最弱の怪物   作:肩たたき

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第十二話『罪と罰』-7

 

 伏黒と別れて五条の元へ向かいながら、亜冴は五条悟の信用を得る大きな一歩となったであろう過去を思い出していた。それは、足集利慈を出し抜くこととなった認識の違いである一件の一つ。人の肉を初めて口にした日のことである。

 

「ゲぇっ……! おぇッ」

 

 外道へ一歩を明確に踏み外した亜冴は、最善とされる判断により肉を噛みちぎり飲み下したものを吐く為、洋式の便器に縋りついていた。

 肉と血の混じる便器に治りかけた吐き気が振り返し、また吐いていく。胃液を散々口から流し、それに混じった内容物たちは、どれもこれも真っ赤で、艶やかに艶めいている。痛みと嘔吐から生理現象の涙が流れ、久々の失態に途中からは目を閉じて吐き続けた。トイレで膝を付いたタイツを洗わないと、などとズレたことを考えては、洋式から漂う芳香剤と鉄臭さに口に液が溜まる。ぼたぼたと目からは涙が流れ、口からは唾液混じりの胃液が流れる。いっそのこと、喉が酸で焼けて仕舞えば、達者と嘯かれた声を消すことができるのではないか。二度とこんな目に遭わぬよう、何者かの加護下に入れるかもしれない。駄目だ。そんなことになれば、無能になる。

 

──つかれた。

 

 胃液までもしばらく吐き続けた亜冴は、トイレに駆け込んでから数十分後にやっと膝を立たせた。

 規律正しく動き、赤い中身を水で流してしまう。渦巻いて消えていく汚物が消えるまで眺める。私の一部だった、他人から奪ったものが押し流され、透明になって消えていく。排水管を通り、下水へと流され、濾過システムで汲み取られて汚物と共に処理されるだけだ。

 個室を出た亜冴のやつれた様子に、同行していた女性の補助監督が手洗い場前から心配そうな顔を向けてくる。掛ける声を悩ませている様子に、今の亜冴は気を使う余裕がない。だが、余裕を持って接するようにしなくては、停滞を意味することとなる。そうして将来有望な若者の一人にならなければ、既に頭角を表している伏黒たちに置いていかれるだろう。五条悟は伏黒たちのようになれと“足集利亜冴”に願っている。優秀で優しいモノにならなくちゃ。

 

「すみません、お待たせしました。任務は完了ですよね?」

「……はい。大丈夫ですか?」

「正直、あのようなことをしたのは初めてのことだったので、動揺しています。でもあなたの仕事をこれ以上延ばすのは申し訳ありませんから」

「あの、良かったらこれを」

「……ありがとうございます。汚れてしまいますので、大丈夫です」

 

 差し出されたハンカチを断り、亜冴は手洗い場の蛇口から流れる水で口を濯いでから顔に冷や水をかけた。何度か水を浴びせて息を吐く。排水溝を見下ろすように流しに手を突いて、じっとせせらぎを奏でない水が吸い込まれていくのを眺める。ここで吐けば、詰まってしまうだろう。胃液しかもう残っていないから、そうはならないか。

 顔まわりの濡れた髪の毛から滴が落ち、亜冴はタグを外しているハンカチを取り出して、人に見せられない顔を覆った。

 

──動揺するな。仲間から外される。

 

 焼ける喉に差し出された水を飲み、真顔を浮かべたまま高専へと向かう。

 亜冴は後部座席で車に揺られながら、任務の報告書にはどう記すかを巡らせた。虚言をすれば、自らの首を絞めることになる。しかし真実を語るには、内容が少々重すぎた。

 

 しばらくして車から降ろされた亜冴は、落ち着いていることに戸惑いを見せる補助監督に礼を言って、さっさと校舎へと入ってしまう。上層部は精神攻撃のつもりで今回の呪物の移送任務に抜擢されたのだろうが、担当した一級呪術師数名は手を抜いていた為、ある程度の覚悟はできてしまった。見抜いてしまう自身の目を恨みながら、亜冴は職員室で記入されていない報告書を貰いに行く。

 

 五条や夜蛾の姿はどこにもない。代わりに見つかる生徒たちに、今は顔を見せる気にはならない。今の内に己を消え去れば、誰にも見つからず自由になれるかもしれない。外で生きる術など、皆目見当もつかないし、これしか方法がない。

 駄目ね、また死にたくなってる。

 

「亜冴ー! おっかえりー!」

「……五条先生」

「顔色悪いけど、なんかあった感じ?」

「…………夏バテが長引いてて」

 

 何気なく隠した亜冴に、五条は顔を歪めた。そういえば、肉を喰らってから誰かに見られてる気配がない。慄いて立ち去ったのか。体調不良だと原因を言い切った亜冴を見下ろす五条は、相手の出方を待つというよりも、どうしたらいいのかと悩んでいる様子だ。過去に夏バテと主張した相手が、死んだりしたのだろうか。わたしには関係のない話よね。平気にならなくちゃ。

 

「……復帰と任務お疲れ様と言いたいところだけど、しばらくはまたお休みね」

「何故ですか?」

「任務で何があった?」

 

 物腰柔らかくいようとする男の発言は、聞き出す為に少しばかり粗暴になろうとしていた。確信を持つ質問に、いつもなら素直に頷くだけの思考放棄気味な自分に問いかける。どう答えたら、この男は私の本性を気にしないのか。気にしているからこそ、信用がないのか。

 

「……生き血の方が、繋がりが強まったとお話ししましたよね」

「あぁ、うん。覚えてるよ」

「──ひと齧り」

 

