プロデューサーはじめました。   作:テラリウムA

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8話 信じること

 

 

 東京都内某所にある病院では、良いか悪いか、多くの人が行き交っている。そこから見える空は晴天で雲も少なく、春を過ぎた通りの木々は新緑の葉を生い茂らせている。爽やかで過ごしやすいいい季節だ。

 

 そんな中、神妙な面持ちをした2人がいる。

 

 芸能事務所346プロダクションのプロデューサーとアシスタントの千川ちひろである。

 

 彼らがいるのは病院の個室で、目の前のベッドには初老の男性が点滴のチューブを繋がれていた。

 

「…………プロデューサーさん、私」

「ちひろさん、目を背けてはダメだ。私たちが今西部長の想いをつがなければ」

「でも、こんなのって……あまりにも!」

「言いたいことはわかる。それでも、私たちは前に進まなければならない。多くの試練や困難を乗り越え、輝きの向こう側へ」

「……プロデューサーさん! 私も、がんばりますから!」

「ちひろさん!」

「……終わったかな?」

 

 そんな2人のやりとりに割って入る声が1つあった。それは曇り空を裂く光のようだ。もしくは風でもいい。声の主はベッドで静養中のアイドル部門部長の今西だ。

 

「はい。終わりました」

「お見舞いに来たと思いきや、いきなり芝居がかったこと始めるからびっくりしちゃったよ」

「それはちひろさんが『ドラマとか映画の病院に駆け付けるシーンみたいですね』と言うので」

「ちょっとやってみたかったんです。てへ」

「ちひろくんは案外女優とか向いているかもしれないね」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 ちひろは少し照れた様子で返事をした。まんざらでもなさそうである。

 

「それにしても驚きましたよ。今西部長が緊急搬送されたって連絡がきたときは」

 

 時はほんの少し遡り、今日の午前8時過ぎにそれは突然やってきた。

 

 出社したプロデューサーが鼻歌まじりにお湯を注いだインスタントコーヒーを混ぜていたとき、電話が呼び出し音が鳴った。

 

 伝えられたのは今西部長が緊急搬送され、手術を受けることになったというもの。受話器を握る手が少し汗ばんだのを感じた。

 

 美城常務に報告をし、現状把握もかねて時間に空きのある午後にこうしてお見舞いに来ている次第である。

 

「驚かせてすまないね。いやぁ、まさかここまで椎間板ヘルニアが悪化してたなんて。そのうち病院に行こうとは思っていたけど」

 

 今西部長は軽く笑う。彼を見てると『そのうち病院に行こう』は実は病気悪化の1番の原因のような気がしてくる。

 

「手術は終わったんですか?」

「手術は無事に終わって、退院まで1週間くらいかかるらしいんだ。それまでは頼むよ。何かあったら相談くらいは聞けるから」

 

 そう言って今西部長は、ベッドサイドにあるスマホへ視線をずらした。付き添って来た家族が置いていったのだろう。充電器もある。

 

「部長はここ最近忙しかったですし、健康的な休暇だと思って休んでください。こちらは私とちひろさんで上手くやりますよ」

「それは頼もしい。少しはプロデューサーという肩書きが板についてきたようだね。ちひろくんもアシスタントをしっかりね」

「はい。あまり長居してもいけないので、私たちはそろそろ失礼します」

「常務にも報告しておきますので」

「うん、頼むよ」

 

 プロデューサーとちひろは今西部長の入院する個室から出て、階段へ廊下を進んでいく。

 

「気温が温かくなってきましたね。春になったな~なんて思ってたらもうGW終わっちゃいましたから。世間一般のような休みがないのがこの仕事とはいえ、なんだか寂しいです」

「ちひろさんはコスプレイベント行ったって聞きましたけど」

「え!? 誰からですか!?」

「ヒントはさっきまで会ってた人です」

「言わないでくださいって言ったのにぃ……」

「似合ってましたよ、千川のフリーレン」

 

 途中すれ違った明るい茶髪の少女を彼は目で追いつつ、打ち合わせ帰りに立ち寄った際に発見した千川ちひろ(フリーレンコス)でいじる。

 

「……!? にゃんでそれを!?」

「ハッハッハ、写真集でも出してみます? 案外売れるかもしれませんよ」

「だ、出しませんよ!?」

 

 笑って流すプロデューサーと『出しませんからね!』と念を押すちひろは病院を後にした。

 

 

 * * *

 

 

 彼女は自分の個室へ戻ってきた。途中、蛍光色の黄緑の人とすれ違ったのが印象的だった。視覚効果的な意味で。

 

 洗面台で手を洗い、サイドテーブルのスマホを取って、ベッドに腰かけようとする。しかし、そのまま座ることなく窓際に行き、それを開けた。

 

 吹き込んでくる風が彼女の頬をぬらっと撫でる。毛虫が這うような寒々しさを感じてすぐに閉めた。

 

 スリッパを雑に脱ぎベッドに潜り込む。ネットサーフィンをしたり、動画配信サイトでショート動画を見たり、サブスクて音楽を聞いたりする。

 

『~♪』

 

 あなたへのおすすめに表示された、どこの誰かもわからないアイドルたちのイベント映像は目にも心にも眩しかった。

 

