エリナベラ(義妹)は首の汗をふき取って、笑顔で言った。
「着け心地はいかが?」
何だか、不思議な感じだ。手はここにあるのに感覚が無いし動かせない。
ヘファイストスの工房。俺は完成した義手をショウシャクヨモギで自分の腕にコピーし、動作チェックをしていた。
「ここに収納されているワイヤーで指は動かせますわ」
そう言って彼女は甲の少し下を開いてワイヤーを露出させた。そこ開くのか……。早速ワイヤーを出して引っ張ると、全ての指が掌側に曲がった。放すと元の形に戻る。
「手の形状はこの金具で固定できますわ。後、ワイヤーは延長して右手から動かせるように出来ますけれど。いかがなさいますこと?」
そっちの方が良いかもしれない。戦闘中に一々左手にリソースを割けないだろうし。
それにしても、よく作ったなあ。彼女の顔をちらりと見ると、その目の下にはくっきりと隈が刻まれている。この短期間でここまで作り込んだら、まあそうなるか。俺は義手の指を色々な方向へと動かしてみた。掌の方に折れるのは勿論、甲側にもしなるように曲がった。マジで凄い技術だ。
「耐久性の方に問題はないかしら」
拳を握った形で固定して、右手と突き合わせてみる。少し軋むが、これは鉄ではなくLV2の俺の体から作られている。故に、その耐久性は折り紙付きだ。次に義手だけで逆立ちしてみるが、やはり潰れない。大丈夫そうだ。壊滅的に破壊されることは無いだろう。
「これからダンジョンですの?」
ああ、友人とパーティーを組んでな。そう言えば、頼んでおいたあの機能についてなんだが――。
広場でナイフを回していると、ベル一行がやって来た。手を挙げて場所を示し、その間に軽く持ち物をチェックする。ローブにリュック、ポーション、ナイフ十本、水筒、軽食、鶴嘴。忘れ物は無し。ヨシッ!
「ツルハシさん。久しぶりですね。その義手はどうしたんですか?」
間もなく合流したベルは、ローブから覗く赤い義手に興味を示した。知り合いに作って貰ったんだといってローブを捲って義手の全体を見せると、下の方から趣味が悪いとヤジが飛んだ。は、小人族にこの良さは分からんだろうさ。
「その、あー。すごく、独特ですね」
ベル・クラネルさん? 改めて義手を見る。骨の様な生体金属のプレートを固い筋肉で繋いだそれは、言われて見ればちょっとグロいかもしれない。だが、これもまた美しい。
「なんでこう、デザインが生々しいんだ?」
それがいいんだろうが。鍛冶師があっち側に回ったことで仲間が消滅し、レスバ敗北がちらついた俺は早急に話題を変えた。
そう言えば、今日は何処まで行くつもりなんだ?
