最弱の怪物   作:肩たたき

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第十話『恋しい人』-1

 

 畳の上で微睡みに揺蕩う、低い視点。

 亜冴は頭を撫でられる感触に、夢だとすぐさま思い至った。両親はとっくに亡くなって、葬式に参列した記憶の説明が付かないからだ。これは穏やかで一番好きな過去だ。

 畳独特の匂いと、縁側から差し込む日差しに隠れ、母の膝上で亜冴が頭を撫でられるのを、目の前の父が胡座をかいてこちらを眺めている。穏やかな情景と優しい感触に、亜冴は微睡みに負けて、緩やかに夢の中で夢へと落ちていった。ここがあの世の天国なら、私やっぱり死んでもいいわ。

 

 

  *  *  *

 

 

 何度も繰り返しては思い出す、昔の記憶から目覚めた亜冴は、早速痛み出す全身に顔を顰めた。時計を見れば、夜中の三時だ。

 

「ハヤくじゅぎょう受けたーい……」

 

 入院生活は退屈極まりない。高専で家入の治療を受けつつ、昼間は差し入れと共に見舞いに来てくれる伏黒たちが退屈を埋めてくれるが、夜の間は本当にやることがない。五条からの特別授業としての食事も止められ、無論任務などもなく。

 人生最大の大怪我をしてから、この一週間で亜冴は完全に夜を飽きていた。動き回れるようにはなったものの、まだ絶対安静の域を出ない身体は、一人での入浴も禁止されている。忌々しいことに他人に身体を拭かれるしかない。治療関係の術式持ちに肌を暴かれるのもあまり良い気がしない。同性であろうがなかろうが、亜冴にとっては他人であり、彼女らが大人であることに変わりないのだ。

 

「……高専内なら、いいよね」

 

 起き上がった亜冴は寒くなってきたからと、釘崎の差し入れである秋服を手に取った。値札まで切って渡してくれた気遣いに感謝しつつ、亜冴はカーディガンに片腕を通すと、添木と包帯により通せない方は肩にかけるだけにした。姿を隠して動こうかと思ったが、家入がいい顔をしないだろう。見つかってもいい顔をしないのはそうだが、叱られた方がこの退屈は軽くなる。屈むことはまだできないので、亜冴は素足のままベッドに腰掛けた状態で部屋履きに足を通した。これから寒くなるからと冬用の物を選んでくれたことにも感謝だ。やはり女性だからか、釘崎はこういった細やかなことに気が付くのだろうか。完治したら、要望通りにたくさん荷物持ちをしてあげよう。

 

「──アコ」

 

 既視感のある気配と、視神経を撫ぜられる感触。違和感に立ち止まった亜冴は、声のする前方に目を凝らした。誰もいない。のに、近い声は聞き馴染んでいる。

 気が付けば、裏門前にいる自分に驚きつつ、亜冴は後退りをした。土で汚れてしまった部屋履きが片っぽ消えており、足のひらが擦り傷を負っていた。ハッと我に返っても、状況への理解が追いつかない。一先ず姿を消した亜冴は、外気に震える身体を校舎へと戻すべく、踵を返した。

 

「亜冴」

 

──真後ろに、誰かいる。

 

 振り向いたら駄目だ。部外者や呪霊なら、高専のセキュリティーに引っかかって警報が鳴る筈だ。またもや目を凝らした亜冴は、足元が高専と街を繋ぐ道路の黒いコンクリートであることに気が付く。ここまで高度な幻覚を亜冴は知らない。精神汚染系の術式で、幻覚に部類されるコレには、覚えがあるが他者のものは知らなかった。亜冴のものよりも精錬されている、この目でなければ見破れない術式。操れない代物。

 

「亜冴、こっちを見なさい」

 

 低くて落ち着いた声の主を見なければ、確かめようがない。何度か瞬きをした直後、景色が飽和して、裏門前へと戻されている。混乱する頭で亜冴は、ゆっくり背後へと振り返っていく。赤の他人であってくれと、願わずにはいられない。会いたかった人だ。会いたかったんだ。だってのに。

 

「………………──、」

 

 勢いよくベッドから起き上がった亜冴は、痛む身体を無視して辺りを見回す。誰もいない部屋は伽藍堂で、気配に引っかかるものはない。ぐっしょりと掻いた汗が冷たい。

 

「くしゅんっ」

 

 ズ、と鼻を啜り、両腕を抱いた亜冴は、ほぼ完治した身体をベッドから下ろした。

 

