動けない身体で見るのは昔の記憶。
両親が戸口で吐血して倒れる瞬間ばかりが、目に焼き付いている。目に滲みる温もりとその先の父の顔が、黒と白を何度も交互し、膜を張るような赤に染まった視界は涙と共に薄まっていった。
温もりもない畳の上で、思い出すのはあの瞬間ばかりだ。
──葬式から数日経つ。
「──父様と母様は、お怪我を治されたら来るのかしら」
大怪我をした父と母の安否が心配である。
亜冴はいつまでもやって来ない知らせに、胸をざわつかせ、完治なるものがいつになるのかと心待ちにしていた。怪我を負った彼らは、湯飲みで切った指よりも何倍も痛みが伴った筈だ。不安と心配で落ち着かない様子の亜冴は、乳母についぞ尋ねてしまった。硬直して動かなくなった乳母に、亜冴は言葉を重ねていく。心配で胸が張り裂けてしまいそうで、安心できる言葉が欲しかった。
「お眠りになる姿を見たけれど、人が周りにいるのにぐっすりと眠られていたんだもの。相当疲労が溜まっていらしたのね」
「……亜冴、お嬢さま……」
「お葬式という、怪我の完治を願う式典があるとは知らなかったわ」
清潔な着物を着た二人は美しく安らかに見えた。あの惨劇を目の当たりにした亜冴としては、血の色が一つも見えなく、怪我の気配もなかったことから安堵を覚えたのだが、やはり普段の姿が見られないのは寂しいものだ。早く外の話を聞いて、頭を撫でてもらいたいというのに、もう随分と会えていない。上の子の方へ行って、私には飽きてしまったのだろうか。
「…………ご両親はお亡くなりになったのです」
「なくなるって、なんです?」
「息を引き取って……」
「いきって、呼吸よね。空気を吸い込み吐き出すこと。肺は呼吸器官だったかしら。安直よね。彼らは息をしていなかったわ。それで、ひきとるは何を意味しているの?」
「……死んだ、のです」
「……よくわからないわ。死という項目はもう読んだけれど、死、死ぬ。死んだ。などとしか書いていないんだもの。国語辞典も漢字辞典も、概念については書いていないの」
死とは一体なにを指し示すのだろうか。
亜冴は不思議そうに空の明かりが挿し込む光を見つめた。畳に落ちたそれが美しく陰影との境目を濃くし、くすんだ黄緑色を強調している。あそこでよく父と母と戯れていた。好奇心と胸の穴を満たしてくれる存在たちが待ち遠しい。胸に広がる寂しさを埋めてくれる唯一だ。
「……ッ死というものは、生と反対のことを言います……」
「……つまり?」
言葉短く喋っては黙ってばかりの乳母に、視線をくれてやるも答えはやって来ない。チラリと使用人たちへやっても同じで、けれど彼らは目を各々逸らした。普段は遠い一点を見つめる彼らの変化に、胸のつかえが増えていく。また何かを隠し、何か感情を私に寄せている。何が彼らをそうさせる。
「もう、会えないのです……」
「……いつものことじゃない」
「違います……全く……」
「私から会えることなど、あり得ないでしょう」
「ちが……ちがうのです……っ」
取り乱し始めた乳母は
「……もう存在、しません……彼らはもう……」
「……存在の有無の範囲は?」
「この世すべてでございます……」
「この世以外ならいるの」
「…………あの世に……」
それ以上、答えなくなった乳母に、亜冴はあの世という言葉に想いを馳せた。この世、現世。あの世、死後。天国、地獄。分けられるらしいあの世の区分で、両親はどちらへ行ったのだろう。
「…………どう行くの」
「っ……」
「……私以外なら行けるのですか?」
辞典の内容が点と点を繋げるように頭の中で組み立てられていく。それが生死感というものに繋がるとは、この時の亜冴はまだ知らぬことだ。遠回しに死を願う発言に気付かず、履き違えたまま亜冴はあの世について頭を巡らせた。
「罪人は地獄、善人は天国よね」
