日が完全に落ち、辺りが静寂に包まれた夜。テントにかけてあるランプ以外に明かりがないノルドの村では、とある一つのテントに村に住む民たちが一同に集っていた。
テントの中ではノルドならではの郷戸料理が並んでおり、大人から子供まで料理を盛りつけた皿を持ちながら楽しく談笑をしていた。
ノルドでは一族の結束を強めるために、週に一度、民たち全員で立食会をする風習があった。
そして、その立食会にはエドたちの姿もあった。
ラクリマ湖で隠居しているラインフォルト社の前会長、グエンとルーレから来ていた彼の実家に勤めているラインフォルト家のメイド、シャロンを連れてきたエドたちはラカンたちのご厚意で食事会に参加することになった。
グエンはラカンと村長のイヴンと酒を交わしながら、時々、笑い声などを上げていた。
一方でグエンと共に食事会に参加していたシャロンは、なんとセリスと話に花を咲かせていた。
「まぁ、大旦那様がそんなことを……」
「あぁ、そうだ。アタシだって気にしてるってのに。あのクソジジィ、ふざけたことを抜かしやがって……」
「フフフ……、それは確かにおいたが過ぎますわね。大旦那様には私の方でしっかりと言っておきますので、ご安心ください」
「お、おう」
シャロンから放たれる黒い笑みにセリスは頬を引きつらせる。この後、グエンをどうするというのか。聞くのが逆に怖い。
「ところでセリス様とエドワード様はいったいどのようなご関係でございますか?」
「うぇあ!」
突然の話題に顔を赤くするセリス。その反応にシャロンの口端がうっすらと持ち上がった。
「まぁ、やっぱり、そのようなご関係なのですね。いったい、どういった経緯でそうなったのか、詳しく聞いてもよろしいですか?」
「い、言うわけねぇだろ! つか、てめぇ、どっか絶対に楽しんでるだろ!」
シャロンからの追求を何とか躱そうとするセリス。セリスの反応にシャロンは本社で暮らしている小さな主の姿を重ねてしまい、それからも彼女の後を追いかけ回すのであった。
「驚きました。まさか、師父にそのような一面があるとは……」
セリスたちと少し離れた位置にいるガイウスはエドの話を聞いて、目を見開いていた。
自分の師であるグンター・バルクホルンを話題にエドと対話していたのだ。
「まぁな。厳格そうに見えるけど、いろんなものに興味を持っていたからな。ありゃ将来、神父やめたら、はっちゃけるかもしれねぇな」
「そうでしょうか?」
「おう。たぶん、部屋にジャズを流して優雅にたばこを吸ったり、新型の導力車に乗って世界中を走り回るかもな」
にわかに想像できない光景にガイウスは難しそうに顔をしかめる。
その様子を見守っていたエドは食事会の様子を見回し、あることに気づく。
「? オランピアの奴、どこに行ったんだ?」
テント内にオランピアの姿がどこにも見当たらず、エドは首を傾げるのであった。
~~~~~~~
時間はほんの一時間前まで遡る。
立食会をしているテントから少し離れた場所。
広場より狭い、何もない少し空いたところにあるゆったりとした坂道にオランピアは両膝を両腕で組んで、静かに座っていた。
特に何かをしているというわけでもなく、ただ呆然と前を見続けているだけだった。
「はぁ……」
深くため息をつくオランピアは、そっと自身の唇に手を添える。ため息をついていた割には頬は少し赤くなっており、表情もどこか上の空だった。
「私、エドさんに……」
思い出すのは、ラクリマ湖での出来事。
階段を踏み外し、転げ落ちそうになったところをエドに助けられたオランピア。
だが、その時に自分は誤って、彼の頬にキスをしてしまった。
「~~」
オランピアは真っ赤にした顔を両手で隠して、俯きながらもだえてしまう。
彼の頬にキスをしてしまったことに、オランピアはいまだかつて感じたことのない胸の高鳴りに混乱する。
この高鳴りは今に始まったことではない。
彼と手を繋いだり、抱きついたりした時にも似たような高鳴りは感じていた。
だが、今回のは今までのとは比較にならない。
今だって彼と目を合わせるとあの時の光景が鮮明にフラッシュバックし、恥ずかしさのあまり目を反らしてしまう。
