意識して変わらぬように過ごした十二歳のある日、父からぬいぐるみなるものを貰い、亜冴はそれを布団に置くと、使用人を払った両親に目を合わせた。彼らはこちらをじっと見据え、何か言いたげにしている。言い表せない雰囲気から、父は口を開いた。
「亜冴、絶対に破ってはいけない約束をしようか」
「というと?」
「縛りだ。破れば、只事では済まない」
「安心なさい。簡単なことですから」
父と母の言葉に、亜冴は素直に頷いた。彼らが望んでいるならば、拒むことはない。おそらくこの生活に必要なことなのだ。
「十六才になるまでにここを出る代わりに、私たちはお前に手をあげない」
意図が分からず、亜冴は首を傾げて理由を待つが、彼らは教えてはくれない。痺れを切らしたので直接尋ねることにした。
「あの……なぜそのような縛りを?」
「十六才にお前は婚姻するんだ。それまでにこの離れから出て、遠くへ行きなさい」
「ですが、父様と母様は私に手をあげるようなことはありませんし、その必要は……」
「あるのです」
「…………」
「あるのですよ、亜冴」
有無を言わせない両親の圧に亜冴は渋々頷いた後、母に包まれ、父も二人を上から包むように抱き締めた。温もりと圧迫感に詰まる胸を誤魔化し、何か重要なことを取り逃していると、亜冴はひしひしと感じ取っていく。見るな、悟るな。愚者であれ。優しい両親に言葉を与えられて幸福だ。大丈夫、彼らの望みを果たそう。彼らにだけは恐れられたくない。
「愛してるよ」
「愛しています」
「……私も、父様と母様のことをアイしています」
──
のちに、この暖かな気持ちで合っていると知り、嬉しい気持ちでその日は眠りについた。国語辞典と漢字辞典は検閲されている為に、用語は所々黒塗りされているのだ。愛の項目を得られなかった亜冴は、遅ればせながら知ることができた。教えてくれた乳母は複雑な面持ちであったが、今は幸せに浸かっていたい。亜冴は次の面会時に、二人にまた愛を伝えようと決めた。
──ガタガタンっ
その夜、亜冴は騒々しい物音に目が覚めた。寝ぼけ眼を連れて、襖を開けて廊下へと出る。誰も見当たらない離れは、夜の明かりもないということもあり、薄暗くて冷たい印象を与える。亜冴はもう一度立った物音の方へと足を進め、いつもは近寄れない玄関に近付いた。使用人に止められて行けない先を、物音を理由に進むのは気持ちがよく、亜冴を更に奥へと進めていく。物音に使用人たちが無反応であることに疑問は抱いたが、好奇心が勝って解消するには至らなかった。
「……だれですか?」
月明かりだけが頼りの暗がりの中、大きな玄関に人影が二人分浮かんでいる。暗い影から出てきた二人は、昼頃に見た二人であった。
「父様、母様。夜分遅く、いかがなされました?」
「亜冴……」
暗いだけでない顔色の悪さに亜冴は、二人に駆け寄ると人の草履を借りて、手を伸ばしてくる二人を見上げた。父は喋らず、母は苦しげに顔を歪めている。恐怖といった感情ではない。確か悲しみに該当する歪みだ。
「誰か呼んできます……っ」
「いいえ、呼んではなりません」
父に肩を掴まれ、母に咎められた亜冴は、動きを止めて二人を見上げた。抱き締めてくる母の指先は冷たく震え、父の顔は恐怖に歪んでいる。一体何が外であったのだろう。外の脅威に曝されたのだろうかと、亜冴は必死に母の顔をもう一度見ようとしたが、それは叶わなかった。
──パシンッ
一気に真横に向いた顔と、ヒリリと痛む頬に亜冴は手を乗せる。叩かれた、と認識した途端、美しかった母は口から血を吹き出して、崩れ落ちた。私の薄緑の寝巻きが頭から赤く染まり、足元に満たしていく。目に沁みる赤に、亜冴は瞬きをして、床に横たわる人を初めて見た。
「……え?」
顔にかかった暖かい水を触って指先を見れば、同じ色の液体が付いていた。跳ねた液が口内で鉄臭さを広げていく。ゆらりと濃くなった視界に、入ってくる大きな影を見上げれば、父が覚悟を決めた目でこちらを見下ろしていた。
「……ごめんな」
──パシンッ
いつになく優しい口調で、今度は反対を向かされた亜冴は、加減されたそれに涙が滲む。同じようにして崩れ落ちた父の怪我は、母のものより派手で、亜冴はまたも血を被ってしまった。頭皮で温もりを感じつつ、亜冴は出来上がった怪我をした二人に膝を折る。冷たい地面の黒を濃くする液に手を付けた。赤い水は温もりを与えてくれるのに、亜冴の手は冷えて震えるばかりだ。
「と、うさま……? かあさま……? …………けが、おおきなけが……」
出来上がった二人分の血溜まりは止まらない。
「…………だれか、……ッ誰か! 助けて! ねぇ!」
縛りを破ったからだとか、今はどうでもいい。
とにかく二人を助けなければ。亜冴は力の限り叫んで使用人たちを呼び寄せ、駆け付けた彼らは二人から亜冴を引き剥がした。嫌だと抵抗すれど、騒ぎを聞き付けた本館の者に叱られてしまい、またも叩かれて、亜冴はそのまま風呂に突っ込まれたのだった。父と母の手よりも、本館の者の方が遥かに痛かった。
いくら泣いて暴れど、使用人たちは亜冴を洗う手を止めない。父と母はどうなったの。どうしてあんなことになったの。彼らは疑問に答えてくれず、そのまま亜冴を寝室に寝かせるまで、部屋から出て行ってくれなかった。あんなに血を流して、痛かろう。苦しかろう。あんな約束しなければよかった。どうしてこんなことになったの。私、言う通りにしたのに。
どんなに目を瞑らさせられても、眠気など一向に来ず、亜冴は自らの姿を眠りにつかせ、瞼裏の悪夢から逃れた。やっと寝てくれたと溜め息混じりの彼らが立ち去る後ろ姿を見た亜冴は、一つ悟った。
──私個人なんて、みなどうでもいいんだ。どうでもよくない者はもう。
数日後、葬式くらいはと離れで執り行われ、参加することができた亜冴は、その後片付けをし終わった乳母に捕まった。あの晩から今日この日まで、これ以上ないほど心配で泣いたし、頭を回した。導き出せる原因は縛りを破ったことである。それ以上も以下もない。どうして破る必要があったのかを問題としていたが、しばらくしてどう足掻こうが二度と会えることはないのだと知った。