「皆さん、お疲れさまでした」
伊地知の言葉に集められた一同は、肩の力をそれぞれ抜いて、高専の応接室にて任務終了の言葉を待つ。乙骨たちの方が早く高専に辿り着いたとはいえ、それなりに戦いを避けられなかったらしく、土埃や擦り傷がこさえられている。伏黒も例外ではないが、特に戦闘はしていない亜冴の方がボロボロなので比較的に綺麗に見えていた。少しばかり不甲斐ない。
「結局、本物は伏黒たちだったか」
「いや、俺たちのは本が開いた時に消滅しました」
「えっ?!」
「はぁ? 私らのも確認で本開いたら、消えたって言ってたぞ」
「しゃけ、すじこ!」
「ああ、確認した人がわざわざ嘘付くとも思えねぇ」
「……じゃあ、本物の呪いの本は……」
冷や汗が伏黒の背中を伝う。本は偽物が二冊で、一冊は本物だ。開いた際に消失したのを確かに伏黒は見たし、こちらは誰も盗まれても死んでもいない。疑心暗鬼と任務の失敗に真希たちと伏黒は顔を見合わせて、次第に青褪めていく。失態したとすれば、交戦中の時だろうか。自分のミスを取り返す方法が思い付かず、伏黒は入学早々の手痛い出来事に頭を抱えたくなった。誰かが盗んだとすれば、いつ、どこでどうやって、という、高専内に敵が潜伏している可能性が出てくる。
「あの、これ。どこに置けばいいですか?」
室内の全員が青褪める中、能天気な声が部屋に入って来た。空の鞄を片手にした亜冴は机に並ばされた鞄二つに、ここか、と手錠に繋がった赤黒い手首で鞄を置いた。
「足集利、本が入れ替わったタイミングで、思い当たる場面はないか?」
「本が入れ替わった……んですか?」
「ああ、本は全部偽物だった。本物は呪詛師どもの誰かの手に……」
「え?」
首を傾げる亜冴は心底不思議そうにしており、事態を飲み込めていないようだ。まぁ無理もないのかもしれない。軟禁生活を強いられてきた亜冴にとって、騙し騙されは初めてだったと思われる。補助監督たちが方々で連絡、上層部への報告をしようと動き出そうとした瞬間、またもや亜冴の呑気な声が部屋に響いた。
「本物は私と伏黒さんで運んだ物かと」
「アレは消滅して……」
確かにこの目で本が消えるのを伏黒は目にした。亜冴も例外ではなかった筈だ。現実逃避をするな、と嗜めるつもりで伏黒は言葉を選んだが、それらが吹っ飛ぶ出来事が再び舞い込んできた。ガチャリ、と鞄を開けた亜冴が掲げたのは、一冊の分厚い、見るからに年季の入った古書。先程、正に自然と開かれて姿を消していった本が目の前に存在していた。
「正真正銘の、本物です」
遡ること、三十分ほど前。
茂みの中で亜冴は制服に付いた白い毛を摘み上げた。抱き着いた時に付いたものが何本か、黒い制服によく映えて浮かんでいる。特に小さい物を集めた亜冴は、隣にお行儀よく座る白を見る。急な坂下の道に沿った伏黒たちは、膠着状態となっており、今にも戦いが始まりそうだ。亜冴は白に見られないよう、口を開けると持っていた白い毛を口内へと放った。唾で何度も呑み込んで、奥へと押しやる。
次に鞄から出した本を取り出し、開かずに古紙の端を小さく千切った亜冴は、同じように紙を口に含んだ。独特の嫌悪感を湧き上がらせる味をなんとか飲み込んで、残った紙を本にべ、と貼っておく。元に戻した本を大層大事に鞄へ仕舞い、準備を整えた。こうして亜冴は、傍らの温もりを撫でて、人としての声を囁く。
「ねぇ、おまえ。準備はいい?」
ワフ、と顰めた声の返事に亜冴は微笑むと、驚きの声を上げながら、坂を二本足で急いで降りた。
「つまりは、伏黒さんとあの人が見たのは、全部、嘘です」
みなへの説明に白の姿の所有方法を控えた亜冴は、結局今回は使わなかったことを内心で残念がった。どうせなら白に自身を投影して、もっと掻き乱してみたかったものだ。状況的に出来なかったので、次の機会を伺おう。
亜冴の見た目の変化は、上着がないことと手錠をした赤黒い手首のみで、この部屋に入ってからというもの、他はピンピンしている。
