雨が降っていた。
4月中旬。季節は春である。
入園式に卒園式、入学式、卒業式、入社式。退社式は場合によりけり。始まりと終わりの混じりあうこの時期は、活気を残しつつもどこか寂しさを感じさせる。
あんなに綺麗に咲いていた桜が、今年はあっという間に散ってしまったのもそう感じさせる原因かもしれない。
雨は、多くの人から春の残り香を流し落とすようにざあざあと降り続けている。
「雨、やまないな」
制服姿の少女は、学校からの帰り道にいきなり降りだした雨にぼそりとつぶやく。
彼女がいるのはとある店先のキャノピーの下である。しなびれたこの店のシャッターはもう開けられることはないだろう。
雨宿りしていると、びしょ濡れになりながら走っていく人がちらほらといる。
少女はそうしないのかと言うと、しないのである。
今日は急いで帰らないといけない理由はない。実家が経営している花屋も手伝いはいらないと母から伝えられていた。
だからちんたら帰っても問題ない。
ポケットからスマホを取り出し、慣れた手つきでロックを解除しLOINEを起動させる。
『ちょっと寄り道して帰る』
簡素な文面を母宛てに送る。既読が付いてすぐに『了解』のスタンプが押された。
スマホをしまい、どんよりとした曇り空を眺める。灰色雲が隙間なく詰まり、互いに押し合いをしているようだ。
ふと手持ちぶさたな彼女は隣に視線を向けた。
スーツ姿の男性が1人、彼女と同じように雨宿りをしている。彼は彼女より少しあとにキャノピーの下へ小走りで来ていたのだった。
彼はスマホで誰かに連絡しているようで、タップする指が忙しなく動いている。
勘の鋭い人ならあの指の動きでどのような内容を打っているのかわかるのだろうか。いや、そんなことできるのは2次元のキャラクターくらいか。
そう考えていたとき、彼の指がピタリと止まり、目と目が合う。
「何か?」
しまった、彼女がそう思った瞬間には声をかけられていた。
「あ、いや、少し気になってしまって」
返事を絞り出したが、しどろもどろになってしまった。
お世辞にも彼女は愛想がいいほうではない。良く言えばクールとも表現できるが。
愛用の音楽プレーヤーでもあれば有耶無耶にできるものの、生憎の充電切れである。
「そうですか。傘はないんです?」
「あ、はい。傘は家に忘れてきて。ここで雨宿りして弱まってきたら走っていこうかと思って」
走っていくつもり、なんて言ったものの雨の勢いは収まることを知らない。むしろ強くなった気がするほどだ。
いっそ全身ずぶ濡れ覚悟で降る雨の中に飛び出していこうかと思っていると、彼は鞄から折り畳み傘を取り、差し出してきた。
「これ、使ってください」
「え、でも」
「いいんですよ。持ってるのがバレたら面倒なので」
「面倒?」
彼女が首を傾げていると彼は頷く。
「同僚に傘がなくて雨宿りしてますってLOINEしてしまったので傘があるとバレると厄介なんですよ」
「それってサボ……」
「おっと、そこから先は言わない約束です。さ、どうぞ」
改めて差し出された傘を押し付けるように渡してくると、彼はシャッターによりかかりスマホに視線を落とした。
「あ、ありがとうございます。えっと、じゃあお借りします」
「ええ、どうぞ」
雨が降りしきる中、彼女は折り畳みの傘を開いて、会釈をしてからキャノピーの下から出た。
あんなに降っていた雨もからりとあがり、今は夜空に星がちりばめられている。
「へー、そんなことあったの。なんかロマンチックね。ここから始まる恋、みたいな!」
学校からの帰り道での一幕を話すと、台所で洗い物をする母は興奮した様子で、まるで恋に恋する少女のようである。
「そうかな」
リビングテーブルに頬杖を付きスマホをいじりながらそっけなく答えた。
「そうよ。お母さんもそういうの一度くらいは体験したいわね。凛もそう思わない?」
「うーん……」
