最弱の怪物   作:肩たたき

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第二話『朱に交わる』-9

 

「おはヨークシャーテリア〜」

 

 護送任務の翌日、伏黒は一人きりの教室に眉間の皺を寄せ、呼び鈴に遅れてやって来た五条を睨んだ。五条よりも遅刻した亜冴に、昨日の怒りを引き摺った伏黒は、つい目の前の人物に噛み付いてしまう。

 

「あの馬鹿……、今度は寝坊かよ」

「ん? 亜冴ならお休みだよ」

「はっ?」

 

 わざとらしく首を傾げる五条は、つらつらと口を滑らかに動かしていく。昨日の今日でなんなのだと思うものの、伏黒は耳を傾けることにした。

 

「全身痛くて、動けないってさ」

「それって……」

「気になるなら、見舞いにでも行ってあげたら? 部屋にいるから。っていうか、聞いてよ! 北海道産の高級プリンを半年前に頼んだのに、まだ届かないんだよ?! おかしくない?!」

 

 もしかして、手首以外にも怪我をしていたのか。亜冴の術式を考えれば、怪我を隠すくらいは容易なものだろう。伏黒は質問を重ねていき、五条から詳しい話を聞き出そうとしたが、些細なことで怒りを爆発させた彼は聞く耳など持っていやしなかった。

 

──本当は怪我してたんじゃ……。

 

 心配が積もり積もった伏黒は、断固として見舞いなぞと思っていたが、プリンで激昂する大の大人を見ている内に、逆に自分のちっぽけさを感じてしまった。もしかしたら、手首に浮かぶ酷い内出血と痣が制服の下にはあるのかもしれない。それがもし、後遺症が残るような怪我だったとすれば。大体、亜冴が引き起こした幻覚は確認のしようがない。もしかしたら、本当に坂を転がり落ちていた可能性もある。

 

「ちょっと恵ぃ! 聞いてんのっ?」

 

 悪い方へと考えれば考えるほど、伏黒はしょうもない話に耳を貸せなくなっていったのだった。

 

 

  *  *  *

 

 

 全身が糸で引っ張られるように引き攣って痛い。走る激痛に顔を顰めた亜冴は、扉を叩く音に眉間の皺を濃くした。掛けられた扉先の声に、亜冴は布団の中で思案する。低い声だが、誰だろうか。夕方の放課後は決まって身体を動かすことにしている様子なので、声を差し引きても扉前の人物は真希ではない可能性が高い。

 なんとか起こした全身が悲鳴を上げ、呻きながらも返事をした。焦った様子で開けられた扉向こうに立つ伏黒に、亜冴は目を瞬かせて心底驚いた。だって私は昨日、嫌われたものだと。

 

「……足集利、その……怪我の具合は……」

「…………家入さんに診て貰えたので、痛みますが大丈夫です」

 

 不思議そうに答えた亜冴は、高床式の寝床から降りようとするも、伏黒はそれを制すように近付いてきた。扉を閉めないのが気になり、そちらへと亜冴は目を流しながら、伏黒の言葉に対応していく。要件前の挨拶代わりのものだろうか。

 

「本当か? 本当は大怪我していたんじゃねぇのか?」

「はい? 血は出ていませんよ?」

「血が出なくても、骨折とか……」

「コッセツとはなんですか?」

「……骨が折れたり、ヒビが入ることで……いや、そうじゃなくて」

 

 眉間を抑えて溜め息を吐いた伏黒は、頭を整理しようとその場で黙って考え始めてしまう。怒鳴りに来た訳じゃないなら、なんだろうか。目が合いそうになったところを、亜冴は痛む腕をぎこちなく動かして、近くに置いておいた飲み物を取った。その動作を見た伏黒は確信を持った様子で、真剣な顔で薄い唇が付いた口を開く。

 

「全身が痛むって聞いた。昨日の任務でお前を守りきれなかったのは俺の落ち度だ。お前にとったらアレが初任務なのに、一人にさせるべきじゃなかった。……悪い」

 

