次の日の翌朝、教室の扉を開けた伏黒は、包帯だらけの亜冴に足を止めた。制服も皺くちゃのボロボロで、目を離した隙に何が起こったのかと大きな疑問を抱く。それに屈託のない笑顔を向けてくる亜冴は、座っていた席から立ち上がった。
「おはようございますっ」
「……はよ」
聞きたいことを飲み込み、自分の席に着いた伏黒は一昨日の五条の口から出た、夜蛾との面談が亜冴にあったことを思い出す。合点がいったものの、自分の時はここまでコテンパンにやられなかったと伏黒は記憶を思い起こした。
「入学決まってなかったって知りませんでした。あ、入学式とかって今日なんですか?」
「入学式はお前が来た日にやった」
「……参加できなかったのって」
「五条先生の所為」
席に着いて上半身を溶かした亜冴は、悔しげに震え出した。
入学式の日に呼び出され、数時間も待たされた間に行われた入学式。それをわざわざ存在だけ教えていく五条に、亜冴は嫌われているのだと確信する。
伏黒はまさか泣いたのかと思ったが、ブツブツ何か呟いていたので違うようだ。亜冴はなんとか立ち直って身体を起こすと、ブスくれた顔を晒した。明らかに拗ねた顔で目を逸らして、これだから大人は、と亜冴は内心に不満を溜める。その様子に伏黒はフォローではないが、忠告のような言葉を告げることにした。
「やっても秒で終わると思うぞ」
「えっ」
「どう見ても二人しかいねぇだろ」
「……記念撮影とか打ち上げは?」
「五条先生の気分次第」
「教えてくれたの五条先生だから……!」
「やるとは限らねぇだろ。あの人はそういう人だ」
またしょぼくれて机に落ちた亜冴は、無意味にスリッポンで床を蹴った。何でもかんでも言葉を鵜呑みにしていく亜冴に、伏黒の中で不安が募る。簡単に騙されそうなコイツがここでやっていけるのか。そんな顔をしたが、亜冴は外方を向いていたので気付くことは叶わない。始業してから数分経ってもやってこない教師待ちの二人は、やっと開いた教室の扉に視線をやった。
「おはヨーグルト! お二人さんお揃いで!」
「五条先生、嫌い!」
「いきなりの罵声?」
真正面から噛み付いていく亜冴に、五条は不思議そうにしている。伏黒は当然の結果だと放置した。理由を尋ねてくる五条に敬語ながら不貞腐れて説明した亜冴は、またもや机に溶けていく。
初めてのことはなるたけ行いたい。亜冴は説明を終える頃には身体を起こし、来年の新入生の時に取っておくことにして気を取り直した。
「今日は何かするのですか?」
「体術やるよー」
「初日からハードすぎんだろ」
「……タイジュツ?」
「戦うんだよ」
「昨日やったのに……」
落ち込んだ亜冴を慰める者は居らず、筋肉痛とやらに魘されながら、運動着とやらを渡された。ここで着替えろと指示された場所で、包帯などが解けないよう気をつけて制服を脱いでいく。一昨日まで傷一つ無かった身体は、腕を上げるだけで悲鳴を上げて仕方ない。亜冴は顰めっ面を浮かべ、上手く動かない身体を動かした。
「揃ったね、じゃあ始めようか」
校舎前の広い場所に並べられた二人は、まだ肌寒い空気に半袖で晒される。キョロリと振り返ったり空を見上げたりと、亜冴の注意力が散漫してしまっている。上空では鳥の群れが翼を広げ、優雅に漂っていた。ここ三日間、毎日外出しているとは言え、外はまだ珍しいのだ。
「紹介も兼ねて二年生と合同でやりたかったんだけど、みんなちょうど任務でさ」
話す五条は何処か楽しげで、昨日までの歪み合いが嘘のようである。亜冴は白けた気持ちになりながら、疑問を抱く言葉に反応せず、彼の指示を待った。入学理由だけで信用するような相手ではないだろう。
「早速だけど、まぁ殴り合って」
「雑すぎませんか? てか、殴れって……」
