最弱の怪物   作:肩たたき

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第九話『懺悔』-6

 

──……痛い。

 

 壁から剥がれた身体を見るために、俯いた亜冴の頭からボタボタ、と血が落ちていく。ぬるま湯のような温かみと、口に入った鉄の味が気持ち悪く、ペッ、と行儀悪く口の中のものを吐き出した。真っ赤に染まった掌や、まだ口内へ侵入してくる血の多さから違和感を覚え、鼻を触れば、ぬるりと指が滑る。鼻血を頬へと拭い、一先ず身体を起こして、前方の呪霊を爛々とした丸い目で見た。

 忌まわしい愚かな小娘の記憶を思い出させやがって。

 

「今ってさぁ、にきゅう……あれ? いっきゅう、どっち?」

 

 悍ましい見た目の人型呪霊は、ケタケタと笑って楽しげで、こちらが死ぬのを弄んでいるようであった。死への恐怖はやはりない。化け物はそんなもの持ち得ない。

 

──十六になったら死ぬ。

 

 そのつもりであの場に止まったのに、計算違いで追い出されて、手痛いしっぺ返しをされてしまった。伏黒恵が善人であればあるほど、亜冴はしでかした死ぬまでの暇潰しに心が蝕まれていく。籠の中もそれなりに幸せだった。

 だが、奪われて不幸になった先に、仮初の自由を手に入れるなんて思いもしなかった。

 

──犬とか言われるし、籠よりも檻か首輪か。

 

 楽しかった。今だって私は生を楽しんでいる。

 

「ふ、ふふふふ、ふふっ……、あーぁ……」

 

 悪くない人生だった。

 今死んだら、彼らは葬式で悔やんでくれる。こんなに嬉しいことはない。

 私にしては、大健闘だ。

 

『亜冴はさ、恐怖心が薄いよね』

 

 ピタリと笑いを止めた亜冴は、ぐるりと目を開いて呪霊のその先の五条を見た。存在しないそれは走馬灯とやらのようだ。数あるホラーとやらのジャンルの映画を制覇した亜冴に、五条はそんなことを話した。彼は水色の空のように澄んだ輝かしい瞳でこちらを見透かしてくる。怒りなら飽きるほど知っているが、確かに恐怖は希薄だ。

 自分が死ぬことに抵抗はまるでなく、一人で死ぬことに恐れもない。おそらく、そう育てられたからだ。天国地獄、そういう話ではなく、たとえこの先ぱったりと道が途絶えていようが、もう目的は果たした。復讐を超えた先で、今更死ぬのが怖いだの宣うのは傲慢である。まぁ、死んでもいいという価値観も、傲慢と呼ばれるらしいが。他者の癖に生死の傲慢さを説くなど、それこそ傲慢とは思わないのか。恵まれた他人様は黙ってろ。

 

──怖いってなに。知らないよ、そんなもの。

 

 そんなもののために私は鳥籠に閉じ込められ、両親は殺された。なぜそんなものに寄り添わなければならない。理解しなくてはいけない。

 両親の死の現実も、伏黒たちの死の想像も、どちらも許し難い。二度とあんな思いはしたくない。これが恐怖だというなら、こんなはしたものが何になるというのか。

 あの優しさしか私は怖くない。優しさが恐怖に変わるのを見たくはない。

 

『成長の邪魔だから覚えてね』

 

 うるさいな。大人の癖に子供みたいな人だ。

 大人なんて大嫌い。子供みたいな大人も嫌いだ。

 

「……ねぇ、おまえ。このあと、伏黒さんも殺そうとするの?」

「──?」

「するよねぇ……。当たり前か……」

 

 呪いってそういうものらしいし、この後は再び領域の入り口が開き、救援に来た伏黒か、増援に来た誰かが餌食となる。託しはしたものの、此奴は伏黒たちに殺意を向ける。

 相当量出たらしい血液が、いつかの玄関先のように足元に散らばっている。あの夜と同じように頭は生暖かく、全身血塗れの亜冴は退屈と憤怒に身を任せて、ひっくり返りそうな瞳を揺らした。

 

「……滅びろ」

 

 息を呑んで、全ての視界を消してやる。

 私の中心が腹の中、今しがた飲んだ空気は私の一部となって、私の手足となる。周囲の空気全てが亜冴の術式範囲内となり得た。そう、術式の解釈を広げた。

 立体的な虚像は自由自在に飛び交い、相手の未知を作り上げろ。恐怖し慄かせ、冷静さを奪い取れ。亜冴は無数に飛び交う蝿やコオロギの中、姿を消して、時たま表してはまた消していった。別に私が居てもいなくとも。重力関係なく現れても、この領域内全てが私の術式範囲内だ。この場で所有しないのは、ヤツの存在だけ。