 横へと視線を逸らしながらも、頭を伏した伏黒に亜冴は衝撃で固まってしまった。私いま、男の人に謝られたのか。亜冴にとって、男とは頭を下げることのない生き物だ。使用人以外に礼儀を払われ、尚且つ女よりも尊ぶべき存在であるとされる殿方が、私に。

 固まったまま動けない亜冴に、伏黒は更に言葉を連ねていく。あまりのことに訂正することも出来ず、そもそも何が間違いかも分からない亜冴は、診断された病名をあげることにした。

 

「筋肉痛って、命に関わることなのですか……?」

「…………ハ?」

 

 今度は伏黒が固まって、顔を上げた状態で動かなくなる。今朝、目が覚めた亜冴は起き上がれないほどの激痛に、涙目で女子寮の真希を呼び付けた。真希は呪力を一般人程度しか保有していないことや呪霊を専用の眼鏡なしでは視認できないことから、一応ということで呪力の影響かどうかを確かめるべく、六眼持ちの五条が連れて来られた。

 筋肉痛と判明した途端、呪物である本を少し食べたことの報告同様、それ以上に爆笑しながら、五条は筋肉痛だと説明をした。真希からは呆れ半分で叱られた亜冴は、確かに身体を動けないほどの痛みに苛まれていたので、本日は病欠扱いとなったのだった。

 

「〜〜ッあんの……!」

 

 ことの顛末を知った伏黒は、頭を掻き毟って五条悟という自身の身元引受人への怒りを爆発させた。ふざけんな、俺の心配を返せと、独り言をしていく。怒りのあまり取り乱す様子に、亜冴は真剣な顔で飲み物をひとまず元に戻して伏黒へと姿勢を正した。なんだかんだといって、面倒を見てくれた彼には一番お世話になっただろう。

 

「伏黒さん、今までご迷惑をおかけしました。死んでもこの恩は忘れません。最期に貴方が私奴のお葬式に出席して下さると、とても嬉しいのですが」

「筋肉痛如きで縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ! この馬鹿!」

「バカ……? 馬鹿なんて、初めて言われました!」

「喜ぶなッ!」

 

 変わらず満足に動けない状態の亜冴は、怒り狂う伏黒という火に油を注ぎ続けた。酸欠により肩で息をし出す伏黒に、亜冴は嬉しそうに微笑んでいる。女子の部屋だからと、配慮として長居する意思を見せない為に座らなかったのだが、もうどうでもいい。勉強机に備え付けられた椅子に、太々しく座った伏黒は腕を組んで亜冴を見下ろすように睨んだ。見守るなどという優しいものは無いが、亜冴は終始嬉しそうにして、今度こそ飲み物をぎこちなく飲み始める。

 

「……手首の調子は?」

「痛みますが、元の色に少しだけ戻りました」

「…………それも、打撲っていう怪我だからな」

「へぇ、そうなんですねっ」

 

 またしても伏黒は深く溜め息を吐いてしまう。疲れた顔ばかりをさせてしまっていることに、どうしたらこの人は笑うのだろう、と亜冴は考え始めた。同い年の方、しかも殿方との交流なんて、私には経験が無い。五条や真希たちは、至極真面目でも笑ってくれる。思えば、亜冴は伏黒と出会ってから、彼の笑顔を見たことがなかった。純粋に見てみたい、と思ったものの、やはり良い案は思い付かない。むしろ亜冴が何かをする度に、伏黒の顔色は曇っていってしまう。

 

──目の前から消えた方が、彼にとってはいいことなのかも。

 

「伏黒さんは、私に消えて欲しいですか?」

「……んだよ、そのふざけた質問」

 

 空気を走るビリリとしたものに、亜冴は違うのかとまたしても驚いた。この人が何を求めているのか、亜冴には皆目見当もつかなくなってしまう。

 

──健常者って、難しいな。

 