 なんとなくつまらなさを感じる。時間を潰す意味では有用だが、満たされる感じがしない。底のないバケツのようだ。

 

 個室のドアがノックされる。スマホに表示されている小さな時刻は検温の時間を示していた。

 

「加蓮ちゃん、検温の時間ですよ」

 

 いつもの看護士がクリップボード片手に入室してくる。彼女のことを『加蓮ちゃん』と呼ぶのは勝って知ったる仲だからである。

 

 名前は北条加蓮、16歳。都内の高校に通う1年生だ。

 

 彼女は子供の頃から──今も子供だけれども──体が弱く、入院を繰り返していた。物心付いた頃にはすでに入院していた記憶がある。

 

「はい」

 

 体を起こすと体温計を渡され、脇に挟んで終了の合図を待つ。ピピピと甲高い電子音が測定終了をやかましく告げる。

 

「36.8。うん、熱も下がってる。様子を見るけど、これなら明後日には退院になると思う」

「そうなんだ」

 

 退院すると言われても、加蓮はとくに何も感じない。

 

 昔は入院するとなると内心とても嬉しかったのを覚えている。学校は休めるし、母親が持ってきたアニメや番組録画をずっと見られていたから。小学校のクラスメートがお見舞いに来てくれたこともあった。

 

 体調が回復してきたら、母親や看護師にアイドルの真似事を披露していた。そのときの加蓮はまだ笑顔が溢れていた。

 

 昔は『将来はアイドルになるの!』なんてありきたりな夢を持っていた。今考えると笑えてくる。

 

 夢はどこまでいっても夢。いっそショーケースにでもしまっておいて、時々それを観賞してあの頃を懐かしむほうが健全かもしれない。

 

 小学生の頃の加蓮にとって入院は、最初の1、2回は、大きなイベントだった。

 

 とはいえ、やはり慣れてくるもので、いつしか『またか』とだけ思うようになった。

 

 誰もいない部屋で熱に浮かされながら体調が回復するを待って、そしてなったら1人でテレビを見るだけ。その繰り返し。お見舞いに来てくれる回数も減っていって、卒業間際に体調を崩した時は1回もなかった。

 

 新生活のほうが大切だし仕方ない。

 

 中学校に入学しても、病弱さは変わらず、3年間で数回体調を崩して入院することになった。

 

 入院とはならずとも学校は休みがちで、友人関係もうまく構築できず、挨拶はするけれども一緒に遊びに行くほどの仲ではなかった。

 

 以前は備え付けのテレビでアニメなりアイドル番組なりを鑑賞していたが、中2の冬に買ってもらったスマホが今ではテレビ代わりだし、常に一緒にいる友人のようなものとも言える。無機物の友人である。

 

 中学3年でとりあえず都内の高校を受験し合格はした。まぁ入学から1ヶ月あまりで入院する羽目になったけれど。

 

「そういえば高校は公立だったっけ。どう? 楽しい?」

「あはは。まぁ、それなりに」

「それは良かった。前に教えたネイルも高校での話題作りになるから。おしゃれも中学とは比べ物にならないくらいできるし。青春真っ只中ね」

 

 いまいち話に乗ってこない加蓮に看護士はそっと彼女の手をとる。

 

「加蓮ちゃん、大丈夫。ちゃんと治るから。前よりも入院する日にちは短くなってる。体が大きくなって少しずつ改善してきてるの」

「うん。知ってる」

「そう。ならいいけど。しっかり改善させて高校生活をエンジョイしないとね! じゃあ時間になったらまた検温するね」

 

 そう言い残して、看護士は退室していった。加蓮は1人きりになってつぶやく。

 

「どうせ変わらないよ」

 

 加蓮はベッドに横になり、まぶたを閉じた。

 

 

 

 

 翌日、天気は相変わらずの晴天で、加蓮はなんて鬱陶しいのだろうと思った。綺麗なまま、どこからでも見れて、逃げることもできず、目を背けることはできても背け続けることはできないあの空。

 

 晴天なだけでイラつくなんて終わってる、とどこか他人事のように加蓮は考えていた。

 

 午前の検温を終え、病室で母親を待っている。今頃は診察室で、担当の医師から診察結果を聞いているのだろう。あの看護士は退院になりそうだと昨日言っていたので、まあ退院になるのは確実そうだ。

 

 ドアが開かれ、母親が入ってくる。どうやら終わったようだ。

 

「加蓮、先生が体調も回復したから明日で退院だって」

「そっか」

「なぁに、素っ気ないわね。何日か休んだけど、高校生活再開よ」

 

 加蓮は返事をしなかった。慣れているのか、母は構わず話を続けている。

 

 高校に行ったところで、今までとたいして変わらない。勉強して、部活には入ってないからたまに趣味のネイルをして、なんとなくどこかよりみちして、そうして毎日毎日それらを繰り返す日々が続くだけ。自分以外の人なら、もしかしたら違うかもしれないけれど、加蓮にとっては薄味の毎日だ。

 

「ちょっと、加蓮聞いているの?」

「もうわかったって!」

 

