──二千二十一年の二月上旬。
足集利亜冴が封印されてから三年も経つ。
高専内にある空き部屋で、封印解除が執り行われた。解除が遅くなったのは、遺言とも言える亜冴の言葉によるものが大きく、後処理と関連して起こった出来事に全員が追われていたからだ。獄門疆の持ち主である偽夏油である
その上、亜冴の人生の指針とも言える、呪術師としての覚悟は葬式を呪術師に囲まれて行うこと。その為に、誰一人欠けることを避ける為、全員が揃えるよう緊急の対応をほぼ全て終わらせたのだった。
四年生になった伏黒たちも、あと数ヶ月で高専を卒業する。学生生活を終えれば、呪術師として本格的に動くこととなり、時間に余裕は無くなるだろう。同級生である三人が参加する葬式を行なうなら、この時期しかない。
数日前、やっと封印解除の準備が整った亜冴の話を聞きつけ、伏黒は呼ばれていなかったのだが、立ち会いたいと五条に申し出た。虎杖たちは任務が入って叶わなかったというより、本来は伏黒の担当だった任務に向かっている。虎杖たちも参加したがっていたが出迎えはお前に任せると言って、伏黒をこの場に立ち会わせてくれたのだ。
伏黒は頬を掻いて、封印専用呪具である獄門疆を持つ五条を見た。期待も絶望もしていない様子だが、いつもの軽薄な空気感はなく、彼なりに気落ちしているのが分かる。わざわざ生徒の遺体を目の前にすることが気に食わないのだろう。顔が手元に落ちることがない。家入を連れて来た五条は、忌々しい箱を持って部屋の中央に立った。
「さて。今から亜冴の封印を解くけど──十中八九、亜冴は死んでいる」
封印の瞬間、亜冴は瀕死の重体であった。獄門疆は封印した対象を綺麗そのままに封じ込める為、腹が減ったり老化の心配はない。しかし、対象の力は徐々に削られていく上、怪我の状態も綺麗そのままに封印される。三年間もあの怪我で保つのは不可能だ。
あの時、すぐさま封印を解除できれば良かったが、準備に手間取っている内に、更なる大きな厄介事が立て続けに起こった。別行動をしていた者たちがそれぞれ襲われ、同時に指を取り込み続けた宿儺が暴れ、五条でさえも長期間の対応に追われた。
封印から一時間、二時間と時間が経過し、誰もが亜冴の封印解除の優先順位を下げていった。無情にも亜冴の遺言に従う形となり、罪悪感から皆が目を背けた。今思えば、五条への遺言はその為の言葉だったのかもしれない。信用できる仲間であり教え子の亡骸を見たくないらしく、五条は獄門疆に一瞥もくれずにいる。
「期待するなよ、恵」
「……分かっています」
家入が呼ばれたのは、万が一にも亜冴が生存していた場合の治療を行なう為だが、どちらかといえば遺体処理の意味合いの方が強い。五条は見もしないで獄門疆の封印を解いていき、最後の手順を踏んだ。
「……腐ってないといいけど」
洒落にならないことを言ってから、五条は足集利亜冴の封印を解いた。分裂しながら巨大化する箱から出てきた亜冴は、ぐったりと赤黒く強付いた布に変色した衣服で、生気を感じさせない様子で倒れようとした。
──あの時、消えた姿のまんまだ。
伏黒は反射的に駆け寄り、亜冴を抱き止めた。薄く細い身体は酷く軽く、伏黒はひゅ、と息を飲んで指一本すら動きのない身体を支える。渇いた血の匂いが鉄臭く、ザンバラの短く白い髪の毛と皮膚にこびり付いている。獄門疆に捕らえられて動かない亜冴を伏黒が護衛していれば、再び現れた羂索による封印の言葉と同時に獄門疆は奪われてしまった。もし、守り切ることが出来たら。
腕の中の身体があの時のように縋り付いて泣きじゃくることはない。悲しみを抑え、呑み込んでしまおうとする悲痛さもなく、軽い身体は四肢を投げ出している。全く動く気配のない亜冴に、伏黒は苦い唾を飲み込んで丁寧に横抱きにしてやると、用意されていたベッドの上に寝かせてやった。掛け布団もない白い寝台に寝かされた亜冴は、固まった血で髪が幾つかの硬い束になって、目元に影を落としている。伏黒はくすぐったそうなそれらを払った。見えやすくなった陶器のように美しい肌には、焦茶色の血が至る所に貼り付き、髪と額の汚れの濃さから、頭部にまで怪我を負っていたことが伺えた。服はボロ切れになりかかって、裂けた箇所は特に乾いた血でごわついているのが見て分かる。左腕から伝ったであろう左手は、右手よりも茶色く汚れていた。
三年前、この手を合わせて音を鳴らした亜冴は、伏黒の妙に現実感のある夢の中に現れた。
「こんばんは、伏黒さん」
「……クソ、また夢かよ」
「夢じゃないよ。ここは私の領域内」
「はぁ?」