「十三階層です」
そう答えたのはやはりベル。今回もリーダーとして指揮を執るらしい。
じゃあ、今日はよろしくお願いします。俺はそう言ってダンジョンに歩を進めた。
さて、ダンジョンに於ける移動時間というのはとんでもなく暇だ。だから、仲間との距離感を掴み、気を休め、何より退屈を凌ぐ為に定期的に会話タイムが入る。この四人に共通の趣味がある訳でもなく、俺はまだ二回目という事でキャラが掴めておらず話しかけ辛い。よって、基本的に俺から会話を振るのが多くなった。まあ、話すネタもないのだが。
俺はベル三人衆が揃って羽織っている赤い絹のような光沢をもつマントに目を付けた。
それ、お揃いのマントなのか? パーティーで同じ装飾品を身に着けるってのは、何と言うかトレードマークみたいでいいな。
俺がそういうと、ヴェルフが驚いたように言った。
「これはサラマンダーウールだ。十三階層で必要なだけで、お揃いなのはまあ認めるが、ただのオシャレじゃないぞ」
なるほど、サラマンダーウールか。知ってる知ってる。へえ、こういう色なんだ。
「これは染色してるんですけどね」
ベルはそう言って俺のつま先から頭まで見た。
「……もしかしてなんですけど、さっきの反応からして」
彼は申し訳なさそうに続けた。
「まさかサラマンダーウールを持ってないとか」
ああ。サラマンダーウールね。大丈夫。流石に持っている。うん。
俺はリュックに手を突っ込んで小声で詠唱した。持ってる訳ないんだよなあ。
暗赤色の結晶よ。
ここで世界観切り替え。表示の簡易化、処理の軽量化、引数の減少、変数の減少。
俺はサラマンダーウールをコピーした。それをあたかも最初からあったかのように取り出し、ほらと言って見せる。しかし、三人は何とも言えない顔をしていた。
「なんか、線みたいなのが走ってるんですけど」
リリルカが俺のサラマンダーウールを指さして言う。見てみれば、確かに赤黒い生地に紅くあみだくじの様な模様が入っている。なるほど、見ずに生成するとこうなるのか。今後は気を付けよう。ともかく、神様からショウシャクヨモギについてはあまり知られないよう言われているし、適当に誤魔化すか。
これはそういうデザインだよ。
「いや、サラマンダーウールは加工が難しい素材で、染色はともかくそこまで細かい模様は入れられない筈だ」
ここで現役鍛冶師から的確なサポートが入る。余計なことを。仕方ないので、俺は一番確実な方法を使うことにした。
エリナベラって人に依頼したらやってくれたけど。
友人を売った。
「ああ、それなら納得だ。あいつなら何か俺達に思いつかない様な方法でやりとげてしまうだろう」
やっぱり同業者からもそういう扱いなのか。これからショウシャクヨモギで作った生体的なやつは全部あいつの作品ってことにしよう。
そうこうしている内に目的の階層手前である。俺は刃物の効きにくいハードアーマード、通称アルマジロの頭蓋を貫いて回り、後の二人はシルバーバックの処理をするという天才的な連係プレーによって快速でここまでやって来た訳が、ここからは勝手が違う。死線がどうとかはもう散々言っているので省略するが、それとは別にベルとヴェルフはあの階層のモンスターに慣れていないという問題がある。一応、知識はギルドの講習で身に着けたらしいがどこまで通用するかは未知数だ。
加えて補正だ。俺は片目を閉じて瞼の裏の闇を見た。どう見ても天秤は傾いているが、補正は掛かっていない。勿論、ベルたちの所為だ。ベルのスキルとの競合が考えられるが、詳細は不明でパーティーを離れる以外に補正の回復は望めない。つまり、先日やっていたような高火力の投擲や一人で三匹を殺す等の動きは一切できない。
一方で、人数有利という最強の暴力のアドバンテージもある。一匹を囲んで叩けばどんな敵だって秒殺できるだろう。それに、反応的にベルはスキルが死んでないらしいから何とかなる。多分。
総括、気合が物を言う。という事で、はい進軍。