彼女が立食会から抜け出して外にいるのも、彼と同じ場所にいづらかったからだ。
「私、どうしちゃったんだろう……」
今も胸をぎゅっと締め付けるこの気持ちが何なのだろうか。
こんな状態でどう彼と向き合えればいいのだろうか。
考えても何も思い浮かばない。
心を溶かしてしまいそうな揺れる想いに少女の時間は奪われていった。
「何を俯いておるのじゃ?」
そんな浮足立っている彼女を呼ぶ女性の声。初めて聞くその声にオランピアは顔を上げる。
顔を上げた先にいるのは、自分と同じくらいの背丈をした小さな少女だった。
整った容姿にうっすらと見える八重歯は年相応の可愛らしさを強く引き出していた。
だが、同時に足まで届く金髪を手でなびかせ、つり目になりながら、透き通った緋色の目をオランピアに向けるその姿は年不相応な大人っぽさを引き出していた。
「えっと、誰ですか?」
明らかにこの地に住む者ではない少女の出で立ちにオランピアは警戒してしまう。
その様子を気にすることなく、少女はオランピアに近づき、遠慮なしに彼女の隣へと座った。
「安心せい。お主に何かをするつもりはない。するつもりならわざわざ声などかけまい」
見た目とはそぐわない年寄りじみた口調で話す少女は、目を細めて、オランピアの顔を覗き込む。
悪意を感じさせない柔らかな視線にオランピアは警戒を解いてしまう。
「えっと、それであなたは?」
「妾か? 妾はローゼリア。ロゼと呼ばれておる。お主は?」
「オランピアといいます」
「そうか。それでオランピアよ。どうして俯いていたのじゃ?」
「そ、それは……」
初対面だからか、はたまたあまり教えたくないのか、オランピアはロゼの問いかけには答えずに、再び顔を俯かせてしまう。
答えてくれない彼女にロゼはため息をつき、顔を空へと見上げる。
「……オランピアよ、空を見上げるのじゃ」
「空?」
ロゼの言われるがまま、空を見上げたオランピアはそこに広がる景色に言葉を失う。
そこに広がるのは曇りが一切ない満天の星空。
赤く、白く、青く光る星は宝石のように輝き、夜の闇を美しく照らしていた。
「俯くくらいなら、こうして空を見上げて風に当たった方がいいじゃろう?」
「……はい。そうですね」
今までの不安が輝く夜空に吸い取られていき、オランピアの瞳は徐々に輝きを示す。
「まったく、あの朴念仁の言葉がここまで効くとはの……」
ロゼは呆れながらも少し物憂げな声で呟きながら、再び空を見上げるのであった。
それから二人は坂の上に寝転がり、空を正面に見据えて他愛もない話を繰り広げる。
オランピアは今までの経緯を少し濁らせながらロゼに話していた。
クロスベルでエドと出会ったこと。憧れのイリアに出会えたこと。
リベールでの学園祭や、初めての友達であるクローゼのこと。
帝国での夏至祭や、そこで出会ったデュバリィという若き騎士のこと。
まるでアルバムに入れていた写真を眺めながら語るように、オランピアは一つ一つ思い出しながら話していた。
一方で、ロゼもまた自分の思い出を語り出す。
二人が今いるノルドの地で出会った唐変木で朴念仁の友人のことを。
レグラムで出会った、誰よりも優しく、誰よりも誇り高かった親友のことを。
その親友が朴念仁の彼に好意を抱いていると知った時は心底驚き、必死になって彼にアプローチをする彼女の様子につい笑いこけてしまったこと。
本当に他愛もない、どこにでもある思い出話を二人は星空の下で語り続けていた。
「唐変木のあの馬鹿者は的外れの答えを言っての。親友はあまりのひどさにその馬鹿者を殴り続けたのじゃ。周りの者たちが止めるまで馬乗りになってずっとな」
「それは……大丈夫だったんですか、その彼は?」
「翌日にはケロッとした顔で出てきたぞ。親友の機嫌の悪さを『腹が減っていたんだろう』とかまたぞら的外れなことを言っての」
「……また殴られました?」
「蹴られたの。下を押さえて地面に転がり続けとったわ」
その光景を思い出したのかロゼは子供のように笑い上げ、それにつられてオランピアもつい口元が緩んでしまう。
「お主のとこのエドじゃったか? 女を振り回す所は妙にあやつを連想させるの」
「そ、そうでしょうか?」
「うむ。そして、お主はその男を憎からず想っておる。違うか?」
