、本当に。

 

 

 ……………ええ、本当に。

 

 

 

 

 

「錦織、愛してる。ウソじゃないよ。愛してるんだ。……本当なんだ」

 

 

 私はアンタのことが…………。

 

 いままでもこれから死んだ先も、ずっと愛するつもりはない。

 アンタの思い通りにもならない。

 私は絶望なんかしない。だけど、希望も見出さない。

 

 

 アンタが好きだっていう親友、偽書道家のことも……ええ。今も憎らしいわ。

 私にそっくりの母が執着した幸運な生徒。

 

 …………だけど、今は、そいつに託すしかないのね。

 それでもアンタよりはマシよ。

 悔しいけれど、あの子に大切に思われてるもの。……そう信じたいものだわ。

 

 

 

 ああ、本当にロクでもない人生だった。

 少しくらい、お伽噺みたいに希望の欠片があってもよかったのに。

 腐川冬子さまの小説のヒロインみたいに輝ける時がくればよかったのに。

 

 もう一度、愛されたかった。私を見てほしかった。

 

 ……………これが私の本音。

 本当におとぎ話のような、くだらない理由だった。

 

 

 

「大丈夫、オマエの仇は取るから。絶対に、アイツを殺してやるから。大丈夫、大丈夫だから……なあ、錦織……」

 

 ごめんなさい天馬。

 過去に囚われて、今を向き合えなかったことが悔しい。

 

 あなたと友達になりたかった。

 私のことを、錦織詩音として見てくれた、たった一人の、最初で最後の友達になりたかった。

 

 

 

「だから、錦織」

 

 ねえ、天馬。向こうで一緒に星を見れないかしら。

 きっと、綺麗な星が見れるはずだから。

 

 ………でも、私は天国に行けるのかしらね。

 

 

 

 

「……………あ、あれ」

 

 

 ふ、と私の頬に水滴が落ちたようだった。

 

 ……これは……ボクサーの…………?

 

 

 

 

「あ、あれ、あれ…………ああ………、ははは、オ、オレ、泣けてるじゃないか。しかも、笑えてる。盾子お姉ちゃん以外の女に感情を……ッ!! な、なあ、見てくれよ、錦織っ。オレだって泣けるじゃないか、笑えるじゃないか、すごい、オマエのおかげだ。ああ、見たことか! やっぱり、これは愛の物語だったんだ! オレは、オレ……あはっ、は……はははははははははっ。やった、やったよ! オレもやっぱり人間なんだっ! みんなとおんなじだ!! っ、あっははははははははははは……はははは……っ」

 

 

 激しい嗚咽を繰り返しながら、「錦織、錦織」と迷子のように呼びかけられる。

 

 

 

 

 

「錦織、見てくれ。オレは、泣けている。笑えている。なあ、一緒に笑おう。泣こうよ。

 

 ……だって、オレは…………本当は、絶望も、盾子お姉ちゃんもどうでもいいんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お願いだ。錦織。オレを見てくれ。

 

 …………もう二度と、だれも俺を、ひとりにしないでくれよ。どうか、オレのことを。……どうか」

 

 

 

 

 彼は拳を止めなかった。止まぬ雨のように殴り続ける。

 こんな私のために泣いてくれるなんて。

 

 

 …………可哀想に。

 

 

 でも、これ以上の感情は湧かなかった。

 それでいいような気がした。

 

 

 心残りはすっかり消えていた。

 重い瞼を閉じて、遠のく聴覚も無理矢理閉ざした。

 

 絶望も、希望も、私はそんなものの思い通りになって死なない。

 私は私として最期は去ろうと思う。だから。

 

 

 

 

 

 

(オレ)“は”オマエを本当に愛してるんだ」

 

 

 ――さようなら、萩野健。

 

 

 

 

 

  

 発条が動いたのか。

 ポケットからオルゴールの単調な音が微かに流れ出す。

 

 


 

「だから、お願い。無理しないで。……どんな錦織さんでも、私は錦織さんが好きだから。……生きてほしいんだ」

 


 

 

 …………天馬。

 ごめんなさい、あなたの祈りをムダにしてしまって。

 

 あなたは私のようにはなってはダメ。

 素直なまま、最期まで…………どうか生きてほしい。

 

 あなたなら、それができるほどの希望を持っている。

 ふがいない司書だったけど、それでも私は信じているから……

 

 

 

 

 私を錦織詩音として見つけてくれて、本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………書道家。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

「あれ。……マジか、これ」

 

 

 

 ここは裁判場だった。

 

 

 

 

「うーん……思ってたのと違うな……なんか意外と……」

 

 

 

 大切だった人の亡骸。

 

 

 

 親友だった奴の声。

 

 

 

 

 

「おかしいな。だって歓喜するほどの絶望じゃないのか。錦織と比べて、こんな結果って。おかしいな……おかしいな、おかしいな。

 

 ……なんていうか、なんだ、これ。分析ミスったか。

 

 

 なあ、オマエはどう思う。ななし――」

 

 

 

 

 

 萩野の前に立つ黒生寺。

 

 

 突き飛ばす。

 

 

 黒生寺は驚嘆する。

 

 

 黒生寺のベルトからナイフを奪い取った。

 

 

 

 一直線。アイツの額に向けて。

 

 

 

 

 

 

 お前の。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――、ななしま」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その顔は目を丸くして俺を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 萩野。

 

 

 

 

 

 

 

 

 萩野。

 

 

 

 

 

 

  

 

 萩野。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頼む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「死ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

" 学級裁判 閉廷?"

 

 

 

 

 

 

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