数分で十三階層に目出度く到着。少し天井が高く、道が広くなっただけで階層の様相は上層とほぼ変わらない。しかし、それ故か言葉にできない圧力の様なものを強く感じる。ベル達の方を見ると、なんとなく動きがぎこちない。中層特有の空気に当てられて過度に緊張しているらしい。こんなところで神経を使って、集中力が下がるのは避けたい。全体の動きにも影響が出る。
三人もアタッカーがいる上に今回はサラマンダーウールまで持って来ているのだから。そう警戒せずとも大丈夫だ。
だから何とかなると俺が言うと。
「今回ってことは前回まで持って来てなかったんですか……」
ベルはそう言って若干引いた。
それでもこうして生きてるだろう? 四体満足で。そう言えば、彼らの表情は引きつった物の、幾分か和らいだ気がした。
軽い足取りで、しかし警戒を怠らずに進んで行くと不意にモンスターの足音が聞こえた。最初の接敵である。先行して位置を探ると、角の先に五匹のクソ犬がいることが分かったので、俺は素早く流れを説明した。
先ずは手前の二匹を全員で処理する。俺は残り三匹をナイフ投擲で遅延させるから、火は飛んでこない。処理が終われば、相手が炎を吐くのを待って、しっかりそれを避けてから突撃という感じ。後はアドリブだ。
二人が頷くのを確認し、指を三本立てる。三、二、一。
角から飛び出し、火炎放射のタメが終わる前にその頭に鶴嘴を叩き込む。そして、息絶えたことを確信すると同時に鶴嘴を上に投げ、コートからナイフを取り出し投擲。落ちて来た鶴嘴をキャッチして周囲の様子を見る。ベル達は処理し終えている。残った三匹の内一匹が火を吐こうとしている。俺達は素早く角の所に戻った。一瞬の後、熱気が通路を満たす。俺はそれが収まるのを待っている間、聞き耳を立てて残り二匹の位置を探った。なるほど、炎に乗じて露骨も詰めて来ている訳ではないが、若干こちらに移動している。先程と位置が違う事を伝達し、炎が止むや否や再び角の先に躍り出た。手前に二匹奥に一匹。奥の方はクールタイムがあって火が吐けないのでLV1のヴェルフに任せ、LV2二人で手前の相手をする。近い方に鶴嘴を振り下ろし、回避されたところを更に踏み込んで振り上げた。空中では避けられる筈もなく、クソ犬は塵になる。もう一匹を見ると、咥内が赤く光り今にもベルに火を放たんばかりだった。ベルは既にサラマンダーウールを広げて防御体制に移っている。なんとなく俺もサラマンダーウールを広げてみると、案の定こっちにも流れ弾、いや、飛び火が来た。そして、ここで俺はサラマンダーウールの効能をようやく知った。確かに炎は通さないが、熱は若干通している。というか、今もだんだん熱くなっている。温かいと思った十秒後には火傷必至の温度になっているタイプだった。長時間凌ぐには向いていないが、炎と擦れ違うように進むなら大いに役に立つだろう。サラマンダーウールが高温にならない内に射線から逃れ、ベルに対して火を放っている個体を横から急襲した。クソ犬は魔石になった。ヴェルフの方も片付いたらしい。戦闘終了だ。
悪くない。むしろ、初戦で負傷なしは上々だと言える。武器のみでの戦闘でこれなら、魔法を交えれば安定感は更に増すだろう。
じゃあ、次からはちゃんとベルが指揮を執ってくれよ。
俺がそういうと、彼は分かりましたと笑いながら額を拭った。
ヴェルフの魔法で自爆するクソ犬を眺める。ざまあみろ。
しかし、と俺は疑問を抱いた。確かあの魔法は対魔力魔法だった筈。ならば、クソ犬の火炎放射は魔法か魔法属性を持つということになる。
この魔法属性というものは――俺の考察ではだが――所有者を示すタグだ。魔法の炎は通常の炎と違うところがある。それは防御力の貫通だ。防御力というのは耐性ともいうべきこの世界の生物特有の物理系へのダメージカットのことで、攻撃者によってはこれをある程度無視出来る。この防御力の存在は、ダンジョンに火炎瓶を持っていく冒険者がいないことからも推し量れるだろう。だが、この説には矛盾点も多い。弓のダメージ計算を無視しているからである。何がタグを持つのか持たないのか法則を見つけない限り、この説は立証できない。ああ、また話が逸れた。神様の癖がうつったのか?
