まだ三歳にも満たない亜冴に、慈は何度か会いに来ていた。夢を介しての逢瀬を亜冴は待ち侘び、徐々に慈を慕うようになっていった。そこで慈は亜冴と実際に会う為、教育を行なうようになった。
「これは、
「……せんさいあめ」
「そうだ。覚えなさい」
亜冴は頭を撫でてくる慈に、こくんと頷くと翌日に実行へ移した。
幼子である亜冴はスポンジのように知識を得て、現実に疑問を零していく。その度に激震が走り、思惑通りに事が進んだ。亜冴との対面を控えた前夜、慈は初対面を装う為に亜冴に会いに来た。亜冴は慈に近寄ると、
「亜冴。縛りを交わそうか」
「しばり、とはなんですか?」
「約束のことだ。それぞれが守ってほしいことを出して、破らないという誓いを立てる」
「やぶった場合はどうなるのです?」
「後悔するほどの苦しみを与えられることになる」
黙り込む亜冴に慈は頭を撫でて宥めると、明るい茶色の瞳を歪めて笑みを作った。亜冴はそれを真っ直ぐ見つめ、目線を合わせてくる慈の言葉を待つ。
「私は“足集利亜冴が他人の視界を見れることを忘れること”と、“夢を見ていたことを忘れること”を亜冴にしてほしい」
「……忘れようとして、忘れられるものなのですか?」
「縛りなら忘れられるから安心しなさい。亜冴は何が欲しい?」
「何かくれるのですか?」
「交換条件だからな。私にあげられるものなら、あげよう」
優しい声色で接し続ける慈に、亜冴は小さな口を窄めると、横へと視線を逸らして思案し始めた。子供のおねだりだ。そんなに難易度が高いものではないだろう。本人の意思であれば、問題はないので多少の修正もできる。慈は自由への渇望から、今か今かと亜冴の返答を待った。
「……言葉をたくさん知りたいです。あと、お話し相手もほしいです」
「他にはあるか?」
機嫌の良い慈は対価として見合うだけの条件の為、更なる条件を促した。どうせ奪う命だ。もう一つくらいは振る舞ってやろう。
「……じゃあ、愛して?」
「…………え?」
予想外の言葉に、慈の思考が停止する。あいって、愛か。自分よりも勝る力を持つ子は、愛さぬ親を見限ることもせず、ただ真実を見抜いて受け入れていた。鳶が鷹を産んだという諺があるが、それを痛感した慈へ父親という自覚が今更ながらにやってきた。同時に憎らしくも羨ましい。自分が知らない親の愛を、この子供は寄越せと宣うのか。
自分以上の存在が自分により生み出された事実は、何よりも不愉快であった。それ以上に、目の前の小娘が哀れで仕方ない。愛を欲する娘に慈は答えが見つからなかった。これまで自分は怪物だと信じて疑わなかったが、本物はこの子なのかもしれない。
「父さまは愛とは何かを教えてくださいました。本では“子にそそぐ”と記すと。わたしは父さまの子だから、愛してほしいのです」
──無知で無力な、最弱の。
絶句してから下唇を噛んだ慈は、愛のない己を見破っていた子に苛立ちを覚えた。
取り消すにも路線を変えるにも、より良いものが思い付かない上に愛ほど重い枷もない。言わせてしまった手前、効力は確かにある強い縛りだ。確かに愛ならば、記憶を失うほどの縛りになり得る。
「──……そうか」
「……できませんか?」
「……いいや。わかった、おまえを愛そう」
「ふふふっ……うれしいですっ」
本心から微笑んで喜ぶ亜冴の頭を撫で、慈は愛さなければならなくなった子供を眺めた。愛の定義はよく知らないが、己のことのように大事にしてやり、存在を尊重してやれば良いのだろう。
この日から、己の分身か好敵手として、慈は亜冴を愛でることとなったのだった。
「お初にお目にかかります……足集利亜冴と申します」
現実の離れで頭を下げる何も覚えていない亜冴に、慈は一から父親としてやり直し、愛するよう努力をした。悟られないよう一番に労力を尽くし、愛故の行動に徹した。
「──お前を愛さないといけない男だ」
逢瀬夢想で十六歳になった亜冴にそう答えた慈は、未だ死んでいない好敵手を見た。やはり、足集利亜冴は自分を超える天才だ。
──愛してるよ、亜冴。
今のお前なら、歯応えのある抵抗を見せてくれるだろう。五条と伏黒を排除すれば、亜冴は完全に慈に堕ちる。そして夏油の元を去り、愛故の行動を考えよう。それまで生き残ったら、納得する愛し方で殺してやる。そうすれば、俺は晴れて自由の身だ。
父娘に充てがわれた寝室に戻った慈は、布団に眠る亜冴の頬を撫でた。無防備な姿に微笑み、額に唇を落として満足気に自分の布団に潜る。その時が来るまでは父娘二人で楽しもう。慈はほくそ笑みながら眠りに入っていった。