* 【1】 *
『智絵里、はいこれ』
『……? おかあさん、これなあに?』
『これはね、クローバーっていうの』
『くろうばあ?』
『そうよ。よく見て。葉っぱが4枚のがあるでしょ?』
『うん。……あれ? こっちは3まいしか葉っぱがない』
『実はね、葉っぱか4枚あるクローバーを見つけると幸運になるのよ』
『こううん?』
『良いことが起きるの』
『え、すごいすごい! じゃあ、おかあさんにもいいことおきる?』
『うん、もちろんよ。それね、智絵里にあげる』
『えっ……でも、あの、そしたらおかあさんにいいことおきなくなっちゃう……』
『心配してくれてるの? 智絵里は優しい子ね。お母さんね、もう良いことたくさんあって持ちきれないくらいなの。だから、智絵里にもお裾分け』
『おすそわけ……?』
『他の人に分けてあげることをそう言うの。智絵里にいっぱい良いことが起きますように』
『えへへ、ありがとう、おかあさん。あっ、おとうさんはしってるかな?』
『どうかしら。もしかしたら知らないかもしれないわね。帰ったら教えてあげないとね』
『うん!』
『じゃあ、そろそろ帰りましょうか』
『うう……ひぐっ……、……おとうさん、おかあさん、どこ?』
『智絵里! ここにいたのか!』
『……! おとうさん! おかあさん! ひ、んぐ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!』
『心配したぞ! いったいどこにいってたんだ!』
『ご、ごべんなじゃい……』
『まあまあ、落ち着いて。無事に見つかって良かったじゃない』
『それは、そうなんだが……。これからは1人で出かけちゃダメだぞ?』
『ひっく、うん』
『それで、どうして公園に来たんだ?』
『……これ』
『これは、四つ葉のクローバー? それも2つ』
『お、おとうさんとおかあさんに』
『探してくれたの?』
『うん。こううんのおすそわけ』
『そうだったの。ありがとう、智絵里。じゃあ、お家に帰って栞にしましょうか』
『それがいい。智絵里、帰ろう。ほら、おとうさんと手を繋ごう』
『うん! あ、おかあさんも!』
『あらあら、私も? ふふ、いいわよ』
『えへへ♪』
* 【2】 *
目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴っている。
相変わらず耳障りな音ではあるが、案外嫌いじゃない。絶対にお前を起こすという意思すら感じる目覚ましと二度寝に誘う睡魔がバチバチと火花を散らす。
「ん……んんぅ、っと」
勝者は目覚ましとなった。
緒方智絵里は体を起こして高らかにその勝利を奏でるかのように鳴り続けている目覚まし時計を止める。眠い目をパチリパチリとしながらベッドを降りる。
時刻は午前5時を数分過ぎたくらいだ。
パジャマを脱ぎ、Tシャツとレギンスの上に薄手のパーカーを着る。鏡を見ながら下ろしていた髪をツインテールにしていく。
「これでよし」
どこか気弱そうで覇気のないおどおどした女の子が鏡に映っている。何度見ても、紛れもなく智絵里自身である。
智絵里は父と母を起こさないよう忍び足で自分の部屋を出た。
夏の朝は涼しく、すでに空は白けはじている。この時間帯は通行人がほとんどおらず、ときおり車が横を過ぎ去っていくのみだ。
玄関ドアを施錠し、門扉を開けて敷地の外へ。いつもの散歩コースの順路を行く。
閑静な住宅街を進み、青と白のコンビニの角を左へ曲がる。三毛の野良猫が道路を横切る。そのまま直進すると、丁字路にぶつかる。右に行けば最寄り駅が、左はスーパーやホームセンターなどがあり、この街の中では繁華街と呼べるだろう。正面には公園の出入口がある。
赤だった信号が青になって、智絵里は横断歩道を渡り、公園に入る。
犬の散歩中のおばあさんとすれ違い、奥に進んでいくと、芝生の整備された開けた場所に出る。普段は近所の保育園の子供たちや親子連れが遊んでいたりするが、こんな朝早くにはさすがにいない。
