縛りを破った慈は忌々しげに亜冴を睨みながら、膝を着いて倒れかけた。それを亜冴は刀を落として慈の両肩を掴み、己に寄り掛からせることで優しく寝かせてやる。腕の中で苦しそうにする慈に亜冴は真顔で返し、膝枕をしながら顔に掛かる髪を払ってやると、音を鳴らす肺を撫でた。
「亜、こ……ッ」
返事をしない亜冴に、慈は最期になるだろう疑問を口にする。父親ではなく、単なる慈の顔をして尋ねた。
「髪は……いつ……」
ゆったりと瞬きをした亜冴は、くすんだ黄緑色の瞳を僅かに細める。父、いや、慈ともこれで最期になる。亜冴は殺めた者として、相手の立場を考えて口にすることにした。手向けの花代わりの言葉だ。
「……あの森林で私を試した際、呪具で切り落として括り付けました。伏黒さんには挑発するよう事前に打ち合わせ、あなたが式神を刺すよう誘導しました」
「……どうやって話を」
「あなたの視界を借りて得た情報を、領域展開で伏黒さんに夢の中で話していました。あなたの元に来てから、ずっと」
夢を繋げてしまう感覚は既に知っていた。亜冴は自身の悪夢を無意識で伏黒にまで見せてしまっていたのだ。理由は繋がりが深いと亜冴が認識していたことと、助けを求めていたからだろう。領域展開として確立するまでは、それ以上の呪力の消費が激し過ぎて、数日に一度だけとなっていた。
亜冴は慈の話を聞いて明確な想像と術式の解釈を広げた為、やっと上手くコントロールするまで至ったのだ。繋がりが強ければ強いほど、呪力の消費は抑えられ、また、伏黒も亜冴を信用していたので伝達役として抜擢した。
亜冴は信用されていなかったことや、戦闘が不得意だった為に夏油たちの作戦を知らされることはなかったが、慈が高専にいた亜冴の視界を借りていたように、亜冴は慈の視界を借りて、本来の目的すらも情報を得ていた。つまりは高専側に夏油一派の行動は筒抜けだったのだ。
「おまえ……いつのまに、そんなことまで……」
悔しさを滲ませる慈は、息も絶え絶えで恨みがましそうに亜冴を見つめる。亜冴はきちんと
『……お前が、私以上の存在だからだ』
「……私が、あなた以上の存在だからです」
残酷にも告げた亜冴に、慈は咳き込むとまた粘つく血を吐いた。袖口で拭ってやる亜冴の手を煩わしそうにして弱々しく払い退けるので、亜冴は従って手を下ろした。
どうしてかな。同情がまるでできないわ。でも、どうしてこんなに堪え難いのだろう。
憧れていた父に追い付いたけれど、父の皮を被っていた慈はそれこそを望まなかった。自尊心を大いに傷付けられた男は、息も絶え絶えに真っ赤な口を開く。
「なぜ……うらぎっ、た……?」
やっと予想していた質問を投げかけてくる慈に、亜冴は用意していた答えを捨てた。口を一度閉ざし、妻子を殺した上、裏切った男を眺める。
あの離れで顔を合わせた時から変わらぬ、愛と親しみと蔑み、憎しみ、羨望。
覚えているのはそこからで、その前は父の中に愛も親しみもなかったのだろう。いや、この男はずっと父などではなかった。単なる足集利慈として生きようとした、私以下の天才だ。もう少し才能があれば、そちら側につくよりもこちら側の方が結果的に得であったと気が付けただろう。そんな理由を皆が求めていないのは分かっているし、私はそれだけではない。理由なんて、沢山ある。
多くの嘘を慈は亜冴に口にした。見抜けても、信じたかった。その思いは踏み躙られていった。それだけではない。それらだけでは愛を裏切れなかった。足集利慈には分からないことだろう。この人は愛も愛し方も知らなかったが、愛そうとしてくれた。私はそれを愛と認める。でも。
──愛を語っても、分かりやしないでしょう。
慈が唯一納得するものを、亜冴は選び抜いて震える唇で口にしていく。どんなに残酷で惨かろうと、私はあなたを尊敬して愛していた。そんなことを伝えても、この人には分からない。誰の愛も望んでいない。望むのは納得のいく答えだ。
「──父様が語った善を、あなたが否定していたから」
──あなたが教えてくれた、あなたが悪人であることを。