 つい声を荒らげてしまった加蓮は、ちくりとした罪悪感を隠しつつ不貞腐れたようにベッドに横になり背を向けた。母親は一瞬動きを止めたものの、動じることなく続けた。

 

「そう、ならいいのだけど。じゃあお母さん、帰るね。明日迎えに来るから荷物まとめといてね」

 

 そう言付けて帰っていった母親に加蓮は一瞥することもなかった。

 

 

 

 

 昼食を食べ終えた加蓮は屋上にある庭園に足を運んでいた。

 

 この庭園は、外出禁止の患者のリハビリや休憩、やすらぎの場として提供されているらしい。病院の案内にそう書いてあった。

 

 ベンチに座って辺りを見渡す。姿は見えず、今は人が途切れている時間のようだ。背丈の倍はあるフェンスの向こうには東京の街が地平線を隠すように広がっていた。 

 

「……はぁーあ」

 

 無意識に大きなため息をつく。ため息をつくと幸せが逃げるなんて言われるが、果たして逃げてしまうほど残っているのだろうか。

 

「はぁ……」

 

 もう一度ため息がでてしまう。心に靄を感じる原因は午前中のあれくらいしかない。

 

 いったいいつから母親との会話がぎこちなくなったのか、加蓮にはわからない。気付いたらもうなっていた。

 

 声を荒らげてしまったり、無視したり、ひどいことを言ったりする。思春期かもしれないが、加蓮自身には判断できない。もっと大人になったら分かるだろう。

 

 何度か謝ろうとしたことはある。しかし、結局できずになんとなくいいやとなる。

 

 理由は、なんなんだろう。

 もはや自分で自分がわからなくなりつつある。

 

 空を仰げば、あの雲と自分が同じなのではないかと思う。

 

 青空の中を風に流されて浮かび、その都度形がコロコロ変わり、最後は崩れて霧散していく。お似合いの人生である。

 

 ここにいるのがうっすらと嫌になり、ベンチから立ち上がろうとする。

 

「そこの君」

 

 気付けばベンチのすぐ傍に男が1人立っていた。どこかの営業なのかシンプルなスーツという出で立ちで、片方の手にはかばんを、もう片方には板みたいなものを持っている。 

 

「なに?」

 

 訝しげなまなざしを向けつつ、加蓮は答える。

 

「スマホ、落としましたよ」

 

 警戒を隠さない加蓮にスーツの男はそっと左手を差し出した。彼が持っているのは確かに加蓮のスマホである。白色の硬質ケースがビーズでデコレーションされているのが何よりの証拠だ。

 

 ポケットをまさぐってもスマホがない。どうやら男の言っていることは正しいようだ。

 

「……ありがと」

 

 スマホを受け取りポケットにしまうと足早にその場を離れた。

 

 今の自分を誰かに──たとえ他人であっても──見られるのは嫌だった。

 

 

 * * *

 

 

 今日も今日とて、街は人が行き交っている。上京した人が『今日は祭りでもやっているのか』と尋ねるというエピソードを耳にしたことがある。生まれも育ちも東京だからか、加蓮にとっては変わらない光景だ。

 

 人々に混ざって加蓮は制服のまま繁華街をぶらついていた。

 

 時刻は11時過ぎ。本当なら授業中だが、行く気がしなくてサボった。母親にはもう連絡が行っているだろうか。

 

 適当にその辺の店を冷やかしながら、大手リサイクルショップに足を踏み入れる。DVDブルーレイコーナーに差し掛かったとき、それを見つけた。

 

「あ、これ。懐かしい」

 

 加蓮が思わず手に取ったのは古いアニメのDVDボックス。古いといっても10年くらい前に放送された作品だ。

 

「よく見てたなぁ」

 

 買いはしないものの、こうして想い出に浸れる品をばったり見つけられるのはひやかしのいいところではないだろうか。

 

 元の場所に戻し、他にも探してみる。思いの外あってあれよこれよと堪能しているうちに30分ほど経っていたので、ひとまず切り上げることにした。

 

 ビルを出て、どこかで休憩でもしようと考えていたとき、不意に後ろから声をかけられた。こんな真っ昼間からナンパか?と振り向くと見覚えのある顔の人物がそこに立っていた。

 

「あれ、君は」

「覚えてたんだ、アタシのこと」

「ええ、病院でスマホを落としていましたよね」

「そ。あのときの。アタシの名前は加蓮。それで、アタシにいったいなんの用? もしかしてナンパ?」

「いえいえ、とんでもない。別の用件です」

「そうなんだ。じゃあなんなの」

 

 ナンパではないらしい。では、なんだろうか。真っ昼間から制服で彷徨いているからサボりだとして説教するのか。そうだったら鬱陶しい。

 

「加蓮さん、アイドル、やってみませんか」

 

 名刺とともにその男はスカウトをしてきたのだ。

 

 

 

 

 加蓮とその男はカフェにいた。テーブル席で向かい合うように座っている。

 

 ここは加蓮の行きつけとまではいかないが、それなりに気に入っている店だ。1人になりたい場面でここに来る。今は2人だが。あのまま路上で話すよりはここの方が良いし、サンドイッチがおいしくて食べたかったからちょうどいい。