 ここ最近、悪夢ばかりを見る。必ず現れる影は父の面影、いや父そのものが向こうへ手招くのだ。夢と見破れない。いつもなら明晰夢などお手の物だというのに、あの悪夢だけは逆らえないでいる。削れてきている自覚のある精神に、亜冴は溜め息を落とすと、綺麗な部屋履きに足を通した。カーディガンに両腕を潜らせて、第一ボタンを留める。時計は夜の三時を指しており、なんとなく部屋から出るのは憚れたが、それでも外の空気を吸いたくてドアノブを捻った。

 

「はぁ……」

 

 病み上がりの身体に冷気は容赦ない。ふ、と吐いた息はまだ霧にはならなく、けれども進行方向にあるので、無風の風圧が鼻先を包む。悪夢を見るたびに足を向ける場所の灯りに、亜冴は恒例となってしまったことを憂いつつ、浮上する自分の単純さに内心で毒吐いて苦笑いを浮かべる。

 生徒の溜まり場として使われる休憩室は、読み物や暖房、一人がけ用のソファーが取り揃えられている。近くに給湯室もあるので、専ら高専関係者の憩いの場として、人が集まり易いのだ。入学してから散々使用してきた一人である亜冴は、同じく常連となる姿を思い浮かべて、先客のいる方へと足を進めた。物陰から出る前に無意識に舐めた乾いた唇に、僅かに微笑みが浮かぶ。

 

「またお前もか」

「伏黒さんも」

 

 肩を軽くすくめた亜冴に、急須片手の伏黒は途中にある給湯室を指差して、もう一つ湯呑みを取ってくるよう指示を出した。空港の任務を開けてから、たびたび深夜に目が覚めてしまう二人は、いつからかこうして休憩室に集まるようになった。暖かいお茶を飲んで、ゆっくりしてからそれぞれの部屋に戻る。伏黒は毎回先に起きてしまうし、亜冴を部屋に送ってから自室に戻るので、睡眠不足が心配である。睡眠薬の打診を二人ともしたものの、長引いた悪夢の方が心を蝕んだ。

 

「今回はどんな悪夢を?」

「知らねぇ男に誘拐された」

「んふふ。なにそれ」

 

 口元に手をやって笑う亜冴に気がほぐれた伏黒は、湯呑みにふー、と息を吹きかける。息の霧とは違い、温もりの霧に亜冴はわざとらしく真似して、ふぅーっ、と息を水面に滑らした。熱い緑茶が波を俄かに立て、室内と僅かに映る肌色を揺蕩わせている。

 

「お前のは?」

「……父様の夢。でも、なんだか怖かった」

「なんかされたのか?」

「ううん、呼ばれただけ。昔と同じヒトだよ」

 

 父は何も変わりない。変わったのは自分の方だ。学んでしまったが故に、父の不偏的な愛情とやらの奥に見えるものが分かる。夢という空想の範疇を出ないならいいが、亜冴はあの悪夢を見破れない。夢を見ている間は、大好きな父なのだ。

 

「……父親、厳しかったのか」

「たぶん……いや、どうだろ。色々と教えてくれる人だった。特に、して良いことと悪いこと。良いことをしたら、手放しで褒めてくれた。挨拶も謝罪の言葉や礼儀も教えてくれたけど……」

 

 上げた目線の先の伏黒に、亜冴は目が合ってすぐに下ろす。

 

「一人で生きる術はくれなかったなぁ……」

 

 伏黒や外の人ばかりが生き方を教えてくれる。それでも両親が上位を独占しているのは、真正面から接してくれた初めての二人だからだ。亜冴を外に逃がすことを諦め、殺意を向けられてもいつまでも変わりない。求めた親の愛がそれなら、文句はあれど温もりを感じたことまで否定したくないからだ。両親の意思に反して生きていることに、罪悪感として夢に父が現れているなら、まあ仕方のないことなのだろう。今の私は間違いなく親不孝ものだし。

 

「……俺はお前の世話を焼いてるけど、親になったつもりはないからな」

「兄は嫌だなぁ」

「俺も嫌だ」

「双子とかは?」

「似てなさすぎだろ」

「私、伏黒さんのお顔になれるよっ」

「やめろバカ」

 

 ケラケラ笑いながら、適温になった湯飲みに口を付ける。喉を通る嫌悪感は薄く、条件反射のように息が出ていく。溜め息に変わってしまったことから、亜冴は自分でも少し目を丸くした。不幸の中にいることで、復讐の味を覚えておきたいのか、私は。このドス黒い本性は鬼に例えられてもおかしくない。亜冴は生唾を飲み込み、改めて緑茶に口を付けた。温かくて美味しくて、食道を伝う不快感は虫の息だ。どこか落胆してしまう自分の浅ましさを、亜冴は下劣だと思ってしまう。自分ですら幸福を願えないとなれば、誰が私を幸せにするんだ。こういう時にどうやって気をほぐしていたっけ。あ、そうだ。

