沢山の荷物に囲まれた部屋から、ふらつく足で去っていく伏黒を見送り、亜冴は狭い部屋を見回した。これら全て私のものだという。不思議な感覚に襲われつつ、まだ大量に残る札束の価値を考え直した。存外、雑な扱いはしてはいけない物だったようだ。
「足集利、いるか?」
不意な聞き覚えのない低音の声色に警戒したが、敵意があるなら問いかけもドアを叩くこともせずに入っている。亜冴は返事をして扉前に立つと、扉に手を置いて捻った。開けてみれば、厳つい顔付きの男が立っており、背丈も高い男に目をパチクリと瞬かせる。声も顔も知らない相手は黒い硝子板越しにこちらを見つめてきていた。引っ叩かれたらひとたまりもなさそうだ。
「はじめまして。私は
「お初にお目にかかります。はい、足集利亜冴と申します」
「早速なんだが、面談をしたい。付いてきてくれ」
「はい」
面談というのは話し合いのことだと五条は言っていた。簡単な質問で済むと語っていたが、果たして本当にそうなのだろうか。夜蛾に付いて行った先、蝋燭で灯された物々しい部屋は柱が多いが、見通しが良い広い部屋だった。足集利家の稽古場に似ている。
話し合いだけでここまで広い場所が必要とは思えず、亜冴が小首を傾げていれば、夜蛾はぬいぐるみたちの前で立ち止まった。
振り返った彼は今しがた、亜冴が入ってきた入り口からの声に溜め息を吐く。
「おまたせー」
「先にいるように私は言った筈だ」
「別にいいじゃん、今からでしょ?」
軽い態度でやって来た五条は長い足を生かして、亜冴より先の少し離れた場所で立ち止まった。両者とも自身と離れた位置にいることに、亜冴は小さな疑念を抱く。一体、何を話すというのだろう。
「始めるとするか。足集利亜冴、質問なんだが……」
橙色と黒色の部屋でも輪郭がハッキリするほど、迫力のある顔がこちらを見つめてくる。怯まずに見つめ返した亜冴は、僅かに変わった空気に口を閉ざした。
「何しに来た?」
質問の意図が分からず、瞬きをした数秒後、口の線を引き伸ばす。何をしに来たか、という問いの答えはなんだろう。無言で返した亜冴に夜蛾が助け舟を出した。
「呪術高専に何しに来た」
語尾が上がらない。
威圧を掛けられていると悟った亜冴は、瞬きをまた繰り返して口から息を吸った。
「家に捨てられて来ました」
「では、目的はないのか?」
──選択の余地なんて与えられてないもの。
「沢山のことを知って、自立したいです」
「呪いを学び、呪いを祓う術を身に付ける必要はどこにある?」
「足集利家の者たちは知っているからです」
「なら、彼らに教われば良いだろう」
夜蛾の言葉に、亜冴は不意を突かれた。引き取り先と聞かされていたものだから、知らされているのかと思い違いをしていたようだ。
「……大人にも、知らないことはあるのですね」
どういう意味だ、と尋ねてくる夜蛾から不愉快さは受け取られず、多少なりともあの家の大人たちよりは温厚な性格のようで安心だ。話し合うことができるなら、なお良い。亜冴はどう伝えようかと頭を巡らせていった。
「彼らは何も教えてくれません。私に空の色を教えた者は、私の目の前で殺されました。彼らは私を無能にしたいのです」
無知な無能にだって分かる異常性は夜蛾たちにも通じるようで、口を閉ざした彼は思案する様子を浮かべる。ここに連れて来られたのも、五条悟と伏黒恵がいるため。二人に亜冴の存在を処理させたかったのだろう。
「呪術師になる気はないのか?」
「……呪術師についても知りたいです。けれど、私の術式がお役に立つかを、知り得ていません」
「悟から君の術式は聞いたが、やりようはある」
「安心しました」
「それで、呪いを祓い、人を助ける呪術師には?」
呪術師については、いずれなるのだと聞かされていた。大層大事に育てられた亜冴は、父が語る呪術師像を想い描き、彼らと共に行動していると聞いた時には畳の上で跳ね回ったのを覚えている。はしたないと母の言葉が飛んでくるまで、亜冴は不在しがちな父の周りを彷徨いた。──“呪霊を祓う彼らは誇り高き仲間”。
父の落ち着いた声色が指し示す言葉は、自分のことのように誇らしげなものだった。
「……父が見て来たものを見るために、呪術師になりたいです」
誰も教えてくれないのなら、習いに行くしかない。亜冴は熟考の末に出した答えを、顔を伏して答えた。ドロドロに泥濘んだ熱い足元の上に立たされているような感情は、なんというのだろう。
次に聞こえてきた夜蛾の声に混じる落胆の色に、また間違えたと亜冴は目を閉じる。
「知った先で何をする? 好奇心だけで呪いに立ち向かえると思っているのか」
嫌なところを突いてくる。亜冴が答えを探している間に夜蛾は畳み掛けてきた。やはり大人は。
「不合格だ」
──何も知らないで勝手に踏み荒らしていく。
無機物と思っていたぬいぐるみが、夜蛾の手の動きと共に起き上がり、こちらへ駆けてくる。意味も分からず見守っていれば、懐に潜り込んだそれが腹へと突っ込んできた。
「ッ!」
床へと倒れ込む亜冴に、追撃を喰らわせるそれは、まるで生きているかのように動いている。容赦ない殴打は身に覚えがなく、亜冴は混乱したまま引き剥がそうと、捕まえにかかった手からそれが飛び逃げていった。揺れる頭を支えつつ、上半身を起こした亜冴の背中に、また頭突きをしてくる。