彼女──渋谷凛はいまいち理解しにくそうな顔で唸る。
凛自身はただ借りたと思っているので、もしまた会うことがあれば返したい。
傘は今、玄関の靴棚の上に置いてある。
「おーい、風呂出たぞ。凛も入ってきなさい」
「うん」
凛がリビングを出て、自室のある2階へと上がっていった。
「何の話をしてたんだ?」
「ロマンチックな話よ」
「ロマンチックぅ? ……ま、まさか、凛に春が!? ゆ、許さんず!」
「落ち着いて、そういうのじゃないわ。ただ、素敵ねってことよ」
「何騒いでるの?」
寝間着一式を持った凛がリビングに降りてくると、今度は父が何やら興奮ぎみだった。
「ううん、なんでもないの。さ、お風呂入ってきて。お母さんも入りたいから。あ、一緒に入る?」
「いや、1人で入れるよ」
「昔は『お母さんと入る!』って駄々こねて聞かなかったのに」
凛の幼少期を思い出している母をよそにお風呂場へと向かった。
* * *
夜の帳は開かれ、日はまた昇った。
昨日に続き今日も平日であるため、凛は学校に登校している。窓際の列の一番後ろが彼女の席だ。
午前の授業は終わり、今はお昼休み。
すでに弁当は食べ終わり、なんとなく外を眺めながら充電満タンのプレーヤーで音楽を聞いていた。ときどき吹く風が気持ちいい。
「あの、渋谷さん!」
名前を呼ばれたのでそちらに顔を向けるとクラスメイトが2人机の横に立っていた。
「えっと、何かな」
「あ、うん、今何聞いてるのかなって」
クラスメイトたちは互いに目をやり、凛の返事を待っている。
「今? あのバンドのアルバムだよ」
「やっぱり!!!! ほら!!!!」
クラスメイトの1人のあまりの大声に教室内が一瞬静まり返った。まるで雷でも落ちたかのよう。
音に置き去りにされたような静寂は、全員の視線が発生源に集まり、その数秒後には何事もなかったかのように消されていた。
「あ……しょの……」
彼女は茹でダコのように真っ赤になっていく。もう1人のほうはそんな彼女を見て、フフフと笑みを浮かべていた。ちょっと性格が悪いのかもしれない。
「えっと、大丈夫。ちょっと驚いたけど、それだけ。気にしないで」
ぶっちゃけかなり驚いたけど、ここは黙っておく。
「渋谷さん……!」
そのまま前の席の椅子をずらして腰掛けると、なぜいきなり話しかけたのか訳を話し始めた。もう1人もそこら辺の椅子を引っ張ってきた。
「この前、そのプレーヤーを操作していたときに曲名がチラっと見えてね。それでもしかしたらって思って。何度か話しかけようとしたんだけど」
凛には彼女の言うことに思い当たることがあった。
お世辞にも凛は愛想があまり良いほうではない。そのため、まわりから誤解されやすく、友達もあまりいないのが現実である。
この高校に入学して3週間になろうとしているが、いまだ友達と呼べる人はいなかった。
体験入部もせず、なんやかんやで帰宅部で落ち着いた。
もちろん、本人も自覚はしている。が、肝心の対策がさっぱりできてない。できる気もしない。たぶんない。
「ごめん。私、あんまり愛想良くないから」
「あ、責めてる訳じゃなくて! 私が話しかけるのに勇気が必要だったってことだから! ね!」
机に両手を付き、グイグイ顔を近づけてくる彼女に凛は引きぎみになる。
「う、うん、わかったから」
「あ、ごめん。それでね渋谷さん」
「凛」
「へ?」
「渋谷さんじゃ呼びにくそうだし、凛でいいよ」
2人は顔を見合わせて、頷きあう。
「これからよろしく凛ちゃん! 私、真理」
「私は波、よろしく凛」
「うん、よろしく2人とも」
「ところで凛ちゃんはどの曲が好き? 私はこれかな!」
「私はこれ。斬新な表現が気に入ってる」
2人に促され、凛もアルバム収録曲の中で一番好きな曲名を伝えたのだった。
授業も終わり、正面玄関口はごった返していた。凛みたいに帰宅する者、部活にいく者、たむろしておしゃべりに花を咲かせる者など様々だ。