 

「アタシをアイドルにスカウトするってのは本気なんだ」

「はい」

 

 この男──346プロダクションのプロデューサーで、名前は天津というらしい。

 

 346プロといえばそれなりの大手事務所だ。名前を騙っているだけ、なんてこともありうる。偽物だったら大声出してやる。

 

「アイドルかあ。ねぇ。どうしてアタシに声をかけたの? 他にも綺麗な人いたでしょ」

 

 腐ってもここは東京だ。綺麗なのも可愛いのもそこら辺探せばたくさんいるだろう。

 

「第六感です」

「つまり勘ってこと?」

「有り体に言えばそうなります」

 

 勘でスカウトしたとは驚いた。いや、芸能関係だからこそそれを大切にしているのかな? 隠す気もないみたいだし。

 

「ふーん。でも、アタシにアイドルとかできるかな」

「はい。できます」

「アタシのこと何にも知らないのに?」

 

 何にも知らないくせにわかったようなことを言われるのはいい気がしない。

 

「そうですね。確かに私は加蓮さんのことをほとんど知りません。ただ、アイドルになれるかどうかは相手をよく知らなくても判断できます」

「ま、勘だってさっき自分で言ってたしね」

 

 加蓮は嫌みっぽく返事をする。

 

 アイドルというのはそれこそあの空のごとく手の届かない夢のような存在で、なれると言われてすんなりとなれるものではないはずだ。まして夢を与える側に立つなんて自分みたいな人間には無理だ。

 

「やっぱり、この名刺は返すよ。アタシには無理だから」

「……そうですか。理由も聞かせていただければ」

「普通は他人にそこまで教えないけど。ま、声かけてくれたし、理由くらいは話してもいいかな。アタシさ、もう人生諦めムードが出ちゃってるんだよね。なんかもういいやって感じ。それに、いろいろ最悪だし」

「いろいろとは?」

 

 そこ聞いてくるんだ。まあ、自分で話してもいいって言ったから仕方ないか。

 

「アタシ、もともと体が病弱でさ、小学生の頃から何度も入院したりして、友達もほぼいない、最近だって入院してたのわかるでしょ。だからかな、何しても味気ないというか、つまらないというか。アタシの人生こんな感じなのかなって。今日だって、いまいち行く気しなくて学校サボった」

「それはよくありませんね」

「世間一般的にはそうなんだろうけど、はは、こんなこと長々としゃべっても意味ないね。愚痴みたいになっちゃう。ま、そんなわけでさ。アイドルなんて無理なんだよ。なんとなくそんな惨めな自分に納得しちゃってるから」

 

 加蓮は名刺をテーブルにそっと置くと学生かばんを手に立ち上がろうする。

 

「加蓮さん、アイドルに憧れたことはありませんか」

「……なんで?」

「できない理由を探しているように思えたからです」

 

 探しているつもりなど加蓮にはない。ただ、できない理由があって、実際にできないのだから。そうに違いないのだから。

 

「えっと、人の話聞いてた? 探すもなにも、アタシにはアイドルなんてできないって説明したつもりなんだけど」

「聞いてましたよ。その上で、です」

 

 しつこい奴に引っ掛かったちゃったなぁと思いつつ、椅子に座り直す。

 

「アイドルってさ、そんな簡単になれるものじゃない。プロダクションに所属して『はい。アイドルになりました。いぇい』ってならないでしょ。なれるのはほんの一握り。残りは夢物語で終わるだけ。報われない努力なんてやるだけ無駄だよ。それにアタシには価値も体力も素質もないし」

「素質はあります。価値と体力はからっきしのようですが」

「はっきり言い過ぎじゃない? ま、事実だから仕方ないか。それで、本当にアタシをアイドルにする気?」

「はい。ガラスの箱にしまって眺め続けるのではなく、それを壊して掴み取ろうと思うのなら私がお手伝いします」

「ロマンチストだね」

「それほどでも」

 

 誉めてないのに。加蓮は思う。

 

「価値と体力はほんとにないけど?」

「ないのなら今から作っていけばいいんです」

「……アンタにその箱は壊せるの?」

「もちろんです」

 

 その返答に迷いはなかった。少しのイラつきを覚えるほどにまっすぐだ。

 

「……っなんでそんなに、断言できるの。できないかもしれないじゃん」

「確かに、できないかもしれません。しかし、できる可能性も充分にあるのです。私はそれを信じています」

「はは、信じるだけ?」

 

 嘲笑が出てしまう。

 

「はい。私は信じています。そして、加蓮さんも信じているようです」

「アタシが何を信じているって」

「自分にはできないと信じているんです。信じるという行為の力は良くも悪くも強い。だから、何もできないままでいる」

 

 ──なにそれ。

 

「……」

「できないと己を信じるよりもできると信じたほうが周囲は確実に変わります」

 

 ──むかつく。

 

「……」

「加蓮さんはただ後ろを向いて座っているだけです。前を向くだけでも、顔をあげるだけでも光が見えてくるはずです」

 

 ──……やめて。

 

「……」

「確かに、幼い頃の経験は死ぬまで心に刻まれるものです。しかし、経験は経験で打ち消せる。1人では難しいのであれば私が手を貸します」

 

