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さて、この異世界に降り立って二日。ぶっちゃけ舐めていた。金が無い所為で食事を一切出来ていないのである。簡単に入れるだろうと思っていたファミリアも全て門前払い。詰んだといっても過言ではなかった。
しかし、記憶の整理だけは出来ていた。暇だったから。
幾つか新たに分かったことがある。一つは此処に来る前の記憶は「見出し」「本文」「コメント」の三つで構成されているという事。どういうことかと言えば――まあ、説明するより、一つ例を出した方が早いだろう。
水晶:安い。インクルージョンは高い。劈開がない。
本棚の上に置いてある
こういう事である。記憶の見出しと本文に入った自分の情報は全て失われているようだったが、コメントに入っている自分の情報は残っているらしい。謎のシステムである。そういうゲームだと言われればそこまでだが、もしかしてこの世界の奴って皆こうなのか?
もう一つ分かったのは記憶喪失以前の一人称である。記憶に付いているコメントを読んでいる内に現実世界の一人称が「僕」であることが分かった。僕という一人称は何処か性に合わない。
最後に、俺というキャラクターは過去があるという事。記憶があるんだからあるに決まってんだろと思うだろうがそうではない。ポンと転生して新たに肉体を得た訳ではないという事だ。身体というのは一度覚えた物事を中々忘れない。だから、色々な動作を行ってみた。その結果、俺は投擲が得意であることが分かった。重要なのは投擲の才能がある訳ではないという事だ。正しいフォームで、正しい体重移動を行った時にしっかりと飛ぶ。回転しながらとか、股下を通してとかの精度は低かった。つまり、これは努力によるものだという事だ。努力をする時間が、以前があったという事だ。俺は恐らく何処からか転移したのだ。
つまり、俺は僕だった過去があるということだ。だから何?
さて、そろそろ現実に目を向けようか。
問題は山積みだ。しかし、明確な優先事項がある。食事だ。
この断食生活にも、そろそろ限界が近づいて来た。水は頑張れば飲めるので水分不足で死ぬことはないが、高校生であろう俺の体は基礎代謝が多く、エネルギー切れを起こしそうである。水さえあれば少なくとも一週間は生きられると記憶は言っているが、それも疑わしいほど腹が減っていた。頭痛が酷いのだ。立てば眩暈がして、吐き気がこみ上げる。そのたびに汗が吹き出て、やる気が失せていくのを感じた。
食事を摂りたい。もうこの際盗むことも視野に入れなくては。前科があるので警察には目を付けられているが、もう一度なら何とでもなる。その為にも、ここを出なければ。俺はため息をついて、このダイダロス通りからあの大通りへ戻る道を探し始めた。
ダイダロス通り。あのギリシャの天才、ダイダロスの迷宮を彷彿とさせるネーミングの住宅街である。俺はいくつかの小さなファミリアがここにあると聞いて入ったのだが、思っていた百倍ほど迷宮で、あっという間に迷ってしまった。かれこれ数時間ここを彷徨っているが、一向に出られる気配がしない。このままだと食い逃げも出来ずに餓死するだろう。長い時間此処に居たせいか、俺の気分まで影が差し、薄暗くなるようだった。
この裏路地はループしているのだ。ほぼ一日中出口を求めて歩き回っていたが、何時か見た様な狭い小道が角度を変えて現れるだけだった。空を見ればもう夕焼け。帰る家は無いけれど、不思議と早く家に帰らなければといけない気持ちに駆られる。俺は突き当りの角を曲がった。この日、何百回もした行為。そしてその先にあったのもやはり、何百回も見た光景だった。何処までも変わり映えのない石畳と壁にへばり付いた街灯に、誰が書いたかも分からない51という数字。
怪異。その二文字が脳裏にちらつく。このダイダロス通りに入ってから一度も人を見ていない。それは普通、ありえない事だった。ダイダロス通りは住宅街である。人の出入りが無いなんてことは起こりえない。
考えられるのは、ここが異空間であるという可能性だ。記憶曰く、異空間に行く方法は幾つかある。エレベーター、電話、特別な歩法。無意識のうちにステップを踏んでいた可能性もあるが、それよりもこの世界特有の怪異である可能性の方が高い。そうなると、全く対策が取れないのが問題だ。
