来たる数ヶ月後の姉妹校との交流会に向け、亜冴はひたすら走らされていた。グラウンドでそれぞれが二年生相手に特訓する中、亜冴のみが指示された運動をやり遂げる日々。野放しにされても、やることはないので従うしかない。数日前、亜冴だけが不参加予定だった交流会は、数合わせで強制参加とさせられてしまったのだ。乙骨が参加する予定だったのに、彼は五条の個人的なおつかいとやらで、海外に行ってしまったので仕方ない。本当は乙骨がいなくても、虎杖がいれば。
「亜冴ー、それ終わったら、腹筋三十回な!」
「ぐぇぇ……」
「返事ぃ!」
「はぁーい……」
動いていた方が考えずに済むのも有り難い。基礎体力作りの為、時折り掛けられる真希の指示が無ければ、亜冴はすぐに虎杖と白について考えてしまう。考えると、すぐに寒気が真夏日でも容赦なく訪れる。体力も毒の耐性も、強さも、遥か上の彼は死に、どうしてまだ私は生きているんだろう。何故って、檻の中にいたからだ。
「──また暗い顔」
悲鳴を上げるヘロヘロの身体が動かなくて、腹筋を終えた震える腹に手を置いたままの亜冴は、顔を覗き込んできた釘崎に瞼を上げた。先程までパンダに投げ飛ばされていた彼女は、休憩中なのかしゃがんでピン、と亜冴の額を指で弾く。
「真希さんに気に入られてるからって、甘えんじゃないわよ」
「……私が人に甘えたことあったっけ」
「まだ立ち直れてないじゃない」
「……立ち直れないことは、人への甘えなの?」
「…………変に頭の回転早いわね」
ペシペシと叩かれる亜冴は、汗だくの身体を感じ取り、じんわりとしか汗を掻いていない同い年の女性を見上げた。地面に置いた背中は蒸し暑く、脈打つような呼吸が煩わしい。釘崎や虎杖なら、こうはならない。私だけが何歩も遅れている。知識だけと思っていたのにな。
「まーた、シけた顔して」
「しけた……?」
「んな顔しても、仕方ないでしょ」
手を差し伸ばしてくる釘崎の手に、僅かな嫌悪感が滲むも、亜冴は気取られないように手に応えて上半身を起こした。真希と模擬試合をする伏黒は押され気味ながらも、工夫を凝らしてどうにか粘っている。私には決して出来ない戦い方だ。そもそも、私にアレは求められていない。あの分野で一番秀でるだろう虎杖は、目の届かない場所に行ってしまった。
「アンタねぇ……」
眉尻を下げる亜冴に釘崎は溜め息を吐くと、同じ地べたに腰を下ろして、目の前で胡座をかいた。染み付いていない言葉遣いでめかしこんでいるのに、仕草は輩のそれだ。釘崎は厳しい顔付きで、亜冴の顔を睨んで脚の上で頬杖を突く。男性らしい様子に、亜冴はペタンと腰を下ろして正座で大人しく出方を伺った。釘崎の行動のほとんどは、亜冴には到底許されてこなかったものばかりだ。
「……虎杖が好きだったワケ?」
──すき……好き?
意図が理解できず、亜冴は耳打ちしてきた釘崎を初めて怪訝な顔で返した。好きって好意的なことだよな。好き嫌いとか、嗜好の。
「伏黒さんの方が好き」
「そういうんじゃなくて、恋愛的な意味よ」
「れんあい? 恋慕とか……婚姻的な意味で?」
「……たぶんそうよっ」
「私、子供欲しくない」
「……話が飛んだわね。したい事と心って、違うもんなの。……分かるわよね?」
「うん、まぁ」
流石に覚えのある亜冴は、コクリと頷いて思案した。釘崎はやっと本題に入れると、ほっとした顔で確信と言いたげに口を開く。
「アンタ落ち込みすぎてるし、虎杖のことをそーいう目で見てたのかと思ったのよ」
「……つまり、仲間を失ったと同時に悲恋した、と?」
「そう。で、どうなの?」
ズイ、と顔を寄せられても、正直困るし不用意に近付かれるのは好かない。亜冴は顔を斜め上に逸らして、思案するついでに距離を測った。連日の睡眠不足から、我慢が効かなくなっている。触れられるのも近付かれるのも、これまでは我慢できたが、今は駄目だ。嫌悪感と共に苛立ちが募ってしまう。男らしい手は、特に追憶を引き摺り出してくる。そう、虎杖のような。
「ヤダ、好きじゃない」
人より鋭い八重歯をチラつかせた亜冴は、顔前面に不快感を載せてしまった。亜冴にとって、恋愛は作り話で自分とは無縁の代物だ。その末日の産物である子供を自らは避けるべきであって、ならば恋愛は以ての外である。そもそも恋愛など無くても子供はできる。
男らしい手に頭を撫でられることも、今は嫌で仕方ない。思い出させては塗り替えられるようで、五条の手に撫でられるのも嫌いだ。求めているものは灰になった。消し炭にしたのは私と大人たちだ。
亜冴の激しい嫌悪に触れた釘崎は、戸惑いを見せて珍しく喧しい口を噤んだ。違う、嫌われちゃダメだ。手綱を握る五条に首を絞められてしまう。釘崎は今ので葬式に出なくなった。また好かれるよう気を引かないと。頭を回せ、身体を動かすことよりも得意だろ。
「人としては、皆さんのこと好きだよ。色んなこと教えてくれて、私の知ってる道徳心を打算もなく、当たり前のように持ち合わせてる。私よりも力を行使して、されて、何かに貢献してる。私はたぶん、皆さんを尊敬している」
亜冴は嘘偽りない本心から語る。自身の無力さはいつも感じている。だから余計に苦しい。葬式は尊い行いだと思うが、人の死は心底嫌いだ。力も何もないのに、力のある虎杖悠仁が死んだ。これを動揺せずにいられるか。彼は父の言う、まごうことなき善人だった。
「私から死ぬと思ってたんだけどなぁ……」
人として好いて、尊敬した相手に葬式に並んで欲しかった。亜冴は悲しみの波に包まれるのに抵抗せず、潮の中に引き摺り込まれていく。釘崎は気不味そうにして、新品だと自慢していたジャージの袖を引っ張り、亜冴の目元に当てた。擦らないように水気を吸わせる釘崎の優しさが、鋭い剣山のようになって胸の内に刺さっていく。痛い優しさに触れられることを許した亜冴は、頭を下げて極力これ以上見せないよう努めた。泣いたって仕方がない。なんにも取り返せやしない。私はもう充分それを知っている。
「ごめんなさい。わたし今、余裕ない」
「……そうね」
決して謝らず己を持つ代わりに優しさを見せる釘崎も、こちらの様子を分かっていながら、放っておいてくれる周囲も。亜冴は決してこれ以上は、自身の葬式まで欠けないでくれと、追い付けっこない実力差に悔しさを浮かべた。