その芝生の端の一角にクローバーの群生はある。
智絵里はしゃがみこむと、ひとつひとつクローバーを確認していく。
クローバーはマメ科シャジクソウ属の総称で、シロツメクサと呼ばれたりもする。とりわけ四つ葉のクローバーが発生するのは一万分の一の確率だと言われる。
「うーん……ないなぁ」
三つ葉、三つ葉、三つ葉……。
そうそう見つからないとはいえ、今日くらいはあってもいい。幸運を表す四つ葉のクローバーは智絵里にとって、持っているだけで勇気が沸いてくるようか気がするのだから、お守りも同然だ。
ときどきこうして探しにきては見つけたクローバーを栞にして保管している。
「今日も見つからないのかな」
今日という日ほど、智絵里にとって、それが必要なタイミングなのだが、幸運を表すだけあってそう簡単にはない。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
空の明るさが少しずつ増しはじめていて、雲の輪郭がくっきりと浮かび上がりつつある。車道を行く車も多くなってきて、諦めかけたときである。
「あっ……!」
数多ある三つ葉の中にぽつんと四つ葉のクローバーがあった。親指と人差し指で丁寧に茎を持ってそれを摘む。
「えへへ、久しぶりに見つけた。これで今日のオーディション、大丈夫だよね」
四つ葉を胸にぎゅっと抱き寄せるように今日1日の幸運を祈る。かつかつの勇気が満たされていくのを感じる。
陽光が街全体に差し込みはじめた頃、帰路についた。
朝7時前、朝ごはんも食べて髪も改めてセットして準備を終えた智絵里は、母の運転する車の後部座席に座り、窓ガラスに流れる馴染みの街並みをぼうっと眺めていた。
「新幹線のチケットは持った?」
駅前の信号に捕まった。車はブレーキをかける。
「うん」
「オーディションの書類は?」
「ちゃ、ちゃんと持った」
今朝、何度も鞄にあるかを確認した。
「ほら、しゃきっとなさい。せっかく書類選考通ったんだからこのままアイドルになる!って気持ちでいかないと」
信号が青になり、車はロータリーへ進入し、一般車用の停止場にハザードランプを点灯させて止まる。
「う、うん!」
「いつまでも話してる訳にもいかないわね。新幹線の時間もあるし、いってらっしゃい」
「いってきます」
智絵里は降車して、駅を利用する人々に混ざりながら改札口へ向かう。ちらりと振り返ると母は小さく手を振っていたので彼女も小さく返した。
改札を抜ける。まずは名古屋駅まで鈍行を乗り継いでいかなければならない。
1時間半ほど鈍行に揺られて名古屋駅に到着し、次は東海道新幹線ののぞみに乗る。同じく所要時間は1時間半だ。
新幹線改札口を通過し、発車ホームは階段を上がった先だ。ホームの床に描かれた案内に従って、車両待ちの列に並ぶ。サラリーマンに親子連れ、大学生らしき若人、老夫婦、と新幹線を利用する人々は様々だ。その中にアイドルオーディションを受けにいく女の子も追加である。
チャイム音がもうまもなくの到着を知らせ、さらに音声アナウンスが流れる。
青い2本のラインに白い車体ののぞみがホームへ入線する。ブレーキの金切り音とともに車体が停止する。ホームドアと連動して車両のも開く。
乗車して切符に印字されている席は、車両中央付近の窓際だ。
発車時刻となり、ゆっくりと走り出したのぞみ。智絵里ではない誰かに手を振っているお見送りの人々に見送られてのぞみは名古屋駅を離れる。
そうして、いざ東京へ。
東京という日本で1番の大都市をイメージしたとき、いったい何を浮かべるだろうか。智絵里はそう考えたとき、やはり人口の多さが最初に来る。
東京都だけで約1400万人もの人が住み、おまけに全国の道府県からも通勤・通学・その他で訪れるのだから、どこもかしこも人だらけになるのは当たり前であった。
東京駅に到着したのぞみから降車して346プロの最寄り駅まで続く在来線に乗り換えるまでにすれ違った人の数は、今までで最も多かった。