鳥が鳴いた。俺が歩くのに合わせてカサカサと衣擦れの音が、靴のかかとが地面を擦る音が響く。よく考えたら、一日中ここに居たのに一度も情報を整理しようと思わなかったなんておかしな話だ。熱が冷めるように、色々と思い出してきた。右へ左へ曲がり、決して同じ場所に戻らないように進んだのに、必ずあの十字路に帰される。街灯と石畳と51の十字路へ。振り返れば先程とは全く違う、しかし妙に既視感を感じる道が続いている。俺はその先を知っているのだ。どうして忘れていたのだろう。俺がここから出られないのはそれのせいだというのに。
なんだか嫌な予感がする。肌に有刺鉄線が緩く巻き付いているかのような、ぴりぴりとした感覚が這い回る。空を見上げる。空がある。月はまだ見えない。後ろを振り向く。ネズミ一匹いない路地を瞳は映す。前を見る。T字路である。俺は歩き出した。
記憶曰く、こういう無限ループ系を一人で抜けられた事例は滅多にない。少しでも脱出の可能性を広げるため、もっと情報を集めなければ。
街灯が体を照らし上げ、影が前方に大きく伸びていた。大丈夫。影はまだ自分の形をしている。何か怖くて、だんだんと早足になってきた。薄暗い路地に靴音が反響する。今度は突き当りを右に曲がった。
今回は一度も見たことがない、既視感のない道だった。明らかな特異点。出られるかもしれない。振り返っても誰もいない。早足が駆け足になった。確信は無いが何か良くない事が起きている気がする。靴音が狭い間隔で反響する。
何かがおかしい。これだけ走っているのにまだ反対側に着かない。しかし、止まってはいけない。そんな気がして、息を切らして、時々壁に服を擦らせながらも走り続けた。もう日が落ちる。落ちてしまう。体力も限界に近付いてきた。
そうして、見知らぬ十字路にたどり着いたとき、足を止めた。恐怖心が縛り付けたのでは無い。己の意思で立ち止まった。そして、やめてくれと願いながら耳を澄ます。
それでも、まだ
弾かれたかのように再び走り出す。振り返っても誰もいない。前を見ても人影は無い。でも誰かいる。ならばそれは――。
XX、又は幽霊:存在しないいる
気配を感じて、振り返っても誰もいないなら、きっとそれは上に居る。
空を見上げる。其処には何もなかった。
最後に感じたのは、何かが俺の背中を掴んだという異物感だった。
最初の日とは対照的に、俺は柔らかいソファで目を覚ました。ここは何処だろう。記憶の糸を辿っても、夕方、ダイダロス通りを彷徨っているところでぼんやりと途切れている。人が眠りについた瞬間を記憶していないように、意識が解けている。それは一日目にあの薄暗い路地に入って行った時、記憶に空白が生まれたのによく似ていた。
これについてはいくら考えても仕方がない。俺はソファから起き上がった。目の前には小さなテーブルが一つ。左の壁には本棚があり、何かも分からぬ本がぎっしりと詰まっている。奥の壁には扉があって、それはこの部屋の唯一の出入り口だった。俺は立ち上がって本棚に近付き、目の高さにあった一冊を抜き取って内容を確認した。うん、読めない。俺は無言で本を本棚に戻した。次にテーブルに向かった。上に何も乗っていないことを確認し、裏側を覗き込む。何もない。
俺がそんな調子で部屋をうろうろしていると、木製の扉がぎいと音を立てて開いた。そしてその隙間から、ローブで全身を覆い隠した何者かがぬるりと部屋に入ってきた。その人物は足音を立てることもなく移動し、俺が寝かされていたソファに座って本を読み始めた。
怪しすぎて話しかけたくない。この人物は恐らくこの家の主で、俺はきっと礼を言うべきなのだろう。でも話しかけたくない。
俺がそんなことを考えていると、ローブの隙間から声が聞こえた。
「おはようございます」
……おはようございます。
高い声だった。恐らくは女性。男性であるならば声変わりの前であろう。俺はとりあえずお礼を言った。
「あー、うん。気にしなくでも大丈夫だよ」
このお礼はいつか必ず、と食い下がると、相手は少し考えた後に言った。
「じゃあ、そうだな。上裸になってこっちに背中向けて」
はあ? と思ったが言われた通りにTシャツと下着を脱ぐ。アレなことをされるのかとも考えたが、それでは背中を向ける意味が分からない。
「あっ忘れてた」
ローブの何者かは何やら不穏なことを言い残してバタバタと部屋を出て言った。少し寒いなと俺は腕を摩った。相手はすぐに帰ってきて、あっち向いててねと言った。手元はローブで見えない。
俺は本棚のある壁が正面になるよう体を動かした。少しすると、後ろから短く息を吸う音が聞こえた。もしや包丁か何かで刺されるのかと警戒していると、後ろが光った。
少し暗い部屋だからとても分かりやすい。俺の背中が煌々と輝いていた。
ちょっ、ちょっと待って! 何してんの!? 俺の背中光ってるんだけど!?