「……亜冴様……もちろんご両親は、天国に……」
「そう、父様と母様は善人とやらだったのね」
「……生きるもの全て、どちらかに行きます……。亜冴様も例外なく……」
「………………死ぬの」
ならばと亜冴は陽射して灼かれる畳に目を移す。天国に行けたら良いのだが、善人になるにはどのような努力を積めばいいのだろう。晴れて行けた時には、同じような離れがあってそこで頭を撫でてくれるのだろうか。目を苦々しく細めた亜冴は、下唇の歯に沿った凹凸を上唇で隠した。
いつか会えるのに、もう会えない。
その意味が分からないほど、阿呆ではない頭を呪う。
騙されてくれない自分が忌々しい。
「……大怪我をすると、死ぬのね」
血を多く出す手段は亜冴の手元にはない。死んだら会えるなら、今すぐ死んでしまいたい。ぐっすり棺桶とやらに仕舞われて、眠っている間に彼らに近付く。送られた先で蓋を開けて出迎えてくれるなら、これほど嬉しいことはない。違う、私はきっと履き違えている。だのに誰も教えてくれないなら、死んだ両親に聞くしかないじゃないか。
「死についてちゃんと教えてくれないのなら、私、今すぐ死んでやる」
死を不幸と受け取る使用人たちに言い切った亜冴は、彼らの口から絞り出された答えに今度こそ下唇から血が滲み、口内が生臭さと味わったことのない味覚で満たされた。不快感から眉を顰めた亜冴に怯えた目を彼らは向けてくる。方法は知らないが、何か道具があれば血を大量に流すことはできるのではないだろうか。そうすれば、一番邪魔になりそうなのは痛覚だ。
──死んで天国に行かなきゃ。
そうこうしているうちに、乳母は震える唇でやっと明瞭な説明を述べていった。様々な言い回しから乳母の気遣いは感じられたが、今はそんなことどうでもいい。
死とは事実であり、私たちが自我を二度と失い倒れることらしい。睡眠とは違って、起きることはない。あの世とは空想上の世界であり、生きるものの希望のようなものという。死者はあの世に行くと考えることで、二度と会えぬ気を紛らわすこと。そう解釈した亜冴は、言い知れぬ予感と胸のざわつきに合点が行った。あの世なんて存在しなく、天国も地獄も空想の産物。そうか、もう。
──頭を撫でてはくれないのか。
「……そんな大事なことまで、私は知らないのね」
生死も知らず、知らされず。知ったところで、もう両親はとっくに死んだ後だ。
葬式は今生の別れというものだったのだろう。死者を見送る場だということすら、知らずに行なっていたのだ。亜冴は震えた指先で拳を作り、手のひらに爪を立てた。一体どれほど取りこぼしてきたのだろう。コイツらは知っていた。いや、あの場の全員。私以外は皆知っていたのだ。実の娘以外。亡くなった父も母も知っていた。私だけが無知で愚かなんだ。
──大人たちが私を
「……死んでもきっと、会えないのでしょうね」
周囲の反応がそれを物語っている。亜冴は一方的に使用人たちへ別れの挨拶を告げると、部屋から全員を追い出した。なんだ、私の言うことを聞けるんじゃないか。歯軋りをしつつも解放した手のひらの爪の痕を摩り、指先についた血を舐め取る。
すでに口の中に広がっていた味と同じ味がした。
「…………死んでしまいたいなぁ……」
棺桶で横たわる両親たちはそれぞれ安らかな寝顔だった。初めて見る横たわる人と、その寝顔な上、それが両親のものだったので、今でも二人の様子は脳裏に焼き付いている。あんなに穏やかなら、死も悪くはない。だけれど、家の連中に囲まれるのも、勝手に寝顔を見られることも嫌だった。特に、目の前で血反吐を撒き散らし、崩れ落ちた肉体は二つとも安らかなものとは言い難い。亜冴はこの一件からしばらく、自らを閉じ込める離れを棺桶とした。認識を改めたのは、乳母の告白からであった。
憎悪が芽生えたのは、この時だったのだろう。