智絵里の知っている在来線は、こんなに混まないし、短い間隔で電車がバンバン来ることもない。
あまりの人の多さにあたふたしながらも、事前にメモしていた在来線の切符を買い、乗り遅れたと思っていたら数分も経たずにすぐ到着した次の電車に乗った。
こんな短い間隔で来るのなら乗り遅れる心配はない。地元では1本逃せば1時間待ちなんてのがざらにあるから、この便利さは頼もしく感じる。
このまま数駅越えたところに346プロへの最寄り駅がある。到着すればあとは徒歩で10分ほど。オーディションの開始時刻には充分に余裕を持って会場入りできる。
人の乗り降りを何度も繰り返して、ようやく目的の駅に着いたようである。車掌の車内アナウンスを聞きながら、降りる準備をする。やがて車体が減速しはじめて、体が慣性で進行方向へと引っ張られる。
『お出口は右側です』
進行方向に対して右側のドアが開き、他の乗客たちは一斉に降りていく。智絵里も降り損ねないように急ぐ。ホームに立つと待っていた乗車待ちの客たちの列が吸い込まれるように車内へ。
ホームに立つ智絵里はほっと一息ついた。電車の人口密度の高さに慣れる気がしないなぁと動き出しつつある電車を見送りながら思う。またすぐにたくさんの人を乗せた次の電車が来るだろうから、邪魔にならないよう改札口を目指す。
切符を改札機に呑ませて、駅構内から外へ足を踏み出す。
時刻は10時半になろうとしている。オーディションは11時からだ。
駅前ということもあり、人の数は圧倒的だ。人混みのような人のたくさんいる場所が苦手な智絵里にとっては、やや面食らう光景だった。それでも話し掛けたりする訳ではないので、少しは気が楽ではある。
スマートフォンの地図アプリで改めて346プロダクションの場所を検索し、経路表示をタップする。青色の経路が地図上に導かれる。
「よ、よし! 行こう」
智絵里はそれに従い、人混みの間を避けるように歩きはじめた。
* * *
なぜ智絵里がわざわざ新幹線を使ってまで上京したのか。それは346プロダクションアイドル部門の第2回オーディションを受けるためだ。
1ヶ月とちょこっと遡ったある日の午後、智絵里はある広告を目にすることになる。それは母と買い物帰りに立ち寄った本屋でぱらぱらとファッション雑誌を捲っていたときである。
智絵里はお洒落な服装には年頃なりに興味がある。ただ、服屋に1人で入れないだけで……。なぜ服屋の店員は妙にぐいぐいくるのか。圧が強くてどうにも苦手意識がある。
その途中のページに広告のページがあって、
『第2回346プロダクションアイドル部門オーディション開催!』
応募を呼び掛ける文面の下には5人の女の子たちがそれぞれきらびやかな衣装に身を包み、満面の笑みの写真が載せられている。どうやら所属アイドルたちのようだ。
──すごいなぁ。人前で堂々としていられるなんて。
心の中で感嘆の想いをつぶやく。正直言って、今の智絵里とは正反対に位置する人たちだ。
──私なんて人前に出るとあたふたしちゃうから、いつも発表とか行事とか苦手で……。
それに加えて、自信もいまいちない。母はそんな智絵里を見て、もっと自信を持って!とか、おろおろしない!とか、キョロキョロしない!と、ここ最近は怒るようになってしまった。その度に『ごめんなさい』と謝ることになる。
バリバリのキャリアウーマンである母は毎日はきはきと生活している。だからこそ、余計に智絵里の気弱さが目立ってしまう。ただ、仲はそれほど悪くはなっていない。こうして親子一緒に買い物に来れるくらいのラインは保っている。
さて、オーディションの広告はざっくりと概要が書いてあるだけで、詳しくはホームページまたはQRコードを読み込むようだ。今時はみんなスマホを持っているからこちらのほうが効率がいいのかもしれない。
書類選考の締切はまだ先の日付で、当日消印有効となっている。その合格者を集め、東京で面接を行う流れのようだ。
──アイドルになれば、少しは、今の私は変わるかな?