先方無言。少しすれば光は収まり、俺は動いていいと許可をもらった。すぐに距離を取って尋ねる。
何をした。
「ファルナ刻んだ」
そう言って神は一枚の紙を掲げた。何てことしてんだこいつ。
ファルナは神の眷属の証だ。眷属は所属するファミリアを変える行為、改宗を簡単には行えない。改宗は今所属しているファミリアの主神と改宗先の主神の双方の合意があって成立するものであるからだ。
ファルナの効力が神によって違うという事は無いが、ファミリアの気風や指針が合わなかった時に改宗を選択することもあるだろう。だが、こちらの神が反対すればそれは出来ない。最初のファミリアで一生を終える者も多いため、このような形で眷属になるのは大変遺憾である。神がこんな事していいのか。誉れは何処に。
取り消せない?
「無理だね」
ク、クソイベ。俺は心中で悪態をついた。僅かな希望も打ち砕かれた。俺は項垂れながらシャツを着た。どうせ他の所では断られていただろうから、入れただけマシだ。そう自分を励まし、もう一つの重大な問題を片付けることにした。
あの、泊めてもらった身で言うのも差し出がましいのだけれど、何か食べるものをくれませんか。もう何日も食事を摂っていないので。
神は分かったと言って部屋から出て行って、直ぐにパン二つとコップを持って戻ってきた。俺はいただきますと言ってパンを千切って食べた。甘い。空腹は最上のソースとはよく言ったものだ。俺は久しぶりの食事に舌鼓を打った。急いで食べた所為でのどに詰まりかけ、水を飲む。最高。腹は満たされないがこの上ない満足感を得られた。
俺は一言礼を言って、神に名を尋ねた。神は秘密とだけ言って俺が食べ終わるのを静かに待った。
約一時間後、俺と神様はギルドに居た。冒険者登録の為と、俺の個人的な目的として神の名の確認も含まれていた。ファミリアは〇〇ファミリア、とファミリアの前に神の名前が入る。ギルドに所属ファミリアが記されるならばそこで聞くことができるだろうという考えだった。
しかし、当然と言えば当然だが、登録方法は署名を使ったものだった。ざっと用紙に目を通す。
あーなるほどね。完全に理解したわ。
読むふりであった。俺が恐らく署名をするであろう空欄を見つめていると、俺を担当する予定の職員から代筆が必要か問われた。俺はちらりと神様の方を見てから、お願いしますとペンを渡した。職員が聞いた。
「お名前は?」
俺は黙り込んだ。名前は憶えていない。どうしようか。その時、記憶が剥がれて手の中に落ちた。
名前:名は体を表す
ゲームで主人公の名前を決めるとき、毎回「あ」にしていた
お前碌な情報出さねぇな。もう適当な偽名でいいや。俺の名前は――
結局神様の名前は分からなかった。やはり字が読めるというのは重要な技能であった。ダンジョンに行くには勉強が必要なようで、明日から授業をするという事で俺たちは帰された。今はこの街を神様に案内されている。
「それにしても、偽名でもあれは無いんじゃないか? 『アナタ』」
アナタ。それが今の俺の名前だ。センス無えなコイツと思っただろう。俺もだ。職員の人も困惑していた。なぜこんな名前にしたかと言えば、名前として呼ばせない為である。名は体を表す。それが本当の名前として定着する前に、俺が「アナタ」として世界に定着する前に、失った僕の名前を思い出す。そういう企みだった。それまでは服の特徴や装備で呼んでもらおう。
俺は話題を逸らすように尋ねた。
そういえば神様のファミリアはどれくらいの人数が所属しているんですか。
「今の所君一人だけだね」
最初の一人をあんな形で眷属にしたんですか。
じゃあファミリア全体としての目標は何ですか。
「お金稼ぎかな」
金欠なんですか。
「そろそろ貯金も尽きるね」
ギリギリが過ぎる。バイト暮らしなのだろうか。
それなら相談があるんですけど。
「はい」
俺が稼いだ分を幾らか差し上げますので、あの家に泊まらせてもらえないでしょうか。
「いいよ」
意外にもあっさりと許可された。俺を自分の家に泊めるのに抵抗が無い点を見るに、神様の性別は男かもしれない。とりあえず、ベッド確保。
「まあベッドは一つしかないから、君はしばらくソファで寝ることになるけどね」
ソファ確保。
ファミリア選びの問題が予想外の道で解決して、心做しか肩が軽くなった気がする。騒がしい自由市場を見回して、俺は細く長く息を吐いた。空を見上げる。其処に雲は一つもない。快晴だった。
飛行機の乗降口が機体の左側にあるのは、船のポートサイドに由来している。
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