十六年前、娘が産まれてからというもの、慈は静かに荒れていた。術式は兎も角、己よりも格上の瞳を持つ赤子だ。男児であれば慈の地位は確固たるものになったと同時に、当主よりも格上として君臨する座を取られまいと、教育する必要があっただろう。何者かが慈の隙を突いて、取り入ろうとしたのも確実だ。幸いにも女児であった為に、術式を持たぬ息子よりかは多少の優遇がされる。妻はやっと術式を持つ者を産んだ可能性があるとして、今度は男をと催促されているだろう。
「湿気くさい顔すんなよー、ほら。飲め飲め!」
「私は酒を飲まない」
「うわっ、ノリ悪いなー」
慈は約三十分前、屋敷前に停められたタクシーに乗せられ、暖色に照らされた食事処で数年来の仕事仲間と言える呪術師たちに囲まれていた。普段なら酒盛りの呼び掛けに答えないながらも、荒れた心から乗り気になった慈は、色の良い返事を返していた。今は後悔が滲むほどには、騒がしい連中だと眉を顰めてしまう。妊婦だった妻が第二子を出産して数日以内というのは伏せている。一般出身の奴らがこういったことに煩いというのは、数年ほど前に第一子の時に学んだ。
「この後、キャバ行かね?」
「行かない」
「連れねえなぁー。酒も女にも興味ないとか、坊主かよ」
「オレ……私が、悪いとされることを避けるのは知っているだろうが」
「その口調も似合わねえー」
「“慈”には似合うだろう?」
名は体を表すというが、俺には到底遠い代物だ。
慈愛の慈というのは、足集利慈にとって皮肉でしかない。親やその同類の愛を俺は受けたことがなければ、知りもしないどころか愛の理想像すらない男だ。親から子への愛など、俺には無縁である。長男となる第一子も、非術師であるために不自由な生活を送るのだろうな、という感想のみだ。望まれる父親、夫として接していれば、力を持たぬ妻子は敵にならない。多少の好きを無理に通しても、勝手に解釈して味方だと盲信してくれる。味方にする意味はなかったが、対面としては楽になる。それだけのモノだ。娘もそうなる予定だった。
──俺が焦がれるのは、安くて遠いものだ。
足集利慈として生を受け、退屈と束縛によって知り得もしなかった事実を、自由を知ったからこそ打ちのめされた。
他人同士がすれ違い、刹那的に言葉を交わし、一期一会がどこもかしこも当たり前として通り過ぎる。この国に生まれた者の義務として、半世紀前では高度とされた教育を受け、人の権利として国が存在を認める。己の意志で職を定め、意思の上で人が食い眠り、平和を当然として生活している。家族を作るも良し、孤独に過ごすも良し。娯楽を趣味として磨くも良し。他人共に囲まれて、自由を享受する彼らは生きていた。
呪術師として初任務を終えたあの日。帳から抜け出た先に見上げた空虚に、心全てが奪われた。
文言で知っていた空は広く、どこまでも遠く、青空として何者にも縛られることなく。天を覆い尽くして、途方もないほどの自由がそこにあった。青空を滑空する鳥たちは檻など知らず、その下を歩く人々は己が己の人生の主役だと闊歩していた。
人生で挫折などしたことない。この目と術式は天才と謳われたが、躓くことはこれまで何度かあった。その度に努力と精神力で乗り越え、男としての土台と権力を付け、家では幅を利かせることまでできた。しかし、恵まれた自身が手にした自由は、決して自由などではなかった。所詮は井の中の蛙でしかなかったのだ。今更、呪術師としてしか生きていけぬ現状に気が付いてしまった。義務教育すら受けておらず、知っているのは呪いのことのみ。騙し合いと呪い合いの道しか残っていなかった。
──何の為に戦ってきたんだ。
楽に生きる為の他ならない。今も変わりない行動理念が揺らぎ、仲間として見ていた者たちへの言葉が歪んでいく。呪術師は非術師を守る為に存在すると、慈は疑いもせずに飲み込んできた。楽に信頼を得て仲間を増やす為でもあったが、それが秩序の為ならばと納得もしていた。社会というものがある以上、改革が起きない限り、反抗は弱者のままで消え去ると歴史が証明している。
しかし、どうして単なる人が何の努力もなく得て、自分は手にすることが永遠叶わないのか。
精神汚染系の術式である累集坩堝の使い手は、この世で己ただ一人だ。ある程度の眼の良さがなければ、使い熟せない故の貴重な存在である。重宝されるが、同時に酷使され縛られる。
あの家から脱するには、口頭だけでなく頭脳、そして力を付けざるを得なかった。利用されまいと手を汚すのも躊躇わなかった。だが、目の前のこの有象未曾有の弱者らは次の瞬間の生だけでなく、当たり前として寿命を無事終えられると信じ切っている。実際そうなのだろう。誰の脅威に怯えることもなく、国という巨大な組織により、人としての尊厳を守られるのが当たり前という顔をしている。果たしてこれらを守った先で、俺は報われるのだろうか。答えなど考えずとも分かりきったことで、心に浮かぶ前に願望が浮かんだ。
──……欲しい。
足集利家では誰も手にすることの叶わなかったものを、恐れられるほどの力を得た俺なら手にすることができるかもしれない。可能性はなくとも、喉から手が出るほど欲しい。この人混みに紛れ、同じような感覚に陥りたい。不安など些細なもので、不要なしがらみやいざこざから遠退きたい。青空の向こう側すら行ける、人としての権利が欲しかった。
──ただ、自由を。
その為なら、楽に生きることすら止めて、意地汚く掴み取ってやる。それだけの価値が、自由にはあった。前準備として、いずれ己の前に立ちはだかるであろう、娘を踏み台にして自由を得る。おそらく未来で肩を並べられる唯一の存在を、可能性を握り潰していく。自由を手にする為には、あのくすんだ黄緑色の目は、どうしたって己を見逃してはくれないだろうから。
──あの子は敵だ。俺が自由を欲する限り、殺さねばならない敵なんだ。
和気藹々とした平和の中、当たり前になってしまった殺意を手にしながら、当たり前として蔓延る自由に慈は焦がれていく。焼き付いて離れない自由への切望の為、物心つく前から取り巻く妄執と執着を切り離す。格上の瞳だけでなく、同じ術式を持っていれば、他にない人身御供だ。悲しきかな、いや、喜ばしきかな。あの子は累集坩堝呪法を持っているという予感がする。
そういえば、名前をまだ決めていない。第二子だから、亜とでもしようか。俺の亜種という意味は言わなければ問題ない。無能であればあるほど、扱いやすいだろう。俺は慈と真逆を行ったから、冴えると組み合わせて、亜冴はどうだ。足集利亜冴、あぁ語呂も良い。古風に聞こえるやもしれんが、肉親どもは古い人間共だ。慈は頬杖を突きながら考えた名前を頭の中だけで描いてつまらなそうに頷いた。無知で無能で愚かな娘として、俺に騙されていればいい。そうすれば、せめて幸せな顔して死ねるだろう。
落ち着いた心に目を開き、注がれている酒を横にやった慈は店員にお冷やを頼んだ。