「私は伏黒さんに沢山迷惑をかけてしまっていますし、本来なら会うこともなかった間柄です。次は本当に大怪我を負って、また頭を下げさせてしまうかもしれません」

 

 つらつらと流れ出る言葉の数々は、自分のことながらも亜冴にはどこか嘘の様に感じる。言いながら否を唱える自分を、心の内でくびり殺していった。大人たちが望む答えは分かるのに、私はこの人のことが分からない。

 

「私にできることは、術式を使って自分の姿を伏黒さんに見せなくすることだけですが、少しでも貴方の心労は軽くなるでしょう」

 

 だから、笑って。言外に進言する亜冴に、伏黒は顰めていた顔を険しいものへと変えていき、本気で睨み付けてきた。もっと嫌われてしまった。いや、どちらだ。わからないな。

 

「消えてほしいとか、そういうんじゃねえ。お前、気付いてないかもしれねぇけど、自分を価値が無いものとしてるし、どっか他人事なんだよ。お前の話をしてんだろーが」

 

 伏黒に指摘された亜冴は、価値と他人事の意味を考えて腑に落ちてしまった。そうか。他者から望まれる答えは、当事者からすれば他人事になるのか。人が望む答えばかりを選択するよう、抗っていたつもりが従っていた事実に反吐が出る。それを、普通を知る伏黒に否定して欲しく、無意識に誘導していた自身の腹の黒さにも、つい目が細めた。亜冴はこれらを治すべき悪癖として捉え、伏黒の言葉に無言で同意した。男に反論してはいけないという教育ではなく、純粋な納得からだ。

 

「俺はお前に消えてほしいとか、死んでほしいとか、一生思わねぇから安心しろ」

「……本当に?」

「ああ、本当だ」

 

 言い切れる経験と自己理解が深い伏黒を羨みつつ、亜冴は胸の内に広がる安堵を確かに自覚していく。私、嫌われたくなかったんだな。そういえば、伏黒さんはなんで怒っていたんだろう。その感情がどこから生まれ出たのかを、私はまだ知らない。私では体感できる日は来ない気がする。

 

「あークソ、怒鳴ったら腹減った」

「今から夕飯ですか?」

「少しはえーけど、いいかもな」

 

 僅かにだらけた伏黒は背中を起こして椅子に座り直すと、携帯を取り出して整った顔を液晶の光で灯した。微かな青みがかった光が顔の凹凸をなぞっている。橙色の陽の光の色彩に青と黒の中の強い小さな光が、亜冴には立体の天辺を示す場所と共に、たった一瞬の出来事には勿体のない輝きだと思えた。パッと伏黒が顔を上げることで、それらの変え難いものたちは乱れ、微かな落胆が亜冴の中で滲み立ち消えていく。濡れた和紙に滲み広がる灰色の墨のような端正な顔立ちだ。顔を逸らして自身の目を逃した亜冴は、伏黒の疑問の声に耳を傾けた。

 

「そういや、足集利は夕飯いつもどこで食ってんだ? 学食で飯食ってるとこ、昼にしか見たことねぇし、外食とかしてるワケでもないんだろ?」

「あぁ、お食事はお昼だけ取っています」

「……マジ?」

「ま……?」

 

 言葉の意味が分からず、半分だけ聞き返した亜冴に伏黒が徐に立ち上がった。どうしたのかと眺める亜冴に顔と顔を突き合わせる。そこでも目を合わせないように動かした亜冴は、伏黒の動向を伺った。また怒られるのだろうか。

 

「飯、食いに行くぞ」

「え、嫌です」

「あ? 腹減ってんだろ」

「空いていますけど……。嫌なものは嫌です」

 

 一体全体、なんなのだろう。伏黒はこれまで亜冴に進んで何かを施そうとはしてこなかった。だのに、急な変化に亜冴は理解が及ばない。損得勘定無しに与えて、彼に何の益がある。押し問答を繰り返した末、苛立った伏黒は大きな溜め息を吐いた。また酸欠になってしまったのだろうかと、心配の目線を送っていれば、ドカリと目の前で胡座をかく。枕元に立たれたことのない亜冴は、その光景が新鮮で目線下の伏黒をつい見続けた。殿方を見下ろすことも初めてだ。