 ──やめて。

 

「だからいつまでも下を向いていないで1歩……」

「……やめてっ!」

 

 加蓮は自分自身の激昂した声で我に返った。カフェの店主や他のテーブルの客たちから視線が集中するのを肌で感じる。

 

「……っ!」

 

 加蓮はまだ水の入ったコップを持つと彼に勢い良く浴びせて、そのまま鞄を荒々しく掴むとカフェを飛び出した。

 

 

 * * *

 

 

 昨日は学校をサボったものの、今日はサボることなく学校に登校している。

 

 カフェを飛び出した加蓮が帰宅すると、案の定、母親に叱られた。明日はちゃんと行きなさいと念押ししてくるのがめんどくさくて、適当にわかったわかったと返事をした。

 

 今朝も念押ししてきたし、学校まで巻き込んで大事になるのも困るので仕方なく行くことにした。

 

 眠くなりそうな2限目の歴史を終えて、3限目の体育の時間になる。

 

 クラスメートの女子たちに混ざって更衣室でジャージに着替え、昇降口で運動用シューズに履き替える。

 

 体育は男女別の内容で、男子はバスケ、女子は持久走である。1000メートルだからグラウンドのトラック5周だけ、と文字に書き出してみれば簡単そうだけれど、実際に走ってみればそう簡単じゃない。かなりきついだろう。

 

 普段の加蓮ならば見学していた。ただでさえ、退院してからまだそんなに日にちが経っていないのだ。もともとの体力がからっきしだとしても、現状はそれ以下である。

 

 北条走れるのか、と体育の女教師が尋ねてくる。

 

「はい。大丈夫です」

 

 加蓮は走る気でいた。

 

 ──できないと信じているからこそ本当にできない。

 

 スカウトされたあの日に言われた言葉がフラッシュバックする。

 

 何も知らない癖に何もかもわかったような顔して、適当なことを言うあの男がむかつく。とてもむかつく。

 

 その言葉はただの戯れ言で、世迷い言で、ただそれっぽいことをつらつらと並べているだけだと証明してやろうと思ったのだ。

 

 逆に、できると信じればできるようになるのだろう。なら加蓮が自分には走りきれると信じればいい。アイツがそう言っていたのだから。

 

「無理はすることないんだぞ?」

 

 やんわり止められても加蓮の決意は揺るがない。

 

 昔から体育は見学していた。小さい頃は体力がなくて、運動をしてもすぐへばっていたが、それはあくまで小さい頃の話である。

 

 高校1年生になったのだから1000メートルくらい走りきれる。そう自分を信じてみる。

 

 準備運動をして体をほぐし、次に授業の説明を聞く。女子を2つのグループに分けて、トラックを5周走りタイムを測定する。加蓮は1番目のグループに組分けされたので、この後すぐに走ることになる。

 

 トラックのスタートラインに加蓮は立つ。

 

 位置について、よーい。パァン! スターターピストルが鳴り響き、みな一斉に走り出す。加蓮も負けじと1歩踏み出す。

 

 加蓮は、走り出してすぐに足が重くなってきた。まだ1周目のトラックの半分にも達していない。

 

 呼吸が荒くなり、息が苦しい。それでも必死に足を動かす。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 早い人はもう1周目が終わりそうだ。対して加蓮はいまだ半分を少し過ぎた辺りを走っている。

 

 ようやく1周目を終え、続けて2周目、そして3周目へ。この辺りで他のクラスメートからはかなりの差がつけられていた。

 

 4周目にもなると全身が汗まみれで、なんだか感覚がハイになってきたように感じる。

 

 気力を振り絞り、最後の5周目に突入する。

 

 死にそう……いや、死んじゃう。ほんとにっ……!

 

 実は自分は走行中に死んでしまっていて、走ってると思ってるのは魂だけなのではないかと加蓮は思ってしまう。

 

 地面を踏みしめる感覚はあるから、生きているのは確実ではある。たぶん。

 

「はっ……はぁ……んあ……はっ…………はぁ……」

 

 トラックは残り半分。

 

 足が重い。まるで棒のようだ。他のクラスメートは加蓮以外全員がゴールしている。

 

 あと少し。あと少し。あと少し。あと……少し!

 

 誰かが何かを言っているみたいだが、加蓮の耳では聞き取れない。ただ走ることだけに意識が向いていて、脳の処理に余裕がない。

 

「ゴ…………ールっ…………!」

 

 足に力が入らず、ふらふらになりながらも加蓮はなんとかゴールすることができた。

 

 ──あれ……?

