プロデューサーはじめました。   作:テラリウムA

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9話 拾い猫

 朝、目覚まし時計がキンキンに鳴り響き、前川みくは目を覚ます。ベッドから身を起こし、眠気を払うように頭を横に振る。そのまま5分ほどぼーっとしたしていたが、意を決してベッドから下りる。

 

「ふあぁぁぁぁ~……」

 

 あくびをしながら軽くベッドメイキングして、カーテンも開けて洗面所へ向かう。

 

 歯磨きをしながら、鏡に映る自分を見て寝癖がついていないか確認する。どうやらひどいのはないようだ。口をゆすぎ、台所へ。

 

 冷蔵庫から牛乳といちごジャムを取り、昨日買っておいた食パンにジャムを塗り、コップに牛乳を注ぐ。テーブルまで持ってくのがめんどくさかったのでその場で立ち食いで済ませた。

 

 壁に掛けた猫を象った時計は6時半を示している。

 

 洗濯機に服とかタオルとか下着とかを放り込んで、洗剤と柔軟剤を用量ぴったり入れてスタートボタンを押す。

 

 洗濯が終わるまでの時間に食器をささっと洗い、スマホのロックを解除して通知を確認する。今日もまたとくに何もなかった。まあ期待はしていないけれども。

 

「はーあ……」

 

 学校の準備をしつつ、自前の猫耳と猫しっぽもしっかり準備しておく。いざというときに使えなければ意味がない。立派な猫アイドルになるためには最重要装備といっても過言ではない。

 

 猫耳のない猫アイドルなど唐揚げのない唐揚げ弁当のようなもの。存在意義すら薄れてしまう。

 

 一応スケジュール手帳もあるものの、めくってもめくっても予定はまっさらで、雑な猫に矢印で『ネコチャン』と書かれた落書きがあるくらいだ。

 

 ため息とともに閉じてそれもかばんにしまう。

 

 終わったぞ、と急かすようにピーピー合図をする洗濯機。女子高生の一人暮らしという状況なもんだから外に干すのは不安で浴室に干すことにしている。この時点で7時過ぎだ。

 

 そろそろ出よう、遅刻なんて論外だとパジャマを脱いで制服に着替える。紺色のブレザーにリボン、シワのないプリーツスカート、ニーハイソックスを着用すればピカピカの高校1年生の完成である。赤縁の眼鏡も忘れてはいけない。

 

「準備よし」

 

 持ち物も服装も最終確認、そして異常無し。準備が整ったみくはレースのカーテンのみを閉めると玄関で靴を履き、家を出た。 

 

「いってきまーす」

 

 一人暮らしの室内にその挨拶が空しく吸い込まれていく。返事が来ないことを知っているみくは、そそくさとドアを閉めた。

 

 

 * * *

 

 

 つつがなく学校を終えたみけは帰宅の途につく。駅の改札を通ろうとして、ふと足を止めた。このままどこか寄って帰ろうとそう思った。別に大した理由なんてない。強いてあげるなら、今日も時間がたくさんあるから。

 

 どこ行こうか悩んだ末、結局近くのカフェにした。カフェといってもおしゃれな個人経営ではなく、名の知れた全国チェーンである。

 

 電車でぶらり途中下車の旅でもしようかなんて考えたが、自由に使えるお金が少なく、やめた。カメラや散歩が趣味ならば躊躇なく行っていただろう。

 

「コールドブリューコーヒー、トールでお願いします」

 

 前の人のやたらめったら長い呪文の後、自分の注文をして代金を支払い、少し待って受け取り、空いている席に座る。

 

 ちらりとまわりを見渡すと、ノートパソコンで仕事をしているサラリーマンから談笑中の親子、友達同士、読書している人など様々だ。

 

 コーヒーをストローで吸いながらスマホでネットサーフィンをしているとメッセージアプリの通知がピコンと表示された。送り主は大阪にいる母だ。

 

『みく、そっちはどう?』

『問題ないよ。そっちは?』

 

 簡潔に返事をする。するとすぐにまた来た。

 