 一言だけ発した亜冴に、全てを察した五条が息を呑む。一歩下がろうとしたのを堪え、固く閉ざした唇は綺麗な線対象でそこにあった。僅かに力んだのを見逃せない亜冴は、深呼吸をしながら顔を横へ背ける。分かっていたことだ、外道になることだけが生存の道である。ここで挫折したら、葬式の人が減る。

 

「全て吐き出しました。……耐えられませんでした」

 

 術式も才能も有しているのに、挫折する者は少なくないどころか、むしろ多い。五条が話した事柄は、呪霊という異形のモノに襲われる恐怖を指していた。私は呪霊など怖くはないし、報われるなら死んでも構わない。だが、外道に堕ちることは何故だか許せなかった。こんな人間を誰が認めるのか。両親ならと考えるが、彼らはもうどこにもいない。承認の望みが一抹でもある伏黒たちを失望させれば、次はないとどうしても考えてしまうのだ。そうだ、私は私の挫折を許せない。

 

「……次こそ、次は、ちゃんとイカれます」

 

 揺れる瞳で睨み上げるように五条を見つめた亜冴は、ジリつく自責の念を決意へと固める。諦めるくらいなら、外道へと堕ちてやろう。この道を辞めた先、私の未来など存在しない。義務教育も外で生きる術も知らない小娘では生きていけなどしない。この暗闇の道しか、私は進めない。

 やっと思案し出した五条は、目隠しの下で瞬きをする。きちんと見つめ合っていれば、五条は眉間を少し緩めて話し出した。きっちりと逡巡されたであろう言葉を、亜冴は変わらず集中して注意深く拾い上げる。

 

「ツラいなら、やめてもいいんだよ」

 

──面倒を見るほどの甲斐性ない癖に。

 

 個人主義で合理的な五条悟に、亜冴は内心で冷たく言い返してしまう。顔には決して出さない。小娘一人を養うほどの金銭も権力も、五条悟には十二分にある。しかし、彼の利点は何一つなく、利益を出すには術式の使用を意味していた。入学前からずっともう何も食べたくなどないのに、術式の使用は食さなければならない。どちらにしろ、生きる為には食べるしかなかった。

 嫌がるのを食べさせて、彼は楽しいのだろうか。

 

「ここでの生活は、離れよりもずっといい……。呪術師の父様と同じ景色が見たい。両親が辱められた屈辱的なお葬式ではなく、長年に渡り軟禁生活を強いられてきた小娘の、呪術界上層部が参列するお葬式を挙げたい」

 

 入学以来、動機は変わっていない。私は父が語った話を追いかけている。道徳と倫理は教科書から証明できたが、青空は未だに目にできていない。いつも自由を欲していた父が家にいたのは、妻子である家族を置いて行けなかった為だという確信を得たいのだ。

 父は家では恐れられていた。その娘である亜冴を閉じ込めるほどの怯えようだ。ああなるほどの事をした男を追いかけるなら、化け物にならなくては怖がられないだろう。呪霊よりも恐ろしいヒトにならなければ。

 手綱を持つ五条の方針により、亜冴は同時に人に好かれるような存在でなくてはならない。どんな道具にでもなるから、ここから追い出さないでくれ。

 

「人助けや仲間も存外気に入っています。同じ世界に生きている、私はここにいるんだと安心するんです。何かを成し遂げた時、人の喜ぶ姿は私が存在したからだと思うと、気分が良くなります」

 

 呪術師としてはあまり好ましくない性分だろう。情操教育を担当した父は死んだ為か、その復讐をした為か、納得するには精神が幼くて不十分だった為か。善悪は曖昧なまま、ここまで来てしまった。善人を好く伏黒に悟られたら嫌われるだろう。

 

「私の代わりがいることは承知しています。私の上位互換がいることも察知しています。私個人が個人として、ここにいたいんです。私情で私は私に期待するし、幾らでも投資します。人の為に生きることはできません。私はまず私の為に生きることを学ばなければなりませんから。だから……だから、何もかも食べるから、足集利家でも父の娘でもなく、“足集利亜冴”である私を信じてください」

 

 こんな貪欲な小娘をどうか認めてはくれないだろうか。怒りではない焔が胸を通して眼で揺蕩って燃えている。五条や周囲は経験則と既視感を、足集利亜冴に見出してきた。誰かの望み通りの受け答えは、誰かの尺度に背を付け、型に収まる行為そのものだ。今度こそ逸脱してみせよう。でなければ、五条悟はいつまでも不安を私に向けてくる。離反、という言葉を薄ら消えさせていく五条に、亜冴は二つほどの人影と一つの不安要素を拾い上げた。それと共に、五条が縛りを設けてまでは信用しないことへ、何らかの権利を与えられていたことに気が付く。同時に、人としての権利を両親らは踏み躙っていたとまで知ってしまう。この世は一体、どこまで惨めな気持ちにさせてくれるんだ。

 

「すぐにとは言いません。明確なことが起きない限り、見守っていただけませんか?」

「……分かった」

「ありがとうございます」

 

 離反するまで、と伏せて会話した二人は、任務の話に移り変わり、その場で解散をした。亜冴は廊下を空白ばかりの報告書を持って歩く。夕方に差し掛かり、遠くで携帯を打つ夕陽に焼かれる伏黒を見た亜冴は、自身の携帯電話を取り出し、届いたメールを読んだ。今晩の夕飯はリクエスト方式らしい。亜冴は打ち出された答えを思案した後、これ以上のものが見つからず、そのまま希望を書き込んだ。

 

『お肉以外をお願いします。』

 

 明確な事は、この数日後に起こった。

 

 

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