* 【1】 *
いよいよ夏本番となりつつある。街行く人々はみな一様に暑そうで、ハンカチでしきりに汗を拭ったり、水分補給をしたり、小型の手持ち式扇風機で涼を取ったりしている。
太陽が天辺に昇り気温がもっとも高くなるピークは午後からだというのに、すでに午前中から茹だるような暑さに包まれている。
ここ数日、雨が降っていないからか、湿度が高くてまとわりつくような空気も、アスファルトでがっちり舗装された地面も、高層ビルから電柱まで多くの建築物も溜め込んだ熱を発しているように感じられて仕方ない。
もうすぐそこに彼女の所属する事務所が見えていて、そこに行けば冷房の効いた快適空間が待っている。この信号さえ青になれば。
周辺のビルと比毛を取らないオフィスビルが目立つ建物郡こそが346プロダクションという芸能事務所だ。
「ふぅ、東京の夏、とても暑いです」
同じく信号待ちをする大勢に混ざって、アーニャは思わずつぶやいてしまう。暑いと声にするだけでもっと暑くなる気がするが、思わず出てしまうのだ。
──ドゥーシュナ、こんなに蒸し暑いなんて。汗、止まりません。
被っている帽子を少しずらして、おでこの汗をハンカチで拭き取る。こうして信号待ちをするだけで汗でしっとりしてしまう。
歩行者信号がようやく青になり、横断歩道を渡る。門を抜けて敷地内へ迷わず進んでいく。
本館に入った瞬間、今までの暑さが嘘のように消え去り、涼しい空気が満たされていることを肌で感じる。アーニャにとっては暑さよりは寒さのほうがまだ耐性がある。
アーニャというのは愛称で、名をアナスタシアという。ロシア人の父と日本人の母を持つハーフで、北海道生まれである。
IDカードを読み込ませセキュリティゲートを通過し、エレベーターで30階へ向かう。到着したらプロジェクトルームへ。
自分も含めてアイドルたちやちひろ、プロデューサー、トレーナーたちもだいたいそこにいる。彼らのデスクもあるが、半分談話室になりつつある。
プロデューサーいわく私物が増えつつあるらしい。
「ドーブラエウートラ……おはようございます」
ルームのドアを開けると、ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。
──これは、お菓子?
おいしそうな香りの発生源はすぐに見つかった。
「あ、おはようアーニャちゃん」
「お、おはようございます」
プロデューサーのデスクで紙箱から小分けにされた袋を取り出している三村かな子と緒方智絵里の2人だ。ほぼ間違いなくその手にしている袋こそ原因だろう。
「それはなんですか?」
「これ? これはクッキーだよ。私が焼いてきたんだぁ。アーニャちゃんもどうぞ」
「あー、いただきます」
アーニャはかな子から差し出された小袋を両手で受け取る。ラッピングを解いてみるとバタークッキーやチョコチップが合わせて5枚ある。
とりあえずバタークッキーを1枚つまんで口に運ぶ。咀嚼する事にサクサクとした歯触りのいい食感と加減のよい甘さが口いっぱいに広がる。
「ん~、サクサクして、おいしいです。カナコは、お菓子作り、上手ですね」
「えへへ、ありがとう。今日はバタークッキーの作り方を少し変えてみたんだ。智絵里ちゃんはどう?」
「う、うん、おいしいよ。チョコチップクッキー、甘さ控えめでいい感じです」
「チョコチップクッキーはね──」
かな子はチョコチップクッキーについて雄弁に語りだした。なんでも生地の甘くし過ぎないことでチョコチップが引き立つのだとか。
かな子も智絵里も、アーニャがアイドルになってから少し後にこの事務所に所属した。2人とも新人募集のオーディションに参加・合格していて、他に李衣菜、蘭子、みりあ、そしてきらりの6人が新たな仲間として加わった。
きらりは1階のカフェを初めて利用した時に手助けしてくれた人で、まさかアイドルとして再会するとは思ってもみなかった。
「あ、もっとあるよ! 食べる?」
「ニェート……いえ、今ある分で、充分です」
「わ、私も今はこれで足りてます。このあとレッスンもありますから」