 

 ほっと安堵したとき、不意に視界がぐらつき、大きく揺れる。頬に砂が当たっている感覚がある。誰かが駆け寄ってきたような足音がしたところで、意識がぷつんと途切れた。

 

 

 

 

 目を覚ますと見慣れない天井がそこにあった。

 

 気づけば加蓮はベッドに寝かされていて、ここを仕切るように白いカーテンに囲われている。まるで病院の大部屋のときみたいである。

 

 ゆっくりと体を起こす。

 

 さっきまで体育の授業で持久走をしていたことを思い出し、ここは保健室で走り終えてすぐに気を失って倒れてしまったんだと察した。

 

 ベッドから降りてカーテンをそろりと開けると、保健室の先生と目が合った。

 

「起きたのね。もう大丈夫そう?」

「はい」

「そう。今は4限目の途中だけど、教室に戻る?」

「いや、終わってから戻ります」

 

 一度体温を測るために教諭のデスクの横にたくさん重ねられている丸椅子を外してそれに腰かける。

 

「病み上がりなんだから無理はダメよ」

 

 体温計がピピピッと電子音を発して合図を出す。平熱だった。

 

「それにしてもよく走る気になったね」

「……ちょっといろいろあったので」

 

 できないと信じているからこそできない、というアイツの言葉をギリギリでだが、否定できたのが加蓮には嬉しかった。

 

 意識が飛んだとはいえ、持久走を走りきれると信じたからこそ完走したわけで、あの言葉は加蓮を正しく捉えていなかった、と思いたい。

 

「いろいろ、ね。走るの久しぶりでしょう。今までできなかったことができるようになるは嬉しいでしょう? 先生もね、カナヅチだったんだけど授業で水泳があるとやだって言っていつも見学してたのよ。でも、あるとき好きな男の子にサボりだのなんだのとバカにされてね」

 

 あのときはぶん殴ってやろうかと思ったと養護教諭として不穏なことを笑いながらに言う。

 

「もうカッチーンときて、必死に練習してそいつより水泳上手くなってやったわ」

「それでその男の子とはどうなったんですか?」

「別にどうにもならなかったわ。学校を卒業して会わなくなってそれっきり。ま、小学校なんてそんなものよ」

 

 けらけらと笑いながら想い出話に花を咲かせる中で、

 

「きっかけがあると人って変わるのよね」

 

という言葉が引っ掛かった。

 

 加蓮にとってのきっかけは、もちろん昨日のアイツである。あの言葉をなんとか否定したいがために持久走で無理をしたのである。

 

 結果として、加蓮もできると信じればできるのだと証明できた。

 

 

 

 

 帰宅した加蓮は自室のベッドでまた天井を眺めていた。つくづく自分は天井と縁があるなと思うと少しばかり笑みがこぼれた。

 

 保健室で休んだとはいえ、体はくたくたであの後の授業の内容はろくすっぽ覚えていない。

 

「うーん……」

 

 こうして、冷静になってみると、あの言葉は、案外、的を射ていたのではないかとも思う。

 

 どうせ無理だとかできっこないとかちょくちょく言ってるような気がしてならない。というか、昨日も意識せずに言っていた。

 

 今まではそうやって諦める振りをしてきた。

 

 しかし今日は、むかついていたこともあるが、できると信じて持久走に挑戦したことで完走できていた。

 

 少し前なら、

 

『病み上がりだし、まー、無理だよねぇ』

 

とか言って見学していたのではないだろうか。

 

「“できないと信じていた”からこそ“できない理由を探していた”のかな」

 

 病弱とか体力がないとか人生諦めムードとかいろいろ最悪とか……これらもきっと信じるものを補強する材料だったのだろう。

 

「なんだか、変な感じ」

 

 加蓮は小さなきっかけで何かが変わったような気がしていた。そもそも自分自身を客観視するなんて初めてだ。

 

「アタシにももっとできる……かな」

 

 今のところ、“できると信じる”ことを補強する材料が持久走のギリギリ完走しかないという寂しい現実がある。しかし同時にちゃんと1つはあるということでもある。

 

 加蓮はスマホへと手を伸ばした。

 

 

 * * *

 

 

 数日後、例のカフェで加蓮は彼と再び向き合っていた。

 

「お待たせしました。コーヒーとオレンジジュースでございます。ごゆっくりどうぞ」

 

 カフェの店主がそれぞれの前にドリンクを置き、会釈をして下がった。

 

「ちょっとだけ、世間話につきあってくれない?」

「わかりました」

 

 彼は嫌がる素振りを見せず、加蓮の世間話に耳を傾けている。

 

 スカウトされた日、加蓮は名刺も貰わずに勢いで飛び出してしまっていたから、連絡の取り方に迷ったものの、346プロダクションだという情報はあったからHPからアイドル部門の電話番号を調べて、意を決して電話をした。

 

 対応した社員にプロデューサーに代わってほしいと頼み、スカウトされたこととカフェの名前を伝えた。

 

 数分後に受話器越しからあの声が聞こえてきた。彼に日時や話があることを伝え、こうして再会にこぎつけた。

 

 スカウトされたときの言葉で何か変わった気がしていること、持久走のこと、きっかけのことも、そしてアイドルのこともすべて話した。

 

「アンタがさ、アタシに言ったことはきっと正しいよ。アタシは何もできないって数日前までは思ってたからさ。冷静になったら、いろいろ理由を並べ立てていたのも、自分にはできないと信じるためだったんだよねって」

 

 彼は何も言わず、ただ黙って聞いている

 

「実感はまだはっきりとは湧かないけど、できると信じることが大切なのはなんとなく呑み込めた気がする。だからさ、アイドルもできるんじゃないかって思ったりしてる。どうかな」