怪訝な顔でこちらを見てくる伏黒に、亜冴は彼の腕を眺めた。亜冴と違って凹凸のある腕に殴られたら、これもひとたまりも無さそうだ。昨日の呪骸より痛いと確信が持てる。五条の指示に渋った伏黒は嫌だと顔に浮かべて、非難する目を教師に向けた。
「相手になりません。こんなボロボロの女子に手をあげるのも嫌です」
「ヒューっ、カッコいいね恵」
「……」
「亜冴は? 恵を殴れる?」
「……当たる前に避けられると思います」
亜冴は当たり障りのない言葉を述べておいた。基礎体力を付けるだけなら、五条が相手でもいい筈だ。わざわざ同級生を選ぶ真意が気になり、亜冴は口を開いた。
「呪骸相手の体術じゃいけないんですか?」
昨日のように呪骸相手なら、伏黒はやりやすいだろう。亜冴の質問の意図を拾った五条は、柔和な笑みのまま首を横に振った。こちらを試すような様子は全て亜冴に向けられているようだ。
「人間相手と人形相手だと勝手が違うからね。亜冴には基礎体力ついでにそういうところを学んでほしい」
五条の言葉に亜冴はしばし考え込んで、横目で伏黒をもう一度見た。やはり乗り気ではなさそうな彼は五条を半目で眺めている。痛いのは嫌だが、従わずに五条に逆らうのも危険そうだ。亜冴は口を堅く噤んでから、反対の方へと目を逸らした。
「じゃあ、こうしよう。恵は亜冴の動きを封じる。亜冴はなんでもオッケー。これならフェアでしょ?」
「なんでもって呪力もですか?」
「うん。どちらかが動けなくなるまでが一試合。何回かやってもらうから、ペース配分考えてね」
「……分かりました」
渋々頷いた伏黒に、亜冴も続いて頷く。
互いの術式を知らない者同士、亜冴は五条のペース配分の意味を考えながら、相手と一畳ほど距離のある位置についた。伏黒はやはり険しい顔でいる。
「──はじめっ」
気の抜ける五条の声と共に一気に距離を詰めてくる伏黒に、反射的に前へ手を合わせて攻撃を防ごうとする。しかし、彼は身を屈めると、亜冴の腕を取って背中側へ引き寄せた。呆気なく捕まって身動きが取れなくなった亜冴は、しばらく踠いた後、困った顔で五条を見た。
「ちょっとちょっと、早すぎ! 手加減してやってよ!」
「俺は相手にもならないって言いましたよ」
「弱くてごめんなさい……」
「もっかい! もっかいやるから離れて!」
計十数回、このやり取りを続けた三人は、痺れを切らした五条により、亜冴は両頬をつねられた。
「僕、呪力オーケーって言ったよね? なんで使わないのかな?」
「なんとなく……」
「授業にならないんだけど?」
「……」
「次は使えよ」
「……はい」
痛む両頬を摩る亜冴に、目を細める伏黒を見向きもせず、再び試合開始位置に着く。気乗りしないな、使うの。
亜冴はやる気のない授業に辟易としながら、本気を全く出していない伏黒の足元を見た。前から攻めてきても、後ろへ回るのはこちらに怪我をさせたくないからだろう。戦う意思のない伏黒に対して、亜冴は何でもありで応戦しなければならない。情報だけ見れば有利だが、実力が不利なことは明白だ。二級呪術師は、大人の呪術師と並び立てるほどの実力を意味する。しかも、勝利条件は相手の動きを封じることだ。勝てっこない。
「……はじめっ」
──真正面から来る。
後ろへ伸ばした足で地面を掬うように前へ蹴った亜冴は、土煙で不意を突かれた伏黒の目を潰し、気を取られた間に姿を消した。数歩後ろへ下がり、背中を向けて走り出す。
「こらー、戦わないと終わんないよー」
一目散に逃げていく亜冴に五条の言葉が飛ぶが、返事をしている場合ではないので無言で走る。息切れが激しい中、後ろを振り返れば、追いかけてくる伏黒を目にした時にはなんだか涙が出た。姿は消しているのに気付かれる原因なんて一つだ。足音が鳴らない場所を探すにも、伏黒はどんどん距離を詰めて来る。
──手持ち、何にもないのに……!