 

「伏黒さん」

「なんだよ」

「人肌がほしいです」

「ブフッ」

 

 勢いよくお茶を噴き出した伏黒は、咳も盛大に連続で放つ。顔を背けて何度も咳き込む目尻には涙が滲んでしまっている。何か変な意味になってしまったかと思い至るも、亜冴には分からなかった。頼む立場なので敬語になってしまったぐらいで、伏黒が動揺した様子で咳き込む筈はない。顔を真っ赤にした伏黒は、ギロリとこちらに睨みを効かせると、口元を隠しながら凄んできた。

 

「変なこと言うんじゃねえ!」

「変なこと……? 釘崎さんが伏黒さんが言う変なこととは、性行為関係だと言ってたけれど、人肌って性行為の暗喩なの? 性行為がしたい、と私は言ったということ?」

「性行為連呼すんな!」

「じゃあ、せっく、」

「ッ黙れ!」

 

 とにかく伏黒は亜冴が口を閉ざすのが希望らしいので、口を引き結んで注意深く伏黒の様子を眺めた。目だけは合わせずにジロジロと観察していれば、膝下で手を構えた伏黒の影から式神が飛び出してくる。兎を模した式神である脱兎(だっと)に飛び付かれて視界が覆われた亜冴は、湯飲みを置いてから一羽ずつ下ろしていく。華奢な兎たちの毛並みに目元を緩め、ひと撫でしてから亜冴はまたも伏黒を見た。伏黒は比べ物にならないほど、大きな溜め息を吐いて、頭を抱えてしまっている。耳たぶの赤みは先ほどより去っており、なんだか勿体ない気分だ。

 

「…………まず、せ……い行為を言い換えたヤツ、誰が教えた」

「五条先生」

「あのクソ教師……ッ」

 

 ブツブツ文句を言う伏黒は、怒りの矛先を五条に向けたようだ。亜冴はなんだか無知故に失態を侵したものの、教えようとしない伏黒に向かっ腹が立ってしまい、口を窄めて欲していた人肌について口を滑らした。

 

「……五条先生も、人肌の良さ知ってたのに」

「……は?」

「人肌恋しいって、盛り上がったし」

「ちょ、っと待て。は? お前ら、そういうこと……」

「そういうって、どういうこと?」

 

 質問の意図が分からず聞き返した亜冴に、今度は青褪めた伏黒が口をあんぐり開けている。金魚のように口を開閉させた後、酷く落ち込んだ様子で胸の内で葛藤を始めた伏黒は、小さく否定の言葉を連呼しだすと、瞬きも息も忘れた顔で席を立った。ツカツカとテーブルを回り込んで目の前にやってきた伏黒は、ガッと亜冴の肩を痛くない程度に掴んで離さない。無意識に顔を逃す亜冴を追いかけて、顔を覗き込んできた伏黒は真剣な眼差しを向けてきた。

 

「人肌恋しいなら、…………俺が、手をにぎ……ハグまでならしてやるから……、五条先生だけはやめとけ」

「……私、五条先生に触られるの嫌いだよ」

「だったら、なおさら……。あの人、酷い浮気性つか、もはや病気だから……」

「五条先生、病気なの?」

「……そうだ。だから、アイツには触られるな」

「よく頭撫でられるし、手遅れじゃ?」

「二度と触らせるな」

 

 なんだかよく分からないが、勘違いが起きていることは分かる。それも不名誉な。亜冴はどこがそうなったのか会話を整理して、すぐさま自身の失態に気が付いた。人肌も暗喩そのままなら、確かに伏黒の動揺も理解できる。

 

「伏黒さん、人肌で盛り上がったっていうのは……」

「やめろ、言うな!」

「いや聞いてってば」

「聞きたくねえ!」

 

 片手で亜冴の口を塞いだ伏黒の顔は、真っ白だったり真っ青だったり忙しない。伏黒の手首を両手で掴んだ亜冴は、引き剥がそうと抵抗するが、グイグイと唇を潰されて仕方ない。この手を噛むのは抵抗があるので、亜冴は押して駄目なら引いてみろ、ということで。剥がそうとして駄目なら引っ付くことにした。

 亜冴が両腕で抱き付いた瞬間、伏黒は動きを止めて短い奇声を上げる。骨が軋んで痕の残る傷が痛んだが、これぐらいなら問題はないと、亜冴はギュッと伏黒の背中に腕を回して抱き締めた。治ってきているとはいえ、怪我人相手に無闇な真似はできない伏黒は、ワタワタと慌てたことで口から手が離れた。また妨害されても困ると、亜冴は抱き締めた状態で、伏黒の耳元で抗議する。