離れで語られた情操教育に含まれた物事の善悪を、今の慈は大きく踏み外していた。
妻子を殺め、娘を捨てた男。呪霊を祓い、人を救う組織から娘を誘拐し、人を脅かす組織に連れてきた男。連れてきた理由は、決して娘が大切だったからではなく、縛りの為に敵対していては己の身が危険だったから。高専を何度も覗いたのは、娘の安否の確認ではなく、敵地の情報を得る為だった。
父は私を愛していたが、最も愛していたのは己自身だ。縛りがなければ、慈は私を自らの手で殺していただろう。狡猾に仕組んだ為に、足集利慈は娘に見破られた。娘よりも劣っていたが為に、足集利慈はその娘に敗れた。怪物を産まなければ、怪物でいられた人。
「…………すまない……」
「……いいよ、愛してる」
亜冴の言葉に顔を歪める慈は、柔らかな頬へと手を伸ばす。大きくて暖かくて大好きな手を取り、亜冴は頬に寄せて目を瞑った。母と顔も知らない兄の仇でもあり、私を愛してくれた人。たとえ、自分自身の為だけであろうと、亜冴にとっては最愛の父親だった。私が父を超える存在だから殺されそうになった。父を超える存在だから愛された。表裏一体となってしまった歪んだ関係を断ち切った亜冴は、力を失くした手のひらをそっと解放してやる。彼は私を心底毛嫌いしていたのだから、もう甘えてはいけない。
「……足集利」
「……伏黒さん」
滲んで仕方ない視界で、亜冴は静かに見守ってくれていた人に振り向く。頬を伝う熱が止まってくれず、見上げているのに顔をまともに見られない。顔を見たくなくてもう一度、父に戻した勢いで熱が決壊してしまう。ぼろっ、と落ちた雫が血溜まりの父に降り注ぎ、頬を伝って顎から止めどなく流れていった。目頭は溶けるほど熱く、喉は焼けるように痛い。自分が殺した癖に、なんで、どうしてと疑問が山積みになる。足元に広がる暖かい血が苦しい。生きていた、直前まで。重くて熱い。
「…………ぁあ、……ぁ…………」
本当は殺したくなんかなかった。説得して一緒に高専で過ごしたかった。母と兄を貶めたことは許せないが、大好きな父であることには変わりない。ぬいぐるみも辞書も、人の温もりも教えてくれたのは父だ。あぁそれでも、足集利慈は父であろうとはしなかった。父に仕立て上げたのは私だった。理由は分からないが、已むを得ない理由で私を愛した。私が愛させた上で、私が殺した。まるで悪魔だ。私は外道の化け物だ。
「……どうしよう、わたし……父様、殺しちゃった……っ」
どうすればよかったんだろう。私に力があれば、止めることができたんじゃないか。
亜冴はそんなことを伏黒に訴え、止まらない涙に溺れるようにしゃくりあげた。それを伏黒は苦い顔をして同じように苦しみながら、膝をついて無理やり振り向かせた亜冴の背中に腕を回す。ギュッと力強い圧迫感に、伏黒が生きているのだと亜冴は感じ取り、更に涙が溢れていく。歪んで何にも見えないのに、拭うことも出来ない。それが心地よくて、ぐ、と亜冴は顔を歪めた。伏黒の背中へ震える指先を這わせ、亜冴はつかえていた喉を開き、悲痛な声を捻り出す。
「〜っ、ぅううぁあ……っ。なんで、なんでぇ……?」
声を殺した悲鳴に、また強まる抱擁が亜冴の頭を肩口に埋めていく。眼前の肩へ、亜冴は八つ当たりのように目元を擦り付けた。
足集利慈が父でなければ、違うそうじゃない。足集利慈だから、父になってくれた。
何もかも分かっている。見ていれば理解も推察も簡単だった。あぁ、解き明かしたくなどなかった。足集利慈を狂わせたのも死に追いやったのも私だ。きっかけを思い出すことは一生叶わない。燃えるように身体中が痛い。いっそ悲しみで溺死してしまえたら、どんなに楽だろう。でも、それは叶わない。
──まだ、まだ。止まっちゃ駄目……。
覚悟を決めて深く目を瞑り、深く息を吸って吐けば涙は引っ込んでいく。薄ら開けた目元の熱に浮かされた亜冴は、気付かれぬように伏黒へ頬擦りをした。瞼から涙を追い出したまま、眉尻を下げて安らいだ笑みを浮かべる。視界にない顔色と微かに聞こえる心音で、驚くほど心は息を上手に繰り返した。もう、進まなくちゃ。