「じゃあなんで隠密せずに、俺のところに来たんだよ」
伏黒の指摘に亜冴は真希たちを見る。確かに高専で真希たちに増援を頼むことはできただろう。しかし、それをしなかったのには理由がある。
「あの人は私の居場所を正確に察知できていました。なので、再び分かれて追い掛けられるよりも、目的のものはないと見せた方が諦めて去っていただけると考えたんです」
「その確証はどこにある。殺されてたかもしれないんだぞ」
伏黒の言い分があまり理解できなかった亜冴は、首を横に振って意見を否定した。だとしても、あの男は私を殺さなかった。賭けでもなんでもない、確証を持っている亜冴は素直に口を開く。
「そんなことをする人には見えませんでした」
絶句する伏黒は見る見るうちに怒りを帯び、亜冴に掴み掛からんばかりだ。どうして怒っているのだろう。伏黒から根底にある深い色を汲み取った亜冴は、言葉を募る前に間に入ったパンダに阻まれた。モフモフの身体に身体が埋まりかけ、数歩引いて上を向く。パンダは伏黒の方を向いており、亜冴には大きな背中を向けていた。
「落ち着け、伏黒。とにかく今は全員無事に任務達成できたことを喜ぼうぜ」
後ろに回り込んできた狗巻に背中を押され、真希のところへと運ばれた亜冴は、不思議そうにしながらも誘導に従った。乙骨とパンダが宥める伏黒から距離を置かれ、安全圏に置かれたと本人は気付いていない。真希は物言いたげに亜冴を見下ろしていたが、結局は何も言わずに隣を保った。ここで望まれているのは静かに大人しくすることだろう。亜冴は少し俯くと、自身の左手首を摩って白い肌に浮かぶ赤と青紫のドス黒い色を確認した。
──これ、なんなのかしら。
痛めたとは分かるものの、怪我とは認識できない彼女に誰も何も言わない。亜冴は済んだ報告に顔を上げて、真希に治療室に連れられていった。
「お前、マジでどんな生活してきたんだ?」
入学早々、伏黒にされた質問を尋ねてきた真希に、亜冴は目を丸くさせる。数時間前も同じようなことを尋ねられたことから、そこまで気にかかるようなことを自分はしでかしたのかと、少し反省をした。
「何故でしょうか?」
「ナゼもなにもねぇよ。箸より重いもの持ったことねぇ、初対面の人間を疑うこともしねぇ。なのに、その明るい性格となんも知らなさ加減。軟禁以上にヤベェ生活してきたんじゃねぇの? てか、そんな人間がなんで見合いドタキャンしまくんだよ」
真希の言う言葉の殆どは分からなかったが、亜冴は横顔を見て内容を理解すると、考えを逡巡してから口を開いた。彼女が発する世間一般的な価値観と私の世界は違うのだと、明確に分かる言葉の数々だ。それに悲しさや寂しさ、違和感も不快感も覚えない。そもそも合っているのかすら、亜冴には不明だ。でも感じ取ったものたちに対して、言葉の意味はピッタリだった。
「退屈でつまらない生活です。何も知らない私にまで飽きられる、異常な場所でした」
以前、異常な場所だと気付くほどの場所だと、伏黒に話した亜冴は、その内容を少しばかり付け加えて答えた。知っていた言葉の数々を、繋ぎ合わせる方法をあの時はあまり知らなかった。この感覚と外界の感覚が、合っているのならいいのだけれど。
「……そんなに私は異常ですか?」
「んー、まぁそうだな」
「どこを正せばいいのでしょう?」
「もっと自分を大事にしろ。そんで、見た目だけで人は分からねえってことも学べ」
「承りました」
「あと、たまに出るその言葉遣いもやめろ。もっと軽いヤツ使え。家の奴ら思い出して、寒気がする」
「分かりました」
素直に頷き続ける亜冴の頭を撫で、真希は治療室の扉を開けると、家入に事情を説明して亜冴の手首を見せた。見る見るうちに色が引いていく手首をマジマジと眺め、治り切らなかったらしい手首に冷たい物が貼られる。独特の匂いにスンスンと鼻を鳴らす亜冴を、変なものを見る目に二人はなったが、奇行を止める者は誰もいなかった。