ロゼの追求にオランピアは急に黙ってしまう。自分がエドにどういった感情を抱いているのかと考え込んでいるのだ。
「……正直言うと、わからないんです。私は何も知らなくて、まだたくさんの経験を積んでいません。だから、エドさんのことをどう思っているのか、この気持ちを何て呼ぶのかわかりません。ただ、彼が隣にいると胸がすごくドキドキして、彼がセリスさんの隣にいると胸がもやっとしてしまうんです」
そして、夕暮れに起きたあの出来事を思い出す。
「手を繋いだり、抱きついたりしてドキドキすることは何度もありました。でも、彼の頬に唇を当ててしまった時、この気持ちが一気に膨れ上がったんです。彼を見るだけで、意識するだけで頭が真っ白になってしまうんです」
「……そうか」
その後もオランピアはいままで抱えこんでいた思いを、悩みを吐き出す。
まだ会って、数分しか経っていない少女相手にオランピアはすべてをさらけ出した。
それにロゼは何も言わずに、ただ黙って耳を傾けて頷くだけだった。
「す、すみません。話が長くなってしまって」
すべて吐き出したオランピアは自分の醜態に気づき、最後まで聞いてくれたロゼ謝罪をする。
「かまわん。聞こうと思ったのは妾の方じゃからの。じゃが、お主がわからぬのも無理はない。お主が抱く"それ"は言葉にするのはとても難しいものじゃからの」
「そうなんですか?」
「うむ。言葉で語るような論理的な話ではない。心や感情といった曖昧なものの話じゃからな。お主がエドという者にしてしまったキスもまさにそれじゃ」
キスという言葉に再び赤くするオランピア。その様子にロゼは微笑みながら話を続ける。
「たとえば、親や兄弟といった家族、もしくは同性の友人にキスをしたり、されたりした時、多少恥ずかしくは思うが、できないというわけではないだろう?」
「それは……、そう、ですね」
ロゼからの問いかけに少し困惑するオランピアだったが、こくっと静かに頷いた。
事実、村にいた頃、眠る前に父と母の二人から頬にキスをされたことはあった。それに対して少し気恥ずかしいと思ったことはあったが、嫌だと思ったこともなかった。
「それでは、エドとはもう一度やれるか?」
「え?」
自分が彼にキスをする。もしくは彼が自分にキスをする。
それを想像した瞬間、身体が急に熱くなってしまった。
「そ、それは……」
「改めて考えると恥ずかしいと思ったか?」
「は、はい」
「そうじゃな。じゃが、それが普通じゃからの。それに今回のように頬にするのと、口と口でするのとでは、まったく意味が違ってくるからの」
「く、口と口……っ!」
もはや想像すらできなかった。頭が真っ白になるとかそんな話じゃない。
それを思い浮かぼうとした瞬間、頭の中にあるものが一気に吹き飛んでしまった。
「さ、されたくありません! 何というか、その……」
「そうじゃ。簡単にさせてはならぬ」
ロゼはオランピアの唇に指を添える。
ロゼは子供とは思えぬ真剣な表情でオランピアに告げる。
「オランピア。頬にキスをするのは『親愛』の表れじゃ。じゃが、口でのキスは『誓い』のようなものじゃと妾は考えておる」
「『誓い』?」
「そうじゃ。自分のすべてを捧げてもいい。そういった意思の表れのようなものじゃ。そして、その意味を知れば、お主が抱くそれがいったい何なのか。おのずとわかるじゃろう」
ロゼは寝転がっていた身体を起こし、その場から立ち上がる。
オランピアも彼女につられて身体を起こして、ロゼを見上げていた。
「では、妾はここで失礼しよう。久しぶりに楽しい話ができた」
「あ、待ってください!」
立ち去ろうとするロゼを呼び止めるオランピア。
ロゼは背中を向けたままオランピアの方へと振り向いた。
「まだ、何かようか?」
「その……ロゼさんはしたことがあるのですか? 『誓い』のキスを……」
その問いかけにロゼは目を見開くが、すぐにその目を細める。
「ないぞ。これから先もずっとな……」
悲しげに微笑んでくる彼女はそれを最後にその場から立ち去っていく。
なぜ、あんなにも寂しそうに笑ったのか、オランピアは再びロゼを呼び止めようと声をかける。
「オランピア!」