泣き止んだ亜冴は、伏黒の肩を押して熱の残る赤い瞼で見つめた。涙で崩れそうな瞳を見せて、いつものように笑顔を浮かべる。
「五条先生が危ない。封印される前に行かないと」
「ちゃんと動き続けろって伝えたぞ」
「まだ五条先生は信じてないと思う。動揺して止まるかもしれないから。それに、分かっていても止まってしまう時はあるもの」
亜冴の言葉に驚きつつも伏黒はつられて立ち上がった。こっち、という言葉に従い、付いてくる伏黒は、不意に亜冴の手首を捕まえると強く力を込めた。見た先の彼に疑心の色は浮かんでいない。
「怪我してんだろ、俺が行くからお前は待ってろ」
「……擦り傷だから平気だよ」
「左腕、見せてみろ」
亜冴は慈に刺されたとされる左腕の袖を捲りあげ、伏黒に傷を見せた。刃物でできた五ミリほどの深さの怪我の血はもう止まっており、伏黒の方が怪我を負っている。今の亜冴は左腕しか血を流していないのに、心配そうな伏黒に亜冴は笑顔を作った。
「ね、平気でしょ」
「……」
「離してよ」
亜冴の言葉に逆らい、伏黒は手を離さない。
出しっぱなしの渾へ目を逸らして亜冴を真っ直ぐに見つめると、手首の力を更に強めた。渾は悲し気な声で鳴き、耳と尻尾を垂れ下げている。
「……血の匂いがひでぇっつってんだよ」
──なんだ、気付かれてたか。
二人の下へ行く際、亜冴は敵の包囲網を掻い潜ってきた。日々の情報共有の為、低コストであっても呪力は消費され続け、すでに底を尽きかけていた。だからこそ、自身の髪の毛で領域を敷かせたのだ。しかし、移動時に必要な呪力不足により、一級や特級ばかりの呪霊と呪詛師によっては見つかってしまうこともあり、辿り着いた時には既に幾つも怪我を負っていた。亜冴の匂いを覚えた渾の鼻が、それを見逃す筈がない。呪力は底を尽きかけているし、誤魔化せないほどの血を確かに帯びているどころか流している。
伏黒の目には汚れ一つない綺麗な顔で優しく微笑み直した亜冴は、小首を傾げて口を開いた。
「……父様の血だよ」
「ちがう、お前のだ」
苦しげな伏黒の顔は不甲斐なさそうにしており、仲間を気遣うものだけしか感じ取れない。亜冴は一拍息を呑んでから、満身創痍の身体に付いた目を閉じた。
「優しいなぁ。伏黒さんは」
──だから、こわいんだよ。
じくじくと痛むのは左腕だけじゃない。今も立っていられるのは、朦朧とした頭がアドレナリンを分泌してくれているおかげだ。しばらくすれば、本当に動けなくなってしまうだろう。どの部位がどうなっているかなんて分からないほど、走る痛みの多さに疲労感がにじり寄ってくる。脈拍を打つたびに響く身体が震えていないか、もはや確かめようがない。今が一番、死に近いのだと分かる。
「……わかった、待ってるね」
顔を歪ませた伏黒の怒りを手首から感じ取り、亜冴はまだ握られる手に手をそっと重ねた。それでも術式を解かず、亜冴は伏黒の前では軽傷のままで存在する。こんな優しい人に余計な心配をかけさせたくない。
しばらくして離れた伏黒の手を、亜冴は手離した。
「…………伏黒さん」
亜冴は精一杯の勇気で最期に伏黒を呼ぶと、彼はきちんと目を合わせてくれる。本当に優しい人だ。
「ありがとう、ごめんね」
──愛してる。
柔く弧を描いた口元で、亜冴は全てに感謝をした。あなたがいなかったら、私はここまで来れなかった。あなたは私の汽笛だ。
「、足集利ッ」
途端、秋に相応しくない花弁の猛吹雪が伏黒と亜冴との間で巻き起こる。伏黒に向かって飛んでくる花弁に混じり、紙飛行機が視界を覆った。式神諸共巻き込まれた伏黒は、必死に引き止めようと手を伸ばしているが、亜冴は傷だらけの背中を向けて走り出した。強い突風の中で耐え切れず、一度足元に視線を落とした伏黒は、亜冴の手首を捕まえていた手のひらと、足跡を象った血に目を見開いた。黒い制服は濡れそぼって重たく、亜冴が今し方まで立っていたタイルには血溜まりが出来上がっていた。
「……クソッ!」
引き裂かれている小さな背中が痛いほど吹き付ける花弁に塗れていくのを、伏黒は吹雪に逆らって追いかけた。