怠くて重くて、けれど眠る前よりかはマシな体調で目覚めた亜冴は、コホッ、と一つ咳をした。近くに誰の影もなく、カーテンで仕切られた照明が薄暗くて不安になる。離れを思い出してしまった亜冴は、ぬるくなった濡れタオルを置いて起き上がった。
「……だれですか」
何かいる気がする。直感で尋ねた先のカーテン向こうから、黒い男が現れた。熱で浮かされて滲んだ視界の中、伏黒は亜冴に近付くとコンビニ限定のビニール袋をベッド傍に置く。頼んじゃあいないのに、役立たずに何の用だ。
「見舞いだ」
「……お見舞い、はじめて」
「差し入れの方が近いけどな」
口元を白い布で覆った伏黒は、鼻まで隠して目だけを亜冴に向けている。亜冴はいつになく伏黒にぼんやりと顔を合わせ、風邪と診断された自身のことに合点が行った。私はもっと酷い扱いを受けていたのか。過去にこのような気遣いを受けたことはない。
「……調子は」
「…………どう答えたらいいですか」
「取り繕って無理するくらいなら、正直に言え」
「……いまはなんにも、食べたくないです」
差し入れは食品類だろう。だって彼は亜冴の食生活への責任感を抱いており、結果風邪で寝込むことに繋がった。微かに息を飲んだ伏黒に、亜冴は「ごめんなさい」と謝る。虎杖の死を目の前にした伏黒の方が辛い筈だ。見ていれば分かる。虎杖を高専に推薦したのは、伏黒本人だろう。あの日、亜冴がいないところで伏黒は虎杖の善人性をいち早く見抜いたのだ。危険だからと亜冴を置いていったその先で、決定的な瞬間を見逃した。今回だって、置いて行かれた亜冴には真実は分からない。でも、目の前で死なれる哀しみは知っている。
「──なぜ、人は死ぬのでしょう。いえ、理由なんてないのはわかっています。わかっているからこそ、どうしようもないほど、あいたくなる」
言いながら溜まる涙は熱だけの所為ではない。呪いが絡んだ死に、幸福なものや穏やかなものはきっと程遠い。頭から被った暖かな鮮血と、足元に広がる赤黒い泥濘みは、今も心を蝕んで仕方ない。あの時の私は、生死すら知らなかった。ただ本能的に危機が迫っていることだけを悟った。あんな思いを伏黒もしたのだ。いや、死を理解しているならそれ以上。虎杖は当人として、どんな気持ちだったのだろう。見ていないから、わからない。
「……いてもいなくても、わたしにはなにもできなかった。わかっているんです。でもそれが、かなしくて歯がゆくて、くやしい」
こんな想いを打つけても人は蘇らない。そんなことは亜冴が一番分かっている。亜冴が所有するのは姿だけで、性格や心根は亜冴の記憶の中の産物だ。人形劇を演じるしかなくなる。他者の手で自身の頭を撫でた時、痛いほど思い知った筈だ。それはあの手ではなく、私でしかなかった。心の中に住み続けるなんて話、遺された側の為の嘘っぱちだ。思い返しては僅かに上書きして、空想の産物になる。そうして美化し続けて、傷を舐めるだけで縫合しようともしない。だってのに、虎杖の姿で自分を励ましたくなるのはなんでだ。そんなことをしたって、虚しいだけだと思い知っているだろう。
「足集利……」
瞬きをして瞼から押し出された涙が、ほろり、と頬から顎を伝い、布団に落ちていく。亜冴にはこれが虎杖の為の涙なのか、紐付いて引き出された過去の涙なのか分からない。ただ人の死を憂う気持ちは本物だった。伏黒の暗い顔がよく見えず、亜冴は目元を擦ろうとしたが、その前に手は取られてしまった。傍に置かれていた濡れタオルを内側へ畳み直した節貼った手が、亜冴の瞼に付けられる。ぬるくなっていた筈なのに、濡れタオルは亜冴の瞼を冷やしていき、濡れているのに熱の籠った涙が吸われていく。その心地よさに強張っていた身体が解け、亜冴は肩の力を抜いて触れられることを赦した。あぁ私、他人に触られるのが好きじゃなかったんだな。無知で無能で未熟で、嫌になる。
「……ふしぐろさん、」
「……なんだ?」
「あなたのやさしさが、たまに恐いです」
胸の内の支えなんて、二度と欲しくない。命を刈り取る呪いや死を恐怖せず、亜冴はただ人の優しさを恐れた。怖いなんて、初めて感じた。やはりこの人は私に初めてを運んでくる。初めて、それが嫌だな。
かといって優しさを拒絶することなんてできず、亜冴は眠るように瞼を開けずに、ぐずぐず涙を流し続けた。もう二度と、見送る側にはなりたくなかった。誰も知らない心情を語るつもりはない亜冴は、されるがまま静かに慰められた。