「ゲホッ、カハッ……!」
痛い、なんなんだこれ。追い付いてきた頭で、亜冴は仕掛け側である夜蛾を見るが、亜冴の顔は勢いよく横へと向かされる。往復するよう叩かれた頭を逸らしながら、なんとか立ち上がると、それを真正面から見つめた。怪我なぞしないよう、育てられた故に痛みに滅法弱い自身が腹立たしい。生理現象で流れた涙を袖で拭い、拭っている間にまたそれが襲いきた。
「それは
ジュガイってなんだ、とは聞けず、亜冴はすんでのところで避けて、呪骸を柱に打つけさせた。しかし柱から跳ね返ってくる呪骸の速度は、先程よりも速まり、真正面から受け止めてしまう。
「〜ッ!」
「納得のいく答えが聞けるまで攻撃は続くぞ」
床にのたうち回っても、馬乗りになった呪骸が拳を振るってくる。腕で胴体を守ろうとしても腕が痛むだけで、あまり役に立っていない。父は綺麗な面でしか呪術師を語っていなかったのだろう。父の言葉の中には、呪骸への対処法は一切ない。
「その好奇心を満たした時、何を理由にお前は戦う?」
何かを夜蛾が語っているが、正直耳に入って来る筈もない。自分が殴られる音で精一杯だ。亜冴は殴られすぎて朦朧としてきた意識の中、見合い会場の時と同じように自分自身を呪った。浸かっている血反吐が沸騰していく、奥底の感情が波立っていくのが分かる。
「好奇心を生ませた父を恨むことになるぞ」
途端、この部屋で唯一、足集利亜冴という人物だけの姿が虚空と化した。見えない、けれど呪骸の位置は変わらず、物体は存在している。そんな不可思議な状況に呪骸の反応が鈍った。何せ、相手の呪力さえも認識困難に陥ったからだ。
姿を消した亜冴に拳を一瞬止めた呪骸の口へと、空虚な骨張った手を伸ばす。歯並びの良い大きな口へ腕まで突っ込んだ亜冴は、そのまま中を弄って光る何かを鷲掴んだ。簡単には引きちぎることができず、もう片手で暴れる呪骸の頭を引っ掴む。
──ブチブチ、ブチッ
握り拳分の何かを呪骸から引き摺り出そうとした亜冴の腕を掴み、手を離された呪骸が距離を取っていく。呪骸が退いたことでゆらりと立ち上がった亜冴は、姿を消したまま自身の鼻血も袖で拭った。全身の痛みに途切れそうな意識をなんとか保ち、音を立てて場を練り歩く。呪骸に辿り着かないよう、足音を立てるだけの亜冴に、呪骸は口から転び出ていた物を手で口の中へとしまった。弱点らしい仕草に亜冴は呪骸が消えたと共に、後ろへ振り返る。
やはり背後を取ってきた呪骸へ、脱ぎ掛けていた上着を網のように放つと、両側へ伸びた袖を掴んで落とすように呪骸の動きを封じ込めた。体重をかけて床に押し込められた呪骸は暴れるが、亜冴は自由を許さない。
家で抱えてきた感情が、今感じるものと全く同じで驚きだ。驚愕よりも上回るそれが怒りだと、今しがた理解した亜冴は、気付けば口が開いていた。
──そんなに知りたきゃ教えてやる。
「──ッ自分が殺した相手の葬式で! アイツらは私に同情してきやがった! 父は男で、外界を知りすぎていたから面倒で、私は無知な無能として育て上げ、利用しやすくした! 母はその巻き添えで父と共に殺されたッ……! ……何も知らずに死んでたまるか! アイツらが知ってて、私が知らないなんて許せないッ!」
怒りが上乗せされただけで、亜冴にあるのは好奇心に変わりはない。けれど、どちらも産まれた理由が気持ちの悪い大人たちのおかげである。
「私と同じ術式の子が生まれたら、私を両親と同じように殺す癖に、大事に育てやがって虫唾が走る……! あんな白々しい葬式なら、アイツらの代わりに父の言う呪術師を並べさせたい!」
動きを封じる布地に大口を開けて藻掻く呪骸へ、上着の首元から手を差し込んだ亜冴は、再び呪骸の口に腕を突っ込み、外れかけていた物を捕まえた。最後の引っ掛かりが邪魔をして、中々取れない。激しく暴れる呪骸に、煮えくり立つ怒りを抑えることも忘れて叫んでいた。
「私は、私の死を悔いる者を作るッ──!」
上着を手放すと共に勢いよく天井へ向けて引っこ抜き、上へ掲げたそれは黒い石のような光沢のある何かであった。押さえ付けた呪骸が力なく横たわって、先程までの暴れ具合が嘘のように動かなくなる。終わったのかと試しに手の力を緩めても動かないので、亜冴は呪骸から身体を離して落ちている上着も回収した。フラフラと覚束ない足取りで五条たちを見れば、一人は驚き、一人は拍手をしている。
「壊しちゃうなんて思いもしなかったよ」
「……ああ、本当に」
二人の言葉に姿を表した亜冴は真顔で返した。
仕掛けたのはそちらなのに、何を正当化しようとしているのだろう。継ぎ足されて垂れ流される鼻血と、顔に無数にある痣と内出血の数々から、夜蛾から僅かな翳が見える。
「悟、
間延びした返事をする五条は、仕方ないとばかりにこちらへ近付いてきた。夜蛾も近付いて来たと思えば、手を差し出してくるので、亜冴は握り締めたままの石ころを彼の手のひらに置いた。何か言いたげにするも、石ころを受け取った夜蛾は口を開いた。
「合格だ、ようこそ呪術高専へ」
こうして、肝心の生徒本人は納得があまりいかないまま、足集利亜冴の入学が決まったのだった。