資料室に入った伏黒は、室内ではない空間に眉間の皺を寄せた。脳の裏を触られるような感覚の糸が切れるように抜け落ちる。亜冴の言っていた術式範囲内から出たのだろう。すぐに玉犬を召喚した伏黒は、空港のだだっ広いターミナルを見渡す。人影が幾つかあるものの、微動だにしないそれらは、灯りもない場所で妙な艶を帯びている。長年手入れがされず、錆びれたターミナルの窓は暗闇で先は見えない。伏黒は行方不明者かと思い、一歩ずつ警戒しながら近付いた。
「すみません、ちょっと……」
近寄ってから気が付いた伏黒は、すぐに足を止めて注意深く観察していく。頬が痩せこけてミイラのように乾涸びた男がそこにはいた。立ち尽くしている彼は、元は別の色だったであろう衣服を黒く変色させ、その下の皮膚には縄のように黒髪が巻き付いている。固定されたマネキンのように、指先は黒い皮手袋をしているようにも一見みえるが、艶やかな黒髪でしかない。
動かない身体からは残穢しか感じ取れず、呪霊の本体ではないようだ。似たような人影の中に紛れているのかと、伏黒は他に当たろうと横を通り過ぎようとしたところ、死体の黒い指先がピクリと動いた。
* * *
「はっ、はっ……」
不完全な領域の形跡を追い、亜冴は長い通路を人を縫って走る。研ぎ澄まし続けている目が痛みを拾うも無視して、亜冴は目を見開きながら跡を辿った。空港のターミナルに出た亜冴は、人混みの中にいる青年へと真っ直ぐ歩み寄り、彼が逃げるようにトイレへと向かうのを追う。背が高く黒い制服で外へ跳ねた髪、既視感を覚えさせる青年が人のいない男子トイレに入った瞬間、亜冴は姿を消したままの状態で背後に立った。
──行方不明者と変質者の数は均一。
境界を隔てるものが扉や川であるなら、施設全体でもおかしくはない。最初は行方不明者を何らかの行動不能に陥らせ、身体を媒体にしてこちら側に一般人でも可視化できる存在にまでのし上がっていると推察していた。だが、よくよく考えてみれば、空港という場所には出航時間の制限がある。鉄の塊を飛ばすのに、時間もかかる上、他の交通機関と比べれば高額だろう。それを運営する側も、時間と配置人数を重要視する筈だ。
従業員や乗客の差が毎度出ていれば、もっとアナウンスでの呼びかけは頻繁に行われ、ポスターなどで注意喚起は厳重にされる。いくら呪術界が政界にまで力を及んでいたとしても、情報統制はこういった細かなところまで着手できない筈だ。この件はもっと騒がれるべきなのだ。
ひっそりと被害者が失踪し、様子のおかしな人間が出現する理由で有力なのがある。
──場所に縛られてる呪霊。空港内全体に縛られた存在。
不完全な領域内に被害者を閉じ込め、被害者が生存中のみ、こちら側に紛れ込める領域の主を見つめる。行方不明と発覚させるのを避けたがるだろう呪霊の借りの姿は、伏黒恵を模しているものだ。排泄器官までは模していないらしく、個室に入った呪霊に、亜冴はゆっくりと背負っていた呪具を取り出して、リーチの長い三叉を握り締めた。
──不意打ちしか、有効的な攻撃手段がない。
亜冴は柄に力を込め、個室から出るのを待った。音は何もなく、ジッと息を潜めて待ち構えていれば、背後から音が聞こえてくる。
「ったく、二時間遅れるとか付いてねー」
一般人に気を取られた瞬間、足元から伸びてきた髪の毛に亜冴は足首を取られてしまった。ズシャッと片腕で受け身を取って腰を打ち付けないようにしたものの、床に転ばされたのには変わりなく、そのまま宙吊りにされて個室の扉と壁を交互に細い身体が打ち付けられる。
「なっ、なんだ?!」
「逃げろッ!」
怯んで止まる男に、男の声で指示を出した亜冴は、二度も壁へと打ち付けられる直前に身体を捻り、両足の裏を壁に付けると、飛び出すように個室へと三叉で個室の扉ごと貫いた。濁る悲鳴を上げて、またも壁に放る呪霊に、亜冴は壁に叩き付けられるが、頭を抑えるよりも前に三叉をギュッと握り直して、個室を一瞥するとすぐさまトイレから駆け出た。
騒ぎを聞き付けた野次馬に、亜冴は男子トイレからぞろぞろと警備員の幻覚を見せ、人払いを始めていく。カメラを向けられても、そこには何もなく、怪我を負った少女が映るだけなので、いつまで保つかは分からない。また、警備員や備品の媒体も所詮は空虚でしかない上、トイレ内の呪霊がいつまで大人しくしているかも不明だ。
変質者とされていた呪霊は、少なくともこれまで表立って襲っては来なかったが、今回亜冴を襲ったのは何故だ。呪具の気配による敵意を察知したのか、もしくは伏黒が奴の領域内で暴れているのか。亜冴は一般人の人避けの範囲を広げていき、トイレ内へと振り返った。
呪霊が立て篭っていた個室に姿はなく、代わりに残穢が散らばっていた。警備員の警戒網を潜り抜けようとする人らに、亜冴は黒い光沢を持つ虫を放ち、悲鳴を背にしながら本体を探した。
──……いない。
亜冴は空港内の何処かへ扉を隔てることで転移できるという仮説を立て、フェイントで背中を向けたが再び出現する様子はなかった。そのまま男子トイレを抜け出ると、残穢を頼りに次の出現先を探す。警備員たちは幻影に過ぎず、触れられ過ぎれば違和感に気付かれるのは時間の問題だ。幻影が映らないことに、カメラの問題とされている内に、亜冴は彼らを控え室へと向かわせて退室させた。適当な説明を喋らせてから、一部半壊した男子トイレへと野次馬数人が入っていく。人手があれば、封鎖させるべきだが、今は仕方がない。