しかし、自分を呼ぶ声に遮られ、オランピアは声がした後ろへと振り向く。
「……エドさん」
そこにはひどく焦った表情でこちらに近づいて来るエドの姿があった。
エドはオランピアの姿を確認できたからか、ほっと一息つく。
「テントの中にいなかったから、探したぞ」
「えっと、すみません。ご迷惑をおかけしました」
無断で抜け出したことを申し訳なく思ったのか、オランピアはエドに頭を下げる。
「夜の外を一人で動くのは危険だ。次からは気をつけろ」
「はい。でも、今回は一人じゃありませんでした」
「? どういうことだ」
「さっきまで私と同い年くらいの女の子と話をしていたんです」
「……そんな奴、どこにもいないぞ」
「え? でも、あそこに……」
オランピアはロゼが立ち去った方に指を向けるが、そこに彼女の姿はどこにもいなかった。
「あれ? ロゼさん?」
「……とにかく、次からは俺か、セリスに声をかけろ。夜は奴らにとっては絶好の狩り時だからな」
エドはオランピアの腕を掴み、テントの方へと足を運ぶ。
突然、掴まれてドキッと心臓が跳ね上がるオランピア。
しかし、彼の手を振り払うことはなく、そのまま彼についていった。
先程までは顔を合わせることもままならなかったが、ロゼと話したおかげか、オランピアはすっかり緊張の糸がとれていた。
「オランピア」
「あ、はい」
「シャロンさんの件なんだが……」
エドはテントに向かいながら、シャロンが《庭園》の刺客ではないのかと、オランピアに話す。
シャロンが暗殺者かもしれないと告げられたことに驚くオランピアだったが、同時にエドがシャロンを気にしていた理由がわかった。
「エドさんはあの人のことを警戒していたんですか?」
「あぁ。メルキオルの奴とあまりに雰囲気が似ていたからな。とても無関係には思えなかったんだ。お前を心配かけさせまいと黙っていたが、誤解されるくらいなら話した方がいいと思ってな」
「あの、ごめんなさい。そんなことも知らないで当たってしまって……」
「いや、言わなかった俺も悪いんだ。だから、お相子って事で」
優しく笑ってくる彼の姿にオランピアもつられて笑みを浮かべる。
彼とこうして一緒にいるだけで胸が温かくなる。
この胸に抱く高鳴りが何なのか、まだわからない。
親愛と誓い。
その意味がわかれば、この高鳴りもわかるとロゼは言っていた。
その意味が何なのか。そう遠くない未来にわかりそうな気がする。
オランピアは根拠もないが、不思議とそう思ってしまう。
~~~~~~~
朦朧とする意識。
浅くなっていく呼吸。
遠くなる耳。
それを自覚した時、とうとうその日が来たか、と俺は実感する。
しわしわになった腕を動かそうにも動かせない。
カーテンの隙間から来る光が俺の眼を直撃するが、とくに眩しくはなかった。
ここは都会のはずれにある小さな小屋。
そこに俺はただ一人、誰にも看取られずにこの世から去ろうとしている。
自分が歩んできた人生が走馬灯となって振り返ってくる。
妻となった幼なじみは子供を産んで、すぐに亡くなった。
その子供は、八歳の時に行方不明になってしまった。
周りにいた友人も不幸な事故や事件で次々と亡くなった。
気づいたときには俺だけが残り、知らぬ者からは疫病神と呼ばれ、こんな辺境の地へと追い出された。
我ながら散々な人生だった。
そんなどうしようもない人生の中で、いまも鮮やかに残る記憶。
あの事件の最後に見せてくれた彼女の笑顔。
結局、あの日以来、彼女は俺のところに来ることはなかった。
最初はまだすべてが終わっていないと自分で納得していたが、こうして一人寂しく生き続けたことで、彼女が来ない理由がはっきりとわかった。
そして、それは余命いくばくもない俺の心を蝕む、強い後悔を生んだ。
謝りたい。会いたい。生きたい。
もはや叶うことがない、そんな無謀な願いができてしまった。
イイダロウ。カナエテヤルゾ、ソノネガイ。
その時だった。もう聞くことはないあいつの声が俺の耳に入った。
コノトキヲマッテイタ。サア、ソノカラダヲヨコセ!
この時、俺は悟った。
まだ、あの事件は終わっていなかった。
まだ、あいつとの決着がついていなかった。
俺は自分の何かが変わっていくのを感じながら、意識を闇に落とした。