「あっ、そっか。レッスンまでまだ時間があるとはいえ食べ過ぎるのはダメだよね」
かな子はクッキーを崩さないようにそっと箱の蓋を閉じる。
「それにしても、クッキーたくさん作ったんですね」
「プロデューサーさんや他のみんなにも食べてもらおうって思って。それに作るのってすごく楽しいの!」
お菓子を食べているときも、作っているときも、きっと今のように楽しそうにしているんだろうなぁとアーニャは簡単に想像できた。
「ふふ、カナコ、とても楽しそうです。見てるだけで、幸せになりますね」
「う、うん! かな子ちゃんの笑顔、私は好きです」
「えへへ、ありがとう、智絵里ちゃん、アーニャちゃん。私も2人の笑顔好きだよ」
アーニャは笑顔を好きだと言われたのはこれで2度目だが、それでも嬉しい。
「スパシーバ……ありがとうございます」
予定されていたダンスレッスンをアーニャたちは終え、午後からはボーカルレッスンが入っている。
今日のお昼休憩はカフェ『リコリス』で、智絵里、かな子と一緒だ。きらりに教わってから自分でも何度か利用したことで、注文方法もようやく慣れてきた。
「ここのサンドイッチは、野菜が新鮮で、とてもおいしいです。それに、健康的ですね」
アーニャはベジタブルサンドとアイスコーヒー、智絵里はたまごトースト、かな子はハムサンドとココアを注文した。
「う~ん、レッスンの後はよりおいしく感じるね」
かな子が大きめの1口を頬張って言う。彼女が食べているものは、お菓子に限らず、なんでもおいしそうに見えてしまうのが不思議でならない。
「そういえば、アーニャちゃんはオーディション組じゃなかったよね」
「ダー、はい。プロデューサーにスカウト、されました」
「そうなんだ。スカウトされるのってどんな感じなのかな? イメージがいまいち湧かなくて」
「あ、それは私も気になります」
──どんな、感じ……? うーん。
「言葉にするの、少し、難しいです。んー、当時のこと、少し話しても?」
「うん、いいよ。あ、何か食べたいのあったら言ってね。買ってくるから」
かな子も智絵里も聞く体勢になる。
「私がプロデューサーと出会ったのは……」
アーニャは記憶を辿りながらぽつりぽつりと話し出す。
* 【2】 *
本格的な夏という季節を肌で感じるようになる中、生ぬるい湿った風を浴びながらアーニャは学校から帰宅した。自宅マンションのドアを解錠して開ける。
「ただいま帰りました」
帰宅の挨拶をしてもなんの反応もなく、廊下に吸い込まれて消え、やがて霧散する。人の気配は感じられない。
靴を脱いで揃える。玄関にアーニャ以外の靴はない。廊下を抜けて、閉めっぱなしだったカーテンを全開にすると薄暗い室内が外の光でぱあっと明るくなる。ベランダ越しには東京の街並みが地平線まで拡がっている。
自室で制服を脱ぎ、皺にならないように丁寧に延ばしながらハンガーにかけた。普段着を掴み、着替え終わってから勉強机につく。鞄から筆記用具や教科書ノート、もらったプリントなどを引っ張り出す。
──今日の宿題、終わらせてしまいましょう。確か、数学と社会、です。
ノートを開き、すらすらとシャーペンを走らせる。
時間にして30分ほどで、だいたいの宿題を終わらせることができた。
さて、次はどうしよう。夕食の支度をするには早すぎる時間帯だし、かといってだらけるのも……。
椅子の背もたれに寄り掛かって適当に壁を眺める。この時間こそ一番の無駄かもしれないとぼんやり思っていると、ふとカレンダーが目についた。
7月ももう半分が過ぎた。
ちょうど去年の今頃はパパとママと天体観測に行って星を観ていた。寒い中、3人で温かいお茶を飲みながら、あれがカシオペア座だ、あれがおおぐま座だ、とわいわい楽しんだ想い出がある。
今年も行きたいと思ってはいる。行けたらいいのだけれど。
──でも、今年は難しいかもしれませんね。
いつもなら即断即決で部屋を飛び出て、リビングで録画したドラマやお笑い番組を見ていたりするママに直談判していたことだろう。
しかし、ママはこの家にいない。