凛は内履きを下駄箱に入れ、ローファーを抜く。足を差し込み、床をつま先でトントンと数回軽く叩いて調整する。
玄関を出ようとしたところで背後から呼び掛けられる。
「凛ちゃん、一緒に帰ろ」
振り返ると真理と波の2人がローファーに履き替えようとしていた。
「うん。いいよ」
快諾して凛は2人と学校を出た。
校門を抜け、帰宅部の一員として歩道を進む。
帰り道の話題はコロコロ変わった。今日の授業のこと、どのテレビドラマを見ているか、おすすめのアーティストは誰か、中学はどうだったか、部活は、趣味は何か、などなど。
多くのそれが出てきては消えるを繰り返す中で、彼女はポンと思い出したようにもう1人に聞く。
「あ、そういえば結果どうだった?」
「落選だった」
「そっかぁ。残念ながら私も落選」
どうやら2人は何かに応募していたようだと凛は知った。懸賞か、それともイベントだろうか。あるいはアーティストのライブの可能性もある。
凛がきょとんとしていると察したように事情を話し出す。
「私たちね、アイドルオーディションに応募してたんだ」
「アイドル?」
「うん、346プロの! 最近アイドル部門ができたっていうから。やっぱり憧れるよね! 衣装を着てステージ立ってみたい!」
真理はキラキラと目を輝かせている。
「私は有名人に会えるかもしれないと思って応募した」
「もー、ブレないんだから」
「書類にもそう書いた」
それはさすがに落選になってしまうのでは、と凛は心の中でだけぼそりとつぶやく。
真理も凛と同じだったようで、ホントに書いたの!?、と隠すことなく驚いていた。
「凛ちゃんは? アイドルとか案外いけるんじゃない?」
「うーん、私はアイドルっていう柄じゃないと思うけど」
「いや、凛はアイドルいけるかも」
むむむと唸りながら凛のつま先から頭のてっぺんまで念入りに見ていた。
「確かに」
2人は互いに便乗する形で盛り上がる。
「凛ちゃんって脚はすらっとしてるし、黒髪はさらさら、顔も整ってる」
「恥ずかしいよ2人とも」
さすがに2人から凝視されると恥ずかしかった。頬が少し熱くなってきたのを感じる。
「あ、ごめんね」
「ふっ、照れ顔、いただきました」
なぜドヤ顔と思っていると、いつの間にかスマホを横に構えていた。どうやら写真を撮られていたらしい。
「え、どれどれ私にも見せて。おお、これはいい! すごくいい! LOINEで送って!」
「ふふん」
撮った波は鼻高々だし、真理は興奮している。
消してほしいと思いつつも、それはそれとしてこんなやり取りは楽しいと凛は思う。
「送ったよ。凛もいる? あ、LOINE交換してないか。する?」
「うん。お願い」
「あ、私も凛ちゃんとします!」
今日、凛のLOINEには新たに2つの連絡先が追加された。
* * *
あの雨宿りの日から数日が経過していた。あれから特別な出来事は起きていない。
飼い犬のハナコの散歩がてら近所の広い公園に立ち寄る。自宅を出て、大通り沿いを進み、公園に寄って、また大通りを戻るのがいつもの散歩コースだ。
ベンチに座った凛の髪をもてあそぶように風が吹く。木々も噂話をしているかのようにわさわさと葉っぱたちが鳴り、揺れ動いている。
通知音が新着メッセージが送られたことを知らせてくる。どうやら、あのあと新しく作った真理と波とのトークグループのようだ。
『あのバンドの新シングル聴いた?』
真理から新作CDの画像付きでトークが届いていた。
『まだ』
波が続く。
『私もまだだよ』
凛も返信する。
『すっごく良かったよ!! 明日CD持ってくから聴いてみて!!』
『CDプレーヤーない』
『あ、そうだった。じゃあプレーヤーにいれてくね! 明日みんなで聴こ!』
『り。』
波の簡素過ぎる返信に続く形で文字を打ち込もうとすると、足元で丸まっていたハナコがむくりと起き上がり、キョロキョロ辺りを見渡すと一気に駆け出した。