『こっちも。荷ほどきも終わったし、ご近所に挨拶もしたわ』

 

 みくの両親は今、大阪にいる。

 

 彼女とその両親は、今年の3月まで一緒に暮らしていた。もともとは大阪に住んでいたが父親の転勤の都合で小学生のとき東京へ引っ越した。そして今年また大阪に転勤となった。Uターンである。

 

『大阪もずいぶんと変わったわよ。近くにあった豆腐屋もね、なくなってコインパーキングになってた。あと、商店街もシャッターだらけ』

 

 なんとなくあの辺なんだろうなと限りなく薄くなった記憶と照らし合わせて想像する。

 

『みくのほうは? 何かお仕事決まった?』

『ううん。まだレッスン中』

 

 すぐに既読が付いて『がんばれ』とスタンプが送られてきた。ありがとうのスタンプを送って、アプリを閉じる。

 

 椅子の背もたれに寄りかかって天井へ視線を向ける。ため息はでないが、代わりに涙が出そうになったので慌ててまばたきをして誤魔化した。

 

「……ごめんなさい」

 

 その謝罪は喧騒に消えた。

 

 レッスン中だなんて嘘をついた。今はもうそれすらしていない。そもそもどこの事務所に属しているのかすら不明瞭だった。

 

 約1年前、用事があって出掛けていたときに芸能事務所のスカウトだという人に声をかけられた。

 

 ぶっちゃけ、アイドルには興味があったしちょっとは見た目に自信があったから、それを受けてアイドルになった。

 

 正統派アイドルでのデビューを目指そうとしたのはいいが、そんな考えは甘かったことをすぐに痛感した。いや、させられた。

 

 自分と同じくらい可愛いか、あるいはより上の子がそれはもうゴロゴロといたのだから。

 

 このままでは何も残さずに消えていくと思ったみくは、自分の好きな猫を参考に猫アイドルを目指した。猫耳を付け、猫しっぽも付け、文中や語尾に『にゃ』とか使うようにした。

 

 最初こそそれで良かったかもしれないが、活動を始めて半年ほど経ったあたりでその事務所から伝えられたプロデュース方針は猫路線をやめることだった。猫はありきたり、これからはキリンの時代などとのたまうのだ。

 

『なんでキリン!?』

 

 当然ながら反発したし、とうしても受け入れられなかった。レッスンはこなしていたもののすれ違いが生じていたし、猫路線を押し通したからか、あまり仕事がまわって来なかった。

 

 もし、ここで意志疎通の場でも設けられていたら変わっていたかもしれない。もしもの場合ではあるが。

 

 その時に声をかけられた。それは別の事務所の人らしく、名刺も渡された。

 

 方針の違いもあり、みくはそれを受けて移籍した。ちょうど師走の頭くらいだ。ちゃんと調べもせずに鵜呑みにしてしまったことが間違いだったと気付くのはもう少し先になる。

 

 移籍して最初の数回の間はレッスンらしきものや担当との面談をしたが、目付きはいやらしいしボディタッチのようなスキンシップ──担当いわくどこもこんな感じだから──がだんだん激しくなった気がしていた。

 

 そしてある日に会ったときにお尻を触られた。あれは間違いなく手だった。

 

 咄嗟にやばいと感じて、荷物を引っ掴み、その事務所を走って逃げ出した。

 

『あ、おい!』

 

 怒ったような声で呼び止められたが無視した。結局、追いかけられることもなく、無事に帰宅は出来た。

 

 それから月日が経ち、今に至る。今日までに訪問も電凸も手紙もなかったのは不幸中の幸いかもしれない。

 

 すっかり宙ぶらりんになってしまった自分をどうしたらいいのか、皆目検討もつかない。かばんの中の猫耳としっぽも今やただの荷物となってしまい、スペースを圧迫している。

 

 このことは両親には言っていない。伝えようとしたものの、結局言い出せなかった。もたもたしている間に父の転勤で両親は大阪へ、みくは東京に残り一人暮らしとなったのである。

