最弱の怪物   作:肩たたき

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第四話『教育』-5

 

「──こ、─……いで」

 

 優しくて低い声が鼓膜を揺らしている。

 亜冴は夢で見た景色に、ハッと目を覚ましたものの、すぐに細めて目元を歪ませた。ムクリ、と起き上がった手指は冷え切り、窓からの光は皆無だ。部屋の電気を付けず、寝床から横たわったまま机上の時計を見れば、深夜三時を回ったところである。脱ぎ捨てていたパーカーを手繰り寄せ、亜冴は初夏の冷え込みに溜め息を吐いた。大丈夫。ここは変わりなく、誰もいなければ誰も来ない。子供の私だけだ。

 足の指の冷たさに靴下を履いた亜冴は、失せてしまった眠気に従って、何も持たずに部屋を出た。今度こそ、夜の散歩でもしよう。

 

「は……っ」

 

 初夏の曇り空はどっち付かずの適温を、肌寒さへと連れたっている。しかしながら今し方吐いた息は白く染まらず、空虚を上書きした自身の姿のように、存在はするが視えないものとなった。

 

「周りの大人たち、みんなと仲良くなってね」

 

 五条から任務だと渡された言葉に、つい気落ちしてしまう。大人嫌いの亜冴にとって、難関とも言える内容だ。胸の内に燻り続けているこれは、嫌いという範疇に収まらず、憎ささえ根付いているのを、あの男は理解していない。理解した上であれば、尚更タチが悪い。いや、立場が悪いか。

 

──私は家無しの根なし草だ。

 

 帰る場所は何処にもなく、仮の住まいのこの場もいつ無くすか。それまでに信用を勝ち取れるのか。疑問と不安だけは尽きない。

 

──伏黒恵になれたら良いのに。

 

 姿だけではなく本人として、亜冴は思わずにはいられない。この先も生き続けることを疑わず、実力と才能を有した彼は、嫌っていながらも五条悟からの信頼を得ている。教え子として一番に可愛がられ、誰よりも指導を受けてきた存在だ。いくら真似をしようと、自分のこれは猿真似でしかなく、五条の信用は得られないだろう。五条と亜冴はお互いに、自分を信じていない相手を信じるほど、理想主義でもなければ、楽観主義でもない。だのに、五条を見ていると、信頼していた父を思い出す。

 

──私は何者なんだろう。

 

 生きる目的は無い。復讐を遂げて追いやられた今、願望は目標にはならずにいる。いつまで未知の娯楽が続くかも分からない。途端つまらなくなれば、もぬけの殻になるやもしれない。

 

──“足集利亜冴”、こんな名前でなければ、もう少し結末は変わったのかしら。

 

 後ろ向きな思考を考えてしまうのは、あの夜と今夜が似ているからかもしれない。女子寮の廊下を抜け出て、外気に身体を曝け出す。鼻を啜った亜冴は、視界に誰もいない安堵を引き連れ、また息を吐いて広い高専内を歩いていく。人影に食指が疼き、向いた靴先は校門を目指した。

 

「──伏黒さん」

「……足集利?」

「こんな時間にどうしたんですか?」

 

 校門横の鉄柵の扉から入ろうとする伏黒に、亜冴は声を掛けた。驚いた様子で固まる伏黒は、亜冴をまじまじと眺めた後、顔を逸らした亜冴にやっと動き出す。

 

「コンビニ行ってきた。お前は?」

「夜の散歩です」

「……こんな時間に?」

「伏黒さんこそ」

「俺は眠れなかったんだ」

「私もです」

 

 ム、と再び口を閉ざしてしまった伏黒に微笑む。薄く脳裏に這い回る思考とチラつく視界が引き潮のように失せ、肩と奥の歯を噛む力が抜けて、肺に空気が溜まる。私はなんで泣きそうになっているんだろう。

 