 天井から濡れ落ちる雫を緑に染め上げ、時折り黄色く明滅しては、相手の身体を溶かしていく。視覚だけでなく、質量と聴覚などの五感は私の想像の中の産物だ。核は私であり、空気の一部を食したこの空間は私の所有物なのだから。私に、従え。

 

「──、! ──ッ」

 

 出鱈目に暴れ回る呪霊を巨大な仏像の手が、天井を崩しながら押し潰していく。辺り一面に向日葵が生えて枯れていき、項垂れた頭からは種が溢れようとする。その溢れようとする種の全てが蜂の巣となり、蜂の子が、雀蜂が生まれ出ていく。押さえ付けられた呪霊の皮膚を虫が這い、蜂が針を貫く。腫れ上がった皮膚が弾けると、そこからは天井から伝い落ちる皮膚を溶かす液が溢れ出た。

 

 しかし──亜冴の目から見れば、異変など何処にもない。床でのたうちまわる呪霊には、実質傷一つだって付いていやしない。節穴では見抜けぬだけのことだ。

 亜冴は自らの血で塗れた三叉を拾い、濡れた柄に舌を這わせた。

 

「…………まッずい……」

 

 身動きが取れない呪霊へ放った途端、地面は溶岩帯へと変化して、向日葵畑は焼け落ち、肉の焼け焦げる音と匂いを充満させていく。

 

「ッ─────!」

 

 どんなに暴れようが助けるものはいなく、呪霊は転がっていた水筒に縋るように手に取ると、勢いよく蓋を開けて口の中へ流し込んだ。やはり、人の真似事をするのね。人の姿を借り、人であろうとしたものね。

 

「──ッ?」

 

 自ら流し込んだそれは水などではなく、三叉であった。内側から自ら刺した三叉を亜冴は足で蹴って押し込むと、消した大仏の代わりに、地面からイソギンチャクのように無数の千手観音のような手を生やし、この呪霊を縛り付ける。

 私の一部に触れる呪霊は、私の一部としよう。

 遠い意識を手繰り寄せ、足元のそれを解釈の中に取り入れる。だって身に付けたものまで私なら、それは私の一部。私の一部に全身で触れるコイツも私の一部だ。呪力消費の激しさに、呪霊の喉を裂いて突き刺さる三叉から溢れた臓腑に触れた亜冴は、ベロリと自身の赤い血液ごと生臭い紫の液体を舐めた。

 

──これで、私はお前を所有した。

 

 繋がりが深まった呪霊は、更に幻へと囚われていく。

 滅びるしかない運命だと伝え、呪霊の思考から生まれと畏怖するものを弄った。ついでに視界を奪って俯瞰するような情景を見せてやれば、足元の狂乱は深みにハマっていく。

 

「───ッ! ────!」

 

 あまりに暴れるので束縛を強固にするため、しめ縄で縛り上げ、本物の呪具を突き刺す。何度か繰り返した後、心臓部分を抉るように深く貫いた。呪霊の背中へ落ちる血液は熱く燃え広がらせ、蛆虫に変貌して体内を食い漁らしていけ。

 肉の焼ける匂いと腐敗した甘さのある匂いが入れ混じり、呪霊の身体は次第に力を無くしていった。

 何度も何度も突き立てては刺し直すのを繰り返した後、動かなくなった呪霊に、ボウッ、と火が灯る。虚像などではなく、本物のそれだ。伏黒たちによる除伐でよく見る光景に、亜冴は現実感がなくてもう一度刺し直してから、跡形もなくなったそこから退いた。

 

「…………なに、いまの……」

 

 本能的に行なった術式の解釈で見えて感じ取ったものは、地面にのたうち回る視界と肉が裂かれる音であった。同時上映のように重なった五感は、呪霊を食してから起こった。

 

──……そうか、これは“私”になったんだ。

 

 燃え尽きていく己を眺め、崩れていく周囲と纏まりつくような禍々しい呪力が消えていくのを肌で感じる。術式展開の範囲を決めていなかったためか、空気全体と設定してしまった亜冴は、呪霊の領域から解放されたと同時に、一気に呪力が身体から抜けていく感覚に、初めてヤバいと考え及んだ。術式を一瞬にして解くが、一コンマほど遅れた反応が全てを抜き取っていってしまった。

 

 フラリと揺れ動き、ぐるりと視界が回る。

 覚悟した衝撃は、思ったよりも柔らかい。死ぬ直前に一番最後に残るのは聴覚と最近聞いた。死ぬのだろうか、それもいいな。だって倒せたんだもの。

 亜冴は疲労と倦怠感に従って、反対する声を聞き入れることはしなかった。

 

「つ……かれた…………やす……、せて……」

 

 そんなに怒らなくてもいいじゃない。

 休むな、って。私は充分頑張ったのだから、延命なんていらないのよ。むしろ褒めて欲しい。無知な馬鹿でも、強敵を倒したの。吐き気も我慢してやったのよ、凄いでしょ。

 

──だからさ、今はちょっと眠らせてよ。

 

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