 

 高校へ入学して早くも1ヶ月以上過ぎている。毎日帰宅部であてもなくふらふらしている。

 

 アイドルは続けたいのでオーディションは何件か受けたが、この現状の打開策になってくれるのか。

 

 不安と焦りを感じつつ、それを押し戻すように彼女はコーヒーを一気に飲み干した。

 

 

 

 

 空が夕焼けに染まるまでカフェで時間を潰して、最寄り駅から自宅近くのスーパーで買い物をして帰宅する。郵便受けを確認すると、1通の封筒があった。

 

 宛名はみく宛で送り主はとある芸能事務所だ。規模の小さいところだ。先月、そこのオーディションを受けたからその結果に違いない。

 

 荷物を下ろし、制服をハンガーにかけて腰をおろし一息つく。さっそくハサミで封を切り、封書を引き抜く。

 

 結果は──不合格だ。

 

「うにゃあああぁぁぁぁぁ!」

 

 うなだれるように床に寝っ転がる。

 

「はぁ……ダメだったな」

 

 10分ほど天井を見ながらぐでっと呆けていたが、ばっと起き上がり頬をぱんぱんと叩く。ひりひりするが同時に目が覚めた。

 

「ううん、諦めちゃダメ。まだまだがんばるんだから!」 

 

 みくはスマホを手に取り、芸能事務所のオーディションがないか、探し始めた。

 

 

 * * *

 

 

 あれから2週間ほどが過ぎた。学校生活に限って言えば順風満帆だ。友達もできたし、授業にもついていけている。

 

 アイドル活動についてはからっきし、それどころかオーディション全落ちである。

 

「……なぁんでにゃぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 テーブルに頬を乗せ半分溶けかかってるような表情で苦悶の声を垂れ流す。

 

「やっぱりこのまま……アイドルできなくなっちゃうのかな」

 

 目頭が熱くなっていくのを自分でも感じる。泣くな自分、と奮い立たせようとしたが無理そうだった。そのまま10分ほど体を小刻みに震わせた。

 

 

 

 

 いい天気だから気分転換に散歩に出る。

 

 土曜日の午後ということもあり、街行く人々の顔は晴れやかにみえる。平日だったらもう少しどんよりしているのだろうか。

 

 大通り沿いを進んで駅前に出て、適当に駅ビルをウィンドウショッピング。遠回りになるが、来た道とは別の通りをあてもなく進む。

 

 徒歩にしてはだいぶ遠くまできた。気分も晴れやか!とまではいかないがちょっとは落ち着いた。そろそろ家に帰ろう。

 

 途中でスーパーにでも寄ってから、と考えていると、すれ違い様に通行人の会話がつい耳に入ってきた。

 

「ねぇプロデューサー、飴ないの飴」

「さっきあげたけど」

「えー、杏一応アイドルなんだよ? 正当な対価として飴を要求するぅ!」

「レッスンしかしてないだろ」

「レッスンだって立派なアイドル活動でしょー」

 

 その会話にハッとして振り返れば、スーツ姿の男性と幼女っぽい女性が並んで歩いていた。

 

「あ、あのッ!」

 

 もしかして芸能事務所の人なのかと考えるより先に体が動き、反射的に呼び止めてしまった。2人は呼び止めたみくへ振り向く。

 

「あ、えっと……」

 

 視線が2人分突き刺さる。なんて言えばいいんだろう。咄嗟のことだったから言葉が思い付かない。

 

 2人は不思議そうな表情でアイコンタクトをしていた。

 

 変なの絡まれたとか考えているのだろうか。だとしたら当然かもしれない。いきなり呼び止められた上、相手が何も言わず口をパクパクさせているだけなのだから。不審者極まりない。

 

 体感では何倍も長く感じた1分が終わりかけたとき、幼女っぽいほうが口を開いた。

 

「もしかして杏のファンだったり?」

 

 つられるように男性も続く。

 

「まだデビューもしてないでしょ」

「ちぇー。はーあ、印税生活はまだまだ先かー。それで、杏たちに何か用?」

 