あまりに突然のことで手に持っていたリードがすり抜けてしまう。
「あ、ハナコ!」
日曜日の午前中だからかそれなりに人はいるが、それをものともせずにするするとかわしながらハナコはリードを引きずりながら颯爽と走っていく。
返信を打つ指を止め、スマホを持ったまま追いかける。ハナコは小型犬とはいえやはり犬だ。それなりに早い。
捕まえようとすると、あっちこっちと方向転換を繰り返す。
走りに走ってようやく満足したのかハナコはスピードを落とすとスンと止まった。
凛もなんとか追いついた。肩で大きく息をしながらも状況を確認する。
「お、おっとっと。この犬、どこから……」
1人の男性の足元をきゃんきゃんと鳴きながらくるくるまわるハナコ。なるほど彼が自分と遊んでくれそうな人だと思っているらしい。
「すみません。うちの犬が……あ」
つぶらな瞳で彼を見つめるハナコを抱き上げると、その彼が見知った人だと気付く。
「あれ、君は」
それは、あのとき傘を貸してくれた人だった。
満足げなハナコを軽く撫でるとくぅんと鳴いた。今回はしっかり抱きかかえているから、これで逃げられることはないだろう。
「それは君の犬?」
「はい。ハナコって名前です。すいません、驚かせてしまって」
「いやいや、別に怒ってませんよ」
凛は彼を連れて自宅兼花屋に向かっていた。
あのまま公園にいるとまたハナコが走りだしてしまうと思い、もう帰宅することにした。ついでにあのときの折り畳み傘を返そうとも。
「家はさっきの公園から近いんですか?」
「はい。もう少しいったところにある花屋なんです。小さいんですけどね」
会話のキャッチボールを続けていてふと気になった。
彼は雨宿りの日と同じくスーツを着用していた。日曜日なのに休日出勤だろうか。それとも無職? 面と向かっては聞きにくいので心にしまっておく。
片側二車線もある大通りを右折した通りに渋谷花店はある。大通りに出られることもあってお店の前の道は比較的交通量が多い。
店のすぐ前まで来ると凛の母が花の手入れをしていた。
ハナコが体をくねらせ降りたがっていたのでそっと地面に降ろすと迷いなく真っ直ぐに母の元へと駆けていった。
ただいまと言うようにきゃんと1度吠える。気付いた凛母が撫でるとハナコは気持ちよさそうに目を細める。やがて視線が2人を捉える。
「凛おかえり。そちらの方は?」
「ほら前に傘貸してくれた人。傘返そうと思って」
「あら。そちらの方が。娘がお世話になりました。お礼もかねてお茶でもいかがてすか?」
「いえ、お気遣い無く。このあと事務所に戻らないといけないので」
「そうでしたか。凛、冷蔵庫にペットボトルのお茶があったはずだから持ってきて」
「うん」
店の裏手にある玄関でハナコの足の汚れを落とし、自宅にあがる。
ケージに入れるとハナコは名残惜しそうだったが、やがて寝床のクッションで丸くなった。
台所の冷蔵庫からペットボトルを1本手に取り、サンダルを履いて店先に戻る。もちろん傘も忘れていない。
母の姿はなく、変わりに店の奥から話し声が聞こえてる。電話への応対中のようだ。
「傘、ありがとうございました。これもどうぞ」
水気はきっちり払ってある傘とお茶を手渡す。
「頂きます」
彼は鞄に受け取ったそれらをしまい、凛をじっと見る。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
改まって聞かれたので答える。さきほどまでの柔らかい雰囲気とは打って変わって堅苦しさがある。
「渋谷凛です」
凛の名前を聞くと彼はうつむく。思考を巡らせている様子で──体感で1分くらい経っただろうか、彼はようやく顔をあげる。
彼は決意を示すように凛の目を正面からしっかり見つめていた。それは捉えて離さない。まるで逃げられないよう、逃がさないよう紐を掛けるように。