それより、クソ犬の火炎放射が魔法であるという可能性の方が興味深い。もしそうなら、種族で同じ魔法を共有していることになる。そして、それはダンジョンのシステムについての糸口になりうるのだ。帰ったら神様に言っとこ。
それからの探索は順調だった。クソ犬の射程を把握した二人は危なげなく処理を完遂し、俺は補正抜きでも無被弾で二体を相手取ることも出来るようになった。リリルカとヴェルフがアルミラージを「ベル」と呼ぶ所為で、本当に彼にしか見えない呪いを掛けられたりした。
そして、それが起きた。
跳びかかって来るウサギに鶴嘴を振り上げ、頭部に先端が刺さったまま半月を描いて背中側に振り下ろし、脳を貫通する。その隙を突いて別のウサギが俺に手斧を投げるがヴェルフが大刀でそれを防ぎ、ベルが武器を失ったそいつの首を刎ねた。俺はナイフを投げて最後の一匹を仕留めると、全員で安堵のため息を吐いた。
リリルカが魔石を回収するのを横目に水を飲む。本当に怖いくらい順調だ。大きな怪我も、連携ミスもない。何か良くない物を感じる。
天秤がゆらゆらと動き始める。ほら来たよ。 何が反応しているのかと周囲を見渡すが、今の所は何も異常はない。俺は地面に耳を付けて聞き耳を立てた。かすかに音が聞こえる。しばらくそのままの姿勢で音を聞き続けると、最初はよく分からなかったがそれが段々と大きくなっていることに気付いた。何かが近付いている。ベル達に注意を呼びかける。間もなく地面が細かく揺れ始めた。明らかに大きな質量をもった何かが動いている。その何かは途轍もなく大きいのか、もしくは――。
俺は長く広い通路の奥に目を凝らした。暗くて正確には分からないが、今角から人影が現れた。二人。否、三人。一人背負われている。走っているが、一人が文字通り荷物になっている所為で速度は出ていない。次の瞬間、先ほど彼らが出て来た角から地を埋め尽くすほどの大量のモンスターが現れた。なるほど。怪物の宴か。そりゃ逃げるわ。
よし、俺達も逃げよう。
俺がそう言うと、ベルは徐に口を開いた。
「一人背負われてる……あの人たちは逃げ切れると思いますか?」
俺は脳内マップを開く。俺達は十三階層に下りてから約一時間でここまで来たが、最短距離でやって来た訳ではない。モンスターを無視して最短距離で進むならば三十分程度で階層の入口まで戻れるだろう。
追いつかれるかもしれないというプレッシャーの下で三十分。五分五分かな。
そう言ってからあのパーティの違和感に気付く。あいつらは真っ直ぐこっちに向かってきているが、先ほど通り過ぎた横道を進むほうが早く入り口まで戻れる。ルートを知らないか、あるいは――。
ベルの声が思考を遮った。
「……あのパーティの為に、少し時間を稼ぎませんか?」
は?
「ヴェルフと二人だったら絶対に無理だったけど、三人なら」
俺はその先に続く言葉を手で遮った。
ちょっと待て。考え直した方が良い。今ならまだ逃げられる。安全策を取るべきだ。
ちらっと二人の方を見る。先に口を開いたのはヴェルフだった。
「流石に無謀過ぎる。撤退に一票だ」
「ベル様、ここは退くのが最善です」
押し切れると踏んだ俺は、畳みかけるようにそれを言い放った。
それに、あいつらはパスパレードを目論んでいるかもしれない。
一瞬、ベルとリリルカの間に微妙な空気が流れる。食らったことがあるのか? ベルは数秒目を閉じて、開いた。
「分かりました。撤退しましょう」
その言葉を聞くや否や、俺は走り出した。ベル達も少し遅れてついてくる。振り返ってモンスターの方を見てみると、いつの間にかあのパーティはいなくなっていた。横道に入ったのだろう。モンスターは惰性でこちらに向かってきている。
「殿はツルハシさんでお願いします」