 がっくり肩を落とす幼女っぽいほうが尋ねてきた。

 

「道にでも迷いましたか?」

 

 道に迷っているのはある意味で当たっている。あくまでアイドルとしての道だが。

 

「あの、……こんなこと言ったら変かもしれないんですけど、少し話を聞いてもらいたくて。アイドルのことで……」

 

 2人は揃ってきょとんとする。

 

 こいつは何を言っているんだ、ともし自分が同じ場面に遭遇したら思うはずだ。不審者として通報するかもしれない。

 

「んー、あっちにさ、ファミレスなかったっけ」

 

 幼女っぽい女性がそう隣の男性に伝えた。彼もそれに同意した。

 

 

 

 

 ファミレスのテーブル席にみくはさきほどの2人と向かい合うように座っている。窓際の席でガラス越しに通りが見える。

 

「ご注文はお決まりでしょうか」

「ポテトL、オレンジジュース2つ、ウーロン茶1つ。以上です」

「かしこまりました」

 

 プロデューサーと呼ばれた男性が注文を終えると、軽く礼をして店員が離れた。

 

「それで、話とは。ああ、まだ名乗っていませんでしたね。私は天津。こっちが双葉杏です」

「よろしく~」

「あ、私、前川みくといいます。15歳で高校1年生です。……お2人はその、プロデューサーとアイドル、なんですよね?」

 

 2人は顔を見合わせた。

 

「変な意味じゃなくて! 会話が聞こえたといいますか、聞こえてしまったといいますか……盗み聞きしようとか、そういう意図はなくてですね!」

「まあまあ落ち着きなよ。水飲んで」

「はい……」

 

 お冷やを一口。おいしく感じる。

 

 それにしても、なんて冷静沈着な子なんだろう。年下には思えない落ち着きようだ。それに比べて自分は……。

 

「それで、天津さんと双葉さんの会話が聞こえて呼び止めてしまいました。……すみません」

「いえいえ、お気になさらないでください。前川さんの言う通り、私はプロデューサーをしています。杏もアイドルです。まあ素人に毛が生えたようなものですが」

「どやぁ」

 

 杏が誇らしげにない胸を張る。

 

「あの、いきなりこんなこと頼むのは良いのかわかりませんが、天津さんのプロダクションに私も入れていただけないでしょうか」

「所属したいということですか?」

 

 みくは静かにうなずく。

 

「理由を伺っても?」

「アイドルを、諦めたくないんです。私、もともとは別の事務所に所属していて、でも私は猫系アイドルをやりたかったんですけどそこの事務所の方針と合わなくて。そのときにまた別の事務所から声がかかって」

 

 みくは、彼らに自分の現状を嘘も誇張もなく伝えた。途中、注文した品が届き、杏はポテトを1本ずつちょびちょび食べている。天津プロデューサーは黙って聞き役に徹している。

 

「我が儘を言っていることはわかっています。でも、どうかお願いします……!」

 

 テーブルにおでこが付きそうなくらいに深々と頭を下げる。ため息まじりに呆れられても、調子に乗るなと罵られてもいい。もしかしたらこれが最後のチャンスになるかもしれないんだから。

 

「頭を上げてください、前川さん。お話はわかりました。私から1つお聞きしたいのですが、よろしいですか?」

「はい」

「あなたにとってアイドルとはなんですか?」

 

 みくはその問いを考える。

 

 アイドルってなに? 夢、希望? お金、権力? 人気、承認? いったいなんなんだろう。

 

 早く答えないとまずいかもしれない。汗が頬を伝い、空気をごくりと飲み込む。

 

「私にとっての、ア、アイドルは……」

 

 言葉が出てこない。

 

 ──あ、終わったな。これ。

 

 そう諦めかけたとき、『みゃーお』と鳴き声がした。声のした方向へ意識を向けると白い猫が自分の隣にいた。

 

「申し訳ありません、お客様! 迷いこんできてしまったようで。すぐに捕まえますので!」

 