別に死んでしまったわけじゃない。今は実家のある北海道にいて、昨晩電話したばかりだ。ママのママ、つまりアーニャからみてグランマ──おばあちゃんが急病で倒れたという連絡があったのが3週間ほど前になる。
買い物にいく途中の路上で意識を失い倒れてしまった、と翌日北海道へすっ飛んでいったママが病院の看護師から聞いたそうだ。
緊急手術は成功し、術後も安定していて意識もあるとのこと。2週間という期間も越えて、ひとまずは安心してよいという。ただし、右半身に麻痺が残ってしまったらしく、リハビリで多少は回復するらしいが完璧には治らないらしい。
──もう、グランマと天体観測、いけないんでしょうか。
もともとアーニャに星のなんたるかを教えたのはグランマだ。今は亡きグランパとよくデートで観にいったらしく、あーだった、こうだった、と文句を言いつつも、惚気るときだけはとても若返ったように思えるのは不思議でならない。
アーニャはスマホを手に取り、連絡帳を呼び出して“ママ”の連絡先を表示させる。発信ボタンへ指をかけたが、数秒ほど固まったあとその指を戻した。
──今は、やめておきます。
なんとなくどんな話をしたらいいのか、わからなかった。
気分転換をしようとアーニャはキッチンへ足を向けた。少し早いが夕食の支度に取り掛かることにした。
夜闇が空を覆いつくしていて、わずかな星の煌めきだけが都市の明るさにも負けずにアーニャへ届く。ベランダから見える星たちはどこか味気ない。
夜風がアーニャの頬を撫で、髪をもてあそぶようにゆらゆら揺らしてくる。時々聞こえてくる車や電車の駆動音が、オイル色の音色で飾り付ける。
夕食の後片付けも終え、ベランダで物思いに耽るアーニャに、寒くないかとパパが呼ぶ。
「ダー、そうですね。少し。今、入ります」
サンダルを脱いで吐き出し窓を閉めるとパパはリビングのテーブルに座り、アーニャにも座るように促す。その面持ちは神妙で、これならなにかしら大切な話があるのだと容易に想像できた。
アーニャがテーブルについても、パパは何も話さない。無言がこの場を支配している。
「……アーニャ、実はな──」
パパが静寂を破った。
暗い自室の中、アーニャは1人ベッドに寝転がりながら天井を眺める。汚れのまったくない均一さは綺麗ではあるが、同時につまらなさもある。
パパの話は、かいつまんで言えば、3ヶ月ほど北海道への長期出張になるだろうとのことだった。もともとそういう話がまわってきていたが、グランマの件もあって受けることにしたらしい。まだ確定したわけではないものの、ほぼ確実だという。
出張先の北海道支社は、幸いなことにグランマの家の近くで、そこに滞在しながら職場に通うという。
グランマも退院まで数ヶ月はかかる見通しで、それまでママは北海道にいる予定だから、当分は一人暮らしになる。
料理ができないわけじゃないし、家事ができないわけじゃない。むしろ、そういったことはできると自負している。
──一人暮らし……ちょっぴり、寂しいですね……。
ただ、今まで家族がいた場所に1人でいなければならないのは寂しい。例え期間限定だとしても、だ。
朝、学校やどこか用事のある場所へ行くときの『いってらっしゃい』も、帰宅したときの『おかえり』もない。日々の生活を送るには充分過ぎる環境でも、精神的には虚しさが感じる。
かといって、寂しいからと止めるわけにもいかない。仕事である以上仕方がないし、それにやはりグランマのこともある。我儘を言える状況ではないだろう。
カーテンを開けっ放しの窓からは月光が差し込んだり、かと思いきや著しく弱まったり完全に消えたりする。繰り返す光量の変化が、揺れ動く自身の心を真似しているように思えた。
月を覆い隠していた雲が風で流されたのか、光が強くなる。
アーニャは起き上がって窓の前に立つ。濃い影が自分の背後から室内へ長く伸びていく中、クレセントを下げて窓を開け、夜空を仰ぐ。
さきほどよりも夜は深まっているのだから星がより煌めいてもいいはずなのだが、相も変わらず点々としかそれはない。
「……ズヴィズダ、見えませんね……」
落胆の表情を隠すことなく、アーニャは窓をそっと閉めた。
1週間後、パパは荷物を自家用車に積み込み北海道へ出発した。