──きっと、奴にとって、私たちが初めての脅威だ。
ここに拠点を構えてる時点で、逃げる選択はない。あっても今のような一時撤退のみ。
次なる出現先を探しながら、亜冴は一般人が多すぎる場所から遠去かった。人質と成り得る人混みは邪魔でしかない。三叉も上手く振るえないだろう。自分ならここで待ち構えるが、呪霊はそこまでの頭はないようだ。有利である領域の定員が限られている可能性がある。定員一名なら、伏黒で埋まっている。亜冴が招かれない限り、伏黒は生存しているということか。
可能性の域を出ず、亜冴は物理攻撃を仕掛けてきた相手に眉を顰めた。顔か会話があれば、もっと情報が引き出せたのに。ともかく、人の少ない場所に行かなくては。
人と共にゲート状の金属探知機を通った亜冴は、背後のアラームを気にせず、ツカツカと従業員通路を歩いていく。先程の一件で、呪霊はこちらを認識した筈だ。わざと足首にこびり付く敵の残穢をそのままにして、亜冴は元の資料室へと向かった。既に伊地知の姿はそこになく、慌てて亜冴を追いかけながらも高専に連絡をして増援を呼んでいるのだろう。亜冴は資料室の扉を前にして、怪我を負った姿を現した。さぁ、弱った相手が仁王立ちで待ち構えていたら、お前はどうする。
ヒリつく空気と肌を指す痛みは、単なる擦り傷と恐怖を煽ろうとする威嚇だ。恐らく、呪霊自体の階級は高くはない。縛りと制約による底上げにより、被害はそこそこで目立ちにくいだけの案件だ。ただし、除伐するのに本体がこちら側に来てしまっている。今、罠にかかった獲物である伏黒の処理に、実力差を感じているのだろう。そこで先にこちら側の外敵を始末しようとしたものの、返り討ちにされてしまった。挟み撃ちにされてしまい、一度、向こう側に戻っての移動をしている。という、六感から捉えた勘により、亜冴はここに来た。
ゾッ、とする気配に、亜冴は気付かない素振りで立ち尽くす。油断している相手に、扉は勢いよく開かれ、黒髪の波に包まれた姿を捉えた。壁に叩き付けるように、黒髪と人影は亜冴に襲い掛かるが、影は何も捕まえることは出来ず、派手に壁に打つかる。開かれた扉裏に隠れていた亜冴は、扉の金具に三叉を突き刺すと、梃子の原理で扉を外した。もう一つの金具を突き刺して、破壊した亜冴は襲い掛かる髪の毛に三叉を取り上げられてしまう。丸腰となったものの、後ろ手にやった手で空を掴んで、丁度背中ほどの出刃包丁を見せかけ、相手に距離を取らせる。私はまだ一級呪術師を惑わせる程度の技術しか持たない。けれど、アイツは警戒している。
──やっぱり、そんなに強くない。それでも私より格上の存在。
亜冴は距離を取ったまま、幻影を残した状態で後ろへと下がっていく。一度手から離れたものは、二度と手に入らないと思って行動しなければならない。敵の領域は開きっぱなしだが、伏黒が出てくる様子はない。向こう側で苦戦しているようだ。亜冴は幻影を走らせ、出刃包丁を奮って三叉へと手を伸ばさせる。髪の毛に雁字搦めにさせられ、四肢を引き千切ろうとする呪霊に、更に幻影の自身を懐から飛び出させ、人影へと刃を振るった。飛び退いた呪霊に、亜冴は壊れた金具に引っ掛かる扉を蹴り外し、扉を盾にして呪霊に体当たりした。塊となって押された呪霊の隙間を通り抜け、亜冴は暗闇へと身を投じた。見えた人影に手を伸ばし、渾身の力で引き抜く。
「すぐに終わって出て来るから、迎え撃って」
「──は、おいッ足集利!」
胸ぐらを掴まれて引き抜かれた伏黒と、入れ替わりになった亜冴は、見せかけながらも敵の脅威として餌になり、確信した定員一名の不完全な領域へと身代わりとなって引き摺り込まれていった。伏黒の呼び掛け虚しく、先に排除すべき敵として、呪霊は領域に舞い戻ると、片側の扉を髪の毛で壊れた扉を貼っつけてしまう。伏黒は何度となく、領域内で行なったように式神でこじ開けようとしたが、扉が開くことはなかった。
* * *
読み通りに定員一名の領域のようだ。
亜冴は引き摺り込まれた先で、光のない薄暗いターミナルで五十メートルほどの距離まで投げ飛ばされ、巨大なタイル張りの壁に叩き付けられた。不完全とはいえ領域内は力が増すことも読んでいたが、敵は比じゃないほど強大になっている。肋骨が折れて皮膚を傷付けているのか、腹からはどろりとした感触が落ちる。全身は激しい痛みに包まれていて、勝手に咽せる肺は引き縛っているみたいに動きがおかしい。
「あぁー……ぁあ、うん」
荒れた息を整えて枯れた声を発して、まだ自分が生きていることを確認した亜冴は、伏黒への宣言通りに終わるのを待つ。呪霊は領域内では髪の毛に包まれておらず、一つ目の人型の呪霊だ。巨大な体躯は純粋に羨ましいが、あれほど大きければ日常生活に支障を来たすかもしれない。ヒョロヒョロの身体を鷲掴まれた亜冴は、碌な抵抗もできず、視界端に三叉を見とめた瞬間、また壁へと叩き付けられた。ズル、と落ちた身体は血が溢れ、白くなった視界にがくん、と目を閉じた。