他人の感情を学ぶためにと、五条に特別メニューの修行を言い渡された亜冴は、一人で映画を鑑賞していた時がある。モニターに映される女が、私に自由はないと噎び泣き、鳥籠の中から出せと絶叫しているシーンをよく覚えている。亜冴はそれを冷めた目で見つめていた。
──鳥籠の中の鳥にも、幸せはある。
自由を知らないこその幸福ではなく、それを
鳥籠の中の鳥の一人であった亜冴も、かつては良しに傾いていた。
「亜冴、お外に出てはなりませんよ」
六才ほどの頃、中庭へ出ようとした子を咎める母の声に、小さな少女は動きを止めた。どうして、と疑問が湧いてすぐに尋ね返せば、危ないからと手を引かれる。屋敷の離れ一帯が亜冴の生活区域であり、世界の全てであった。亜冴以外の者たちは離れの外から来る。それが当たり前のことであり、この世の理だ。
亜冴は中庭から見えた天空の色を知らない。そも、色という概念も怪しい幼少期を過ごした。けれども、不幸だとは感じたことなど一度もなかったのだ。幸も不幸も、その概念すら教えられることはなかったが、父と母、使用人たちで完結する世界に退屈もしていなかった。大人たちの言うことに納得して過ごす日々を流れる雲のように送っていた。
「空は青という色を持っているんだ」
「あお?」
「その帯の色だよ。素敵な色だろう」
「では、お肌の色は?」
「肌色だ」
「そのままなのですね」
同じ特別な力を持つという父は、亜冴をよく膝の上に乗せて色々なことを教えてくれた。週に一度くらいの頻度で離れに訪れる彼に、亜冴は外の世界をせがんで聞かせてもらう。外界に興味はさほど無かったのだが、話をする父の顔はどこか楽しげなものだったので、頻繁に尋ねていたのだ。父のあれは外への憧憬だったのだと今なら分かる。父は自由を知った窮屈な鳥だった。
「父様はどうしてお外に行ってもよいのです?」
「……使命があるからな」
「私もいつか行うことですか?」
「亜冴は……女児だからな。お家にずっと居てもできることを頼まれるんじゃないか」
「それってどんなことでしょうか?」
「素敵な男児と縁を結び、子供をたくさん産むんだ。子はおまえに似た可愛い子だろう」
散々聞かされてきた未来の話は、誰も彼も焼き増しのように同じことを言う。少しばかり退屈した亜冴は、不満そうに口を閉じて頭の中を整理してから口を開いた。
「父様と母様は私しか子供がいないけれど、私の使命とは違うのですか?」
「…………いたら嬉しいか?」
「……わかりません」
責めるような、憐れむような声色に、逃げるように立ち上がった亜冴は、お辞儀をして母を探しに廊下へと出た。品行方正な態度や望まれた反応をすることはできる。けれども、何か嫌な予感がして逃げたのだ。
中庭から覗く空の色が、帯とかけ離れていく。亜冴は離れで一人になることはない。常に使用人が付き纏い、両親のどちらかがいれば空気と化す。亜冴は付いてくる乳母へ振り返り、母の居場所を尋ねた。彼女曰く、この時間は外にいるという。
「そう……」
だから諦めた。外は危険で、何かをすることは許されていない。亜冴は気になった色が何色なのかを調べるために、次の父の訪問時に帯の色を変えることにした。
「お夕飯の時間で御座います」
乳母の声に従い、通されたいつもの部屋で亜冴は一人座る。数人の使用人に部屋の隅で見守られる中、手を合わせて挨拶をしてから食事へと移った。食事はいつも外から運ばれてくるものであり、和食しか口に付けたことはない。今思えば、手を使う調理方法は避けられていたと知れる。
「……ご馳走様でした」
合掌をした後は風呂だ。そこでも亜冴と使用人数名で行われ、亜冴だけが服を脱いで彼女らが世話をしていく。着流しに近い彼女らは黙々と作業のように亜冴の世話を行い、亜冴自身も素直に従った。その後は体が冷えぬうちに布団に仕舞われる。寝付くまで見守られるので、亜冴はいつも目を瞑ってやり過ごす。そうしていると、誰も居なくなって、やっと亜冴は落ち着いて眠りへと落ちていくことができるのだ。
「……おやすみなさい」
挨拶は全部、母が教えてくれたもの。
呟いた亜冴に返事をくれる者は誰一人いない。
──それでも、幸せだった。
亜冴が文字の練習中、それは起こった。使用人が悲鳴を上げて己の指を眺めていた。指を見つめており、そこから垂れる赤い液体に亜冴は小首を傾げて近付いた。
「来ないでぇッ!」
──バシンッ
乾いた音の近さと衝撃に驚いた亜冴は、自身の頬を抑えて使用人を見つめ直す。彼女の顔は見たこともないほど歪み、目尻から涙を滲ませていた。自分が何かしたのだろうかと考え、近付いたことが気に障ったのだと分かるが、あまりのことで動くことができない。人に手を上げられたことなどないし、他人を害する発想もない。これまで使用人たちは無反応に近かった。拒絶された驚きから、茫然としている亜冴の周りで人が忙しなく動き、使用人の彼女は別の使用人に肩を抱かれて連れて行かれてしまった。同情的なものが叩かれた亜冴に向くことはない。そうされて当たり前のような。
亜冴も文字の練習へと戻されたが、筆が手に付かずにその日は終わっていった。
次の日、欠けた彼女を埋める代わりの使用人の姿に、亜冴は両親に尋ねるように首を傾げた。
「昨日の彼女は?」
「亜冴お嬢様に失礼を働いたので、これからは私が務めます」
「……気にしていない」
「本人たっての希望でございます。亜冴お嬢様に合わせる顔がないと」
「敬われるようなことを、私はした覚えがない」
「滅相もございません。亜冴お嬢様は素晴らしき足集利家の一家相伝の術式をお継ぎになられた方。あなた様に万が一のことがあれば、我々は正気でいられません」
──彼女は正気だったのかしら。
とてもそうとは思えない半狂乱であった。
髪を取り乱し、左右対称の顔を歪にさせ、歯茎を見せつけんとばかりに叫ぶものは初めてだ。疑念はあったが、亜冴は口を噤むと「そう」、と頷いた。大人たちが望む返事に、使用人は安堵の表情を浮かべたので、亜冴はもう話すことはしなかった。ここに相応しい人間を保つには、決して疑念を抱いてはいけないと、この頃には理解していた。
──でも、私よりも彼女の方が尊重されていたわ。