「領域展開、逢瀬夢想〜。伏黒さんが招待客第一号だよ」
人を茶化すように小首を傾げた亜冴は、簡単な説明をしていった。
失踪した経緯や実父である足集利慈と共にいること。一連の騒動の首謀者である者に属していることと、諜報員として情報をこうして渡し続けることを独断で亜冴は下した。
伏黒はもちろん反対した。心配の念が勝って、気が気じゃなかった。伏黒にとって敵のど真ん中に置き去りにするようなもので、元々は高専にいたことや慈に術式を深く知られていること、真人の言う魂の形や読心術を持つ慈の目から、少しでも疑われれば亜冴は殺される危険があった。早くそんな場所から取り戻したい一心で、伏黒は亜冴から受け取った情報を五条に伝達したものの、五条は訝しんで苦悩する素振りを見せた。適当な人のそんな姿を見たのは初めてで、伏黒はかなり動揺した上、五条は諜報として動くことを肯定し、伏黒を通して亜冴に引き続き情報を集めることを命じた。亜冴がどちらの味方かの真偽はどうあれ、五条は亜冴の身が危険である可能性も承知の上で動かすことに決めた。
こうして伏黒は二人の間に挟まれ、命を危険に晒し続ける亜冴と夢の中で会うようになった。
「父様は私より心情が見えないけど、彼の前で嘘は簡単に気付かれる。真人というツギハギの人型呪霊も、魂の形とやらで感情の揺れを把握してしまう。今後一切、この場以外で私は嘘を吐けないことを把握しておいて」
提供される情報の前置きとして亜冴は淡々と説明をした。伏黒との接触前夜での発言に、伏黒はその意味をきちんと理解していたつもりだったが、実際に目にした際、自身の甘さを痛感することとなった。
「──私を信用していない相手に、なぜ
宿儺の指が引き寄せた呪霊の除伐任務で、再開した亜冴は主語を伏せて真実のみを口にしていた。
慈は亜冴を信用していない。五条もそうであるが、亜冴の発言は自身の父にも向けられていた。だからこそ、伏黒は亜冴の悲しみを汲んで苦しんだ。今すぐにでも帰ってきてほしいと、本気で説得をした。それが亜冴の思惑通りであったとしても、あの時の亜冴は真実しか話せなかった。いや、話さなかった。
「愛してくれる人と一緒に過ごしたい」
足集利慈を愛し、愛されていると話した亜冴に伏黒は言葉を失った。亜冴は真実を話す。その願いに反する裏切りを、自分たちは亜冴に強いている。共にいたい相手を裏切る理由を、亜冴は夢の中でも語らなかった。そんな亜冴を伏黒は信じることしかできなかったのだ。
亜冴が諜報を買って出たのは、僅かな期間でも父と過ごしたかったからかもしれない。伏黒に話していないだけで、亜冴にはまだ裏と考えがあるのだろう。おそらく全てを知る五条に聞けば、話を聞くことはできる。それを伏黒がしないのは、いつか亜冴の口から語ってほしかったからだ。
──もう叶わないことが証明されてしまった。
自由になれなかった姿があまりにも不憫で、伏黒は頬の汚れが擦ったら落ちやしないかと亜冴の頬に手をやった。頬袋に食事を入れる姿は不快感など見せずにいた。話していた嫌悪感やらは緩和していたのだろうか。間際くらい、ただ美味しいとしか感じないで食べていたらいい。
伏黒は親指を這わせて何度か往復させ、不意にピタリと動きを止めた。
「……………………は?」
次の瞬間、ガッ、と亜冴の両頬を掴み、屈んで顔を近付けて揉み込んでいく。柔らかいし暖かい。まるで直前まで、今も。突然の奇行に愕然とする五条たちを差し置き、伏黒は亜冴の両肩を掴むと胸に片耳をくっ付けた。険しい顔で聞き耳を立てた伏黒は、ある事実に目をこれでもかと見開く。
「ど、どうしたの、恵……」
「…………てる……」
「えっ?」
「この馬鹿! 生きてるッ!」
「はあ?!」
すっ飛んできた家入は、伏黒を押し退けて亜冴の首元に手をやって脈を測った。とく、とく、と一定のリズムを感じ取った家入は、確かに生きている彼女に瞠目した。あの土壇場で瀕死状態の中、反転術式を獲得した奴を家入は一人しか知らない。しかもまさか、他に増えるなんて。そのもう一人である男が、爆発するように部屋中に響く笑い声を響かせた。輝く空色の瞳を歪ませて、五条は頬を蒸気させた顔で腹を抱える。今まで顔ごと逸らして事実を見ないようにし、彼なりに悲しんでいたのが嘘のようだ。
「あははははははははははッ!」
一頻り笑い続け、ひー、ひー、と息切れを起こした五条は、目尻の涙を拭いながらまた大きな口を開けて叫んだ。
「亜冴! ほんっとうに僕に並ぶ天才だな!」
数年ぶりに楽しんだ五条は、すやすやと眠りこける亜冴を手放しで大絶賛した。