やべ、話聞いてなかった。自分の立ち位置は分かったし、何とかなるか。もう一度ちらりとモンスターの方を見る。うん、これやっぱり気の所為じゃないな。俺はスピードを落として位置を入れ替えるついでに、ベルに耳打ちした。
ベル。モンスターの大半がヘルハウンドだ。全速力じゃないと追いつかれる。
彼は顔を青くして少しスピードを上げるよう呼びかけた。それを尻目に、俺はどうしようもない問題について考え始めた。このペースだと、恐らく十三階層を抜ける前に失速する。ステイタスでスタミナは伸びない。エリナベラが言っていたことだ。ダンジョンに潜る内に自然と体力はつくので忘れがちだが、非常に重要な事だ。俺はエリナベラに言われてトレーニングを行っていたが、ベル達は別。リリルカは特に心配だ。どうすればいいだろう。
ショウシャクヨモギ程度の障害物では数秒しか稼げない。それに万が一発狂したら全滅だ。ロック・ダウンも使えない。俺が止まる。ベルのファイアボルトも焼け石に水だ。スキルがまともに機能してれば何とかなったかもしれないが、御覧の通り見事に死んで……死んで、ない。なんで? いつもとは大違いだが確かに補正が乗っている。片目を瞑る。天秤は死亡率八割強を示した。これは、行けるか。
ベル、俺があいつらを足止めしておくから先に行っててくれ。
「無茶です! それなら僕たちも――」
それは駄目だ。全力を出せない。
ベルは一瞬言葉に詰まって、それから険しい顔で言った。
「死なないんですよね?」
ただの足止めだよ。本気で戦う訳じゃない。それに、秘密兵器もある。
「お願いします」
彼は苦虫を嚙み潰したような顔をして、前に向き直った。
俺は走るのを止めてモンスターの群に向き直った。ベル達が離れるにつれて指数関数的に補正が掛かる。
「あれ、ベル様? ツルハシさんはどうしたんですか?」
「モンスターの足止めをしてくれるそうです」
「一人でか!? 無理に決まってるだろ。ベル、戻って加勢するぞ」
「駄目です。僕たちだとツルハシさんの足手纏いになる」
「じゃあ、どうするんだよ」
「ツルハシさんは、死にません。LV1でミノタウロスに勝ったんだから、LV2になった今ならあれくらいどうって事ない筈です」
思えば、このシチュエーションはミノタウロスの時と似ている。ヤバいのが出て来て、俺が囮になってベルを逃がす。ただ、あの時と今とでは一つ違うものがある。俺だ。
鶴嘴を回す。いいね。いつもとは動きのキレが違う。俺は鶴嘴を下段に構えた。モンスターはもう目前まで迫っていた。
「僕たちにできることは、一刻も早くダンジョンを出てこれをギルドに報告する事だけです」
俺は腰を回して鶴嘴をフルスイングした。その先端が触れると同時に、飛び出して来たヘルハウンドの頭部が吹き飛ぶ。勢いを利用してバク転で下がり、流れるように右から左へ振り抜く。三体のクソ犬は同時に頭部が弾けて血煙になった。流れを途切れさせずかち上げ、振り下ろし、横振り、振り下ろしと繋げて効率的にモンスターを殺して行く。範囲の広い横振りを主体に、合間で天秤の反応する攻撃を振り下ろしで対処する型だ。油断なく全体を見て囲まれる前に後ろに下がる。群の奥から飛んで来るトマホークを弾いて、その隙を狩られる前に更に後ろへ下がる。出来た距離を埋めようとクソ犬共は移動を優先する。こいつらはどういう訳か、動きながら火を吐けない。
抑えの形は完成した。いける。俺は一振りで詰めて来たクソ犬を全員魔石に変えると、勢いを殺さないように一回転してもう一度横に薙ぎ払う。自分のモーションと手応えから補正値を確認し、計算する。この値なら、あの技が使える。今の自分には範囲攻撃が足りていない。そう考えて編み出した、補正が乗って初めて使えるかどうかの領域に入る絶技。俺は大きくバックステップをして鶴嘴を背中に戻した。それと同時に義手に繋がるワイヤーを操作してからくりを発動する。義手は縦にパカッと割れて断面が姿を現した。