 ドタバタと慌てた店員が近づくと奥のほうへささっと逃げていってしまった。

 

 隣のテーブルの子供が「猫ちゃん、可愛いかったねー」と話している。写真を撮ってる女子高生くらいの女の子たちが猫の明るい話題で盛り上がってもいた。

 

 ちょっとした騒動で少し冷静さを取り戻したし、猫の良さを改めて実感した。同時に、さきほどの問いに答えられそうな気がした。

 

 みくは口を開く。

 

「…………なりたい自分になれる方法、です。さっきの猫チャンのように気まぐれで、自由で、見た人を魅了し、癒しを与えられるような、そんな存在になれるものだと思っています」

「わかりました。ありがとうございます。前川さん」

「は、はいッ!」

 

 背筋がピンと伸びる。止まってしまうのではないかと心配になるほど心臓がバクバクしている。

 

「残念ながら、この場で返事をすることはできません。連絡しますので、電話番号を教えていただけますか?」

 

 もしかしたらを期待したが、やはりそうそううまくはいかなそうだ。せっかくのチャンスを取りこぼしてしまったのかもしれないと思うと、血の気が引くような感覚に襲われた。

 

「あ、はい、わかりました」

 

 どんな表情でそう言ったのかわからない。鏡がなくてよかった。

 

 言われるがまま電話番号を交換して、その場で2人と別れた。

 

 帰宅したみくは、すぐにベッドの中で丸くなった。

 

 

 

 

 学校から帰宅したみくは、床に教科書やらなんやらかばんを置く。ドスンと重めの音がした。

 

 毎日が代わり映えもせず、するすると流れていく。あの2人に出会ってから明日でちょうど1週間。いまだスマホの着信音は鳴らない。

 

 脱いだ靴を揃えて、玄関から荷物を持って洋室へ。厚手のカーテンを開けると薄暗かった室内に日光が差し込む。

 

 突如、軽快な音楽がここに響き渡った。それは聞き覚えのある曲で、着信音に設定している。

 

 慌ててスマホをポケットから出すと、発信者は天津だ。恐る恐る応答をタップし、耳に当てる。

 

「も、もしもし」

『もしもし、前川みくさんのお電話で間違いないでしょうか?』

「はい! 前川です!」

『先日お話した件についてお電話しました。今、大丈夫ですか?』

「はい」

『私のところのプロダクションに所属したいとのことてしたが』

 

 ああ、来る。心の準備をしろ、みく。

 

 どんな結果でもいいから早く聞かせてほしい。次の言葉がやたらと遅く感じる。

 

『上とも話しましたが、問題ありません』

「……っ!」

『346プロダクションへようこそ、前川みくさん』

 

 そこから先はあまり覚えていない。涙はあふれてくるし、鼻水も垂れ流してるし、あとヨダレも。

 

「はい、はい、ありがとうございます。はい」

 

 鼻声で書類云々とか日程云々とかいろいろ話したような気がする。嬉しさのあまりうろ覚えなのは大目にみてほしい。

 

 電話を切った瞬間にその場にへたりこんだ。腰が抜けたようだ。

 

「あは、あはは、あははは……」

 

 おかしな笑いが口から出てしまう。一人暮らしで良かった。

 

 とりあえず明日の朝一で346プロダクションに行くことになった。今から準備をしておこう。

 

「え、346プロ……?」

 

 2度目の衝撃が来るまで残り3秒である。

 

 

 

 

 翌日、電車で346プロへやってきたみくはその大きなビルを見上げる。

 

 実は昨日の電話は焦ったみくが作り出した幻聴だったと言われても『あ、そうだったんだ』とすんなり納得できてしまいそうだ。それほどまでに346プロは大きな事務所だし、世間一般の人に聞いても同意を得られるだろう。テレビや広告に採用されている俳優も多く所属する。

 

 ヤバイにゃ、ヤバイにゃ、ヤバイにゃ。

 

 緊張で語彙力が通常の3割程度しか発揮できない。難しいコミュニケーションになるかも。

 