 

「盛り上がったっていうのは、お話のこと。心を許した相手に頭を撫でられたり、頬を摩られるのは太陽の陽射しのように温かで好きだって、五条先生に話したら、人肌ってリラックス効果があるらしいとか、すべすべもちもちのお肌は触ってて気持ちいいとか、そういうお話をされたの」

 

 五条の持ち出した会話の下りで、鎮火した焔が立ち昇ったのを感じたが、あまり突っ込まない方がいい気がしたので放置しておく。落ち着いた伏黒に、ゆるりと腕の力を緩めて見つめると、己の勘違いに気が付いたのか、見る見るうちに綺麗なお顔は真っ赤な林檎のようになった。あら、美味しそう、などという冗談は、今はやめておこう。

 

「おまっ……ほんと、ひでぇ……!」

「勘違いさせてしまって、ごめんね」

「いやその、俺も……、いや、お前……っ」

 

 腕の中で言葉を探す混乱している伏黒に、亜冴は衝動のままに赤い頬を両手で包んだ。この人の斜陽になれたら、こうして毎日包むのも悪くない。いつもより近い距離に息を詰めた伏黒は、勢いよく後退って、またも顔を隠すように口元を隠した。叩けば響く、という言葉と普段は正反対なのに、今や触れるたびに響くのが可笑しい。勘違いにより大きく逸れてしまった話題を思い起こし、亜冴は距離を取る伏黒に一歩踏み出した。

 

「伏黒さん、ハグしてください」

「ハッ?!」

「だって、ハグまでならしてくれるって」

「誰かにされるくらいならって話で……!」

「五条先生だけじゃないの?」

「あッちが……くて、だな……〜〜ッ!」

 

 小首を傾げる亜冴にしどろもどろな伏黒は、尻窄みで口を閉ざすと、自らの頭を掻きむしってしまう。亜冴はひとまずと言った感じで湯飲みに口を付けて、勝手に一息付くことにした。その様子を見た伏黒は肩を落として、ソファーに戻ると無言でお茶を啜る。はぐらかすつもりのようだ。それなりに期待したのにな。

 先程とは打って変わって、不機嫌オーラを身に纏う伏黒は、険しい顔で首を横に振ったり、溜め息を吐いたりと、どうにか感情を消化しようとしている。この手のご機嫌取りは基本失敗するので、亜冴はどうしたものかと軽く悩んだが、そもそも怒らせた原因が分からないし、そう何度も謝っても仕方ないかと独り言ちた。こういうところが五条に似ているのかもしれない。それは嫌だな。とても。

 

「……伏黒さん」

「……今度はなんだよ」

「心配してくれて、ありがとう」

 

 言葉の齟齬は亜冴の責任なので置いておく。伏黒が激しく反応して怒ったのは、足集利家と世間の貞操観念の違いからだろう。伏黒の価値観は世間のサンプルでもある。自身を無碍にするような発言のたび、怒って正そうとしてくれるのは大変ありがたいことだ。学べることもそうだが、自分のことのように怒ってくれるほど、大切に思ってくれている証拠じゃないか。そんな人、初めてだ。

 不機嫌から黙りこくる伏黒を安心させるために、亜冴は軽く拳を作ると、ぐっと伏黒に見せて満面の笑みを浮かべた。

 

「五条先生は、私に微塵も興味ないから安心して!」

「……言ってて悲しくないのか」

「え? 全く。むしろ嬉しいよ」

「…………なんでおまえ……」

「なぁに?」

「……なんでもねぇよ」

 

 誰が言うか、と顔に書かれたので大人しく引き下がる。この状態の伏黒にあんまり食い下がると、本当に怒らせてしまうというのは経験則だ。経験則ができるまで、彼に関われている自分が嬉しい。湯気の消えた湯飲みへ無意味にふ、と息を吹きかけた亜冴は、お茶とその身で薄れさせてくれた悪夢を頭の隅に追いやった。

 

──悪夢からしばらくは、閉塞感が無くていい。

 

 重ならない意識、自分だけの五感に安堵していることは口にせず、他愛のない会話へと縺れ込む。お返しのように伏黒が求める、気兼ねなく言い淀むことのないような会話内容を亜冴は応えていった。私がこの人に与えられることは、これくらいなのだ。誰かの斜陽にはなれずとも、私の斜陽には親切にしなくては。

 亜冴は暖かな気持ちで、ふぅ、と息を揺らした。

 

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