暗赤色の――。
俺は異変を感じて詠唱をキャンセルした。義手を元に戻して迫りくるモンスターに対して鶴嘴を振るが、その動きは先ほどとは比べ物にならない程遅い。何とかクソ犬の攻撃に合わせて振る事が出来たが、確かに頭部に当たった筈なのにクソ犬はまだ生きている。
身体が、鶴嘴が重い。何故? 天秤は傾いているし、ベルと距離を取っているからスキルは問題なく発動している筈。いや待て、違う。確かにスキルは発動している。俺は瞬時に事態を理解した。
このクソスキルが。こいつ、
誘われた。補正値を盛って勝てると錯覚させ、土壇場でそれをマイナスに反転させる。このスキルは俺を殺す気だ。昔考えていたことが現実になった。
脳内に強制力の三文字がちらつく。俺はまんまと騙されたんだ。始めからベルのスキルとの競合なんてものもなかったのだろう。死亡確率から補正を掛ける値は算出していたが、実際に適用していないだけだったんだ。
モンスターが押し寄せる。移動という制限の無くなったクソ犬の炎が地を舐め、熱気が肺を焦がす。何処からか投げられた石斧が肩に突き刺さる。俺は痛みに耐えながら目の前のクソ犬の噛み付きを避けようとするが、その動きは余りにも鈍重だった。仕方なく左腕を盾にする。牙は腕の奥深くまで突き刺さった。咄嗟に振り落とそうとするが、腕が千切れてしまうのではと無駄な思考が脳を掠める。クソバカが。今は千切れるどころか振り払えるほどの筋力もないだろうに。
次々とモンスターの攻撃が身体に突き刺さる。多分、今自分を俯瞰したら群がったモンスターが小山を作っているように見えるのだろう。息が出来ない。俺も出来る限りの抵抗をするが、体中に刺さった鋭い突起物は返しのようになって抜けず、モンスター自体も重すぎてどれだけ力を込めても抜け出せる気がしない。
腹部に刺さった爪が抜けて、どっと血液が流れ出たが、次の瞬間には上から圧し掛かったモンスターによって先ほどより深く刺さった。継続的な痛みが思考を妨げる。重量で肋骨が砕ける。そして、天秤がさらに大きく傾く。鎖の音と共に補正が変動するが、それは更なるマイナスに変換された。
クソが。無理だ。こんなの無理だ。どうやって勝てば――。
圧力で義手が変形する。フレームが腕に食い込み、耐えがたい痛みを発する。
天秤がさらに大きく傾く。鎖の音と共に補正が変動するが、それは更なるマイナスに変換された。
どうやって勝てばいいんだこんなの。負けイベじゃないか。無理だどうすればいいんだ何か出来ることは。
両足の脛骨が折れた。あまりの苦痛に背筋が寒くなり、大量に発汗する。
天秤がさらに大きく傾く。鎖の音と共に補正が変動するが、それは更なるマイナスに変換された。
もう何も出来ない。鶴嘴は見えないし、自分の腕が重すぎて上がらない。眼球を動かすことすら遅い。吐いた息が吸えない。
あの時と、ミノタウロスの時と同じだ。俺はまた負ける。
俺は目を閉じた。全身の痛みに身を任せる。寒い。とても寒い。
天秤がさらに大きく傾く。その皿は地に着かんばかりに下がっている。鎖の音と共に補正が変動する――。
それを待ってたぜ。
俺は暗闇に手を伸ばして『鎖』を掴んだ。力の補正が変動する。半分賭けだったけどやってみるもんだな。出力MAXだ。
俺は右腕を全力で振った。全ての補正がつぎ込まれた一撃は、積み重なったモンスターを吹き飛ばして壁や天井に叩きつけた。『鎖』。ただの効果音だと思っていたが、こうもずっと鳴らされれば毎回音が微妙に違うことに気付く。何故音に変化があるのか。見えないだけで、実際に鎖が動いて音が鳴っているからだ。存在するなら掴める。掴めるなら補正の変動に介入できる。まあ、今の所一項目しか介入出来ないけど。
