最弱の怪物   作:肩たたき

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第九話『懺悔』-3

 

「……伊地知さん、補助監督って楽しいですか?」

 

 他者からは風の音、亜冴の胃から繋がりのある伊地知は、唐突な質問に戸惑いを見せた。警備員の格好をした伊地知の姿は、普通の人間として触れずに置いてある。この場で姿を消しているのは亜冴のみで、伊地知は人気がないことを良いことに、口元を隠さず小声で答えた。

 

「楽しいと思ったことはありませんね……」

「なぜ呪術師ではなく、補助監督に?」

「うーん……皆さんと違って、私には才能が無かったもので……」

 

 壁に寄り掛かってしゃがみ込んでいる亜冴は、虎杖ほどの背丈の伊地知を見上げる。背丈は十分だと思うし、純粋な殴り合いでは、亜冴では敵いっこないのを知っている。何せこの男の血も亜冴は食したから、筋力量なども把握しているのだ。勘として感知している亜冴は、答えてから返事のない一回りほども年下の女子高生に焦る大人を眺めた。

 

「生得術式の話ですか? それとも体力面?」

「どちらもですけど、大きな理由ではないですね」

「大きな理由ってなんですか?」

「……全員が全員、恐怖を感じずに呪いに立ち向かえる訳ではないんです」

 

 伊地知の答えに亜冴は目を見開いた。ほぼ暇潰しに始めた会話に関心が一気に傾き、真面目に斜め下から観察をしていく。

 

「──私は影ながら支えることを選びました」

 

 正気の大人って、この世に存在していたのか。

 無言で事実を受け止めた亜冴は、呪術師と働いた父を想像した。父はどうして呪術師をやっていたんだっけ。この人と同じくらい正気を感じるものならいいな。今更、知ることなんてできないけれど。

 

「……伊地知さん」

「はい、なんでしょう」

「私は自分の脚で遠くには行けません。常識も義務教育も呪術師としても勉強中です」

「は、はあ……?」

「伊地知さんの選択は、なかなか出来ることではないと思います。私は人間の半人前で、嫌なものは嫌です。そこから逃げずに、一歩引いて立ち向かう伊地知さんは、立派な人なのですね」

 

 初めて大人の人を認める言葉を吐いた。不意を突かれたらしい伊地知は、向こうへ首を回して、ズ、と音を鳴らす。感極まって泣いてしまったらしく、「ありがとうございます」と礼を言う声が湿っている。亜冴にとって相手が望む答えを言っただけのことだったが、そこに嘘は混ぜなかった。五条に言い渡された、もう一つの条件はこれで完了だろう。伊地知への後ろめたさから、亜冴は顔色を変えずに、自身の爪先に視線を落として瞼を閉じる。

 

『伊地知に好かれてきてね』

 

 軽薄でドス黒い五条に似てきたという伏黒の言葉はその通りだ。だって、五条も私を父に似てきたと評価していた。

 

──……五条悟は、父様に似ている。

 

 ぐ、と力を込めた瞼の裏で一瞬だけだったが、グラついて視えたものに、亜冴はハッと目を開けて立ち上がった。今のはなに。

 

「伊地知さん、ちょっと」

「なんですか……?」

「……伏黒さん、危険かも」

「ええっ?! ど、どうして……?」

「いま、すごい遠くにいる」

「どういうことですかっ?」

 

 どうもこうも分からない。ただ、瞼を閉じた一瞬視えたそれが如実に語っていた。悪い夢などではなく、確かに視えた。脈拍が早まる亜冴は扉に振り向いて愕然とする。何の変哲もない扉が存在している。人を誘うようにゆらめく黒髪も、嫌悪感を醸し出す空気も何もない。何の変哲もない扉がそこにある。

 

──領域が消えた。

 

 祓われてはいない。直感に近いものに、亜冴は伊地知の静止も聞かずに扉を開け放った。あっさりと開いた先にあるものは、単なる保管室だ。

 

「伏黒さんッ!」

 

 部屋の中へ入って名前を叫ぶ。風の音と亜冴の声が部屋に響き渡るが、どこにも歪みなどはない。亜冴は部屋から出ると、もう一度扉の開け閉めを行なう。何度試しても、領域の入り口はもうここにはない。

 

「……領域の入口が消えた」

「す、すぐに救援を呼びます!」

「呪霊の領域内にいるなら、来るまでに時間がかかりすぎる。間に合わない」

「五条さんならきっと……!」

 

 確かに五条ならどうにかしてくれるだろう。だが、彼は多忙である。生得術式も能力値も違えど、似て非なるものを持つのは私だ。

 強者の登場を待つ間にも、伏黒は遠退くかもしれない。それだけは避けなければ。

 

「呼ぶのは伊地知さんの判断に任せます。私は伏黒さんの捜索を」

「ですが、危険すぎます! 足集利さんは戦えないでしょう!」

「確かに呪術師は人員不足なので、痛手になるかもしれませんし、私では全く歯が立たない相手だと思います」

「なのでここで待機を……!」

 

 伊地知が正しいなんてことは分かっている。亜冴はまだ五条からの信用を裏切ってはいけない。彼は私の命綱だと理解している。だからこそ、なんでも従ってきた。伏黒は五条の信頼を勝ち取り、彼は可愛がられている。失いたくない筈だ。私は離反したことを知られている、薄皮一枚の命だ。だとしても、私の欲は傾いている。

 

「ここで行かなかったら、私はこの瞬間を一生後悔する」

 

 留守番は大嫌いだ。それは見送りが今生の別ればかりを引き寄せてきたから。これまでは運良く高専のみんなは助かってきた。でも今回はどうだろう。今回ばかりは。毎度そんなことばかり考えてしまう。別れは突然やってくる。それが今この瞬間かもしれない。

 

「伏黒さんに生きててもらわないと困るから!」

 

──お葬式に並んでほしいんだもの。

 

 笑顔で緊張を解すように伊地知に言った亜冴は、完璧に気配を消して伊地知との繋がりを切った。呼び止める背後を無視して、人型の呪いを追う。呪力でも残穢にも満たない微かな気配だ。知り得る限り、五条と自身しか視えないそれを、亜冴はひたすらに追いかけた。

 

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