「もちろん、私がお手伝いします」

「……その言葉は嘘じゃないよね?」

「はい。嘘だったらまた水をかけてもらっても構いません」

「あ、えっと、そっか。……じゃあその、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

「あと、水ぶっかけちゃってごめんなさい」

「おきになさらず」

 

 アイドルが自分にできるか不安や緊張はあるが、できると信じてやってみようと加蓮は思っている。

 

 安心したら、ぐうぅぅぅっと加蓮のお腹が大きく鳴り響く。

 

「お好きなものを注文していいですよ。前回、熱くなってしまいましたから、そのお詫びです」

 

 そうして加蓮は一番高いサンドイッチを注文しようと、店員を呼んだ。

 

 

 * * *

 

 

 学校帰りの加蓮は346プロにいた。スカウトされてから数日後の午後のことである。

 

 1枚1枚書類を確認していくプロデューサーの様子をじっと見守っていると、オレンジジュースが置かれた。氷が互いに当たりからんと小気味良い音が鳴る。蛍光色の事務員らしき人が出してくれた。この蛍光色、なんか見覚えあるな。

 

 事ここに至る経緯に複雑さはない。

 

 再び会った日の夜、アイドルにスカウトされたこと、そして『やってみるつもり』だと両親に伝えた。

 

 初めは驚いていた様子で、やがてなにやら目配せを交わした後に一晩考えさせてほしいと言われ、翌日学校から帰るとやってもいいと許可が出た。

 

 正直もっと紛糾すると想像していたから、こんなにあっさり許可が出るとは思っていなかった。やりとりした時間は合計で約10分ほど。

 

 その後、改めて貰った名刺の電話番号に掛けた。

 

『もしもし、加蓮だよ。うん、アタシがアイドルやることを許可してもらえたから。言ってたよね、価値も体力も作っていけば良いって、ガラスの箱を壊して夢を掴むのを手伝うって。できると信じられるように、ちゃんと、導いてくれるんでしょ?』

 

 電話口で対応したプロデューサーは『はい』と臆することなく即答した。

 

『そ。わかった。よろしくね』

 

 書類がどうのこうのと一通り説明されてから切る。

 

 それからは翌日には書類一式が速達で届き、必要事項を記載して、学校帰りに持ってきたのである。

 

「はい。確認しました。問題ありません。ちひろさん、あとは頼みます」

 

 書類の角を整えて蛍光色の人に手渡した。あの事務員らしき人はちひろというらしい。やっぱり見覚えがあるような気がする。思い出せないが。

 

「では、今日からよろしくお願いします。加蓮さん」

「こっちこそよろしく。あと、加蓮でいいよ。敬語もなしで」

「わかった」

「はー、それにしてもアタシもアイドルかぁ。なんか突拍子過ぎて実感湧かないな」

「これからレッスンやオーディションを受けることもあるから段々実感してくるはず」

「レッスン。アタシ体力ないから自信ないなぁ」

「トレーナーさんはプロだから任せて。サボるなよ?」

 

 プロデューサーは答えた。

 

「わかってるって」

 

 こうして厳しくしてくるオトナは久しぶりで、ちゃんと向き合ってくれていると感じて少し嬉しかったりする。母親は過保護だから余計かもしれない。あ、別にMとかではないので勘違いしないように。

 

「だよねー」

「あと学校にもちゃんと行くこと。加蓮はまだ高校生だからテストの結果も聞きます。あまりにも酷いと活動を抑えることもあるから、しっかり勉強すること。わかった?」

「えー」

 

 学校の勉強とアイドル活動の両立は、とても難易度が高いのではないだろうか。後の祭りだが、いまさらそんな風に思えてくる。

 

「さてと、今日はこれくらいで終わり。明日からレッスン始めたいけど、予定は大丈夫か?」

「うん。とくにないよ」

「なら動きやすい服装を準備して、また明日来てくれ」

 

 今日できることはもうなく、帰宅してドアノブに手をかけた。

 

「加蓮」

「なに?」

「帰ったらお父さんとお母さんに今日こんなことがあったって話してみるといいよ」

「もー、小さい子じゃないんだから」

「きっと喜ぶから」

「わかった」

 

 加蓮は改めてプロデューサーを呼ぶ。

 

「ねぇ、プロデューサー、アタシ、できるって信じてみるから、これからよろしくね」

「こちらこそ」

「じゃ、また明日」

 

 こうして加蓮はアイドルになった。まだまだ素人に毛が生えたようなものだが、確かな1歩を踏み出したのだった。

 

 

* * *

 

 

 翌日からの初めてレッスンで加蓮はすでにバテていた。

 

「はぁ……はぁ……、ふぅ」

「お、おい加蓮。大丈夫か?」

 

 同じくレッスンを受けている奈緒が心配そうに見つめている。彼女はあまり息切れをしていない様子だ。

 

「あ……、うん。奈緒は……全然……大変そうじゃ……ないね……」

「アタシも少しはきつかったけどさ、加蓮ほどじゃないよ」

「羨ましい。ふーー」

 

 加蓮は大きく息を吐き出した。ようやく呼吸が落ち着いてくる。

 