「いってきます」

「は? 夜中の三時だぞ」

「姿を消せますし、平気です」

「そういう問題じゃねえだろ。流石にこの時間に一人はやめとけ」

「伏黒さんこそ」

「俺は男だからいいんだよ」

「優劣のお話ですか?」

「ちげぇよ」

 

 後ろ手で扉を閉めた伏黒は、通せんぼするように亜冴を見下ろした。引いた涙腺から目の前の人物を見た亜冴は、ゆったりと瞬きをして自然と相手を視界から外す。違う人間なのは誰もがそうだが、特に伏黒恵という人物は、今までに見たことのない存在だ。亜冴の中で大きな存在となるのを、誰も知りやしないだろう。名は体を表すと言うが、伏黒恵は自分と違う恵まれた存在だ。

 面と向かって彼の心全てを見るのは、わたしには強すぎる。

 

「散歩したいんです。夜の散歩を」

「やめとけ、するにしても夜九時までとかにしろ」

「外は危なくないですよ」

「お前に外の何がわかんだよ」

「それは……」

 

 亜冴は伏黒の言葉に固まってしまう。確かに彼より外を知らない。いや、何も知らないのだろう。それもそうだ。外界を知るようになったのは、数ヶ月前からだ。

言ってしまったと伏黒も固まり、二人の間に沈黙が落ちる。気不味そうにする彼に、とっくに溜飲など下がりきっている亜冴は、自分の異質さを再確認した。無垢にはなれない、無知な何者かである。

 

「心配すんだろ……」

「はい?」

「……だから、なんかあったら、心配するだろ。虎杖とか先輩たちが」

 

 ついつい見た限りだと、伏黒は嘘を吐いていない。ただ自身の本音を隠して代弁させているのが見え見えだ。心配なんてしなくていいのに。

 

「何も起きないので平気です」

「なんの根拠が……」

「私の価値は術式だけなので、誰も見やしませんよ」

「んなワケ……っ」

 

 何かを言いかけた伏黒は、苦く歪む顔を隠すように前髪を掻き乱した。亜冴は面の下で訝しんだものの、探らずに拳を作る手に視線を集める。途端、何者かに耳打ちされる感覚を拾ったが、亜冴はいつもの錯覚だと割り切り、目前の言葉だけを待った。

 

「俺は術式なんかクソ喰らえと思ってる」

「……呪術師なのに?」

「術式大好きな連中に色々迷惑掛けられてるしな」

 

 伏黒からすれば亜冴もその連中の一味だったというのを脇に置いて、伏黒は話を続けようとするので反論せず黙した。

 

「呪いを祓う為に必要でも、それが全てってことじゃねえ。術式で人生左右されて、不幸になるのは間違っている。そんなもんで、人の価値が決まってたまるか」

 

 まるで心当たりのある言い方だ。真意は顔に書いてあるだろうが、亜冴は見ないように終始努めた。嘘か誠か、見たら分かってしまう。出会った頃から、いや、一目見た時から、この人の全てを知りたくないのだ。見合い写真ではなく、実際に目にしてからずっと。瞳孔を中心に透明な(みどり)色と(はしばみ)色を閉じた亜冴は、伏黒の真意を把握できないままにした。目を合わせたくないのに、話は長く続けたい。離れでは真逆のものを持ち合わせていたものの、やはり伏黒恵の前では違った。目ではなく、耳で知りたいのか。それとも理解したいのか。自分の欲すらわからない。

 

「呪術界では大多数が術式を重んじていても、伏黒さんはそれを否定するのですか?」

「ああ、否定する」

「かけがえのない人が考えを譲らなくても?」

「譲らない」

「その人が暴力を振るってきたら?」

「食い止める」

「敵わなくて止められなかったら?」

「それでも、俺は否定する」

「……変ですよ、それは」

 

 やはり今までに見たことのない人だ。亜冴には到底理解などできないだろう。自分自身の意見に誰しもが味方をするが、大抵は力に屈して意見を曲げる。どうにか生きようと(こうべ)を垂れて無様な姿を晒すのに、伏黒は最期までその価値観を否定すると言う。遂に上げた先の顔には真実しか書かれていない。