近付いて来たモンスターに対してもう一度腕を振る。モンスター共は腕の当たった箇所が爆ぜて魔石になる。ついでに風圧で離れた箇所のモンスターも壁まで飛ばしてせんべいにする。今ので腕が原型を失った。次は足か。
最悪四肢を使いつぶしてもショウシャクヨモギで何とか地上までは帰れそうだ。希望が見えてきた。
解けろ。
暗赤色の結晶よ。
手始めに義手を再生成する。誤作動とかあると怖いしね。首を動かして状況を確認すると、どうやらモンスター共は警戒してこっちに寄って来ていないらしい。その方が困るんですけど。多分このままだと出血死しそうだから早く殲滅して安全を確保しないといけないんですけど。
クソ犬と目が合う。ほら、早く来いよ。目で煽ると、クソ犬の咥内が赤く輝く。ああ違うそうじゃないです待ってください。
暗赤色の結晶よ。
全身の傷口から血が溢れ出して体表にサラマンダーウールを生成する。俺は微妙に温まる程度の熱で済んだ。あっぶね。
解けろ。
俺はなんとか起き上がって周囲を見渡した。腰に左手を伸ばすが、当然ポーションは全て割れていた。さて、頑張って帰るかね。別の『鎖』を掴む。選択したのは耐久だ。これで何とか歩けるだろう。そして、暗赤色の結晶よ。右手に絡まるように杖を生成し、それを支えにゆっくりと歩き始めた。
クソ犬共が唸り声を上げる。右手が死んでいるのはあいつらも分かっている。絶対に何処かで仕掛けてくる筈だ。マイナス補正で反射神経が終わってるから、その瞬間を読み切る必要がある。俺は素早く目を走らせた。目の前のクソ犬二匹。こっちに飛びかかって来られる距離にいる。唸り声が大きくなる。その前足の筋肉が緊張する。まだだ。唸り声のトーンが変わる。顎を開いたからだ。だが、まだだ。唸り声の発生源が移動する。ここだ。俺は、真後ろに左手を振り抜いた。それと同時に、補正を力に乗せる。こいつらは賢いから絶対に正面から来ないと踏んでいたが、正解だった。目論見通り、手刀は確かな手応えと共に頭蓋を貫通した。
代償として義手がまた壊れたが、もう一発はいける。出口の方に振り向くと、クソ犬共はいそいそと道を開けた。流石に無理だと判断したらしい。助かった。俺は安心のため息を吐いて、帰路へ踏み出した。嫌な音がした。踏み込んだ先に地面はなかった。
浮遊感。瞬時に辺りを見渡すと、俺を中心に半径十メートル程度の地面が崩落し始めていた。強制力。そこまでやるのかよ。咄嗟に何か掴めるものを探すが、そんなものはない。そうして、俺の体は落下を開始した。万全の状態ならばまだしも、今の俺では絶対に助からない。仮に耐久に補正を回して落下の衝撃に耐えたとして、そこから地上へ上がるのは不可能だ。それに、着地するまでに生きてるかもわからないし。
これはもう、無理かな。十分頑張ったよ。うん。全てが殺しに来てるのに良くここまで耐えた。仕方ない。多分、ここで落ちなかったら階層そのものを崩落させていただろう。
落下してきたクソ犬が俺の右手を噛み千切ってそのまま落ちて行った。スキルの操作をしている誰かさんは、本気で俺に死んで欲しいらしい。だが、最後まで諦めないのが俺。俺は幸運の『鎖』を手繰り寄せた。俺は良く知っている。シナリオを壊すのは力とプレイングだけじゃない。思いもよらない幸運は、練り込まれたシナリオにさえ罅を入れるのだ。前回のエリナベラの件を見る限り、今回のシナリオもそこまで作り込まれていない。ならば、この一発で崩壊する可能性に賭けるべきだ。
瞼の砂嵐が乱れる。硬質の物が転がる音が脳に響いた。
次の瞬間、飛来した銛のような何かが俺の腹部を貫いた。来たぜ。クリティカル。
書いてる内に思ったより主人公死にそうになって草生える。
人間は解釈コストの軽減のため、二項対立をしがちである。
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