 軽いウォーミングアップだと聞いていたが、こんなきついとは思っていなかった。

 

 奈緒の様子から、これは本当にウォーミングアップに過ぎず──しかも軽めの──これでバテているのなら、単に加蓮の体力が無さすぎることを身を持って証明してしまったといえる。

 

「加蓮、落ち着いたか?」

「はい」

「なら、続きからだ。決して無理はするな」

 

 レッスンを担当するトレーナーの聖は再び、手拍子を始めた。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー」

 

 それに合わせて奈緒とともに体を動かす。

 

 ついていくのに精一杯で、自分の体力のなさをまじまじと実感させられる。これも真面目にしてこなかったツケだろうか。たとえ病弱だったとしても、少しくらいは体力を付けれたのかもしれない。

 

 軽めのウォーミングアップでこのきつさならば、通常のレッスンだとどれほどなのか。もはや想像がつかない。

 

 嫌になってくる。きつくて今すぐにでもやめたい。気安くスカウトを受けたのを、ちょっぴり、いや結構後悔してる。

 

 ──やめちゃおっか。

 

 頭をよぎる誘惑。それは決別できていない人生諦めムードの自分からのものだ。

 

 きつくてやめたいし、後悔もしてる。それでも、ここでやめるのはそれはそれで悔しい。

 

 もしかしたら結構めんどい性格をしているのかもしれない。

 

 ──とりあえず、もうちょっとそこで見ててよ。

 

 そう心の中でつぶやいて、加蓮はそれを続けた。息は上がっていて、姿勢も覚束ない。でも、やめなかった。

 

 頭も、腕も、脚も、必死に動かす。もはや意地といってもいい。

 

「そこまで!」

 

 聖がそう号令をして、一通りのウォーミングアップが終わった。

 

「へ……へへ、……やり切った」

「加蓮、水分補ったほうがいいって」

 

 奈緒から加蓮の分の水筒とタオルを受け取ろうとしたとき、視界が揺れて足からふっと力が抜ける感覚が襲ってきた。その場でバランスを崩す。

 

「加蓮!」

 

 焦った奈緒が名前を呼んだ。このまま倒れ込もうとしたが、誰かに受け止められた。

 

「大丈夫か、加蓮」

「プロ……デューサー」

「少し座るんだ」

 

 床に座って水分補給と汗の処理を行う。彼の声を聞いてほっと安心した。

 

「怪我はない?」

「うん。あはは、ごめんね。アタシ相当体力ないみたいでさ。今のもやっとだったんだ」

「途中から見てたから、わかってる。でも、やり切っただろう?」

「うん!」

 

 加蓮の眼をまっすぐ見通してプロデューサーが聞いてくるので力を振り絞って答えた。

 

 壁際で休ませている間に聖はプロデューサーと今後の課題と計画を話し合う。

 

「奈緒は体力は普通程度で、疲れてくると動きに正確さがなくなってきます。加蓮は見た通り、体力づくりからです。1曲でへばっているようではステージには立てないでしょう。今後は体力づくりを組み込んだ基礎レッスンを中心にしていきます」

「わかりました。よろしくお願いします」

「任せてください。プロデューサー殿。よし、お前たちそろそろ休憩は終わりだ。加蓮、立てるか?」

「……な、なんとか」

「ならいい。あまりにも呼吸がきつくなったらすぐに言うこと。レッスンは体を壊すためのものじゃないからな」

 

 その後も小休憩をちょくちょく挟みつつ、加蓮はクタクタになりながらも初日のレッスンを無事にやり終えた。

 

 レッスン後、クールダウンを経てシャワーを浴び、プロデューサーに一声掛けてから奈緒とともに加蓮は帰宅の途についた。 

 

「なんか、ごめんね。アタシのせいでレッスン何度も中断しちゃって」

 

 エレベーターの中では終始無言だった加蓮が、正面玄関口辺りで切り出した。

 

「気にすんなよ。アタシもインドア派だから体力あまりないし」

「奈緒はまだいいほうじゃん。はー、アイドルってやっぱ体力勝負なんだねぇ。レッスンきついー」

「ステージに立つなら尚更だろうな。聖さん厳しいし。まあいつかは立ってみたいからレッスン頑張るけどさ。可愛い衣装も着たいし。加蓮もだろ?」

「まーね。プロデューサーが導いてくれるっていうし。でも奈緒がいてくれてよかった。アタシ1人じゃもう心折れてたかも」

「ならお互い様だな。アタシも助かってたよ。やっぱ誰かとやるのはいいもんだ。これからもよろしく」

「こっちこそ、可愛い先輩さん!」

「先輩なんて言われるほど長くないぞ。加蓮とほぼ同じくらいじゃんか。それに……か、可愛いって……」

 

 奈緒の顔が少しは赤らむ。可愛いと言われることにあまり慣れていないのだろう。

 

「あ、奈緒が照れてるー」

「はぁ!? て、照れてなんてねーし!」

 

 加蓮はそんな奈緒を言葉でつついてみたりしつつ、2人で駅まで歩いていった。

 

 なお、翌日の加蓮はレッスンによる全身の筋肉痛に悲鳴を上げることになるのであった。

 

 

 

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