 

──今、この瞬間。本気でこの人は。

 

「ハッ……」

 

 あぁ、イケナイ。本気の本気で息を漏らすように笑みを溢した亜冴は、背筋に走る嫌悪と憧憬を腹に隠すよう呑み込む。伏黒さん、貴方の言う価値観は大多数と呪い合うことだ。その綺麗事がいつまで続くか。

 それにしてもなんだったか。何か忘れているような、どこかで知っているような。既視感に包まれた亜冴は、我の強い伏黒に柔く微笑みなおす。そうだ。父が口にする道徳心と似ているんだ。周りが間違っていようと、己が正しければ堂々としてなさい。その結果、あなたが居なくなったから私は。

 

「……ニーチェ曰く、」

「は?」

「子供の教育において第一に成すべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということ、つまりは自己の肯定が先なんだそうです。生を肯定できない者にとってはあらゆる倫理は虚しい」

「……電波かよ」

 

 これ以上の悲しみ暮れないように、頭に入り込んできた話をした亜冴は、自分の人生が如何に退屈で空虚だったかに入り浸った。要は伏黒の言う価値観の根幹の芽生えは、ここにあるのだろう。

 

「伏黒さんは人生を楽しんできて、私はそうではなかった。だから、私は周囲の大多数に従い、倫理に反することも受け入れてしまうのかもしれません。そもそも私にとって、倫理というものは未だ不明瞭で虚しく、曖昧なものです。だって、受け入れたところで私個人を肯定する人はいませんし、得られるものは何もありません」

 

 貴方は正に恵まれた人だ。呪術界で生き、禪院家の一家相伝を持ち、その中で娯楽を覚え、一般的な倫理観を学んで当たり前のものとして享受してきた。詰まるところ、亜冴の言ってきた価値観に、亜冴の思想など微塵も乗っていやしないのだ。聞き齧ったか小耳に挟んだか、はたまた教わったのか。心に響くことなど何もなく、言われたからそういうものかと鵜呑みにしてきた。思考を放棄した愚か者の所業である。まるで盲信者だ。

 

「これから、学んでいけるといいのですが……」

 

 無論、今は楽しい。哲学者ニーチェと期待の新米呪術師伏黒から言わせれば、亜冴はまだ自己を肯定するまでには至っていないのだろう。この学びに五条が前向きであれば良いのだけれど。

 

「…………お前、急に……」

「なんですか?」

「……本当はとっくに成人済みとかじゃねえよな」

「足集利家が年齢を私に偽っていたとしても、十六歳以下です」

「……とにかく、散歩はやめろ」

「……はぁい」

 

 溜め息を吐く伏黒は疲労が溜まったらしく、眉間を揉んでいる。亜冴は見すぎていた顔を逸らした。やっぱりこの人を先に知りたくない。自分が異常だと突き付けられているみたいだ。

 

「伏黒さん」

「今度はなんだよ」

「男子寮までの散歩に、お付き合いして頂いてもよろしいでしょうか?」

「……女子寮まで送ってく」

「えっ、男子寮の方がここから近いですよね。伏黒さんは二度手間では?」

「うるせぇ。さっさと帰んぞ」

 

 寮部屋に“帰る”と言い表した伏黒にとって、高専が身体を休める家なのだろう。亜冴は前を通り過ぎて先を行く伏黒が振り返るまで、またしても動けなくなった。

 

──伏黒さんはここに根を張ったんだ。

 

 根無し草な亜冴は彼の口振りから、自らもここに根を張っていると思い込んでいる伏黒へ向けていた頭を俯かせて、くしゃりと顔を歪めた。振り返って亜冴に「早くしろ」と急かす彼の言葉が、時たま本当に胸を掻き乱す。力んでいた身体が安らぐのに、どうして苦しめていくのか。ますます眠気を葬られた亜冴は、それでも色の良い返事をして伏黒の後に付いていった。

 

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