 

「なんで食べたくないんだ」

 

 伏黒にとっては歩み寄りだが、亜冴にとっては手痛い質問だ。根本の理由を話すのはいけないと、亜冴の頭に警鐘が鳴り響く。でも、この人に応えたい。

 

「……何かを口に含んで呑み込むの、苦痛なんです。気持ち悪くて、吐きそうになる」

 

 そうなってしまったのは、いつからだったっけ。自分の唾液しか、本当は受け付けたくない。明らかに生物として歪んだ事実を、亜冴はやっとの思いで受け止めて、答えに結び付けていく。そうしないと、飽きられてしまうと感じ取ったからだ。隠していたいことを打ち明けるのって、苦しいな。

 

「美味しいも不味いも感じられるのに、口の中で味が広がって、喉を通る感触が嫌になりました。ですが、お腹は空くし、食べなければいけないので、昼食だけはとって、他は五条先生から頂いた栄養剤を飲んでいます」

 

 馬鹿正直に打ち明けた亜冴は、そういう言葉を指す馬鹿ではないのだろうと、伏黒の心情を探った。無知で無能を指す馬鹿だと分かっている。だからこそ、私は学び続けたいし、他者との交流を避けたくない。

 黙り込んだ伏黒は信じられないようだが、なんとか噛み砕いて消化していく。手に取るように分かる他人の心情の変化に、亜冴はまたしてもつい目を離した。どうにも伏黒の目は見ていられなくて、変化する理由をまた見逃す。

 

「……家にいた時は、ちゃんと食べてたんだよな?」

「はい。毎日三食、与えられていました」

「……いつからだ?」

「…………一年ほど前からでしょうか。ああでも、その頃には残していました。気付かれないよう、捨てられるまでは、お食事の姿を消して」

 

 事実を受け、伏黒の怒りが鎮火していく。亜冴は顔ではなく仕草から汲み取れる感情に、全身に安堵が染み渡っていった。少しは理解してくれたみたいだ。

 

「俺は……ちゃんと食べるべきだと思う。それがお前を苦しめるとしても、食べて力を付けるべきだ」

「……五条先生にも、同じことを言われました」

 

 微笑む亜冴に伏黒は嫌そうに顔を歪め、横へと視線を流した。言葉を選んでいるようだ。ちゃんとこちらのことを考えてくれる人なんて、初めて目にした。術式ではなく、個人として見られることがあろうとは。

 

「……足集利、」

「なんでしょうか?」

「飯、食いに行こう」

「…………」

「辛いなら食べる量は少なくていい。嫌いなもんは残しても構わない。迷惑とか考えず、美味いもんを好きなだけ食べろ」

「ですが……」

 

 強要してくる伏黒は、尚も食い下がる為に大きく口を開く。いつもなら薄く開く口元からは、真剣な声色しか出てこない。

 

「きっとお前には食べたことない料理が沢山ある。知らないもんを食って、お前でも楽しく食べられるもんを探そう」

「……不快感に慣れる方が早いんじゃ……」

「なんも食べないより、そっちの方がよっぽどいい」

 

 伏黒の提案には、伏黒の利益は全くない。亜冴の益になるだけの提案だ。私と一緒にいたがる人なんて、この世に存在するんだ。彼は亜冴の為に譲歩したのだろう。なら、目の前の善意に応えるには、相手が望む言動で返すしかない。それが誠意だと教えられた。

 

「……分かりました。お食事、しましょう」

 

 痛い身体を引き摺って寝床から抜け出た亜冴は、満足げに頷く伏黒を目にした。寝巻きだったこともあり、着替えようとするのを慌てて止められ、彼は退室してしまう。部屋前で待つので、一人きりの時にしか着替えるな、という指示をもらった亜冴は素直に頷いて、今度こそ寝巻きの留め具を解いた。

 

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