 受付を済ませ、エレベーターに乗り、目的のフロアを目指す。

 

 ぐんぐんぐん上がっていくにつれて、胸のドキドキも高まっていく。

 

 エレベーターが到着し、胸に手を当てて深呼吸をする。そして1歩踏み出した。

 

 廊下はとても静かで落ち着いている。

 

 エレベータードアの向かいの壁に『←レッスンルーム』と『プロジェクトルーム→』の案内板が貼られている。それに従って右へ行く。

 

 いくつかのドアを通り過ぎて、プロジェクトルームの前に立つ。

 

 ノックをして、ドアノブをまわした。

 

「お、おはようございます! 前川みくです! よろしくお願いします!」

 

 大きめの挨拶がスタッフルームに響く。10秒ほど頭を下げていたが、反応がないので恐る恐る顔を上げた。

 

 元気が良すぎて、初っぱなからやってしまったのだろうか。

 

 目だけでぐるりと見渡すと誰もいない。

 

 とりあえず一旦部屋を出ようとしたとき、ソファからむくりと頭が出てきた。

 

「もー、杏寝てるんだけどぉー」

 

 眠い目を擦りながら、杏がぶつぶつ文句を言っている。

 

「あれ? 前川さんじゃん。どったのこんなところで」

「昨日連絡を貰って」

「ふーん。良かったね。杏寝るからよろしく。あ、プロデューサーならすぐ戻ると思うから」

 

 そこまで言って杏の頭は引っ込んだ。ソファではうさぎのぬいぐるみを枕にして杏がぐうぐう寝ている。

 

 杏の言う通り、すぐに天津プロデューサーが戻ってきた。

 

 そこからはあれよあれよと話が進んだ。1時間ほどで説明は終わり、アシスタントの千川ちひろやトレーナーの青木聖も紹介され、いつでもレッスンを始められるとのことだった。

 

 女子寮に入居することも決まり、こうして前川みくのアイドル活動が再スタートを切った。

 

 

 * * *

 

 

 前川みくが到着する10分ほど前の346プロダクションのオフィスビル30Fにある常務室。

 

 そこにはプロデューサーと今西部長、そして美城常務の3人が集まっている。

 

「本日から前川みくが所属となります。彼女の懸念点であった○○事務所ですが、先月警察により摘発されており、すでに解散しています。法務部にも確認しましたが、問題ないとの回答です。現在、みくと杏を合わせて計9人となります」

「そうか。レッスンについてはどうなっている」

「ニュージェネの3人はダンスレッスンがメインとなっています。楽曲も完成しましたので、近々ボーカルレッスンを本格的に組み込む予定です。ボイストレーナーは聖さんのご紹介で妹の明さんにお願いしました。残りの6人もニュージェネとは別スケジュールでレッスンを組みます」

 

 美城常務は「わかった」と手にしていた書類をデスクに置く。

 

「ひとまず順調なようだ。決して気を緩めることなく事に当たるように」

「はい」

「今西さん、何かありますか?」

 

 ヘルニアによる入院生活も終わり、今西部長は元気に現場復帰している。

 

「僕はいいと思うよ。スケジュールも無理はないし、アイドルのみんなも過剰な負担が掛かっていないからね」

「そうですか。天津君、アイドル部門にとってこの1年はとてつもなく重要なものになる。君の手腕にかかっていると言ってもいい。そこをよく理解しておくように」

「わかりました」

「では、各自仕事に戻るように」

 

 プロデューサーと今西部長は統括室を出た。

 

「常務に報告するのは相変わらずヒヤヒヤしますね」

「そうかい? 君はもう慣れたかと思ったよ」

「ただ表情に出さないだけです。常務からのプレッシャーはひしひしと感じてますよ」

「まあ彼女にとっては一世一代の賭け事だから、つい圧をかけてしまうんだ。わかってあげてくれ」

「はい。あ、そろそろ前川さんが来るので失礼します」

「うん。よろしく、頼むよ」

 

 今西部長と別れ、プロデューサーはプロジェクトルームへ早足で戻った。

 

 

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