ワンクッション挟むように咳払いをしてから彼は口を開いた。
「突然ですが、渋谷凛さん。アイドルに興味はありませんか?」
そういって差し出された名刺には『346プロダクション プロデューサー』と書かれていた。
* * *
今日の夜空には雲がかかり星や月が姿を表すことは期待できないだろう。
凛はベッドに横たわりながら貰った名刺を読む。何度読んでも内容は変わらないが、それでもまた読むのだ。
『346プロダクション プロデューサー 天津』
この名刺にある346プロダクションといえば数日前に1真理と波がオーディションに落選したと話していたところだ。
「アイドル、かあ」
名刺を渡されたとき、突然のことで戸惑ってしまい、凛は曖昧な返事をしてしまった。
天津なるプロデューサーは返事を待っていると言い残して──お茶をありがとうとも言い──帰っていった。
(どっちにしろ、やっぱりちゃんと返事はしたほうがいいよね)
このまま有耶無耶にはできる。けれど、それはしたくなかった。メールアドレスも載っているから、最悪の場合は顔を会わせずに返事もできる。
凛は体を起こして勉強机に向かう。
教科書やノート、筆記用具を片付けてノートパソコンを広げる。検索エンジンから某動画サイトに飛ぶ。
あとは適当に『アイドル ライブ』と検索する。1秒もしないうちにずらりと関連する動画が表示された。
ひとまず一番上に出てきた動画をクリックして再生する。
『765プロライブツアー in 東京! 特別映像!』
そのまま動画を見続ける。
間奏に入ると、きらびやかな照明に照らされるステージ上で衣装に身を包んだアイドル達がキレのあるダンスを披露している。
間奏が終わり再び歌唱パートになる。
観客たちはサイリウムを合わせ、合いの手を入れる。アクセルを全力で踏んでいるようにボルテージがどんどんあがっていく。それは留まることを知らない。
凛は息を飲む。
そこにあったのは紛れもなく自分の知らない世界だった。
今日まで関わることのなかった新たな世界は、凛を引き付けて離さない。心を鷲掴みにされたような鼓動の速さを自分でも感じている。
正直、アイドルなんて、と下に見ていた。なんとなく歌って、なんとなく踊っている、と。
(こんなに胸が高鳴ることって今まであったっけ?)
凛は自分の胸を押さえる。この高鳴りの名前を彼女はまだ知らない。
やがて4分弱の動画は終わり、リピート再生のボタンが表示された。
凛はもう一度再生ボタンをクリックした。
ぼうっと窓の外に視線を投げる。
グラウンドでは体育の授業中の女子生徒たちがキャッチボールをしている。和気あいあいとボールを投げ合っている。男子たちはいないので体育館だろう。
視線を戻すと国語の教師が古典のなんかがどうたらこうたら説明している。
チョークと黒板の当たる音だけが教室内に響く。
ノートを取る手は進みが悪い。別にお昼休憩後の授業だからとか、古典がつまらないとかではない。今日1日そうなのだ。
理由ははっきりしている。昨日のスカウトの件である。
昨日まで乗り気でやれるような気がしていたが、一晩経つとなんとなく踏み切れない状態になっていた。冷や水をぶっかけられたみたいな感じだ。
だらだらと時間だけが進み、6限終了のチャイムがやかましく鳴る。
教科書とノート、筆記用具を片付けている凛を横目に1号が2号に小声で話しかける。
「ね、今日の凛ちゃん、変だよね?」
「うん。なんか心ここにあらずって感じ。凛に何かをあったのは確実だと思う」
「やっぱり。私もそう思ってた。今日の帰り、寄り道してく?」
「うん。根掘り葉掘り聞いてみよう」
「オブラートは忘れないでね?」
そんな会話が行われているとは露知らず、凛は帰宅の準備をしていた。
「凛ちゃん、私たち帰り寄り道していくんだけど、一緒にいかない?」
「え、あー、うん。行こうかな」
「よっし! じゃあ行こ……ってもういない!」