とんでもない想像をしてはみるものの、衣装を着てステージに立つといういわゆるアイドルの自分がまったくといえるほど浮かばない。そもそもステージは、学校とは比べ物にならないほど人の視線が多い。何十倍になるだろう。
人には向き不向きがあって、人前が苦手な智絵里とスポットライトを浴びるアイドルという存在は対極にあり、交わる可能性は小さい。
いろいろぼうっと考えていると、
「智絵里、お母さん会計してくるけど、何かいい本はあった?」
「う、ううん。特にない」
智絵里は雑誌を閉じて元の場所に戻すと、ふるふると首を振った。
「そう。じゃあ鍵渡すから先に車に戻ってて」
鍵を受け取ると、何冊かの書籍を手にした母は踵を返してレジカウンターへ。
智絵里はちらりとさきほどの雑誌に視線を向けたが、もう一度手に取ることはなく、出入口へ足を進めた。
その日の深夜近く。智絵里はトイレから自室へ行こうと階段を上がったとき、ふと誰かの話し声が聞こえた。幽霊やお化けかと思って一瞬びくりとしたものの、それは父と母の寝室から聞こえてくる。
ほっとしつつも、ぼそぼそと内容が判別できないので、智絵里はその寝室に近づき、ドアの傍で聞き耳をたてる。
別に大した理由なんてなかった。それは単なる好奇心からくるものであって、こんな夜中にいったい何を話しているのか知りたいと思った。
過去に一度だけ遭遇した夜のプロレスだったらすぐに寝ようと思いつつも意識を集中させ、読み取りを図る。
『────智絵里は大丈夫かしら?』
「……えっ……?」
耳をすませていると、まさか自分の名前がでてくるとは思わなかった。
『いつものあの調子で、まだ学生だからいいけれど、社会に出るときにあのままじゃ……』
『智絵里はまだ16歳だぞ。思春期真っ只中じゃないか』
『そうだけど……』
『俺が思春期だった頃は人付き合いがうまくいかずに1人でいることが多かったぞ。別に引きこもってる訳じゃなし』
自分が話題になっているため、これ以上聞きたくないという感情ともうちょっとだけという感情とがせめぎあう。結局、もう少しだけ聞くことにした。
『わかってる。でも、心配なのよ。このまま変わらなかったら、智絵里はダメな子のままなんじゃないかって』
──だ、ダメな子……? わ、私が……。
よく耳にする“ショックを受けた”というのは今のような感覚なんだろうか。心がぎゅうっと締め付けられたような、思い切り殴りつけられたような。
──お母さんは、私のこと……そんな風に……。
ショックだ、ショックだった。それなのに不思議と、どこか受け入れてしまっている自分がいる。なんとなくだが自分自身で感じ取っていて、あえて名称は出さないようにしていた状況にこうもがっちり明確にされてしまうとは。
頭がぐるぐるまわってしまっている智絵里はゆっくりと立ち上がると、とぼとぼと数歩先の自室へ戻り、静かにドアを閉めた。
『……その言い方は許せないな。智絵里は昔よりずっと人見知りは改善してきてるし、それに人前に立つのも勇気を出して頑張ってる。去年の文化祭なんてくじ引きで割り当てられたとはいえ接客をしてたんだぞ? 昔は人と会うのがイヤイヤと泣いてごねていたあの子が』
『それは…………そうよね。ごめんなさい、こんな言い方するつもりはなかったの。ただ心配で』
『心配するのはいいが過保護にならないようにしないと』
『ええ、気を付けるわ』
その後の会話を智絵里が聞くことはなく、彼女はその晩枕を濡らした。