更に不意を突けるものを考えるが思い浮かばない。亜冴はヤケクソで靴を片方脱ぎ、茂みの方へと放り投げた。物音と共に止まった足音に、伏黒の意識がそちらへと向く。もう片っぽも脱いだ亜冴は、地面の上を靴下で気配を消して歩いた。切れた息を殺し、ジッと潜んで固唾を呑む。
もう一足を握り絞めた亜冴は、更に遠くの茂みへと靴を投げた。茂みから茂みへ移動したと錯覚した伏黒は、そちらへ足を進める。亜冴はどうしたものかと悩み、後退りで足元に当たった物に目を落とした。次いで茂みを覗く伏黒へと仕掛ける。
「ッつめた?!」
シャワーヘッドの無い長い管に繋がれた蛇口を捻った亜冴は、水を伏黒の背中へ勢いよく掛けた。地面ごと濡らすようばら撒き、振り向いた伏黒の頭へも長い管の口を指圧し、水を飛ばす。手で防いだ伏黒はこちらへ捕まえようとやって来た瞬間、亜冴は術式を再び展開した。
──
術師本人の姿を、自由自在に五感全てを見せかける幻覚呪法の一つ。食した対象の姿を自身と認識することで、対象の姿も自由自在に見せかけることができる術式だ。
屋敷でそう記されていた文献を思い起こしながら、亜冴は今しがた手にした飲んだ水の冷たさが胃にあるのを実感する。一部を食された長い管の水は、亜冴にとっては自身の一部である。材料を手に入れ、下準備を終えた亜冴は更に術式を展開した。
途端、水たちが濡れた範囲分だけ亜冴へと姿を変えて、伏黒の周囲を取り囲んだ。しなだれ掛かる無数の血塗れの少女たち、足元にも同一人物たちが寝っ転がって微動だにせずにいる。進もうにも質量を感じるそれに伏黒は動けず、先程まで空中にあった細い長い管は無造作に放られて、そこから流れ出る血液に寒気を感じた。冷たい身体を掴んで肩を揺すろうにも、身体に張り付いて離れない。ドクドクと広がる周囲の血溜まりと死体の数に、混乱と共に伏黒の血の気が引いていく。そのまま十秒間ほど身動きが取れず、その場でもがく伏黒を目にした五条は声を上げた。
「はい、おわり! 勝者、亜冴ー!」
五条の声にハッとした伏黒は、自身が単なる水浸しになっていることを認識できるようになり、蛇口を捻って止める亜冴に呆然としてしまう。水には微かな残穢があるだけで、亜冴自身には存在しない。今、自分は何をされたのか、伏黒は目を白黒させながら亜冴を眺めた。
「そうそう、こういうのが見たかったんだよ!」
やればできるじゃん、と褒め称える五条を前に、居心地が悪そうな亜冴はしゅんとしている。幻覚を見せられていたことは分かれど、いつの間に掛かっていたのかが分からず、伏黒は頭を抱えた。油断していたところに隙を突きまくった亜冴の戦法は、卑怯とも取れるものだったが、呪術界では卑怯もへったくれもない。けれど、亜冴自身は伏黒に使いたくなかったのが本音である。
──嫌われたらどうしよう。
勝っても負けても嬉しくない。亜冴は落ち込みながら、五条の機嫌を取った自分の汚さに嫌気が差した。結局、あの威圧に負けて嫌なものを見せたのだ。せめてもの償いとして、喜ばずに伏黒へと汚れた靴下のまま近付いた。大体、この靴下も彼から借りた物だ。
「その、ごめんなさい」
「……謝ることじゃねえよ。授業なんだし」
「ですが、何に怯むか分からなくて、とにかくあるもので思い付いたのを見せたので……加減が分からなくて……。顔色悪くなったの見たら、すごい罪悪感……」
胸を押さえて伏黒以上に顔色を悪くした亜冴は、せめてもの詫びとして昨日買ったハンカチをポケットから差し出した。五条に叱られた時よりもションボリとしている亜冴に耳と尻尾があれば、どちらも垂れているだろう。
「いいっつってんだろ、気にすんな」
純粋な善意と売り場のタグが付いたままのハンカチに、伏黒はなんとも言えない顔をしながら、一拍置いてハンカチを受け取って顔を拭く。身に付ける物なのだから、もう少し考えて選んでやればよかった。なんて考えていた伏黒と、ほぼ人生初の罪悪感に蝕まれる亜冴に、五条は静かに顎に手を添えた。
「キミたち、可愛いね……」
「は?」
「え?」
そんなこんなで、砂だらけとずぶ濡れになった生徒二人は、共通の敵となりつつある担任に警戒心を抱いて初授業は終了した。