すでにささっと玄関口に向かっていた波を追うように真理と凛は教室を後にした。
凛の通う高校からの帰り道にあるハンバーガーチェーン『ワクドナルド』のボックス席に凛と2人はいた。
凛はフライドポテトとチーズバーガー、真理はてりやきセット、波はお花見ビッグバーガーセットをそれぞれ注文した。
注文品の調理が終わるり呼び出されるまでは新発売のシングルを3人で聴き、ここのフレーズが好き、この演奏スゴい、今回も良い曲!などと盛り上がっていた。
「さて、突然ですが、第1回お悩み相談室を開催します」
「わー、ぱちぱち!」
凛がトレーを持って席につくなり、波が抑揚なく宣言する。真理が軽く拍手をする。
「さあ、どうぞ」
状況に置いてきぼりのされ、ぽかんとしている凛に波が促す。
「私?」
2人が頷く。
「凛、今日は様子が変だった。表に出してないつもりだろうけど、バレバレだよ」
「凛ちゃん、結構わかりやすいから。朝会ったときには何かあったんだなってわかったよ」
一応、ポーカーフェイスに徹していたつもりの凛だが、効果はなかったらしい。それにしても、そこまでわかりやすいのだろうか。
「そんなに?」
「「そんなに」」
2人の声が重なる。覆せない事実のようである。
凛は昨日あった出来事をかいつまんで2人に話した。
「ふむ、つまり346プロのアイドルにスカウトされたと」
「えー! すごい凛ちゃん! あ、写真! 一緒に写真撮ろ! サイn……」
「どうどう」
波は暴走しつつある真理の口に炭酸ジュースのストローをくわえさせる。紙カップの中身が空になっていく。
「落ち着いた?」
「うん」
「それで、凛は何を悩んでいるの?」
「それは……」
悩んでいる。悩んでいるのだろうか。
凛の心に靄がかかっているのは確かだが、それはなぜだろう。昨日はあの動画を見てやろうかなと思えていたのに。
「なん……だろうね。私にもわからないや」
「ふむ」
ストローをくわえたまま真理は不安そうに成り行きを見守っている。
店内は同年代の少年少女たちで混雑しはじめる。ガヤガヤと話し声が混ざりあう。きっと彼女たちを誰も気にとめないだろう。
「凛は、たぶんもう答えがでてるんじゃないかな。やるかやらないかじゃなくて、1歩踏み出せない自分に戸惑ってる」
「自分に?」
「私にはそう見える」
自分に戸惑っていると波は言う。
ああ、そうかもしれない。と凛は感じた。
昨日の胸の高鳴りは嘘ではないし誤魔化す気もない。ただ、やりたいけれどやれない。尻込みしてしまう。そんな自分に気付いたのかもしれない。
思えば何かをやりたいと感じたこと自体初めてだ。
中学も帰宅部だったし、習い事も特にしていない。部活の助っ人を頼まれることはあったが、だからといってそのまま入部もしなかった。
実家の花屋の手伝いをするけど、後を継ぐとか考えたことがない。
成り行きという言葉が一番しっくりくる。
「スカウトを受けるかどうかは凛が決めることだから、私は何も言わないし口出しもしない。でも、もしやるなら応援するよ」
「私も! 凛ちゃんのファン1号になる!」
真理が目をキラキラ輝かせながら身を乗り出してきた。鼻息荒く、水牛のごとくである。
「陽キャオーラまぶしいから引っ込めて」
「あ、ごめん。んん、私も凛ちゃんのこと応援するからね!」
「うん、ありがとう。2人と友達になれて良かったよ」
「凛ちゃん……!」
引っ込んでいたはずの真理の陽キャオーラが2倍増しで放出される。
まぶしくて目を細める凛に波は慣れたように言う。
「こんなの序の口。ひどいとサングラスがないと直視できない」
「そ、そうなんだ」
そもそも陽キャオーラってなんだろうと考えつつ、凛はフライドポテトを1本口に運ぶ。
その味はしょっぱくて少しパサついていて、だけどとても美味しく感じられた。
* * *
真理たちが開催した第1回お悩み相談室の翌日の放課後、凛はゴーグルマップを頼りに346プロダクションを訪ねていた。
写真だと大きい事務所なんだなと思っていたが、実際に訪ねてみると想像の何倍も大きかった。
本館におそるおそる足を踏み入れると、まず豪華なシャンデリアが目に入った。髭のおじさんの肖像画に高そうな絵画が壁を飾り立てている。
正直、場違いな気がしてならない。サラリーマンらしき人がすれ違い様にちらっと視線を向けてくる。
昨晩のうちにアポイントメントは取ってあるから、ひとまず受付に行く。
綺麗な女性が2人、カウンターの向こうでなにやら作業をしているが何をしているかはさっぱり想像がつかない。
「えっと、こんにちは。私、渋谷凛といいます。アイドル部門の天津さんに会いに来ました。」
「渋谷凛様ですね。少々お待ちください。はい、確認が取れました。お手数ですが、こちらのゲストカードを首にお掛けいただき、あちらの階段左にあるセキュリティゲートをお通りください。エレベーターホールがありますので、30階までお上がりください」
「はい。ありがとうございます」
指示通りにセキュリティゲートを抜け、エレベーターで30階を目指す。
籠が停止し、重苦しい扉が開く。
フロアは静寂で満たされている。埃1つ、ゴミ1つ落ちていないものの、どことなく殺風景さを感じさせる。
フロアガイドを確認する。
トイレや更衣室を除き、1部屋だけ名前のあるルームがあった。
エレベーターを出て右手に進んだ突き当たりにその『アイドル部門プロジェクトルーム』はあった。
立ち止まり、身だしなみを整え、深呼吸をする。
3回ノックをし、ドアノブを手にかける。ゆっくりまわして控えめに入室する。
「あっ! 渋谷凛さんですね。私は千川ちひろです。プロデューサーさんのアシスタントをしています。ささ、こちらへどうぞ」
蛍光グリーンがまぶしい三つ編みの女性──ちひろはソファへと凛を誘導する。促されるまま座るとジュースとお菓子がローテーブルに並べられる。
「今、プロデューサーさんを呼んできますね。あ、お菓子は自由に食べてくださいね」
ちひろが小走りで退室してから1分も経たないうちにプロデューサーである天津を連れて戻ってきた。
凛はドア越しの話し声でお菓子に伸ばしていて腕をさっと引っ込める。
「こんにちは」
「あ、どうも」
凛は軽く会釈をすると、彼も小さく返してきた。そのままテーブルを挟んで向かい側のソファに座る。
「今日はスカウトの件で話がある、そうですね」
ちひろが息を呑むと、ただならない緊迫感が表に出てきたように感じられた。
「はい。私──スカウト、受けます」
ほっとして安堵の色を浮かべるちひろ。彼の表情からも堅さが抜けたようだ。
「ありがとう。受けてくれて」
「はぁぁぁぁぁ~、すっごいドキドキしました!」
「ちひろさん、緊張しすぎですよ」
「そんなこと言われたって、緊張するんです! プロデューサーさんだってドキドキだったくせに!」
「そんなことないでーす。最初からわかってましたー」
「終わってからならなんとでも言えるじゃないですかっ!」
ちひろは「プロデューサーさんだって!」と抗議しておるものの、彼は「あははー」と笑って流していた。
「さて、この話はご両親に伝えてありますか?」
「はい。驚いていたけど、私がやりたいならと」
「それは重畳。積もる話は後程。凛さんの担当ですが、もちろん私です。これからよろしくお願いします」
プロデューサーが頭を下げる。
「えっと、こちらこそよろしくお願いします。あの、敬語は使わなくて大丈夫です」
「んん、ごほん。そうか? じゃあ凛も敬語使わなくていいよ」
「わかった。これからよろしくね、私のプロデューサー。ちひろさんも」
凛はさきほど食べようとしていたチョコ菓子を改めてつまみ、口に入れた。
そして、そのままプロデューサーとちひろも菓子を手に取り、おやつタイムが始まったのだった。